転載元: 大阪都 ――体制維新(橋下徹×堺屋太一)改革と権力闘争
体制の変更は政治家の使命
多くの予算を削ることで財政の健全化をはかり、それでつくったおカネを本当に必要な施策に投入する。言ってみれば、政治とはおカネをつくり配分することが仕事です。しかし、政治家の多くは、政策が一番だと言います。こういう政策が日本を良くする、大阪を良くする、と。政策はもちろん大事。しかし、政策は政治家がひとりで考えるより、しかるべき専門家の知恵を結集して案を練ってもらう方が良い。そして行政の知恵を借りずに政治家だけで政策を考えると財源の問題、法体系、他の制度との整合性など行政の詰めが甘くなる。高速道路の無料化のように、次々と問題点が出てくることになりがちです。政策は専門家でもつくれる。むしろ、そのほうが言い政策が出てきます。行政を進めるのは役人。しかし、国であろうと地方であろうと、政治行政の仕組み、すなわち体制、システムを変えるのは政治家にしかできません。体制の変更とは、既得権益を剥がしていくことです。今の権力構造を変えて、権力の再配置をする。これはもう戦争です。新聞は、もっと話し合え、議論を尽くせ、と書きます。もちろん、議論すべき問題は議論を尽くすべきだと思います。しかし、権力の再配分に関しては、話し合いでは絶対に決着がつきません。議会についてもそうです。外から見ている有識者やテレビのコメンテーターの認識とは、大きなギャップがあります。有識者は議会を冷静な議論ができる場だと考えているようですが、大いなる誤解です。議会はいわば、選挙で勝ち残った武将の集まり。敵意や嫉妬が渦巻き、人間の最も凄まじいい闘争本脳が凝縮した場なのです。まして権力の再配置の議論となれば、自分たちの既得権益に関わる話です。議会も役所も、敵意むき出しの負の感情が渦巻くことになります。合理的判断をするのが難しくなり、議員も役人もひたすら現状維持がいいということになる。冷静な議論など、望むべきもありません。民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけないとニッチもサッチもいかない、そういう局面がやってきます。僕は政策も大事だが、それよりも体制、システムの変革こそ政治の仕事と考えて、これまで知事の仕事をしてきました。したがって、府の様々な仕組みについて問題提起をしてきました。財政再建においてもそうです。08年2月に知事に就任して、すぐ実行したのは、ほぼ決まりかけていた新年度の予算を引っ繰り返して暫定予算にすることでした。全部の予算を止めて、必要最低限、7月までの予算しか認めない。府政において異例中の異例の措置をとったのです。そして4月から6月の3ヵ月間で、財政健全化への改革案をまとめあげた。当初、府庁は改革案を秋ぐらいまでに出すと言っていたのです。それでは半年が無為に過ぎる。前倒しして夏前までだ、と号令をかけて、6月に改革案を出させました。7月に議会を通し、大阪府の財政再建案がまとまった。これも従来の予算をつくる仕組みを変えたことでうまくいきました。財政再建案の中身について議論するだけでは何も実行できません。仕組みを変えることが重要なのです。大阪の学力を向上させる
次に取り組んだのが教育の仕組みの改革です。全国学力調査の結果を市町村に公表すると宣言したら、府内で大騒ぎになりました。当時、文科省は教職員組合に妥協して、都道府県別の結果は出すが、競争を煽らないように、市町村別の結果は出さないことにしていました。僕は、仕組みを変えるときは、一点突破の全国展開を考えます。ここがポイントだと思うところにドーンとエネルギーを集中して、現行制度の欠点をあぶり出していく、どこに狙いを定めれば、有権者から「それはおかしい」と理解してもらえるよう、その突破口を探っていくのが、僕のやり方です。知事就任時、大阪の学力は小学生が全国41位、中学生が45位でした。それなのに、市町村別の結果公表を行わないというのでは、教育改革などできるはずもありません。教育改革でのポイントは、情報開示して、教育現場の実態を保護者に知らせること。そこから保護者も学校も思考が始まる。学力テストの市町村別結果を公表しない文科省や教育委員会の言い分は、結果を公表すると過度な競争が生じ、不当な序列化が生じるというものでした。最初にこの理由を聞いて、バカ言ってんじゃないよと感じたので、その後「文科省はバカ」と言ってやりました。結果の公表には、教育現場、教員が猛反対しているのです。その理由は、学校現場に過度な負担が生じるからです。結果が悪ければ保護者から文句を言われる。そして結果が良くなるように必死にならなければならない。安倍元首相も首相になる前の著作で、学力テストの結果は公表すべきだ、それによって学校側の切磋琢磨が生まれると書かれていたのに、首相になってからは公表すべきではないという見解に変わってしまった。教育現場、文科省の凄まじい巻き返しがあったのでしょう。僕が公表方針を打ちだした時も、府内市町村の選挙で選ばれていない教育長が一切反発しました。僕は直感で、大阪府民は自分の地域の学力状況を知りたいはずだと感じていました。その時点で、この問題に関する世論調査などはなく、僕が公表方針を出した時には、多くの有識者はメディアを通じて猛反発してました。市町村教委は、結果が公表されないもんですから、学力テストのフォローなどいい加減。府内市町村での取り組みを調査したら、A3一枚のペラペラのペーパーで、次回しっかりと頑張る、という程度の総括しかしていない。これで一層、僕の怒りのボルテージは上がりました。まあ、その後は、教育委員会に、クソ教育委員会!と言い続け(後におかんに怒られたから、以降〝クソ〟はつけない)、府民の皆さんにこの問題に関心を持ってもらえるようエネルギーを込めました。市町村の結果発表でどうなったか。まず市町村教育委員会の意識が変わりました。学力テストの総括について、ほとんどが40ページ以上、中には100ページを超える資料を作成するところも出て、保護者説明会を開く市町村が一気に増えました。そりゃそうです。自分たちの状況を、保護者に知られて、保護者を意識し、そして切磋琢磨するのです。カネをかけて特別の事業を興したワケではなく、単純に情報を開示しただけ。しかし、これによって市長村長が切磋琢磨する環境になったのです。あれだけ「市町村別結果を公表したら過度な競争が生じる、不当な学校序列が生じる」と主張していた文科省や教育委員会、そして有識者、朝日新聞や毎日新聞は、その後の総括をしていますか?大阪では、過度な競争もないし、不当な学校序列もない。むしろ、これまで意識もしていなかった学力向上に向けて、全市町村教育委員会、学校現場が働いています。机上で、あれやこれや心配事を並べるのが、これまでの行政。だからチャレンジしない、何も変わらない。カネは一切かかりません。カネがかからないならまずやってみる。本当に不都合なら修正する。こういう姿勢でないと、日本は何も変わらない。新しいことをやろうとすれば、心配事、問題点を徹底的にあげつらい、現行のやり方に問題があるかは検証しない。結局、現状が一番いいとなる。たしかに人の命、取り返しのつかない事は慎重に判断しなければならない。そうでないのなら、まずはやってみるリスクをとる。そして、メリット、デメリットを検証する。これが僕のやり方です。to be continues.
橋下の過激な言葉だけに耳目を集めさせ、
放置自転車半減を達成した平松に比べ、橋下は何もやってない。
唯一、財債再建したというが、それとてトリックじゃないか――
などといった、マスコミをはじめとした刷り込みが目立ってきた。
道行くおばはんがインタビューに、
「だってあの人、何もしてないじゃない」と答えてた。
果たしてそうか?
果たしてホントにそうだったのか?
大阪の住民は、橋下の奇抜な〝言葉〟に、ワケわからずに踊らされただけだったのか?
東京中心のマスコミの面白半分の報道と、既得権者に雇われたエセ・ジャーナリストが書いてる記事が正しくて、
橋下が何もやってないなんて、大阪に住んでて、ホントにそう思ってるなら、
それは、インタビューに答えてたおばはん含め、何も見ようとしていない、
役人の〝ダマし絵〟の表面だけをチラ見して、
きっといつまでも本質から遠ざけられてるタイプだ。
こういう〝公〟のすることに無関心な住民が多くいる街には、
いつまで待てども、いい暮らしはやって来ない。