西郷隆盛の後半生は、どうにもよく分からない、というのが、私の長年の疑問であった。
前半生は、倒幕の中心人物として見事な成功を収め、特に江戸開城では勝海舟との絶妙のやりとりを通じて、江戸の町を戦火から救う。
また新政府軍に抵抗した庄内藩の人々は西郷隆盛の寛大な措置に感激し、西郷への尊敬の念から前庄内藩主酒井忠篤らが『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では元庄内藩士が西郷軍に参加している。
これほどの有能有徳の人物が、新政府樹立後は征韓論に組し、それが容れられないと鹿児島に帰ってしまい、ついには俸禄を取り上げられた不平士族に乗せられて西南戦争を起こした、と言われると、前半生とはまるで別人のようだ。
「西郷が明治を境にバカになった」などと言う説もあるようだが、この疑問に対する苦し紛れの解答だろう。
この疑問を氷解させてくれたのが、岩田温氏の『日本人の歴史哲学 -なぜ彼らは立ち上がったのか-』である。
まず、征韓論について、ある高校生用の参考書には、こんな記述がある。
幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。
そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。
政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎らの参議がいわゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を実現させる方針を内定した。
(『詳説 日本史研究』)
まるでアメリカが黒船による脅しをかけて日本に開国を迫ったのと同様のことを、日本が朝鮮に行うつもりだったかのようである。
西郷はそのような「征韓論者」だったのか?
西郷が征韓論者であったという説は、次の板垣退助にあてた手紙を根拠としている。
(この機会に戦いに持ち込まないで、朝鮮との国交を回復するのはとても出来そうにありません。
この至極もっともな論を以って朝鮮との国交を考えるのであれば、
・・・
私を鮮に派遣して万一殺害されるようなことがありましたら、
・・・
必ず戦う機会が転がり込んできます。
ただ挙兵に先立ち、私を派遣して死なせては気の毒であると一時の憂いをお感じになっているのであれば、何も叶わないでしょう。)
たしかにこの部分だけ読めば、西郷は朝鮮との戦いを起こすために、自分が使節として殺される事を望んでいるように見える。
しかし、ここで『西郷南洲遺訓』の中の次の言葉と読み比べてみるべきだろう。
(私は、かつてある人と議論をしたことがある。
私が西洋は野蛮であると主張すると、その人は、いや文明国だと主張し議論になった。
私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言ったところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮というのかと私に尋ねてきた。
私が本当の文明国であるならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野蛮であると言った。
すると、その人は口をつぼめて何も言い返すことが出来ないと苦笑していた。)
真の文明国とは、このような道義を行う国だ、というのが、西郷の考えだった。
朝鮮との戦争を引き起こすために、自分がまず殺される、などという策略を用いるのは、西郷にして見れば「野蛮」なことだった。
桶谷秀昭は『草花の匂ふ国家』の中で、
「これは板垣の征韓論と自分のそれとがちがふことを知つたうへでの西郷の計算であらう」
と断じている。
すなわち、武力行使を前提とした征韓論者の板垣に、自らを全権大使として派遣させることを納得させるための、西郷の方便だったと言うのである。
それでは、西郷は大使として朝鮮に行ってどうするつもりだったのか。
この手紙で西郷が「死ぬ」とはっきり書いたために、板垣は驚いて「死に急がないでくれ」との返事を出した。
これに対して、西郷は「死に急ぐということはない。ただ、自らの死後の軍事は頼んだ」と返信している。
これを葦津珍彦は『永遠の維新者』の中で、こう解釈している。
西郷が「死に急ぎはしない」といっているところが大切ではあるまいか。
もとより西郷は死を決しているし板垣を欺くつもりはない。
しかし西郷は、心中ひそかに、死力をつくしての外交によって、あるいは征韓以上の堂々たる成果をあげうるかもしれないと思っていたのではあるまいか。
あたかも勝海舟との談判により江戸城の無血開城を成し遂げたように、道義に基づいた外交により、朝鮮を教え諭し、開国を成し遂げられる、との自負心があった、というのが葦津の解釈である。
西郷が朝鮮との道義ある国交を目指したことを裏付ける証左が二つある。
ひとつは明治9年の江華島事件に対する西郷の激怒である。
日本の軍艦が朝鮮沿岸で測量をする示威行動をとった所、朝鮮が砲撃をしてきた。
日本軍は反撃して、砲台を破壊し、永宋城を占領した。
これを機に、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、日朝修好条規を締結させた。
鹿児島に下野していた西郷は日本政府の行動に怒り、和平への国際手続きを十分に踏むことなく発砲するという武力行使は「天理に恥ずべき行為」であったと書いている。
もう一つの証拠は、太政大臣・三條實実に「朝鮮御交際の儀」と題して送った文書である。
この中で西郷は、朝鮮へ送る使節に護兵一大隊をつけるという方針に反対して、
「護兵をつけることによって、朝鮮と戦争になっては、国交回復という最初の趣旨に反する。
ぜひとも交誼を結ぶという趣旨を貫徹していただきたい」
と主張している。
これらの言動を通して見れば、西郷はあくまで道義ある文明国どうしとしての国交回復を目指していた事が分かる。
しかし朝鮮との提携という志はならず、西郷は失意のうちに郷里・鹿児島に戻る。
そこでも西郷は江華島事件に激怒したように、国政の行方を憂い続けた。
その果てに起こしたのが、西南戦争である。
なぜ西郷は立ち上がったのか?
ひとつの説は政府が薩摩に密偵を送り込んでいたという偶発的な出来事をきっかけに暴発した弟子たちを西郷が抑えきれずに、必敗の戦争が起こったという説である。
これについて、岩田温氏は次のような鮮やかな反論をしている。
「しかしながら、この説は重大な点を見落としてしまっている。
それは、もしも必敗で不要の戦争であれば、数多くの門弟、そして将来の日本を担う官軍を大々的に激突させなくとも、西郷が極少数の部下を率いて官軍に斬り込めばよい。
だが、後に詳述するように西郷は官軍に対して徹底的に抗戦し、部下にも敢闘を命じている。
この理由が説明出来ないのである。
部下を愛し、日本を愛した西郷が自らの道連れのためにあたら若い有能な命を犠牲にしたとは考えにくい」
それでは、西郷は何のために立ち上がったのか。
岩田氏は、江藤淳の『南洲残影』を引きつつ、こう述べる。
「明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。
彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。
・・・
では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する政府に反旗を翻すのか。
それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。
過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。
現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
これを断固として拒絶せねばならない。
これが西郷の思いではなかったろうか。
西南戦争の末期、西郷が城山に立て籠もった際、山県有朋は西郷に自刃を勧告する書簡を送った。
両軍の死傷者は毎日数百人に達し、薩摩軍の勝機がないことは明らかであるのに、徒に守戦の戦闘をして何が望みなのか、と問いつめる。
西郷が単に弟子たちの暴発に乗って心ならずも立ち上がったというなら、西郷はこの勧告を受け入れたであろう。
しかし、西郷はそうしなかった。
西郷は二人の使いを敵陣に送って、挙兵の大義を説明させ、自分たちは最後の決戦に臨む。
以下は、西郷の絶筆である。
[今般河野主一郎・山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、
全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、
一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也。]
(今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に派遣した件、
味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以て、大義名分を貫徹し、理がどちらかにあるのかを明らかにして斃れるつもりなので、
諸君らは安堵して、この城を枕にして決戦するに際し、今一層奮発して、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように。)
「安堵」という言葉が印象的だ。
彼らが恐れたのは、「義挙の趣旨」と「大義名分」が世に伝わらず、後世の人間から単なる「不平氏族の叛乱」であるかのように見なされる事だったのだろう。その心配はもうないから、「一統安堵し」て「城を枕にして決戦」しようと西郷は呼びかけたのである。
この一文について、岩田氏はこう述べている。
[ここで西郷が「後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候(後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように)」と文章を遺している事実が何とも感慨深い。
西郷はあくまで最後まで戦い抜くことによって後世の国民へと敢闘の記憶と無言のメッセージを遺したと考えられよう。]
その「敢闘の記憶」は何のためか。
「無言のメッセージ」とは何か。
岩田氏の解答はこうである。
「後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。
歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそが西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。
何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。
拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶を持つ国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。
そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ」
事の成否を問わず、ある崇高な理想のために命を捧げた人々が、我が国の歴史にはたびたび登場する。
楠木正成あり、吉田松陰あり・・・
************
「七生報国」
七度生れ、国の恩に報いたい
(楠木正成)
かくすれば
かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ
大和魂
(吉田松陰)
生命尊重のみで
魂は死んでもよいのか
(三島由紀夫)
前半生は、倒幕の中心人物として見事な成功を収め、特に江戸開城では勝海舟との絶妙のやりとりを通じて、江戸の町を戦火から救う。
また新政府軍に抵抗した庄内藩の人々は西郷隆盛の寛大な措置に感激し、西郷への尊敬の念から前庄内藩主酒井忠篤らが『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では元庄内藩士が西郷軍に参加している。
これほどの有能有徳の人物が、新政府樹立後は征韓論に組し、それが容れられないと鹿児島に帰ってしまい、ついには俸禄を取り上げられた不平士族に乗せられて西南戦争を起こした、と言われると、前半生とはまるで別人のようだ。
「西郷が明治を境にバカになった」などと言う説もあるようだが、この疑問に対する苦し紛れの解答だろう。
この疑問を氷解させてくれたのが、岩田温氏の『日本人の歴史哲学 -なぜ彼らは立ち上がったのか-』である。
まず、征韓論について、ある高校生用の参考書には、こんな記述がある。
幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。
そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。
政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎らの参議がいわゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を実現させる方針を内定した。
(『詳説 日本史研究』)
まるでアメリカが黒船による脅しをかけて日本に開国を迫ったのと同様のことを、日本が朝鮮に行うつもりだったかのようである。
西郷はそのような「征韓論者」だったのか?
西郷が征韓論者であったという説は、次の板垣退助にあてた手紙を根拠としている。
(この機会に戦いに持ち込まないで、朝鮮との国交を回復するのはとても出来そうにありません。
この至極もっともな論を以って朝鮮との国交を考えるのであれば、
・・・
私を鮮に派遣して万一殺害されるようなことがありましたら、
・・・
必ず戦う機会が転がり込んできます。
ただ挙兵に先立ち、私を派遣して死なせては気の毒であると一時の憂いをお感じになっているのであれば、何も叶わないでしょう。)
たしかにこの部分だけ読めば、西郷は朝鮮との戦いを起こすために、自分が使節として殺される事を望んでいるように見える。
しかし、ここで『西郷南洲遺訓』の中の次の言葉と読み比べてみるべきだろう。
(私は、かつてある人と議論をしたことがある。
私が西洋は野蛮であると主張すると、その人は、いや文明国だと主張し議論になった。
私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言ったところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮というのかと私に尋ねてきた。
私が本当の文明国であるならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野蛮であると言った。
すると、その人は口をつぼめて何も言い返すことが出来ないと苦笑していた。)
真の文明国とは、このような道義を行う国だ、というのが、西郷の考えだった。
朝鮮との戦争を引き起こすために、自分がまず殺される、などという策略を用いるのは、西郷にして見れば「野蛮」なことだった。
桶谷秀昭は『草花の匂ふ国家』の中で、
「これは板垣の征韓論と自分のそれとがちがふことを知つたうへでの西郷の計算であらう」
と断じている。
すなわち、武力行使を前提とした征韓論者の板垣に、自らを全権大使として派遣させることを納得させるための、西郷の方便だったと言うのである。
それでは、西郷は大使として朝鮮に行ってどうするつもりだったのか。
この手紙で西郷が「死ぬ」とはっきり書いたために、板垣は驚いて「死に急がないでくれ」との返事を出した。
これに対して、西郷は「死に急ぐということはない。ただ、自らの死後の軍事は頼んだ」と返信している。
これを葦津珍彦は『永遠の維新者』の中で、こう解釈している。
西郷が「死に急ぎはしない」といっているところが大切ではあるまいか。
もとより西郷は死を決しているし板垣を欺くつもりはない。
しかし西郷は、心中ひそかに、死力をつくしての外交によって、あるいは征韓以上の堂々たる成果をあげうるかもしれないと思っていたのではあるまいか。
あたかも勝海舟との談判により江戸城の無血開城を成し遂げたように、道義に基づいた外交により、朝鮮を教え諭し、開国を成し遂げられる、との自負心があった、というのが葦津の解釈である。
西郷が朝鮮との道義ある国交を目指したことを裏付ける証左が二つある。
ひとつは明治9年の江華島事件に対する西郷の激怒である。
日本の軍艦が朝鮮沿岸で測量をする示威行動をとった所、朝鮮が砲撃をしてきた。
日本軍は反撃して、砲台を破壊し、永宋城を占領した。
これを機に、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、日朝修好条規を締結させた。
鹿児島に下野していた西郷は日本政府の行動に怒り、和平への国際手続きを十分に踏むことなく発砲するという武力行使は「天理に恥ずべき行為」であったと書いている。
もう一つの証拠は、太政大臣・三條實実に「朝鮮御交際の儀」と題して送った文書である。
この中で西郷は、朝鮮へ送る使節に護兵一大隊をつけるという方針に反対して、
「護兵をつけることによって、朝鮮と戦争になっては、国交回復という最初の趣旨に反する。
ぜひとも交誼を結ぶという趣旨を貫徹していただきたい」
と主張している。
これらの言動を通して見れば、西郷はあくまで道義ある文明国どうしとしての国交回復を目指していた事が分かる。
しかし朝鮮との提携という志はならず、西郷は失意のうちに郷里・鹿児島に戻る。
そこでも西郷は江華島事件に激怒したように、国政の行方を憂い続けた。
その果てに起こしたのが、西南戦争である。
なぜ西郷は立ち上がったのか?
ひとつの説は政府が薩摩に密偵を送り込んでいたという偶発的な出来事をきっかけに暴発した弟子たちを西郷が抑えきれずに、必敗の戦争が起こったという説である。
これについて、岩田温氏は次のような鮮やかな反論をしている。
「しかしながら、この説は重大な点を見落としてしまっている。
それは、もしも必敗で不要の戦争であれば、数多くの門弟、そして将来の日本を担う官軍を大々的に激突させなくとも、西郷が極少数の部下を率いて官軍に斬り込めばよい。
だが、後に詳述するように西郷は官軍に対して徹底的に抗戦し、部下にも敢闘を命じている。
この理由が説明出来ないのである。
部下を愛し、日本を愛した西郷が自らの道連れのためにあたら若い有能な命を犠牲にしたとは考えにくい」
それでは、西郷は何のために立ち上がったのか。
岩田氏は、江藤淳の『南洲残影』を引きつつ、こう述べる。
「明治維新の目的とは無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
ところが天子をいただく明治政府は何を為したか。
彼らは自ら進んで国を西洋化し無道の国への道を歩むに至った。
・・・
では何故に国家を守らんとするものが、国家を代表する政府に反旗を翻すのか。
それは国家とは現に存する国民の専有物ではありえないからに他ならない。
過去、現在、未来と連綿と続く垂直的なるもの、それこそが西郷の守らんとした国家であったからである。
現在の政府は垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
これを断固として拒絶せねばならない。
これが西郷の思いではなかったろうか。
西南戦争の末期、西郷が城山に立て籠もった際、山県有朋は西郷に自刃を勧告する書簡を送った。
両軍の死傷者は毎日数百人に達し、薩摩軍の勝機がないことは明らかであるのに、徒に守戦の戦闘をして何が望みなのか、と問いつめる。
西郷が単に弟子たちの暴発に乗って心ならずも立ち上がったというなら、西郷はこの勧告を受け入れたであろう。
しかし、西郷はそうしなかった。
西郷は二人の使いを敵陣に送って、挙兵の大義を説明させ、自分たちは最後の決戦に臨む。
以下は、西郷の絶筆である。
[今般河野主一郎・山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、
全く味方の決死を知らしめ且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷において斃れ候賦(つもり)に候間、
一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也。]
(今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に派遣した件、
味方の決死の覚悟を敵陣に伝えるとともに、この挙兵の意義を以て、大義名分を貫徹し、理がどちらかにあるのかを明らかにして斃れるつもりなので、
諸君らは安堵して、この城を枕にして決戦するに際し、今一層奮発して、後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように。)
「安堵」という言葉が印象的だ。
彼らが恐れたのは、「義挙の趣旨」と「大義名分」が世に伝わらず、後世の人間から単なる「不平氏族の叛乱」であるかのように見なされる事だったのだろう。その心配はもうないから、「一統安堵し」て「城を枕にして決戦」しようと西郷は呼びかけたのである。
この一文について、岩田氏はこう述べている。
[ここで西郷が「後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候(後世に恥辱を残さないよう覚悟して戦うように)」と文章を遺している事実が何とも感慨深い。
西郷はあくまで最後まで戦い抜くことによって後世の国民へと敢闘の記憶と無言のメッセージを遺したと考えられよう。]
その「敢闘の記憶」は何のためか。
「無言のメッセージ」とは何か。
岩田氏の解答はこうである。
「後世の国民に敢闘の記憶を残すことによって垂直的共同体としての国家を守り抜く。
歴史の中で自らを犠牲にしても国家という垂直的共同体を守らんとすること、これこそが西郷の思想であり、日本人の歴史哲学であったのではないか。
それゆえ西郷は最後に至るまで戦い抜く道を選ぶ。
何故ならこの徹底抗戦である姿こそが肝要であるからである。
拙くとも徹底して西洋、近代に対峙し戦い抜いた記憶を持つ国民と持たざる国民とでは自ずからその未来の差はあきらかであろう。
そのためにこそ必敗の戦いを選んだのだ」
事の成否を問わず、ある崇高な理想のために命を捧げた人々が、我が国の歴史にはたびたび登場する。
楠木正成あり、吉田松陰あり・・・
************
「七生報国」
七度生れ、国の恩に報いたい
(楠木正成)
かくすれば
かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ
大和魂
(吉田松陰)
生命尊重のみで
魂は死んでもよいのか
(三島由紀夫)