転載元: 大阪都 ――体制維新(橋下徹×堺屋太一)「独裁」マネジメントの実相
政治は直感、勘、府民感覚
政治家が完璧な政策など、つくれるワケがありません。そして行政実務を遂行できるワケがありません。政治家が政策を語っても、どこかに穴がある。既存の制度や他の制度との整合性や、財政問題。これだけ国民の教養レベルが高く、多様性に富み複雑成熟した日本社会にあって完璧な秩序を保っている社会制度です。何かやろうとすれば、他のルールや制度都の膨大な調整が必要です。こんなことを政治家ができるワケがない。政治家が細かな政策を語り、知識をひけらかすほど怪しい。政治家だけで政策をつくり上げることができないのは、政権交代時の民主党のマニフェストで明らかです。政治家はあるべき方向性を示す。その方向性で行政マンが選択肢をつくる。中身を詰める。僕は自分の思いを語るだけ語って、、「あとは行政的に詰めてください」と指示をを出すことが多かった。また既存のルール・制度・政策については、あるべき姿に照らして、問題点を指摘する。行政組織は利害関係者の顔が浮かび、現実論に走りがちになります。この過程で政治価値、行政価値、そしてそれぞれの府民感覚がぶつかり合い、大激論となります。しかし、この激論を避けた政治決定は、その後、組織が動かない。そのような大失敗をいくつもしました。政治家も行政マンも人間です。独裁国家ではないのですから、政治家の命令一つで組織が動くワケがありません。行政マンの主張は全部出させる。行政マン同士で見解の相違があるなら、徹底的に議論してもらう。僕はその議論を見守り、こちらも自分の勉強や外部委員、また行政マンから得た情報で肝心の部分に口を挟む。自分が議論の当事者となった場合には、自分の哲学に拠って激論する。以上のような政治と行政の役割分担の話を、ずっと府庁組織に話してきましたが、意思決定において一定のルールのようなものが出来上がりました。1.原則は行政的な論理に勝っている法を選択する2.論理的に五分五分ということになれば、僕が政治的に選択する3.行政論理に負けていても、これというものは、政治決定で選択する。このときは行政マンのプライドを尊重するためにも、論理としては行政の言い分が勝っていること、僕の論理が負けていることをしっかり認めます。しかし、自分の政治的な思い、あるべき論から、敢えてそれを選択したということをしっかり説く――この2と3が政治家の真骨頂だと思います。選択の拠りどころは、政治家の感覚。特に3は。なぜ、僕の感覚に府庁組織は従ってくれたか。それは府庁組織の僕への忠誠心?それもあるのかもしれませんが、そんなことだけで行政が継続性、安定性、公平性、論理的整合性を簡単に捨てるワケにはいきません。府庁も府民のことを思い、秩序を守ろうとするのですから。政治と行政の役割分担、違いを、府庁組織と事あるごとに議論し続け、僕は行政マンの専門知識、行政価値、行政の論理を最大限尊重しました、議論すべきときは徹底的に議論しました。その上で、直感、勘、府民感覚では、僕の方が上だろうということを見せるように努めてきた。いざというときの勝負どころは外さないようにしてきました。政治は情、勘。行政は理性、論理です。ですから、この直感、勘、府民感覚、勝負で賞味期限が切れれば、政治家としては終了です。もう使い物になりません。こんなのは長く続きません。僕もかなり賞味期限に近づきつつあり、あとどれくらい持つやら、です。自分の賞味期限切れを感じることも、直感、勘、府民感覚の問題です。直感、勘、庶民感覚に鈍い人ほど、自分の政治家としての賞味期限切れにも気づかない。日本にはこういう政治家が多いですよね(笑)。民主党 「事業仕分け」の問題点
予算の議論でも、事業部局はこういう事業を進めたい、財政課は、その事業は認めないという議論が出てくる。財政課が行政的な理屈でおカネを付けられないと主張しているのを、知事が頭ごなしにそんなやり方はおかしい、この事業をやれ、と命じても絶対うまくいきません。目の前で、事業をやりたいという部局と、認められないという財政課でしっかり行政マン同士の議論をさせた上で、先程の1.2.3のルールで最終的な判断を下すと、ものの見事に官僚組織は動きます。この視点からすると、民主党の事業仕分けのやり方には問題があったのではないでしょうか?民主党の事業仕分けを契機に、自治体でも事業仕分けが流行りましたが、これも同じです。政治家や第三者が、廃止の立場に立って行政マンと議論しても、行政制度は複雑で頓珍漢な議論になってしまう。だから政治家や行政マンは廃止を主張する財務省や財政課がつくった資料に基づいて勉強し、事業仕分けに挑む。それよりも、役所内の行政マン同士で徹底的にプロの議論を闘わせてもらえばいいんじゃないでしょうか?民主党の事業仕分けなら財務省の役人と、各事業所管庁の役人。民主党のやったような華のある事業仕分けとはならないかも知れませんが、カメラのいない役所内でのプロ同士の激しい闘い。それを政治家や第三者は見守り、先ほどの1.2.3のルールで判断していく。今の事業仕分けは詰めが甘いのか、組織がその決定を共有していないのか、廃止と決定されたものが廃止にならず、場合によっては姿を変えて復活してくるものも多いのです。戦略は細部に宿る
政治的に決定を下したあとで。行政組織がその決定に従って動くことができる環境を整えることも政治の役割です。行政は既存のルール、制度を基にした秩序を重んじる。ゆえに政治決定を実現するために障害となる既存のルール、制度があるなら、ここを変更するなどの政治規定が必要になる。ここまでやらないと、行政は「動かない」のではなく「動けない」。この既存のルール、制度の変更は、法律から規則、通達、内部ルール、運用指針までとにかく幅広く、膨大です。行政はこれら膨大なルール、制度との整合性を芸術的に図るのです。民主党の行政刷新会議は事業仕分けによって、万博記念機構という独立行政法人を廃止するという決定を下した。ところが、この独立行政法人を廃止するにあたって、一番重要な万博公園を大阪府に移管する問題については、財務省と大阪府の協議に委ねるとしてしまった。するとどうなるか。財務省は既存の理財局ルールというものを基準として国有地である万博公園を大阪府に移管しようとする。しかし、大阪府はそれによって多額の賃料を国に払わなければならない。これで交渉が難航して、当初の政治目標である万博記念機構の廃止が危うくなっているのです。財務省と大阪府の協議をこのまま放っておくと、万博公園を大阪府は引き取らない、だから万博記念機構は存続するという結果になってしまう。このような事態を避けるためには、民主党政権が、独立行政法人を整理するという観点で、この理財局ルールを変えるか、例外扱いを認めるしかありません。理財局ルールには例外規定があるのですが、これは政治家では考えつかない理財局長通達のレベルです。このような規定の活用方法は、専門家や行政マンに知恵を授かるしかありません。ここまで目を配って、初めて組織が動き、そして政治的目標を実現することができるのです。まさに戦略は細部に宿る、です。過ちを認めて修正する
行政は、継続性、安定性、公平性、論理的整合性に、行政以外の世界では信じられないほどこだわります。これは先に話した通り、それはそれで仕方ありません。しかし、これにこだわればこだわるほど、過ちは認められないのです。過去の過ちを認めてしまうと、ありとあらゆるところに不整合が生じますから。僕が知事に就任後、議会で「教育委員長に命じる」と答弁しました。建前上、教育委員会は知事とは独立機関なので、知事が命じることはできません。どこからどう見ても完全な誤りです。当然、議会から追及が入ります。それに対する答弁の仕方を、幹部で協議したのですが、5ページくらいのペーパーが用意されていました。それを読み上げてくれたのですが、何を言ってるのかさっぱりわからない。謝っているような、いないような…そこで僕が「これだと何を言ってるのかわからない。キチンと謝って訂正する」と言ったのです。その時の組織側の反応が忘れられない。「知事が謝るのですか?」――知事に謝らせてはならないというのが組織の絶対的価値。それはそれでありがたいのですが、完全に間違ってることは謝った方が楽。イイワケすればするほど、何が何だか分からなくなる。「こんなのスパッと謝って訂正したらいいじゃないですか。次からしっかり気を付ければいい」。この方針を伝えると、組織は衝撃を受けたらしいです。しかし、行政組織というのは笑えます。これ以降、何かある度に「この点はお詫び申し上げます」のコメント案文の連続。謝らせ過ぎだちゅうんです(笑)。しかし、これ以降、頑なにイイワケをし続けるという組織ではなくなりました。間違っていれば修正するということが少しは浸透したかと思います。to be continues.
↧
橋下市長候補のつぶやき/体制維新(7)
↧