「誰それ……」井上真央NHK大河『花燃ゆ』“超マイナー主人公”に、大河ファンから不満噴出か
2013/12/4 日刊サイゾー
井上本人も“文”を「勉強中」だとか。
2015年のNHK大河ドラマが、井上真央主演『花燃ゆ』であることが発表された。
井上が演じるのは、幕末の長州藩士・吉田松陰の妹・文(ふみ)。尊皇攘夷運動をけん引した久坂玄瑞に嫁ぎ、のちに毛利家の奥女中となる人物だ。
明治維新の志士たちを間近で見つめた文を通し、激動の時代を描くというが、マイナーすぎる主人公に、大河ファンから不満が噴出しているようだ。
「3日に行われた会見では、井上さんも『どういう人物かパッと思い浮かぶ偉人ではないので、不安もあります』と本音を漏らしていた。大河ファンは、ただ時代劇が好きなわけでなく、実際の歴史が現代に再現されるところにロマンを感じている。最近は、歴史小説を原作にしていないオリジナル脚本も多いですが、せめて主人公は有名な人物であってほしいと思う視聴者は多いようです。また、文は資料もかなり少ない。文が劇中、どれだけ歴史に影響を及ぼすかは分かりませんが、『花燃ゆ』はファンタジー色が強くなる可能性もあります」
(テレビ誌ライター)
また、一部大河ファンからは、主人公に対し「また女優か……」という声も。
63年に開始されたNHK大河ドラマだが、07年まで主人公はほぼ男性俳優が務めてきた。
それにより、かつては「朝ドラは女優、大河は男性俳優」というイメージが広く定着していた。
しかし、08年に宮崎あおい主演『篤姫』が平均視聴率29.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を叩き出してからは、だいたい一年おきに女優が主役を務めるようになった。
「NHKは、『篤姫』の成功を忘れられないでいる。昨年の松山ケンイチ主演『平清盛』が、視聴率1ケタを記録し大コケ。視聴者の“大河離れ”が加速したため、NHKは視聴者を取り戻すのに躍起になっている。『平清盛』は、時代状況のリアルさを追究するあまり、兵庫県知事から『画面が汚い』とクレームが入り、局内で問題になったことも。美人女優を主人公に起用すれば、そんな批判も起きないでしょうからね」(同)
近ごろは、“朝ドラ”ばかりが注目されているNHKだが、『花燃ゆ』は、『篤姫』に続くヒット作となるだろうか?
個人的には、大変期待してる。
幕末から明治維新にかけての長州エピソードを余すことなく網羅した大河にしてほしい。
で、希望としてはエンディング、
このシーンまで、引っ張っていただきたい、みたいな…願いを込めて(笑)。
幕末から明治維新にかけての長州エピソードを余すことなく網羅した大河にしてほしい。
で、希望としてはエンディング、
このシーンまで、引っ張っていただきたい、みたいな…願いを込めて(笑)。
転載元: 世に倦む日日玉木文之進の死における介錯の美学と武士の性
小説「世に棲む日日」の中で特に印象的なのは、冒頭に登場する玉木文之進の切腹自害の場面である。
この件は、玉木文之進が少年松蔭に折檻教育で滅私奉公の武士道精神を注入する強烈な逸話が語られた直後に登場する。ここから読者は、一気に小説の世界に心を惹き込まれ、吉田松陰と人格教育という問題を考え続けながら、革命長州の歴史の現場に立ち会って行くことになる。玉木文之進はこの小説全体の言わば隠れた主人公の存在であり、革命長州の「狂気」を読み解く重要な鍵である。
司馬遼太郎の設定と説得はそのようになっている。
読者は常にこの男の個性を念頭に置き、この男の影を見ながら物語を読み進めなければならない。
この玉木文之進が、明治九年に萩の乱の黒幕として責任をとって切腹するところから物語の幕が開く。
その切腹の情景が異様なのだ。
人には様々な愛と死のパターンがある。が、玉木文之進のそれは、大人の我々に何事かを考えさせる。
どうやら文之進は内々この乱に関係していたような形跡があるが、しかし表むきは、「こういう反乱の徒を出したのはわが教育の罪である」とし、明治九年十一月六日、先祖の墓のある山にのぼり、自害した。
介錯は、四十歳の婦人がした。松蔭が愛していたいちばん上の妹で、お芳と言い、児玉家に嫁いでいた。
お芳はその後も長命したが、そのときのことを斉藤鹿三郎という松蔭研究家のたずねに応じ、こう追憶している。
「この日、叔父は私をよび、自分は申し訳ないから先祖の墓前で切腹する、ついては介錯をたのむ、と申されました。
私もかねて叔父の気性を知っていますから、おとめもせず、お約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそを端折って後にまわり、介錯をしました。そのときは気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。介錯をしたあとは、夢のようでありました。」
(文春文庫 ① P.25-26)
これだけなのだが、そして読者の勝手な想像なのだが、何となく作者が行間に何かを言いたげであるように感じられて仕方がない。
どうして男ではなく女に首を斬らせたのだろう。
玉木文之進ほどの人物であれば、門弟も多くいただろうし、わざわざ特別に婦女子を介錯者に選ぶ必要はなかったはずだ、という問題を鬱々と考え始めたのは、この五年ほどのことで、それは同時に玉木文之進への小さな嫉妬とセットになっている。
小説を最初に読んだときは単に衝撃のみで、この革命家の生涯を描く物語のプロローグに相応しい逸話の挿入であり、作品の企画と構成の素晴らしさに感銘を受けただけだった。
どこかで書いたが、切腹という死に方を持っていた武士は幸せだったと思う。
人はいつかはどこかで死ぬ。
癌になって病棟で悶え苦しんで死ぬ。
死ぬことは同じだ。
切腹は武士にとって名誉であり、腹を切って死ぬのが侍だった。
それは勇気が要ることで、勇気と覚悟がなければ腹は切れない。
それが司馬先生の「微弱なる電流」だが、そうやって死ぬときは、最後の我儘として、愛した者の手で首を刎ねられたいと思った人間がいても不思議ではないように思われる。
この小説の衝撃のプロローグには、武士の狂気と血生臭さと同時に、その奥に微かなエロティシズムのようなものが暗示されている。
普通であれば、それほど簡単に介錯を引き受けるだろうか。
そのように考えたとき、死に方として、玉木文之進の場合は、男としてこれ以上幸せな死に方はないように思えてくるのである。