転載元: ”高次元への旅”2013/08/15昭和天皇に感銘を受けたマッカーサー
フリーメーソンの最高位33位だった連合軍最高司令官だったダグラス・マッカーサ―も、当初は古い歴史と伝統を持つ日本を破壊しメーソン化するという重要な使命が託されていた。勿論、天皇についても裁判にかけて処罰するつもりだった。
昭和20年6月のギャラップ調査によると、77%の米国民が天皇の処罰を要求、ソ連、英国、オーストラリア、ニュージーランドなども強硬に天皇を戦争犯罪人にすることを要求した。マッカーサーはこうした世論を背景に、天皇の実質責任を追及すべく、証拠集めに入った。その結果「天皇を戦争犯罪人とみなすに足る特別かつ確実な証拠は何も発見できなかった」とマッカーサー自身の口をして言わしめた。
マッカーサーが初めて昭和天皇に面会したのは昭和20年9月27日であった。この会見は天皇自ら望んだものであり、場所は米国大使館で行われた。マッカーサーは天皇が面会を望んでいると聞いて「多分、命乞いに来たんだろう」と考えていた。しかし、実際に会ってみて、意外な天皇の態度に非常に驚き、感動すら覚えたという。この点に関しては、当時の重光外相の言葉から引用してみることにしよう。「私は陛下がどんな態度で私と会われるかと、好奇心を持ってお会いしました。然るに実に驚きました。陛下はまず戦争責任について自ら持ち出され、次のように仰ったのです。『私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任を取ります。また私は日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接の責任を負います。
自分自身の運命について、貴下の判断が如何様なものであろうとそれは自分には問題ではない。私は全責任を負います』これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮のあまり、陛下にキスしようとしたくらいです。
もし国の罪をあがなうことができれば、進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます深まるばかりでした」(木下道雄・・・宮中見聞録)
マッカーサーの態度はこの会見によってすっかり変わってしまった。彼は会見を終えて帰る天皇を、玄関の扉の外に出て丁重に見送ったのである。また彼の”マッカーサー回顧録”によっても、最初の会見について「私は大きな感動に揺さぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている事実にてらして、明らかに天皇に帰すべき責任ではない責任を引き受けようとしている。
この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄まで揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても、日本の最上の紳士なのであることを感じ取ったのである」「われ、神を見たり!」
西ドイツ・ボン大学教授のオットー・カロン博士も、「ローマ帝国も、ナポレオンも、ヒトラーも、ムッソリーニも、一度負ければそのまま生き残ることはできない。ところが天皇は一兵の守りもなく、無防備のまま、敗戦で混乱する焼跡を巡って国民を慰めておられる。
そして、驚いたことに、国民も日の丸の小旗を振って天皇を慰めている。こんなに美しい国家元首と国民の心からの親しみ、心と心の結びつき、これは世界のどこにも見られないものでる。我々は改めて日本を見直し、日本人を尊敬しなければいけないと思っている」このような日本人を羨望のまなざしで見る外国人もいる。ユダヤ人の長老的ラビ・モルデカイ・モーゼである。彼はルーズベルトの側近として、日本の戦後処理に当たり、日本の国体破壊を主導した中心人物の一人である。が、日本について実際に解るにつれて、天皇と国民との関係が他国に見られるような支配者と被支配者という権力関係ではなく、ユダヤ民族の長年求めてきた理想的関係であることに後から気づき、彼らの対日処理が間違えだったとして、「日本人に謝りたい」という本を書いている。その中で「祖国を持たない我がユダヤ人は、わずかに”ユダヤ教”を携帯国家として持ち、これによって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国ではこのような高尚な理想を持った国家は永久に現れない。そういう意味で、ユダヤ人は日本人には及ばないが、一般西欧人よりは優れた民族であると日本人に認めて頂ければはなはだ光栄である」従って「日本人に謝るから、日本人自身が一日も早くこの理想的な君民関係に覚醒して、日本の国体を復活させてほしい」と述べている。原爆開発を禁止した昭和天皇
昭和天皇の戦争秘話として、史上初の原爆開発を禁止したエピソードがある。昭和19年、敗戦が次第に色濃くなっていたころ、各国では原子爆弾の開発が急がれていた。日本でも”起死回生”をもたらすものとして密かに関発が進められていた。技術的には、1924年に東大の長岡半太郎博士、1934年には東北大の彦坂忠義博士が世界で初めて原爆の原理を発明していましたが、「こんな悲惨な兵器は作ってはならぬ」という昭和天皇の命令で一旦開発は中止、技術はナチスドイツに移転された。皮肉なことに、このナチ製の原爆は、”砂漠のキツネ”との異名をとった名称ロンメル将軍の裏切りによって密かに米軍に渡され、広島、長崎で使われてしまった。
こうして、一旦開発をあきらめた原爆でしたが、米国の”マンハッタン計画(実は未完成)”などの情報を聞くにつけ、軍部は理化学研究所の仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎博士らによって密かに開発を進め、技術的には完成していたが、燃料のウランがなかった。
そこで、軍部はドイツから潜水艦で2トンのウランを入手しようと計画、二隻の潜水艦がウランを積んでドイツから日本に向け出向したが、一隻はマレー沖で米軍に撃沈された。残る1隻は消息不明。しかし児玉機関の創設者・岩田幸雄氏の証言によると、無事呉軍港に到着していたのだ。
岩田氏が状況を杉山陸軍大臣に報告すると、軍部は狂喜乱舞して喜んだ。杉山陸相は、「航空機搭載可能なイ400型潜水艦を使って、まずハワイに投下し戦局の逆転を図る」と明かしたという。
ところが、このことを知った昭和天皇は、東条首相と杉山陸相を呼び、次のようなことを告げて再度の開発中止を強く迫った。「数か国が開発を競っているということだが、日本が最初に開発し使用すれば、他国も全力を挙げ開発し使ってくるようになるだろう。それは全人類を滅亡させることになりかねない。それでは人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。またハワイに投下する計画ということだが、ハワイには日本の同胞が多く移住し、現地人と共に苦労し今日を築きあげたところである。そんな所に原爆を使うことは許さぬ!」
天皇のこの言葉によって、「陛下の意思を無視することはできない」という東条首相と、「敗戦となっては日本は滅びて元も子もない。使用すべきだ」という杉山陸相が対立、しかし、結局、杉山陸相は野に下った。19年7月東条内閣が総辞職すると杉山は再び陸相として復活、自分の責任で原爆開発を進めさせた。ところがロケットに搭載しての使用を考え、その燃料製造過程で誤爆事故が発生し再び天皇が知るところとなった。天皇は激怒「まだやっていたのか!」と怒りをあらわにしたという。昭和天皇が、戦争終結を”敗戦”とせず、あえて”終戦”とされたのは、原爆が製造された以上、今回の第二次世界大戦をもって人類の”最終戦争”としなければならないとの固い決意が込められていたのである。
ちなみに、原爆開発はその後も密かに進められ、昭和20年8月12日、終戦の3日前に、なんと現在の北朝鮮・興南で日本海軍が日本初の原爆実験に成功していたことが米国公文書で明らかになっている。
【関連】…
「旧日本軍が終戦直前、原爆実験?」
[西日本新聞1999年8月6日]
朝鮮半島東岸沖合 GHQに極秘情報
【ワシントン5日時事】旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約300ページ)で分かった。1947年の米軍防ちょう機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。
また、これらの文書から、米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(50年-53年)に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。
米軍犯罪調査部隊のデービッド・スネル氏は、旧日本軍が45年8月12日未明、興南沖30数キロの海上で原爆実験を行い、巨大なきのこ雲が上がったとの情報を、ソウルで元日本軍情報将校から入手。退役後の46年、米ジョージア州アトランタの新聞に公表したが、一笑に付されていた。
しかし、在朝鮮米軍司令部防ちょう部隊が47年1月16日付で作成した報告は、調査結果として、「日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た爆発が起きた。
関与した科学者らの名も(スネル報告は)正確だ」と指摘、科学者は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えた。
興南は8月12日、進攻ソ連軍に占領された。
興南での日本軍の核開発説について、45年のGHQ文書は、
(1)日本軍復員者によると、興南の化学工場で原子力関係の実験が行われていた
(2)日本海軍は興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物によるジェット燃料実験を実施していた
(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている―などの情報を挙げて、徹底調査を命じた。
興南には戦前、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していた。
一方、朝鮮戦争中の米軍文書(50年12月29日付)によれば、米軍は興南の化学工場施設に空爆を加え、施設の95パーセントを破壊したという。日本の原子爆弾開発
(ウィキペディア)第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況について記述する。
第二次世界大戦中の原子爆弾開発[編集]
第二次世界大戦中、軍部には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。
大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と、
大日本帝国海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。
ニ号研究・F研究の開始[編集]
日本では1938年からウラン鉱山の開発が行われ、
1940年に理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。
研究には理化学研究所の他に東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。1941年4月に陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、
アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年1月に、同研究所の仁科博士を中心にニ号研究が開始された。
この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。他方、日本海軍のF研究も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、1942年には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。
こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。当時は岡山県と鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、1944年から朝鮮半島、満洲、モンゴル、新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。
同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定した。
1945年には飯盛里安が率いる実験施設の理研希元素工業扶桑第806工場を開設し、4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。
一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦(U-234)による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった。
こうして、原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。また、技術的には、理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法は1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。
濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされていた。
この原爆開発原理には基本的な誤りがあったことが、黒田和夫(日本から米国に帰化した科学者の第一号)の保管していた旧陸軍内部文書によりわかった。
しかし、同様の経緯である1999年9月の東海村JCO臨界事故により、殺傷力のある放射線が放出されることは明らかとなっている。原爆投下の直後の1945年8月14日のポツダム宣言受諾時、日本の原爆開発は最も進んだところでも結局は基礎段階を出ていなかった。研究打ち切りと敗戦[編集]
1945年5月15日のアメリカ軍による東京大空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった。
その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめたが、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。日本は、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で被爆し、8月14日にポツダム宣言を受諾した(調印は9月2日)。
敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された。
その後、占領が終了するまで核分裂研究は一切禁止された。ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた。ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。
ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている。昭和天皇と原子爆弾[編集]
日本はポツダム宣言を受諾したが昭和天皇は玉音放送の中で、
「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ、惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル、而モ、尚交戦ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ、斯(かく)ノ如クムハ、朕何ヲ以テカ、億兆ノ赤子(せきし)ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ、是レ朕カ帝国政府ヲシテ、共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ」
と原子爆弾に対する抗議を行った。