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北里柴三郎/報恩の遺伝子

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転載元 Terumo Group Website

医療の挑戦者たち

命の杖

日本人の「命を支える杖」でありたい。 北里柴三郎

一八九一年(明治二四年)のある日、イギリスのケンブリッジ大学から、北里柴三郎に一通の書簡が届いた。
開けてみると、新設される細菌学研究所の所長に就任してほしいという内容だった。
日本の「近代医学の父」として知られる北里博士が若い頃、六年余りのドイツ留学を終えようとしていたときのことである。

感染症が人類の最大の脅威であったこの時代、細菌学は最先端の学問領域だった。
北里は、結核菌やコレラ菌の発見で有名なロベルト・コッホの研究所に入ると、東洋人への偏見を打ち破り、ヨーロッパでも圧倒的な業績をあげた。
世界初の破傷風菌の純粋培養に成功後、破傷風の血清療法を考案し、その技術をジフテリアの予防に応用するなど、目覚ましい成果をもたらした。

ケンブリッジからのオファーは、研究所の規模、設備、待遇、すべてが理想的だった。
何よりも、十三世紀から続く名門大学の研究所長になることは、北里の名声を世界で不動のものにする大きなチャンスでもあった。
しかし、北里はこれをあっさり断ってしまう。
その後、アメリカの大学からもさらに上回る条件が示されたが、すべて丁重に辞退してしまった。

北里には、ひとつの強い思いがあった。
ドイツでの師匠・コッホは、ドイツ国民の「命を支える杖」として細菌学を向上させたいんだ、と北里に打ち明けたことがある。
微生物学の大家であるルイ・パスツールも、イタリアの大学からの招きを断り、戦災で荒れ果てた祖国フランスで微生物研究所を開設した。
彼は「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉を残している。

これから帰る日本には、まだ北里が入るべき研究所すら存在しない。
しかし、北里には国費を注ぎ込んでドイツ留学を許してくれた祖国への感謝と、その期待に応えたいという気持ちの高揚があった。
「コレラ、結核、ペストなど、多くの感染症に苦しむ祖国の人たちのために働こう」。

北里は、日本人としての自分に課せられた使命が「命を支える杖」であることを、固く信じていたのである。
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感染症と戦うことが「命を支える杖」であった時代
今日では日本人の最も主要な死因は悪性新生物(がん)とされるが、明治から大正・昭和の前半にかけては「結核」、「肺炎」、「胃腸炎(腸チフス・コレラ・赤痢など)」といった感染症(当時は「伝染病」と呼ばれていた)が主な死因であった。
大正7~9年にはスペインかぜ(インフルエンザ)の大流行があったため、肺炎での死亡が非常に高くなっている。
これらの感染症が流行した年は、人口の減少が認められることも多い。

ドイツで発展した「実験室医学」としての細菌学
ヨーロッパでも感染症は猛威をふるっていた。
18世紀から19世紀半ばにかけてはコレラ、腸チフス、発疹チフスなどの流行にくり返し襲われた。
開業医のかたわら家畜の検疫もやっていたロベルト・コッホは、顕微鏡で炭疽菌(たんそきん)を発見したのを皮切りに、結核菌、コレラ菌などを発見、多くの感染症には原因となる細菌が存在することを明らかにした。
このように病気の原因を細菌に絞り、実験によって効率的に研究できる「実験室医学」の出現で、ドイツ医学は急速に発展した。

1877年、炭疽菌の研究で、ドイツの片田舎の医師から身を起こし、「細菌学」という新領域の総帥となったコッホは、1883年、病気と病原菌との関係を客観的に証明する方法として「コッホの4原則」を発表、翌年にはコレラ菌の純粋培養に成功し、1885年にはベルリン大学衛生研究所の所長となっている。
1905年、結核に関する研究の業績によりノーベル生理学・医学賞を受賞。
コッホの4原則
•ある一定の病気には、一定の微生物が見出されること。
•その微生物を分離できること。
•分離した微生物を、感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせうること。
•そしてその病巣部から、同じ微生物が分離されること。

1885年といえば、北里が内務省の衛生局員として長崎に赴き、コレラ菌を同定した時期だ。北里は、当然コッホの4原則を知っていたはずだが、コッホの研究所に留学して、実践の場でそれをたたき込まれたのだ。
北里は、どんな微生物の研究にあたっても、コッホの4原則に照らして物事を判断する習慣をつけていた。

抗体の発見と血清療法
北里は、微量の破傷風菌毒素をウサギに注射する実験を行った。
そして少しずつ液の量を増やしながらくり返し注射したところ、ついには強力な毒素と破傷風菌の芽胞を含む培養液を注射しても耐えるようになってきた。
このウサギの血液を調べると、毒素を抑える働きのある物質が作られていることを突き止め、これを「抗毒素」と名付けた。
この抗毒素こそが、今日では免疫学の基礎をなす「抗体」の発見だった。
北里は、このウサギの血清を他のウサギに注射しても毒素を抑える働きが持続して破傷風にかからなくなることを発見、免疫血清を用いた治療法を考案した。
コッホはこう回想している。
「北里はすぐに、破傷風を治療する免疫血清を作り上げ、世界で初の伝染病に対する血清療法を創始したのだ。
その後、彼の同僚がジフテリアの血清療法を開発したが、それは北里の研究に導かれたものである」。

世界的な細菌学者となった北里は、六年間の留学を終えて日本に戻る。
苦難を乗り越え、念願の伝染病研究所を設立し、多くの人命を救った。
北里の薫陶を受けた門人たちは世界で活躍し、日本の医学を世界に通用する水準に押し上げる原動力となった。

ジフテリアへの血清療法の応用
北里の同僚のベーリングは、この血清療法をジフテリアに応用し、論文を出した。
するとこれが認められ、彼は1901年に第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞している。
彼は、自分だけの功績ではなく、北里あっての受賞であると述べている。

世界的な大学者コッホの来日は、国を挙げての歓待となった
1908年(明治41年)6月、北里の恩師コッホが来日した。
世界的な大学者を迎える日本は、国賓並みの歓待と、多くの歓迎行事でこれに応えた。
諸学会連合の歓迎会は上野の音楽学校大講堂で開かれた。
また歌舞伎座では官民合同の観劇会が催され、通訳を森鴎外が務めた。
コッホは日本に滞在した73日間に、日光、奈良、京都、瀬戸内海を遊歴したが、行く先々で学界はもとより、一般国民からも大変な歓待を受けた。

コッホは日本各地を旅行したが、日本の文化には非常に興味を持ったようだ。
朝はコーヒーを習慣としていたが、それに欠かさず梅干をつけるようになり、日本食を喜んで食べ、ウニなども好んで食べた。
また建築や美術にも関心を示した。
とくに奈良や京都の古雅な建築を好み、絵画でも渋い墨絵にひかれたようだ。
伊勢の内宮に案内されたときは、五十鈴川の流れで手を清め、口をすすぎ、神前に出ると日本式に敬けんな態度で礼拝した。
その後は、境内の神々しさをしきりに賛美したという。

厳島神社で撮影された北里とコッホの写真には、世界をめざした日本人の気概と、国籍を超えた師弟の深い絆が写し出されていた。


コッホが日本で明かした、北里への評価
志賀潔(1871-1957)
志賀潔(1871-1957)

北里のもとで赤痢の研究に取り組み、1897年に赤痢菌を発見。
その後、ドイツでエールリッヒの化学療法の有効性を証明する。

コッホの旅行には、北里以外に、伝染病研究所の研究員も同行したが、赤痢菌の発見で名を成した志賀潔もその一人であった。
日光への旅行は、あいにく梅雨時で、ホテル内に降り込められるまま、コッホは志賀に、北里が破傷風菌の純粋培養に成功したときのことを語った。

志賀の手記から要旨を抜き出してみよう。
「ある日、北里は私の部屋に来て1本の試験管を示し、破傷風菌の純粋培養をしたといった。
しかしそれは、老練のフリュッゲが数年かかってもできなかった難問であり、容易には信じられなかった。
すると北里は破傷風菌のゼラチン培地を持ってきて研究成績を説明した。
わたしはまだ半信半疑ながら、その培地で動物試験をしてみたところ、まさに破傷風特有の症状を示した。
私はすぐ北里の部屋に行き、大成功を祝したが、このときの喜びは非常なものだった。
いま思い出しても愉快にたえない」。

「北里が破傷風菌の純粋培養をした方法と順序を聞き、彼の非凡な研究的頭脳と、不屈の精神に驚いたのである。そして私の勧めに従い、彼は破傷風の毒素の研究に着手し、ついに免疫血清を作り上げた。
当時はまだ伝染病を起こしている本体を取り除く原因療法は、一つもなかったのだが、まさに北里によって、初めて血清療法が実現されたのだ。
この破傷風の研究は、近世の治療医学の中で、新しい時代を開いたものといえる」。

日本近代医学の父


「開国してまだ日が浅い日本は、すべてにおいて先進国に追いついていない。
いまだに、一人として先進国の学者と肩を並べるものはいない。
留学生は先進国から学ぶことだけで満足し、自らの専門分野で世界から信用されるような研究をしたものは一人も出ていない。
これはわが国の学問に対する考え方の大きな欠点である。
私は衛生学、とくに伝染病学を専門に学ぶため留学したが、世界の学者たちに後れを取ることなく奮励努力し、日本の衛生学を世界の水準に並ぶものとしたい」。
(北里柴三郎 『伝染病の征圧は私の使命』)

日本近代医学の父は、多くの医学者の育ての父でもあった
「ドンネル」とは、ドイツ語で「雷」の意味である。
それは、明治二七年(一八九四年)に設立された伝染病研究所の中で、所長の北里柴三郎博士を指す言葉でもあった。

北里博士はドイツ留学中、破傷風菌の純粋培養に成功するなど世界的な業績をあげ、今日では「日本近代医学の父」と呼ばれている。
当時、伝染病研究は最先端の学問であり、全国から俊英たちが集まっていた。
そんな彼らに対しても、怠慢を見つければ「馬鹿者!」と容赦のない雷を落とすのが北里の常であった。

その雷おやじが所員たちの前で泣いたことがある。
北里の知らないうちに、伝染病研究所を文部省に移管することが決まり、それに憤慨した北里は辞表を出した。
すると、研究員たちも北里とともにこぞって退職してしまう。
いつも畏れられていた北里は、実は愛されていたのである。
そして、北里は国から独立した機関として、新しい研究所を立ち上げることになった。
大正三年(一九一四年)、北里研究所発足の慰労会で挨拶をする「ドンネル」の目から大粒の涙があふれ出したのである。

北里研究所からは多くの世界的な研究者が輩出されている。
赤痢菌の発見で知られる志賀潔。黄熱病の研究で名を成した野口英世。
狂犬病の予防液を作った梅野信吉。
梅毒の特効薬・サルバルサンを創製した秦佐八郎など、まさに多士済々である。

北里は人材育成の面からも、日本の近代医学を打ち立てた偉大な人物といえるのだ。

日本の医学・医療を育てるための布石
北里は、ドイツへ留学する前から赤痢菌の研究をしていたが、帰国してから赤痢菌の研究は志賀潔に託した。
志賀潔は自伝に「ほとんど北里先生から付ききりで指導された」と書いている。
しかし「赤痢菌発見」という世界的な偉業は、志賀潔だけの名前で発表させている。

北里のやり方は他の門下生にも同様で、常に彼らが実力を思い切り伸ばせるような状況をつくることを考えていた。
このような教育方針が、多くの優れた研究者を輩出することに役立ったのは間違いない。

香港でペストの調査研究にあたった北里は、帰国するなり伝染病対策の指針づくりに取り組み、1897年に伝染病予防法の成立にこぎつける。
そしてその2年後、日本に上陸したペストは、新しい法律が効を奏し、被害を最小限にとどめることに成功した。

北里は慶應義塾大学医学部の創設、日本医師会の設立など、日本の医学・医療の発展のために尽力した。

熱と誠

熱をもて。誠をもて。 北里柴三郎

一八九一年(明治二四年)のある日、ドイツ留学中の北里を、ストラスブルグ大学に留学中の生化学者、荒木寅三郎(後の京都 帝国大学総長)が訪ねた。
そのとき、北里はこう言って若き友人を励ました。
「人に熱と誠があれば何事も達成する。
世の中は決して行き詰まらぬ。
もし行き詰まったとしたら、それは人に熱と誠がないからだ。」
研究への取り組みや人との交わりに対する北里の信念だった。

近代国家の建設に邁進していた明治時代の日本。
留学生たちは皆、祖国のために貢献したいという気概にあふれていた。
北里も、留学の延長まで認めてくれた国に感謝し、恩返しをしなければと考えていた。
そして、ケンブリッジ大学など欧米の名門大学からの招きをすべて断り、祖国のために働こうと帰国する。

帰国後、北里は立ちはだかるさまざまな障壁と闘いながら、ドイツのコッホ研究所やフランスのパスツール研究所と肩を並べる伝染病研究所を設立した。
また、伝染病予防法の制定にも力を尽くし、日本の近代医学の基礎を築いた。
北里のよき理解者であり支援者だった福沢諭吉の恩に報いるために、慶応義塾大学医学部を創設し、さらに日本医師会を設立するなど、人材の育成や医療行政の整備にも努めた。

北里柴三郎は国費の留学生としてドイツへ渡り、細菌学の第一人者ロベルト・コッホのもとで研究生活を送っていたが、そこへ東京帝国大学医学部の後輩である荒木寅三郎が訪ねてきた。
1891年、北里38歳、荒木は24歳のときだ。
若い荒木は、当時ドイツ領であったストラスブルグ(現在はフランス領ストラスブール)の大学に留学して3年目、異国の地での研究生活に疲れ果て、行き詰まりを感じて北里を訪ねたのだ。

「人に熱と誠があれば何事も達成する。
世の中は決して行き詰まらぬ。
もし行き詰まったとしたら、それは人に熱意と誠意がないからだ」。

この北里の励ましに荒木は大いに発奮して研究に打ち込む。
1895年に帰国してからは、日本における生化学の先駆者として指導者の道を歩き、京都帝国大学の総長にまで上りつめた。
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北里の体験から出た言葉
負けん気の強い北里は、人前で弱みを見せることはなかったと思われるが、ドイツへ渡った当座は、決して留学生活を楽観できる状態ではなかった。
所長のコッホからは「少しばかりドイツ語ができる日本人」という程度の認識しか得られていなかったし、同僚からも、背が低く風采の上がらない東洋人とあなどられていた。

それを北里は誰よりも長時間、熱心に働き、実験器具に創意工夫を凝らすなど、ヨーロッパでは勤勉さを誇るドイツ人に倍する働きをみせ、コッホから与えられた課題に対して、着実に成果を挙げ、信頼を得るとともに、多くの所員のなかで、頭角を現していったのだ。

「熱と誠」で、研究所の戦力となる留学生としての立場を獲得した結果、破傷風菌の純粋培養に成功し、また破傷風の血清療法を打ち立てるという世界的な成果をあげた自らの経験から、荒木を奮い立たせようという、まさに親身の言葉であった。

ドイツ医学を選んだ明治政府
明治維新当時、政府は医学をどの国の方式に合わせるかの選択をしなければならなかった。
それは東京帝国大学医学部をどの方式にするかということであり、大学内に複数の流派が生まれたのでは、後に混乱の種となりかねないからだ。
しかし薩摩派が推すイギリス医学と、長州派が推すオランダ医学のどちらをとるかの議論は尽きず、結局政府は、どちらにもつかないドイツ医学を採用したといわれている。

ドイツに医学留学生が集中したのは、このためである。
政府の決め方の是非はともかく、結果としてドイツ医学が世界一になったことから考えれば、その選択は当を得たものであったといえる。

明治憲法をはじめ多くの分野の学問をドイツに学ぶ
ドイツから大きな影響を受けたのは、医学ばかりではなかった。
明治維新から間もない1871年、プロイセン国王を皇帝に戴くドイツ帝国が樹立され、統一国家ドイツが誕生した。ヨーロッパの先進国、しかも日本と同じ立憲君主制の国づくりを、期せずして勉強する機会に恵まれた明治政府は、1882年に伊藤博文を中心とする調査団をヨーロッパに派遣し、ドイツの憲法学者らの講義を受けさせた。
このため大日本帝国憲法は、プロイセン憲法がお手本となった。
その他の法律にもドイツの影響は大きく反映され、日本の民法や刑事法などの法律には、現在に至るまでドイツの法律の影響が残っているといわれる。

また明治政府はさまざまな分野の学者を招き、「お雇い外国人」として教職につかせた。
太古の昔、日本に住んでいたゾウの一種、ナウマンゾウの化石を発見したナウマン、「君が代」に伴奏をつけた作曲家・エッケルトもドイツのお雇い外国人であった。
東京大学で医学を学んだ北里も、ドイツのお雇い外国人であるベルツに教わっている。

このようにドイツをはじめ、イギリスやフランスなど、西欧先進国の影響を受け、日本流に消化する形で、日本は近代化を進めていった。

外国文化の吸収を助け、近代国家建設の原動力となった日本の教育水準の高さ
外国人から先進的な学問や文化を直接教わったのは、留学生や大学生など一部の人間であったが、西欧文化はたちまち庶民にまで浸透していった。
その主因は、庶民教育の普及にあるといわれている。
江戸幕府の時代でも、武家社会ではある程度の下級武士にまで藩校を開放して優秀な人材を育成することが多く、また町人や農民の社会には寺子屋が普及していた。
このため義務教育制度が未整備であった明治維新前後でも庶民の識字率は高く、ヨーロッパの先進国と同水準であったとみられる。
社会的な階級を問わず西欧文化が浸透していった結果、「文明開化」は、庶民の間でも大きなトレンドとなったのだ。

明治期は、アジア諸国のほとんどが西欧の圧倒的な軍事力、経済力に抗することができず、植民地となったり、租借地を提供したりする形を余儀なくされた時代だ。
小さな島国である日本がそれをまぬがれ、独立を維持できたのは、急速に西欧文化を取り入れ、近代国家としての体裁を素早く整えたことが大きく寄与しているのだと考えられている。


抗 体

「医学界の大きな謎を解明した、一〇〇年に一度の偉大な研究です」

一九八七年、ノーベル賞選考委員会は、生理学・医学賞を日本の「トネガワ」に授与すると発表した。
そのとき行われた授賞理由の説明が難解なことに業を煮やした記者団は、「トネガワの研究はどれくらいすごいのか」というダイレクトな質問を投げかけた。
それに対する委員の回答だ。
「一〇〇年に一度」というのは、物のたとえかもしれないが、この言葉は意外に的を射ている。

その約一〇〇年前の一八八九年、北里柴三郎は不可能といわれた破傷風菌の純粋培養に成功し、世界を驚かせた。
さらに破傷風菌の毒素を無力化する「抗体」を発見し、血清療法を確立した。
また、抗体はジフテリアをはじめ、いろいろな感染症の治療に応用できる多様性を持つこともわかった。

利根川進は、アメリカに「分子生物学」という学問があることを知り、アメリカへ留学した。
さらにスイスの免疫学研究所へ移り、そこで抗体の研究をはじめた。

人体には、さまざまな細菌やウイルスなどの異物が侵入してくる。
これに対し、血液成分のひとつであるリンパ球のB細胞は、その細菌なり、ウイルスなりに対する抗体を作る。
すると同じ異物が再び侵入したとき、簡単に撃退できるようになる。
これが免疫だ。
どんな異物が侵入しても、B細胞はそれに応じた抗体を作ることができ、その種類は一〇〇億を超える。
この「抗体多様性の謎」は、北里の時代から未解決のままだった。

スイスに来て四年目、利根川はアメリカで行われたシンポジウムに参加した。
そこで発表された、抗体多様性に関する彼の報告は、出席者の度肝を抜くものだった。
なんと、遺伝子が変化するというのだ。
遺伝子情報はDNAに書き込まれており、一生その形は変わらないため、指紋のようにその人を特定する決め手になる。
しかし、利根川は「B細胞だけは自らの抗体遺伝子を自在に組み替えて、無数の異物に対応する無数の抗体を作ることができる」ことを証明したのだ。

ノーベル賞の受賞が決まったとき、先輩の研究者から届いた一通の祝電を、利根川はいまでも記憶している。電報には、こう書かれていた。

「北里が始めたことを、君が完結させた」


幕末生まれの北里が抗体を発見し、世界的な業績を残す
北里柴三郎は、ドイツ留学中の1889年に、不可能といわれた破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功した。
さらに菌の毒素を弱める「抗毒素」を発見、破傷風の治療や予防に使える血清として製剤化した。
この抗毒素が、現在でいう「抗体」にあたる。

北里が生まれた1853年は、和暦でいえば嘉永5年。
ちょうどペリーの黒船が浦賀に来航した年だ。
この鎖国の時代に生まれた日本人が、30代にして世界的な学問上の発見をしたのは、彼の志の高さと、負けん気の強さによるところが大きいといわれる。

北里はその後、すぐにジフテリアの血清療法についても同僚のエミール・ベーリングとともに完成させた。
またドイツでの師匠、ロベルト・コッホは、ツベルクリンを結核の予防血清として使おうとしたが、これは失敗に終わった。
このように抗体が、破傷風、ジフテリアをはじめ、いろいろな感染症の治療に応用できる多様性を持つことは、北里の時代から認識されていたが、その理由は不明であった。

諸説入り乱れた抗体多様性の原理
北里と同時期にコッホ研究所に在籍していたこともあるドイツのパウル・エールリヒは、抗体が作られる仕組みについて、「白血球の表面に、いろいろな異物に対する側鎖(受容体)があり、白血球は侵入してきた異物と合致する側鎖と同じタイプの抗体を増やす」と主張した。
しかしこれは、血液型の発見で有名なカール・ラントシュタイナーによって否定される。その後もいろいろな学説が主張されたが、抗体の種類があまりにも多いことへの説明がつかず、ほぼ100年間、謎とされていた。


エールリヒの側鎖説

エールリヒの側鎖説の図
(福岡大学機能生物化学研究室「生化学の基礎」ウェブサイト, 2012より)

白血球の表面には、あらかじめ、いろいろな抗原を想定した側鎖が存在しており、実際に侵入してきた抗原とピッタリ合致する側鎖があれば、白血球はそれと同じ型を持った抗体を量産して抗原に対抗する。



利根川 進(1939-)
利根川 進 (1939-)

日本の生物学者。分子生物学、免疫学にバックグラウンドを持つ。
1987年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。

20世紀の後半、生命活動を分子というミクロのレベルでとらえる「分子生物学」がアメリカを中心として急速に発展した。
従来の生物学を、物理や化学の物差しでとらえなおすという、斬新な学問手法だ。
利根川は京都大学で化学を専攻していたが、分子生物学に魅力を感じ、大学院生として京大のウイルス研究所に進んだ。
そして教授から、
「分子生物学を本気で勉強するなら、日本にいてはダメだ。
アメリカへ行きなさい。」
と言われ、カリフォルニア大学へ留学する。

彼はもともと、「イエス、ノー」をはっきり言う性格で負けん気も強かった。
ドライに割り切るアメリカ社会とは相性がよく、たちまち実力を発揮していく。

細菌に感染する性質を持つ「バクテリオファージ」というウイルスの研究で博士号を取り、ノーベル賞学者が主宰する研究所に入る。
しかしビザの期限が切れたため、スイスの免疫学研究所へ移り、そこで「抗体多様性の謎」を解くことになる。

抗体は白血球のB細胞で作られ、おもに血液など体液中に存在する。
抗体は、たくさんのアミノ酸が並んでつくられたタンパク質だ。
抗体はすべてY字型の構造をしており、左右に開いた腕の先で抗原に結合する。
抗体の種類が違えば、アミノ酸の並び方も異なり、その並び方は遺伝子によって決められている。

体内に侵入した細菌やウイルスは、抗原として認識されるが、
1種類の細菌、1種類のウイルスに対応する抗体は、それぞれ1種類しかなく、
これは鍵と鍵穴に例えられる。
そしてその抗体のアミノ酸配列を決めるには、少なくとも1種類の遺伝子が必要なはずだ。

ところがヒトの抗体は100億種類以上あると考えられているのに、ヒトの遺伝子は2万数千しかない。
2万数千の遺伝子から、100億の抗体をどうしたら作れるのか。
そこが大きな謎となる。

利根川は、抗体多様性の謎を、遺伝子レベルで研究することにした。
遺伝子は体全体の設計図であり、抗体のアミノ酸配列も遺伝子で決められる。
それなら分子生物学で遺伝子を研究すれば、多くの抗体が作られる謎は解明できるはずだ。

1種類の細菌に対応する抗体は1種類で、その抗体を作るための遺伝子も1種類あるはず。

DNAは遺伝子として働く
ヒトの組織は細胞でできているが、細胞の「核」という部分には「染色体」があり、その中にあるDNA(デオキシリボ核酸)は遺伝情報を担う「遺伝子」として機能している。
DNAの構造は個人ごとに異なり、また終生不変と考えられている。

組み換えられていた抗体遺伝子
遺伝子の数をはるかに超える種類の抗体が存在するということは、何が起こっているのだろう?
「もし遺伝子の組み換えが起こっていれば、抗体は多様性を獲得できる」。
「しかし、遺伝子は終生変化しないはずではないか」。
この相反する考えを、利根川は実験で確かめることにした。

まだ抗体を作っていないサンプルとして、マウスの胎児からとったDNAを用意し、次に抗体を盛んに作っているサンプルとして、がんにかかったマウスからとったDNAを用意した。
それぞれのDNAの、抗体遺伝子にあたる部分を比較したところ、驚いたことに、遺伝子の様子が全く違っていたのだ。
胎児の遺伝子は、まとまりのない小さなかたまりとして配列 されており、これに対して、がんのマウスの遺伝子は、しっかりと再構成され、まとまりのある配列となっていた。
これは、胎児期から成長し、がんを患うまでに、抗体遺伝子に組み換えが起こっていることを示しているのではないか。
利根川は、その実験を別の方法で追試したが、やはり同じ結果が出た。
抗体の多様性は、やはり遺伝子組み換えによって起こっていたのだ。

拍手に包まれたシンポジウム会場
1976年の夏、アメリカで開かれたシンポジウムに利根川は招待されていた。
会場は、世界の分子生物学のメッカといわれる研究所。ここで研究発表をすることは、分子生物学者のステイタスにもなっている。
「トネガワ」はまったく無名の学者であったが、栄えある最終演者に割り当てられた。
関係者は、彼が驚くべき成果を持ってきていることを、すでに承知していたのだ。

彼は実験の経緯や経過などを詳しく紹介し始めたが、すぐに持ち時間が過ぎ、司会者に止められてしまった。
しかし、この研究所の所長が、「これは重要な発表なのだから、最後までやってください」と口添えをしてくれたため、追試の結果まで含めて、すべてを発表することができた。
遺伝子組み換えが起こっているという、驚くべき結論であったが、実験は非常に緻密で、疑問を差しはさむ余地はなかった。
発表が終わると、会場は割れるような拍手に包まれた。

人に報いる 恩に報いる

一八九二年(明治二五年)の秋、北里柴三郎は三田の福澤諭吉邸へと続く道を歩いていた。

福澤はすでに慶應義塾に大学部を設け、偉大な教育者として名を馳せていた。
一方の北里は、ドイツ留学で破傷風菌の純粋培養に成功し、さらに破傷風の血清療法を開発するなどの世界的な業績を挙げた後、帰国し、内務省衛生局に復帰していた。
しかし、復帰とは名ばかりで、研究所はおろか研究室さえも与えられず、もう半年近く無為な日を過ごしていた。
そんな折、内務省のかつての上司から、「福澤諭吉に会ってみろ」と勧められたのだ。

北里の話を聞いた福澤は、「この男に活躍の場を与えないのは国家の損失だ」と悟った。
そしてその場で、「とにかく小さくても仕事を始めて、それから方策を考えればいい。
私が芝公園に借りている土地があるから、そこに必要な建物を造ってスタートしようじゃないか。
毎月の研究費も私が負担するから、費用を計算してくれないか」と促した。
後で分かったことだが、その土地は、福澤が子女の将来のために用意していたものだった。

福澤の大きさに圧倒され、勇躍の気構えを整えた北里は、そこに六部屋の小さな研究所を造った。
そして、それを足場に研究陣を拡充し、やがてヨーロッパの大研究所にも比肩する北里研究所を設け、日本の伝染病研究の中心としての地位を築いていった。

福澤が没して久しい一九一六年(大正五年)、北里は慶應の鎌田塾長から、医学科を新設したいとの相談を受けた。
北里は即座に賛成した。
「福澤先生から受けた恩顧に報いるのは、この時である」と。
設立委員会の中心となり、準備を進めていった。

北里を知る前、福澤は慶應に医学所を設立したことがある。
だが、経営不振のため短期間で閉鎖を余儀なくされていた。
それ以来、医学科の設立は福澤の悲願であったが、生前にその夢を果たすことはなかったのだ。
そのことをよく知っていた北里から、「もし学校に経営不振が起こった場合には、北里一門を挙げて支えるつもりだ」と覚悟の表明があったことを塾長は述懐している。

一九一七年(大正六年)、北里は初代医学科長に就任した。
そして十年余の在職期間中、給与その他一切の報酬を固辞し、報恩の精神を貫き、無償でその任にあたったという。
(監修/北里英郎 先生 北里大学医療衛生学部長)
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人生の岐路に福澤と出会い、進むべき方向を見つけた北里

祖国で感染症と闘いたい
北里柴三郎(1853-1931)
北里柴三郎(1853-1931)

1892年(明治25年)、ドイツへ留学していた北里柴三郎は意気揚々と帰国した。
細菌学と感染症の研究で有名なコッホの研究所で、世界初の破傷風菌の純粋培養に成功、さらに世界初の血清療法を確立し、外国人として初めてプロフェッソル(大博士)の称号を授与されるなど、実績は華々しいものだった。
彼はイギリスのケンブリッジ大学やアメリカの複数の大学からも好条件で招かれたのだが、国費での留学を許してくれた祖国へ帰り、感染症と闘うことで恩義に報いたいという気持ちは強く、この帰国となったのだ。.

帰国した北里に居場所はなかった
福澤諭吉(1835-1901)
福澤諭吉(1835-1901)

蘭学者、思想家、教育者。
慶應義塾創設者。専修大学、一橋大学の設立にも関与した。

長与專斎(1838-1902)
文部省(のち内務省)医務局長、
東京医学校(現・東京大学)校長などを歴任。

しかし北里が帰国しても、日本の学界の動きは鈍かった。北里は内務省に復帰したが、研究所はおろか研究室さえも与えられず、半年近くも不遇をかこっていた。
北里は国民の健康を守るためには伝染病研究所が必要だと説いて回ったが、それを実現するには相当の時間がかかりそうな雲行きであった。

「このまま何もやらせてもらえないのなら、もう一度海外で研究活動をした方がいいのか…」。
心に迷いを生じた北里が、内務省衛生局のかつての上司、長与專斎に相談すると、
「まあ、そう言うな。福澤諭吉が会いたいと言っているから、とにかく会ってみろ」
と勧められたのだ。長与も伝染病研究所建設に動いていたので、いらだつ北里の胸中は察しがついていた。

北里が福澤邸を訪問したのは、その年の9月末か10月初旬のことと思われる。
そしてこの出会いが北里に進むべき方向を示し、その後の人生を大きく変えることになる。
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土地も、建物も、研究費も…福澤に見込まれた北里は、物心両面から援助を提供される

明確に示された北里の進路
北里から一通りの話を聞いた福澤は、
「この際、まず仕事を始め、それから方策を立てたらよい。
私には幸い、芝公園に借りている土地があるから、そこに必要なだけの家屋を構えて始めようじゃないか。
また毎月必要な研究費も私が負担するから、どれだけ掛かるか計算してもらいたい」
と提案した。福澤が提案した土地は、自分の子どもたちの将来のために用意していたものだった。

遠くにかすんでいた研究所が、福澤のひと言で目の前に現れた。
そして北里の進むべき道も、このとき明確に浮かんできたのだ。
1892年(明治25年)、2階建て・上下6室という小所帯ながら日本初の伝染病研究所はスタートした。
また福澤は広尾に結核専門病院を建設し、その運営を北里に委ねた。
このとき福澤は、経営感覚に優れた田端重晟(しげあき)という人物を事務長として送り込んでいるが、彼は後日大きな役割を果たすことになる。

前もって福澤に会っていた長与
北里に福澤と会うように仕向けた長与は、その少し前に福澤と面会している。
そして北里の研究業績を語り、「これだけ世界的に評価されている学者に研究の場を与えないのは日本の恥である」と嘆いた。
福澤はそれに同意し、「北里の研究がそのように重要なものなら、自分の私財をなげうって助けたい」と申し出ていたのだ。

長与は研究所設立の陰の功労者ともいえよう。
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ヨーロッパと肩を並べる北里研究所完成までの道程

伝染病研究所は拡張され国立となったが、北里は間もなく辞任する
最初の伝染病研究所はすぐ手狭になったため、1894年(明治27年)、研究室、病院、事務室、培養室など8棟からなる新たな研究所を芝の愛宕町に建設し、移転した。
この研究所は1899年(明治32年)、北里を所長に置いたまま国営に移され、内務省が管轄することになった。

福澤はこのとき、「国立にするのは構わないが、政府はいつ気が変わるかもしれないから、決して油断せず金を貯えておくように」と忠告した。
福澤はその2年後に他界する。

そして福澤が心配したことは、やがて現実のものとなる。
1914年(大正3年)、北里の関知しないところで、この国立伝染病研究所を内務省から文部省に移管することが決められたのだ。
文部省に移管されれば、研究所は東京帝国大学の支配下に入る。
それに納得できない北里は即座に所長を辞する。
北里は辞任に際し、所員に「ますます学問のため奮励されることを望む」と語りかけた。
しかし研究員たちは全員が北里とともに辞職してしまった。
北里を中心とした研究所は、ここで四散してしまうかに思われた。

自分たちの手で研究所を建設する
この辞職騒動のさなか、結核専門病院の事務長をしている田端重晟が、北里のもとに帳簿を持ってきた。
それを見ると、驚いたことに彼が腕を振るって蓄えた莫大な資金が記されていた。
福澤が世事に疎い学者集団を心配し、経理に強い田端を送り込んだことが、ここで見事に生きたのだ。
福澤は死してなお北里を守り続けたともいえよう。
「自分たちの手で研究所を作るんだ!」。
気運は一挙に高まった。

1915年(大正4年)、北里研究所は結核サナトリウムの空き地を利用して建設された。
本館の外観はドイツのコッホ研究所を模しており、ヨーロッパの大研究所にも見劣りしない立派なものになった。
そして北里研究所は、日本の伝染病研究の中心として多くの実績を挙げていったのだ。


北里のおもな門下生とその業績
北里のおもな門下生とその業績


「恩顧に報いるのはこのとき」慶應義塾大学医学部設立に尽力した北里

給料をはじめ一切の報酬は受け取らない
1916年(大正5年)、慶應の鎌田塾長から医学科asterisk設立の相談を受けた北里は、すぐに学校の形態、費用など具体的な話を進め、特別委員として設立準備にあたった。
「福澤先生から受けた多年の恩顧に報いるのはこのときである」と決然たる思いに突き動かされるように、一心に準備を進めたのだ。北里の決意のほどを、塾長はこう書き記している。

「北里は、もし学校の経済不如意の場合には北里一派の各自が自労自活して大学に貢献するを辞せぬ覚悟であるということで、その熱意は実に敬服に耐えない」。
こうして慶應義塾医学科は翌年には設立を果たし、北里は初代学科長となった。

その就任にあたり、北里はひとつ条件を出した。
それは、医学科創設と医学科長就任は福澤の恩義に報いるためのものなので、給料その他の報酬を受けることは一切できないというものだった。

実際、北里は1928年(昭和3年)に学部長を辞するまで、その約束を守り続けたのだ。

*「慶應義塾大学医学部」の名称は1920年の大学令により改称されたもので、創設時は「慶應義塾医学科」であった

細菌学の創始と発展

受け継ぐ者がいる限り、進歩は終わらない
科学が進歩し続けられるのは、ある偉大な研究者が画期的な成果をあげれば、あとに続く世界中の研究者たちがそれを足場にして、さらに先へと前進できるからだ。

鉄や石などの無機物は長く見ていても姿を変えることはないが、有機物は絶えず変化している。
パン生地はふくらみ、牛乳は酸っぱくなり、落ち葉は茶色に色を変える。

フランスのルイ・パスツールは、これらの作用は、顕微鏡でやっと見える「微生物」の仕業であると主張した。
一八六一年に発表された彼の論文は、スープは自然に腐るのではなく、どこからか微生物が侵入し、増殖した結果だということを明らかにしている。
彼は細菌学の開祖とされるが、一種類の細菌を単独で培養する方法がなかったため、病気と細菌の因果関係は証明できなかった。

多くの病気が細菌などの微生物感染によるものであることを証明したのは、ドイツのロベルト・コッホだ。
彼は栄養素を含んだ固形培地の上では、菌種ごとに独立したコロニー(集落)が作られることを見出し、細菌を一種類ずつ純粋培養することに成功した。
そして、ひとつひとつの感染症には、それぞれに対応した固有の細菌が存在することを発見。
一八八〇年代には、人類を長らく苦しめてきた結核菌、コレラ菌を相次いで発見している。

感染症に対する具体的な治療法を開発したのは、日本の北里柴三郎だ。
彼は一八八九年、不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に成功。
その翌年には破傷風の治療法として世界初の血清療法を考案した。

彼の快挙を支えた研究スタイルには、コッホの影響が色濃い。
三二歳でドイツへ留学し、ベルリン大学のコッホの研究室に入った北里は、病気と病原菌との関係を客観的に証明する基礎的な方法を叩き込まれる。
破傷風菌の純粋培養も、この方法によって成し遂げられたものだ。

日本へ帰国した後も、北里は香港へ赴き、ペスト菌を発見するなど、感染症の医療に大きな足跡を残した。

北里は留学先のドイツから帰国するにあたり、フランスに立ち寄ってパスツールを表敬訪問している。
コッホのもとで研究成果をあげた北里だが、それもパスツールによる細菌学の創始があってのことだった。

「学問には国境がない」というパスツールの言葉を実践した北里博士。
彼は、科学・医学が前進し、やがて人命を救う臨床医学として花開く仕組みを、身をもって実感したにちがいない。

流行病がおこる原因としては、古くから二つの考え方があった。

・悪い空気のような「ミアスマ」

病気は不愉快なものだ。それならその原因も不愉快なもの、不潔なものであるに違いない。
しかも流行病の始まりは、まず特定の地域で病気が発生することからだ。
それなら、その地域に、目には見えない気体のようなものとして病気の元が発生したのではないか。
これはギリシャ語で「病気にする空気」を示す「ミアスマ」と名付けられた。
マラリアという病気があるが、これはイタリア語で「悪い空気」という意味であり、類似の概念と思われる。
流行病対策としては、悪い空気の臭いを消す目的で、強烈な臭いを放つ石炭酸をまく、香をたく、火を燃やすなどが対策として行われた。

ミアスマの考え方は、後に衛生学という形に進化する。

・外から侵入する「コンタギオン」

目には見えないが、体の外から生命あるものが侵入することにより病気が起こるという考え方を示すラテン語で、「接触病原体」というような意味だ。
病気を防ぐにはコンタギオンとの接触を避ければよいので、コンタギオンを持っている患者を隔離したり、病気の流行地域からの人や物の流入を規制するなどの措置がとられた。

コンタギオンの考え方は、後に細菌学として発展する。
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腐敗は自然に起こるものではない
細菌学の開祖は、意外にも医学者ではなく化学者だった。
フランスの化学者パスツールが発酵に関する最初の論文を書いたのは、1857年だった。
牛乳が酸っぱくなるのは、それまで考えられていた内部的な変化によるもの(自然発生説)ではなく、顕微鏡で見なければわからない微小な生物の活動によるものだと主張したのだ。

さらに彼は3年後、ワインやビールの製造過程について、小球(微生物)が関与しない限りアルコール発酵は起こりえないと書いている。
彼は高山では細菌数が非常に少ないことを調査したが、1861年に「空気中に存在する有機的微粒子に関する研究 ――
自然発生説の検討」と題する論文で、腐敗は自然に起こるものではなく、原因は外から入り込んでくる微生物(細菌)にあると、明確に述べている。

微生物がいなければ世界は死んだ有機物であふれる
パスツールは、ソルボンヌ大学の夜の講義で、微生物の役割について分かりやすく説明している。

「目に見えない微生物は、私たちと一緒に暮らし、死んだものを無機のミネラルやガスに変化させるという重要な役割を果たしている。もし微生物がいなければ、たちまち世界は 死んだ有機物で一杯になり、私たちは生きていけなくなるだろう」。

これは上流階級の一般人を対象にした講義でもあり、パスツールの微生物に関する理論は、多くの熱狂的な支持者を作っていった。

パスツールは、低温殺菌法の開発、ワクチンによる予防接種の開発、酸素がない環境で生息する嫌気性菌の存在を確認するなどの実績をあげた。

彼が病気も微生物によって発生すると考えていたことは明らかだが、当時は1種類の細菌だけを純粋培養する技術がなく、多種類の細菌が混ざった状態のまま培養していたため、病原菌を特定するには至らなかった。

必要に迫られていた病原菌の特定
1850年代、ヨーロッパでは3年間にわたりクリミア戦争が繰り広げられた。
その間、フランスは約1万人の戦死者を出したが、その一方で伝染病と創傷感染による死者は8万人を超えていた。
細菌感染の概念がない時代、病室の悪臭がひどくなると「伝染性のガス」が発生したとして、空気の流通をよくしたり、悪臭の発生源である創傷の部位を切り取るなどの措置がとられた。
その程度の治療しか受けられないなかで、病人や負傷者は相次いで死亡していったのだ。
もし病気が細菌のせいであるなら、その細菌を特定して治療法を確立しなければならないと考える学者が現れるようになったのは当然であった。

パスツールは肉汁のスープなどを用い、液体の培地によって微生物の研究をしたが、ドイツの小さな町の開業医・コッホは、ゼラチンを用いた固体の培地asteriskを考案し、細菌の純粋培養に成功した。
彼は、切ったジャガイモの断面にカビが生えるのを見て、固体培地を考え出したと伝えられている。
固体培地の上では、菌種ごとにコロニー(細胞塊)が形成されるため、1種類の菌だけを別の培地に移し替えれば、純粋培養が可能になるのだ。
そして純粋培養した菌で動物実験などを行えば、病原菌を特定できる。

コッホはこの手法により、1876年に炭疽菌を発見。続いて1882年に結核菌、1883年にコレラ菌を相次いで発見し、細菌学を医学の新領域として確立させた。

*コッホは固体培地の材料として、当初はゼラチンを用いていたが、後には、より使い勝手の良い寒天を用いるようになった。

病気が感染症であることを示す原則
病原菌の発見に目覚ましい成果を挙げたコッホは1883年、病気と微生物の関係を客観的に証明する方法として「コッホの4原則」を発表した。
コッホの4原則は、コッホの恩師であるヤコブ・ヘンレが考案した3原則に1項目を加えたもので、できたばかりの細菌学のなかで、感染症を特定するひとつの尺度を与えたものといえる。

1889年、ドイツに留学し、ベルリン大学のコッホの研究室で学んでいた北里柴三郎は、それまで不可能とされていた破傷風菌の純粋培養に成功する。
これは破傷風菌が酸素を嫌う「嫌気性菌」であることを見抜いた北里が、嫌気性環境下で細菌を培養する実験器具を自作した結果であった。
彼が純粋培養した細菌は、コッホの4原則に照らして破傷風菌に間違いないことを、彼自身はもちろん、師匠のコッホも確認している。

しかし病原菌を発見しても、その治療法を見つけなければ、感染症に対する医療は成立しない。
北里は、すぐに破傷風の治療法を研究し始める。
そして翌年には破傷風の毒素を中和する「血清療法」を開発。
当時はまだ「抗体」の概念はなかったが、血清中の抗体を利用したこの治療法は、世界を驚かせた。
北里は続いて同僚のベーリングとともにジフテリアの血清療法をも完成させた。

細菌を発見するとともに、細菌が引き起こす病気の治療法にまで踏み込んだ研究成果を挙げたところに、北里の真価が発揮されているのだ。
しかし、これまでの経過で明らかなように、北里の成功は、パスツールが微生物の役割を明らかにし、コッホが病原菌特定の方法を発見したことがあって、初めて導かれたものともいえる。

1892年、留学を終えた北里はドイツで師匠のコッホに対し、ていねいに謝辞を述べた。
そしてその後フランスに寄り、パスツール研究所を訪れてパスツール本人と面会した。
このときパスツールは、つぎのように自署した自分の写真を北里に贈っている。

北里博士へ 素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて
ルイ・パスツール




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