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東京オリンピック1964

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古関裕而と新しい時代の幕開け

 
昭和30~32年よりも前にお生まれになられた方なら、東京オリンピックは、昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックの入場行進をご覧になり、大感動したご記憶をお持ちの方も多いのではないかと思います。

高らかなファンファーレの響きとともに、壮大な行進曲が鳴り響き、各国の入場行進が行なわれました。
参加国93カ国、参加人数5,133人という数字は、オリンピック史上過去最多のものです。

なぜ、日本で行なわれた東京オリンピックの出場国数が過去最多となったのかというと、これにも理由があります。
大東亜戦争が終結したのが昭和20(1945)年、この年から昭和30年代にかけて、世界中で欧米の植民地支配を破り、アジア、アフリカの諸国が次々と独立を果たしたのです。
この結果、東京オリンピックは、史上最多の出場国数となりました。

日本は、戦争で日本中が丸焼けになりました。
終戦直後は、それこそ食べる物さえなかったのです。

その日本が、急に復活を遂げ、昭和27年には独立を回復し、そしてその12年後の昭和39年には、アジアで初めてとなるオリンピックという平和の祭典を成し遂げたのです。

開会式は10月10日でした。
前日まで、雨が続き、入場行進ができるかどうかも危ぶまれていました。
けれど当日、東京・代々木の国立競技場は、雲ひとつない青空に晴れ渡ります。

競技場は7万1000人の満員の観客です。
午後1時50分、参加国国旗が一斉に掲揚されました。
昭和天皇が、ご臨場される。
君が代が演奏されます。
そしてあの、高らかなファンファーレとともに、オリンピックマーチが演奏され、各国の入場行進が始まりました。

多くの日本人が、この日、涙を流しました。
苦しかった戦争、戦後の貧窮、そして未来のために懸命に働いた日々。
「俺たちの国、日本が、ようやくここまできた。」
その嬉しさ、誇らしさ。
その思いや気持ちは、まさに日本中をかけめぐり、その瞬間、まさに日本中の思いがひとつになった。

そして世界を植民地支配から救い出した日本に、世界中の賞賛が集まった。
それが東京オリンピックの入場行進でした。

このとき演奏された「東京オリンピックマーチ」は、もう半世紀も昔の出来事ながら、まるで昨日のことのように耳にこびりついている方も多いのではないかと思います。

素晴らしい名曲でした。

この局を作曲したのが、日本を代表する名作曲家の古関裕而(こせきゆうじ)です。
古関裕而は、明治42(1909)年に、福島県福島市の出身です。
旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)を卒業し、川俣銀行に勤務。
サラリーマンとして働きながら、作曲活動をはじめています。

20歳のとき(昭和4(1929)年)には、管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」が、英国のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入賞しています。
これは日本人が国際的作曲コンクールで入賞した初めての出来事です。

古関の作曲活動は、その後、たいへんに精力的なものとなります。
戦前に作曲されたものでよく知られているのが「愛国の花」「暁に祈る」「露営の歌」「若鷲の歌(予科練の歌)」「ラバウル海軍航空隊」など。
いずれも精神高揚というより、どこか哀切をおびた名曲です。
「暁に祈る」などは、私も大好きな曲です。

戦後ですと、「フランチェスカの鐘」「イヨマンテの夜」「決断(アニメ決断のテーマソング」などなど、数々の名曲をのこされました。
そうそう、戦後大ヒットしたラジオドラマの「君の名は」、怪獣ものでたぶん多くの人の耳にこびりついて離れない「モスラの歌」、野球ファンなら誰でも知っている「巨人軍の歌(闘魂こめて)」や「ドラゴンズの歌」も、古関裕而の作曲です。

甲子園球児のための名曲「栄冠は君に輝く」も、古関裕而です。

君が代が鳴り響くとともに、会場の観客席が、誰に命令されたわけでもなく、自然と全員が起立した様子。
そして高らかなファンファーレとともに、会場に鳴り響くオリンピックマーチ。
各国の選手団、なかでもアジア、アフリカの独立間もない国々の選手たち、国が貧しく、まだ多くの選手を送り出すことはできなかったけれど、だから人数は少なかったかもしれないけれど、国を、民族を代表している誇りを胸に、笑顔でのびのびと行進する姿。
規律正しいドイツの選手団、明るい米国選手団、生真面目そうなソ連選手団。

そしていちばん最後が、日本選手団の入場です。
映像では、このとき、いちはやく昭和天皇が、日本選手団を迎えてご起立された様子が映し出されています。
そのお姿に、そして日本選手団にかけられる、高らかな「かしら~、右!」の号令、晴れやかな選手団の、そうそう、あの顔、この顔、小野清子選手の一瞬の笑顔!

映像を通じて、当時の日本人みんなが感じたであろう誇らしさ、嬉しさ、それまでの幾多の悲しみや、万感の思いのようなものが伝わって来て、なんだか鳥肌が立ち、泣けてきました。

西村幸祐さんが、次のように書いておられます。
「いつも東京五輪を振り返る時に思うのは、これが敗戦の19年後に行われたことの凄さです。
東京は勿論、日本中が灰燼に帰すまで米国に壊滅されたにも拘わらず、その19年後に東京五輪を戦前派、戦中派の日本人は開催させ、大成功させてしまったのです。
今から19年前に何があったのか考えると、平成5年、1993年ですが、失われた20年を上書きしているだけの現在の私たちと比べ、当時の日本人の偉大さが偲ばれます。」

栄光のために戦い、戦友が死に、家族を失い、食べる物さえない困窮のどん底の中から、みんなが必死になって生き抜き、戦後の復興を遂げて来た。
瓦礫を片付け、家を建て、道路を作り、汗水流して働き詰めに働いて来た。
そうしてようやく、オリンピックが開催できるだけの国になった。

どうだ、戦友よ、見てくれ。日本はここまできたんだぞ。
ここまでこれたのは、君たちのおかげだぞ。
俺たちも必死で働いて来た。
アジアやアフリカの多くの国々もがんばって、独立を果たした。
いろいろな国が来てくれたぞ。
かつての敵国だった米英もソ連も来てくれたぞ。
ドイツもイタリアも来てくれた。
世界のみんながこうして一同に会することができたんだ。
陛下のご臨席も賜ることができた。
うれしいじゃないか。
誇らしいじゃないか。

おそらく、言葉にならない万感の思いが会場いっぱいに満ちたのです。
そのみんなの気持ちを、おもいきり代弁してくれたのが、古関氏の東京オリンピックマーチでもあったといえるのではないでしょうか。

バブルの絶頂期だったのが、平成元(1989)年12月29日です。
この日の大納会で、日経平均株価は3万8,915円87銭という、市場最高値を付けました。
日本人の個人所得は、世界一であり、円高も相俟って、多くのサラリーマンや若い女性たちがこぞって海外旅行にでかけました。

あれから23年が経ちます。
日本は、いまだ先の見えない不況の中に沈んでいます。

個人所得が世界一にまでなった日本は、いまでは日本人労働者の4人に一人が年収200万円以下となり、失業者は増え、不動産は売れず、株価は8千円前後を行ったり来たりです。

あの好況を呈した日本は、いったいどうなってしまったのでしょうか。

私にはひとつ予感があります。
それは、時代は必ず変わる、ということです。

日本は、明治から大正にかけて富国強兵を図り、世界を代表する強国となりました。
そして人種差蔑が世界の標準だった時代に、人種の平等を説きました。

おかげで日本は、世界の強国から疎まれ、民族自立のために武力をもって大東亜戦争を戦わざるを得なくなり、終戦時には国中が焼け野原となり、貧窮のドン底にまで追いつめられました。

けれど日本は、懸命に努力し、戦後の復興を成し遂げました。
その復興を象徴するのが、東京オリンピックでした。
そして日本は成長した。日本は世界第二位の経済大国となり、バブル好景気を満喫しました。

なぜ日本は成長できたのでしょう。
それは、戦前の教育を受けた優秀な人材がたくさんいたからです。
要所要所でリーダーとなる人が、しっかりしていた。
何がしっかりしていたのかというと、愛国心を持っていたのです。

そして日本古来の家族主義の思想の中で、社員を家族と考え、庇護し、社員や部下とともに成長を図ってくれました。
それが日本の伝統的文化だったし、価値観だったのです。
私達の先輩達は、限りない愛情を持って、戦中だけでなく、戦後も戦い続けてくださったのです。

けれど、戦後教育を受けた世代は、ある意味、戦いを知らない世代だったのかもしれません。
戦争を知らない子供達ではなく、人として戦うことを知らない、あるいは戦うことをハナから「いけないこと」と決めつける世代となりました。

そして戦うことを放棄した日本に、収奪すること、奪うこと、盗むこと、横取りすること、自分の利益を図るこを正義と考える他国民族が、多数はいりこみました。
あろうことか彼らは、「日本人のような顔をして」、日本人の中に紛れ込みました。
そして、価値観の違う彼らは、日本の富を横取りし、いままさに日本国内で経済的利益を半ば独占している状況にあります。

けれど戦うことを知らない現代日本人は、なぜ自分たちが貧しくなったのかさえ知らず、わからず、なんかおかしいなあと感じながらも、どうにもすることができない閉塞感の中にいる。

そんな日本が、ようやく変わりつつあるのが、昨今ではないかと思います。
新しい「情報化層」と呼ばれる人たちが台頭してきたのです。

寛仁親王殿下がご薨去(こうきょ)されたという、本来なら日本中が服喪しなければならないときに(親王殿下のご冥福をお祈り申し上げます)、薨去を逝去と称して貶める不謹慎なマスメディア。
日本中が、民主党の解散総選挙を望んでいるときに、その「解散総選挙」という言葉を、AKB48の解散総選挙に誘導する意図的な国民に対する不誠実。

そうしたマスメディアの偏向ぶりに、多くの日本人は、内心で、「おかしい」「へんだ」と感じています。
感じているけれど、なぜか、がわからない。
ところが「情報化層」は、その理由に明確な答えを出しています。

偏向し、世間一般の価値観と微妙なズレが生じたテレビは、視聴率が下がります。

ある程度の視聴率が稼げるのは、スポーツ番組くらいなもの。
これではスポンサーはつかなくなります。

番組スポンサーがつかなければ、テレビ局は支払いに追われ、局の運営が厳しくなります。
カネにならなくなる。
すでにテレビの没落がはじまっています。

新聞もアテにされなくなってきています。
現に、一昔前ならどこのご家庭でも、あたりまえの行事だった、朝食時にお父さんが新聞を読む姿、電車内で新聞を読むサラリーマンの姿は、いまでは、ほとんどお目にかかることができなくなりました。
読むに値しない、偏向ぶりでは、誰からも相手にされなくなるのです。

メディアが莫大なカネをかけて偏向情報を流しても、その日のうちに、カネのかからないTwitterやFacebook、mixi、ブログなどによって、そのウソがたちまちのうちに暴かれる。

そういう時代が到来しています。
そしてそういう時代に育った若者が、これからの日本社会の中心となるとき、日本は変る。

私達はいま、真実を手に入れることができる環境を、入手しつつあります。
そしてそういう真実は、日本人を覚醒させる原動力になる。

戦後長いこと私達は、愛国心とか、祖国を愛する心、あるいは道徳心といった言葉は、古くさいものとレッテルを貼られてきました。
けれど、四半世紀におよぶ不況の連鎖は、結局のところ日本人に「国家国民として、祖国愛というあたりまえの価値観の共有化がなければ、傷つくのは自分たち国民である」と気付かせてくれました。

私達はいま、歴史の大きな転換点にいます。
明日の日本を信じて、私も戦い続けていきたいと思っています。

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