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米百俵の精神 伊勢雅臣

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小林虎三郎 ~ 人作りは国作り


■1.「米百俵の精神」

「米百俵の精神」とは、平成13(2001)年5月7日、小泉首相の所信表明演説で有名になった言葉である。それは次のような一節だった。

__________
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、
救援のための米百俵が届けられました。
米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。
しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。
その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

小泉首相の実際の業績は別にして、この「米百俵の精神」は多くの国民の心に響いた。

それから10年後、子ども手当などのバラマキ政策を、国家予算の半分近くを国債、すなわち子孫への借金のつけ回しで賄おうとする現在の我が国は、「痛みを明日に回して今日を良くしよう」という姿勢に陥っている。
「米百俵の精神」をもう一度、思い起こすべき時ではないか。


■2.小林虎三郎

「米百俵」の事績を残したのは、明治初年、戊申戦争で旧幕府側として新政府軍と戦って敗れた長岡藩(現在の新潟県長岡市一帯)で、大参事として敗戦後の再建を任された小林虎三郎である。

長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減らされ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く家もあった。

明治3(1870)年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。
小林虎三郎は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのだった。
困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断だった。

この事績は、戦時中に山本有三が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになった。


■3.「食えないから、学校を立てる」

山本有三は、その時のやりとりをこう描いている。

__________
三左衞門 
聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。

専八郎 
しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。
たしかにさような事、従五位様(藩主、牧野忠毅のこと)に申し上げるつもりか。
しかとした返答をお聞きしたい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これに対して、虎三郎は意外な返答をする。

__________
貴公たちは、食えないといって騒いでおるではないか。
みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「食えないから学校を立てる、とは理が通らない」と三左衞門が反論すると、虎三郎は百俵の米なぞ藩の8500人に配ってしまえば、1日か2日で食いつぶしてしまう、として、こう諭した。

__________
なあに、はじめからこなかったものと思えば、なんでもないではないか。
もとより、食うことは大事なことだ。
食わなければ、人間、生きてはいけない。
けれども、自分の食う事ばかり考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちな
おらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。
だからおれば、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。
学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。
この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。
いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。
その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。
あたらしい日本は生まれないぞ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.国漢学校の創設

虎三郎の考え通り、明治3(1870)年6月、国漢学校が新築された。
明治新政府により東京で小学校が開設されたのが、同年同月であり、虎三郎の先見の明が窺われる。
学校長には虎三郎自身が就任した。

新築された学校は、平屋建てで教室が6つ、さらに武道のための演武場も備えるという、かなりの規模であった。
建設費や武具、書籍を含めて4百両かかったとされているが、米百俵の代金は250両ほどであり、不足分は藩から拠出されたものと思われる。
藩の財政も破綻状態にあったはずで、それでも学校に資金を投入したのは、虎三郎の決断であろう。

この国漢学校には、二つの特徴があった。
第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許された点である。
そのため、最初からかなり多くの志願者が出たようだ。
これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎の考え方に依っている。

第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられた。
これが国漢学校の名前の由来である。
国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎は自ら『小学国史』全12巻を編集した。
さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。
今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えである。


■5.国家の強弱は、人民の教育・啓蒙で決まる

虎三郎は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。

ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしている。

ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されている。

中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。
それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎は説く。

虎三郎の教育とは、科学技術だけではない。
学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関する私の議論)では、
「学問には『道』と『芸』が必要である」
と述べている。
人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのである。

虎三郎は若かりし頃、江戸で佐久間象山の門下に入り、吉田寅次郎(松陰)とともに「両虎」と並び称せられた。
その象山が「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」と唱えた思想を、虎三郎は継承しているのである。

このように、国を興すのは人民に対する教育であり、それには「道」と「芸」が必要だとする考えによって、虎三郎は農民や町人の子弟も入学させ、また漢学だけでなく、広く国学や洋学も取り入れたのだった。


■6.近代日本の発展に貢献した人材を輩出

この国漢学校は、やがて官立の坂之上小学校となった。
また後に併設された洋学校、医学局が、それぞれ長岡中学、長岡病院に発展した。

この国漢学校、坂之上小学校、長岡中学から、人材が輩出していく。
国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画した。

日本で最初の医学博士・小金井良精(よしきよ、虎三郎の甥にあたる)はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、日本人として初めて解剖学の講義を行った。

そのほか、改進党で活躍し、福井県知事となった波多野伝三郎、検察官として活躍し、後に法務大臣となった小原直(なおし)、東京帝国大学総長となった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、明治期の日本最大の出版社である博文館を創業した大橋佐平、連合艦隊司令長官・山本五十六など、各分野で実に多くの人物が育っている。

明治新政府軍との戦いに敗れ、3度の粥にもことかく状態に追い込まれた長岡藩から、かくも多くの人材が育って、近代日本の発展に貢献したことは、虎三郎の「食えないから、学校を立てる」という考えが正しかったことを証明している。


■7.戦時中の「人をつくれ」

長岡の生んだ人材の一人である山本五十六は、航空戦力の発展に中心的な役割を果たし、日米戦争を防ぐことに身を賭して奮闘したが、やむなく開戦にいたると、真珠湾攻撃で世界航空戦史に特筆される大戦果を上げた。

山本五十六は、昭和18(1943)年4月18日、搭乗機がソロモン上空で米機に撃墜され、戦死した。
その2カ月ほど後
に、山本有三が『米百俵』を発表したのである。
その「はしがき」に山本有三はこう書いている。

__________
「米をつくれ。」「船をつくれ。」「飛行機をつくれ。」と、人々はおお声で叫んでおります。
もちろん、今日の日本においては、これらのものに最も力をつくさなければならないことは、いうまでもない話しであります。
しかし、それにも劣らず大事なことは「人物をつくれ。」という声ではありますまいか。
長い戦いを戦い抜くためには、日本が本当に大東亜の指導者になるためには、これをゆるがせにしたら、ゆゆしき事と信じます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ここに山本有三が、大東亜戦争という非常時に『米百俵』を発表した動機が端的に現されている。
実は、山本有三は昭和15(1940)年7月以来、内務省の検閲干渉に抗議して、断筆中であった。
実に3年近い沈黙を破って、『米百俵』を発表したわけである。
山本五十六の戦死がその危機意識に火をつけたのだろう。

言論を統制し、国民総動員で「米をつくれ」「船をつくれ」「飛行機をつくれ」と号令をかけるだけでは、長い戦いを信念と創意工夫を持って主体的に戦い抜く人物、ましてやアジアの指導者たるべき人物は作れない、と言うのである。


■8.「人を作らないから、食えなくなった」

幕末に欧米列強が押し寄せてくる危機の中で、わが国は急速な近代化を成し遂げて独立を守ることができた。
それは江戸時代に寺子屋や藩校を通じて、世界でも群を抜く教育水準を達成していたからである。

さらに近代化政策の筆頭として明治5(1872)年8月に「学制」を公布し、施行わずか2年間で、全国津々浦々に2万4千校以上の小学校を作り上げた。
虎三郎の「米百俵の精神」は、当時の日本全体が共有していたものであった。

大東亜戦争敗戦後も、わが国は奇跡的な復興と高度成長を実現したが、これもわが国のすぐれた教育制度に原動力があったとは、つとに指摘されてきた所である。

現在の日本は、経済の停滞、高齢化と人口減少、政治の漂流など、第3の国難とも言うべき時期にあるが、これらの危機は外から来たものではなく、政治にしろ経済にしろ、十分な人材が育っていない事からきた内発的なものである。日教組の左翼偏向教育と文科省のゆとり教育によって、学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきた、というのが、危機の真因であろう。

「食えないから学校をつくれ」という虎三郎の言を裏返せば、現在の日本の状況は「人を作らないから、食えなくなった」と言える。
今こそ「米百俵の精神」を思い起こすべき時である。

もとより「人作り」は学校だけの課題ではない。
家庭、職場、地域社会と、我々の生活のすべての局面で「米百俵の精神」を行動に移していく責任が現在の国民にはある。
それが先人の恩に報い、子孫の幸福を図る道である。
(文責:伊勢雅臣)




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