転載元:
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/■押し寄せたユダヤ人群衆■
1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がついた。窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。ボーイのバリスラフは、すでに群衆に会って、その理由を尋ねてきていた。ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、両軍がポーランドに同時に攻め込み、東西に二分割していた。そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、三々五々、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア-日本経由の道しか残されていなかった。ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れをり(幸子夫人、以下同じ)■杉原領事の苦悩と決断■
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。外務省に暗号電報で許可を求めたが、回答は「否」。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかった。しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の命はない。杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打つ。8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、日本領事館にも8月中の退去命令を出した。日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを聞けりついに意を決して、杉原は夫人に言った。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」私の心も夫とひとつでした。大勢の命が私たちにかかっているのですから。夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」と
つぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不
安が感じられました。「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」それだけの覚悟がなければ、できないことでした。■書き続けたビザ■
夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。それから約1ヶ月間、退去期限ぎりぎりまで、杉原は朝から晩まで一日300枚を目標にビザを書き続けた。すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書く。途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書く。効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。一日が終わると、ベッドに倒れ込み、夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込む。外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。ソ連から退去命令が何度も来て、杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。ありあわせの紙でビザを書き続ける。■バンザイ、ニッポン■
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。■日本へ■
ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、身動きができないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけて、シベリアを横断した。ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を週一回往復してユダヤ人達を運んだ。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に杉原夫人に語っている。神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。■28年間探しつづけた■
敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。杉原は黙って外務省を去った。その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。■私たちはあなたを忘れません■
翌昭和44年、杉原は招待されてイスラエルを訪問した。出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物である。バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている。昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。日本人としては初めての受賞である。すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。杉原は病床のまま、翌昭和61年7月31日に亡くなった。本講座でも紹介した杉原千畝氏の物語を日系米人クリス・タシマ氏が、「ビザと徳」というタイトルで映画化。第70回アカデミー賞で、短編作品賞(実写部門)を受けた。ユダヤ系、日系をはじめ多数の市民の資金援助で完成したこの映画は、全米の小劇場や学校などで上映されている。(読売朝刊、10.03.26)■ナチスのユダヤ人排斥要求を拒否した日本政府
大戦中、6000人のユダヤ人を救った日本人外交官・杉原千畝氏の物語は、氏の単独の行動ではなく、「極端なユダヤ人排撃はできない」とする政府の秘密決定を根拠にしたものと考えられる。この決定は、当時ナチスドイツから度重なるユダヤ人排斥要求を受けていた日本政府が、「人種平等」という国是にもとるとして、下していたもの。日独研究者による外交文書調査で明らかになった。たとえば、当時日本海軍管轄下にあった上海では、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していたが、これは当時の世界で唯一、ビザなしの渡航者を受け入れていたからである。また39年には、ドイツ外相が、シベリア経由で満洲に流れ込んでいるユダヤ人難民の越境を許可した日本の関東軍司令部を公式に非難している。[産経、H10.03.30]
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ユダヤ人と八紘一宇/杉原千畝婦人の手記
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