転載元: 物語を物語る司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由が分かった
今まで、司馬遼太郎が「南北朝時代」を書いていないのが不思議だった。
彼の膨大な作品群の中で、なぜか、鎌倉幕府滅亡~南北朝時代つまり「太平記」の時代がぽっかりと抜けているのだ。
戦国時代以前の作品では、奈良時代の「空海」、平安時代の「牛黄加持」など短編が数編あり、鎌倉時代成立時の「義経」、室町時代・応仁の乱では「妖怪」、「花の館」、と数は少ないがそれぞれあった。だが、南北朝時代のものは短編でさえ一つもない。ただ興味がなかった、いやその機会がなかったのか、その辺りのことは分からない。ただ、もし、司馬版「太平記」があったなら、この時代を舞台にした小説の決定版になっていたはずだろう。
果たして、どんな物語になっていたのだろうか、といろいろと想像してしまう。(たぶん、関西出身なので楠木正成を主役にしていただろう。そして義貞は良くは書かれないとは思いますが……)
そこに、フト手にとった本の中に、司馬遼太郎が「南北朝時代を書かない理由」が、本人の弁で書かれていた。
それは、文春文庫「手堀り日本史」という歴史エッセイの本の中にあった。以下引用。
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「南北朝時代というのは、治乱興亡の起伏が激しく、後醍醐天皇から、大塔宮、楠木正成、新田義貞、さらに足利尊氏などと、役者がそろっていて、その意味ではドラマチックな時代ではありますね。
そこでつい、これを舞台にして小説が書ける、と思ってしまう。
しかし、私の感じでは、どうせ小説にはならない。
すくなくとも小説にしにくい感じなんです」
「南北朝時代について書き出すと、作家はかならず苦しくなる。
なぜかというと、みな水戸史観で訓練された目で南北朝を見ようとする。
吉川さんも、残念なことに、水戸史観を頼りにこの時代を見ておられます。
それ以前の作家たちも、たとえば矢田挿雲という人もここを書いておられますが、やはり水戸史観を頼りにされている。
そういうわけで、非常にきらびやかな、楠木正成などという人物が登場してくる。
後醍醐天皇の悲劇もある。
笠置から落ちていかれる道行きもある。
全部悲愴美に飾られているわけです。
ところが、その悲愴美は水戸史観を通してこそ出てくるわけで、通さなければこれは何でもない騒ぎなんです。
そう見ていくと、これはおよそつまらない時代なんです」
「南北朝の時代には、時代の美意識というものがない。
鎌倉時代には鎌倉武士の美意識があった。
私たちがいかにも痛快だと思うような、畠山重忠とか、生田の森で箙(えびら)に梅をさして戦った梶原景季だとか、そういうものがあった。そういう美意識が鎌倉時代の末期には衰弱し、しかも新しい美意識はまだ生まれてこない。
ここにあるのは利権・利害だけですから、小説にはなりにくい。ある種の小説にはなりますでしょうが……。
歴史小説というものは、前時代の美を壊すか、あるいはそれに乗っかる、その態度が最初に必要なのですが、そのための素材が何もない。
現実は果てもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられ、一見すばらしい風景に見えるんです。
だからうっかりそれに乗ってだまされてはいけない。
作家たちも、ずっとダマされてきたんです。
観念史観にせよ、唯物史観にせよ、史観というもののこわさがそこにあります。
ときに歴史をみる人間に、麻薬剤の役目をします」~~~さらに、「司馬遼太郎の日本史探訪」(角川文庫)、「楠木正成」の章からの引用。~~~
「小説に書ける時代というのは、その時代のモラルがある、あるいはモラルに代わるものとして、たとえば美意識でもいい。
鎌倉武士の畠山重忠にしても、それから平家の平敦盛にしても、彼らそれぞれが美意識をもって行動しますね。
彼らは利害関係で動くわけですけども、その戦闘行動とか生死のあり方というものは、美意識でもって動かされている。
南北朝時代になるとそれがないんですよ、時代全体にないわけです。
もう功利社会そのものでしてね、エコノミック・アニマルの時代なんです。
その時代が持っているモラルなり美意識なりに乗っかっても小説は書けるんです。
あるいは、それに対してパンチをくらわせるという形でも小説は書ける。
しかし何もない時代が南北朝でしょう。
ただ利害関係だけという時代ですから、なかなか書きにくい時代」
「非常に簡単に言いますと、土地相続法がはっきりしていなかったんですね。
とにかく南朝・北朝に分かれて争ったというのは、南朝の天皇と、北朝の天皇が喧嘩をしたというだけでなく、もっと基盤的にですね、村々字々の小さなやつが土地相続をめぐって一族で争い合っているわけです。
で、おれが正統な相続者だということを認めてもらいたさに、いろいろの上とつながりをもたしていっての争いだから、南北朝は日本全国の争いですね。
つまり国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙をあげているような時代だったんです。
だけどそれを水戸光圀が編纂責任者だった『大日本史』では、思想問題として扱っている。
南朝方に属した人は忠義である。
武家方に属した人は忠義ではないかもしれないようなことになっている。
それを頼山陽が『日本外史』という通史を書いて明確にしたわけです。
そころが武士たちは、そんな意識で動いているわけではないんで、そんな意識で動いたのは、
どうやら楠木正成だけじゃないかと思います」
「私は、イデオロギストという人たちが苦手なほうなんですけれども、なぜ苦手かというと、非常に頭が固くて話していてもおもしろくない。
なぜ面白くないかというと、おにぎりを作る器具をデパートで売っていますが、枠にご飯を入れておにぎりをパチッと作るみたいにして物事を考える。
頭がどうも固い。
ところが正成はそうじゃないんです。
非常に柔軟な政治感覚を持っている。
イデオロギストとして見たら珍しいほどです。日本人のイデオロギストというのは、大正・昭和にもマルキストがずいぶん出ましたけれども、どうも本物なのかどうなのか、メッキなのか純金なのか、わからないとこもあるでしょう。
だけどこの正成は、もしイデオロギストだとしたら、数少ない純金の人物じゃないかと思いますね」~~~
司馬遼太郎にとって南北朝時代を説明するためには「イデオロギー」を抜きには語れなかった、ということだろう。
それに時代背景もあっただろう。
当時、戦後昭和の時代は、「皇国史観」の残滓と「マルクス主義・唯物史観」の勃興という狭間にあって、まさに混乱の状態にあったようだ。
「歴史学」「日本史」を書く際に、このことを抜きにはできなかったということだろう。
それは小説といえども、これを無視しては書けなかった。それが端的に表れていたのが「南北朝時代」であったと司馬は考えていたのではないか。
難しい言葉が並んでいるが、簡単に言えば「南北朝時代には安易に触れてはならない」といった意味に取れる。
さて、もう一つ、
河出書房新書・日本古典文庫14「太平記・上」に、司馬遼太郎の解説が載っている。ここでも、主に「楠木正成」と「後醍醐天皇」と「太平記のイデオロギー」について書いている。~~~
「私はイデオロギーというものを、たとえば体質的に酒を好まないという程度においてそれを好まないが、ところが太平記には酒臭がにおっている。大胆にいえばイデオロギーの書であるといえるかもしれない」~~~
とある。
「日本史探訪」と同じような例えでやんわりとイデオロギーはヤダと言っているが、相当キライなようだ。
つまり司馬遼太郎は、「イデオロギーの問題はやっかいなことだ」と辟易していたのかもしれない。
そう考えれば、「太平記」がイデオロギーの本だと認識している司馬にとって、思想的にもデリケートな南北朝時代を取り上げることなど、まずありえない話だったのだろう。「新田幕府」の可能性はあったのか?
井沢元彦著「歴史if物語」(廣済堂出版)の中から一節。
「もし足利尊氏が後醍醐天皇に敗れていたら、朝廷軍だった「新田幕府」の可能性」というのがあった。
面白かったので引用してみる。~~~
「では、もしこの時、朝廷軍がうまく立ち回り、尊氏を敗走させるだけでなく、その首をあげていたとしたら、その後の歴史的展開はどのようになったのだろうか。
当然、室町幕府はない。
さまざまな不満を持つ武士たちを一つにまとめあげることができるのは、尊氏だけで、これは直義でも無理だ。
朝廷軍が勝つということは、正成か義貞、あるいは北畠顕家が勝つ、ということだが、この中で尊氏の首を取る可能性が高いのは、朝廷軍の中で最大の勢力である義貞だ。
しかし、誰が勝とうと、どんな手柄をたてようと、後醍醐天皇は武士階級の者を征夷大将軍にするつもりはない。
現に、尊氏も将軍職を望んだが、後醍醐天皇が頑として許さなかったので、ついに反旗を翻したのだ。
後醍醐天皇からみれば、武士の代表者を征夷大将軍に任ずれば、その者は必ず幕府を開こうとするだろう。
そうなってはせっかく建武の新政を始めた意味がない、と思っていたのである。
そこで、いかに義貞が大成功をあげても、将軍にはなれない。
なるとしたら、公家出身の北畠顕家しかいない。
だが、そもそも後醍醐天皇は、武士階級がどういう不平不満を抱いているのか、決して理解しょうとしてないし、周辺の公家も同じだ。
尊氏が死んでも、あちこちで反朝廷の乱が起こるのだろう。
政権は決して安定しない。
するはずもない。
そもそも武士を無視した政権など成り立つはずがないのだ。
おそらく義貞は、そのうちに尊氏と同じように「反乱」を決意するはずである。
彼は、源氏の一族であり、将軍になる資格は十分にある。
また彼が在地地主である武士階級の権益を保護することを「公約」としてかかげれば、大半の武士は義貞に味方するはずだ。
もっとも楠木正成は、朱子学というイデオロギーの信奉者だから、最後まで天皇に味方するだろう。
しかしこういう武士はごくごく少数である。
順当にいけば、必ず武士階級の代表者、つまり義貞は勝つのである。
義貞は尊氏のように甘い男ではないから、後醍醐天皇があくまで逆らえば、鎌倉幕府の故事にならって、後醍醐天皇を佐渡あたりへ島流しにするだろう。
正成、顕家はそれまでに当然、強大な義貞軍と戦って死んでいただろう。
かくて新田幕府ができることになる。
幕府の拠点は、義貞の性格からみて京都ではなく鎌倉に置かれることになる。
後醍醐天皇を島流しにしたため、政権は安定し、天皇家は通常の歴史より一足先に、権威のみを象徴する存在になる」
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戦前には天皇に忠誠を尽くす「忠臣の鑑」と見られていた新田義貞だが、戦後はその皇国史観から解放された。
足利尊氏さえいなければ、義貞が幕府を開いていた、といった見方が増え、そのようなことを書いている人を結構見かける。
義貞には、その資格も十分にあったし、野望も持っていたはず。
この時代、武士たちは北条政権に代わる存在を求めていた。
そこが南北朝時代の流れを理解する一つのポイントなのだ。
さらに、この記事で興味を引くのは、
「新田幕府は足利幕府よりは統制力が強いものとなる」
といった後半の部分。
これも、考えさせられる。
源氏の嫡流として担がれたとき「新田幕府」がどのように成立していくのか、想像するだけでも楽しい。
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仁義なき「南北朝時代」の戦い
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