◆第七章 日本隠しとウリジナル主義
●ソウル地下鉄は日本の支援で完成
<149>
朴正煕大統領夫人がテロに斃れた1974年8月15日は、ソウル地下鉄の開通式の日だった。
ソウル地下鉄一号線は実は日本の資金援助と技術支援で完成した
<150>
1973年に東京で起きた韓国の情報機関(中央情報部)による金大中拉致事件の後、日本ではマスコミを中心に「韓国はいかにひどい国か」と激しい"韓国叩き"が行われた。
日本のマスコミには韓国に関するあらゆる悪情報があふれた。
日本政府は安保的観点などから金大中事件で韓国(朴政権)が政治的に弱体化することを懸念し、韓国政府に対する厳しい追及を控え、事件処理を韓国側に任せることで政治決着させた。
これがまた日本国内では"日韓癒着"として政府非難になってはねかえってきた。
(中略)
そこで取り上げられたのが「ソウル地下鉄問題」だった。
1976-1978年にかけ韓国批判の代表例で日本のマスコミや国会をにぎわした。
<151>
技術サイドの支援・協力に当たった日本の鉄道建設公団「鉄建公団」の人達は8月15日の開通式には当然、招かれ共に完成を祝えると思っていた。
ところが彼らには招待がなく、開通式には参加できなかったというのだ。
いかに残念だったか、その時の心情を語ってくれた。
<152>
これは韓国におけるいわゆる「日本隠し」の一例である。
(中略)
日本にお世話に勝ったことを隠そうとする。
反日の手前それは民族的自尊心にかかわる。
「あるべき歴史」観からは宿敵・日本からの支援、協力の受け入れなどあってはならないのだ。
●協力と反日のパラドックス
<152>
日本と韓国の関係において、韓国にとってあれだけ批判、非難し続けている日本に、手助けされたりお世話になったということは実に我慢ならないことだ。
(中略)
そこで日本に対する、あるいは自らに対する我慢ならない感情をなだめるために二つの心理操作が行われてきた。
一つは日本の協力や支援を「当然」「当たり前のこと」として心理的負担にならないようにすること。
もう一つは支援、協力の事実をできるだけ隠し広く知られないようにすることだ。
(中略)
この二つが絶妙にあいまって、韓国人は対日心理のバランスを保ってきたのである。
<154>
日韓国交正常化の韓国にとっての意味は、
(中略)
韓国の対外信用度が一気に高まった。
いわば日本の"お墨付き"によって韓国の対外関係は広がり、安定、拡大に向かったのだ。
国交正常化交渉では、
(中略)
日本側には個人補償的な資金提供案もあったが、韓国側は国が代表し一括して受け取ることを主張しそうなった。
韓国政府は資金のほとんどを経済的、社会的基盤作りのために使い、それがその後の経済発展の基礎となり現在の繁栄につながった。
ところがその後、特に近年、戦時中の韓国人慰安婦や徴用労働者など「個人被害」についての補償問題が、日本への新たな要求として盛んに語られている。
過去にかかわる「補償」は韓国政府が代表し日本から一括して受け取ったわけだから、個人には韓国政府が対応すれば済む話である。
(中略)
にもかかわらず日本への要求が執拗に続いているのは、日本対する非難、糾弾を目的とした、日本を国家として屈服させようという反日運動というしかない。
だから日本としてはまともに付き合いきれないのだ。
<157>
韓国側の韓日協力委員会の現在の会長は南(直+心)祐(ナムドクウ)元首相であり、
(中略)
彼が経済企画院長官(閣僚)をしていた1970年代後半に経済企画院が発行した『請求権資金白書』(1976年12月刊)というのがあり、(この中で)請求権資金5億ドルがどのように使われたかを詳細に記録した韓国政府の公式報告書である。
<158>
これを見ると請求権資金、つまり日本からの支援協力が韓国のあらゆる分野の建設、発展に投入されたことが分かる。
韓国を南北に貫く陸の大動脈になった京釜高速道路建設、韓国が世界に誇る製鉄所・浦項綜合製鉄(現POSCO)建設、主都ソウルを洪水から守る韓国最大の昭陽江(ソヤンガン)ダム建設をはじめ、その資金は韓国のインフラ(社会産業基盤)のほとんどすべてに使われている。
<159>
対日請求権資金、つまり日本による「過去補償」にはこんな事実があり、記録まであるのに、韓国社会ではほとんど知られていない。
いや知らされていないのだ。
メディアや知識人は意図的に隠してきたのだ。
政府もまた日本への各種の要求を続けるために、口を閉ざしてきた。
<160>
必要なのは今さらの正常化批判ではなく、この50年間に間違いなく行われた日本の韓国に対する支援、協力その成果の確認である。
韓国社会には今なお「日本は韓国のためにいいことは何もしていない」「何も償ってはいない」という虚偽が流布され、政治家やメディアや知識人はそう言い続けている。
国交正常化50周年で「新たな協力時代」をいうのなら、まずこの姿勢が改められなければならない。
●金大中は日本を評価した
<161>
1998年10月、東京での日韓首脳会談の際、発表された金大中大統領と小渕恵三首相による「日韓共同宣言」で、
(中略)
金大中大統領は「世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に日本が果たしてきた役割を高く評価する」としている。
しかし、あくまでも「相互の発展に寄与」であり、「国際社会での役割」としてである。
「我が国に対する」ではないのだ。
正直ではない。これでは印象に残らない。
やはり民族的自尊心のせいである。
「日本は我が国の発展に寄与した」とはいえないのだ。
●奇妙に広がるウリジナル幻想
<161>
韓国の過度の民族的自尊心は近年、
(中略)
「ウリジナル主義」の方向に向けて広がっている。
ウリジナルとは、何でも韓国が起源だとする韓国の風潮を皮肉った言葉だ。
<162>
日本文化についてのウリジナル主義は対日コンプレックスの裏返しである。
(中略)
もともと韓国は中国文明圏の先輩、優等生として日本より文化が進んでいたという民族的自負心、自尊心を背景にした「あるべき歴史」なのだ。
<163>
とくに代表的な日本文化に対するウリジナル主義は日本への対抗心を物語っている。
近隣地域だけに似たようなものはありうる。
しかし、それに独自の創造性を加味し、いかに"文化"に仕立て上げるかが重要であって、そうしてこそ人々に評価され持続的に存続できる。
だから韓国が問題にしなければならないのは、今、韓国に日本のような大衆的でかつ洗練された茶道、生け花、相撲、剣道、柔道、歌舞伎………がなぜないのかであって、ルーツを自慢することではないだろう。
<164>
相撲もそうだが、ウリジナルつまり起源を主張するわりには伝統がないがしろにされている。
●中国とも繰り広げるルーツ合戦
<165>
韓中ウリジナル戦争のきわめつけは高句麗問題だ。
古代・東アジアで朝鮮半島北部から旧満州にかけて存在した古代国家・高句麗の歴史をめぐって、中韓双方で取り合っているのだ。
こちらは近年、膨張主義、覇権主義が目立つ中国が仕掛けたもので「高句麗は中国の一地方政権でその歴史は中国史の一部に過ぎない」と主張し、高句麗を中国に囲い込んでしまった。
これに対し韓国は、高句麗は百済、新羅とともに韓民族の古代三国のひとつであると猛反発し、中国を「歴史歪曲」どころか「歴史侵略」「歴史略奪」であるとして紛争になっている。
民族主義で威勢のいい両国が歴史戦争でガチンコになっているのだ。
<166>
中朝国境地帯には朝鮮族自治州が存在し、全体で約二百万人の道俗が居住している。
この地域は19世紀末の日清戦争の後、日本が清(中国)に売り渡したもので無効だと、昔から韓国は主張している。
これには「高句麗の地は我々の地」という歴史回復欲、つまり「あるべき歴史」観が作用している。
かつてわが民族が駆けまわった北方の地への再進出は、彼らの「見果てぬ夢」である。
そこに「あるべき歴史」を求めてもおかしくない。
<167>
日中間の尖閣諸島問題も実は歴史戦争である。
東アジアはただ今、歴史戦争真っ盛りなのだ。
日本はこの歴史戦争でしっかり応戦できているのだろうか。
◆第八章 日本人が次々と"極右"に
●アメリカ人記者も反日の韓国を批判
<168>
歴史についていえば、
「外国人は『正しい歴史』とか『本当の歴史』を学ぶべきだ」
という韓国人達の説教に私は辟易している。
実際のところそれは『歴史についての韓国人の解釈』という意味だ。
なぜなら歴史は自然科学ではないし、いくつかの基礎的事実を除けば歴史的出来事や流れについては解釈は自由だからだ。
私はこれまで異なった見解を認める韓国のメディアの記事を見たことがない。
そのいつものやり方は『異論は無視しろ』『韓国の主張を繰り返せ』である……
これは韓国駐在の米国人記者(アンドルー・サーモン)が韓国の英字紙「コリアン・タイムズ」(2012年4月30日付)に寄稿したものである。
●韓国版ニューズウィークから消された記事
<170>
米週刊誌『ニューズウィーク』(日本版2012年9月5日号)が、竹島・独島の特集記事を掲載した。
この記事は
(中略)
英語のアジア版(9月10日号)、および日本語の日本版にはそのまま掲載されたが、韓国で発行される韓国語の韓国版には載らなかった。
韓国版ではアジア版の記事を外して韓国の読者には読ませなくしたのである。
記事は
(中略)
この間の経緯と双方の立場が詳しく紹介されている。
(中略)
韓国の興奮ぶりに対し若干の戸惑いや違和感は示しているが、韓国の主張、立場は十分紹介されている。
<171>
ただ韓国にとって不満があるとすれば、記事が結論部分で、韓国が拒否している日本による国際司法裁判所提訴問題を肯定的に紹介していることや、国交正常化の際に問題が"棚上げ"になり未解決だったことを紹介していることだろうか。
つまり日本の立場や主張、韓国にとっての異論が詳しく紹介されていることが気に食わないというわけだ。
韓国の読者には日本の主張などの異論は読ませたくないということなのだろう。
韓国版(9月19日号)に韓国編集長の「"独島記事"を載せない理由」題する記事の冒頭にはこう書かれている。
「ニューズウィーク・アジア版の表紙記事(カバーストーリー)は日本の資格だけを反映して編集されている。
要約すれば日本は独島と韓日の過去史問題を合理的に解決しようとしているのに比べ、韓国人は理性的でなく独島に"執着"していると主張している。
ニューズウィークの日本版編集長であるニューズウィーク東京特派員が作製した記事にいかなる問題があるのか検討してみる……」
中身は全てアジア版記事に対する韓国の立場からする反駁と批判で、かつ日本批判である。
<172>
この問題に関する韓国及び韓国社会を外部世界はどう見ているかということ自体を、韓国の読者(韓国国民)には知らせたくないのだ。
そしてひたすら「韓国の主張の繰り返し」である。
●親日タブーに挑んだ韓国人の末路
<172>
日本で若い韓国人の手になる『親日派のための弁明』(2002年、金完燮著)という本がベストセラーになったことがある。
<173>
韓国は1980年代末、所謂軍事政権が終わり民主化時代になった。
民主化で多くのタブーが解けるなか、依然残ったのが日本タブーというか親日タブーである。
<174>
この親日タブーに挑戦したのが『親日派のための弁明』であった。
彼の歴史認識で興味深いのはこんな風に言っていることだ。
「我々は国を奪われたのではなく、日本という、よりましな統治者を受け入れたのである。
これは明らかに進歩であり民衆の自然な選択であった……」
当時の朝鮮半島においては「日本は唯一の革命勢力だった」ということで日本を評価し、その日本と手を結んだ「親日派」を擁護するのだ。
<175>
ところが、金氏は(国会に)招かれた立場であるにもかかわらず、国会内のセミナーでは興奮した参加者から殴られ、法廷では傍聴者から暴行を受けているのだ。
(このような行為は)民主主義国家ではとうてい認められないものだ。
民主化を謳歌する民主化時代の韓国で、暴行が平然と行われ、しかもそれを誰も批判しない。
現場には韓国メディアはいたのだが、ニュースにもなっていない。
民主化を誇る韓国だが親日タブーだけは今なお確固として顕在なのだ。
●日本メディア追放論の亡霊
<177>
左派系メディアの「ハンギョレ新聞」が産経新聞ソウル支局の閉鎖を主張したのだ。
過去の軍事政権の言論弾圧をあれだけ非難、罵倒してきたいわゆる"民主化勢力"が、今度は平気で外国メディアの閉鎖、追放を言い出したのだ。
もうひとつすごかったのは、ついに国会でも産経新聞支局閉鎖を主張する声が上がったことだ。
<178>
韓国の民主化勢力というのは面白い。
それまで相手を独裁とか、非民主的とか言論弾圧とか非難してきたのが、立場が変わると、とくに政権の座に着いたりすると同じ手法を使いたがる。
彼らにとって民主化や民主主義とは、あくまでも相手にやらせるものであって、自分がやるものではないということのようだ。
●別件逮捕もあります
<181>
韓国のマスコミが筆者や産経新聞を「極右」と言い出したのはいつごろだろうか。
韓国版『ニューズウィーク』(2001年5月9日号)の「日本、右向け右」という特集で「右翼のラッパ手・産経新聞」と題する記事の一環(のインタビューで筆者・黒田はこう答えた)
Q なぜ今(産経新聞が)極右と言われると思うか?
A 韓半島で冷戦構造が緩和され、韓国メディアの北朝鮮を見る視覚が大きく変わり、安保問題の重要性が相対的に落ちた結果と思う。
産経は変化していないのに韓国が左傾化したため、産経が相対的に右傾化したように見えるようだ。
韓国が変わったのだ。
●韓国との歴史対立はなぜ顕在化したのか
<183>
冷戦構造下の日本の政治やメディアは安保重視の観点から韓国の存在と役割を重視し、韓国を刺激したり韓国と対立することを避ける傾向にあった。
(中略)
それが冷戦構造の変化、ソ連圏(共産主義)という大きな敵がいなくなったため、韓国にそれほど気を使わなくてもよくなったのだ。
東西両陣営内で、それまで米ソ超大国の抑えによって隠されていた問題が表に出始めたのだ。旧ソ連圏で起きた民族紛争はその象徴だし、北朝鮮の核開発など自己主張もそうだ。
これが米国圏でも発生したのが、日韓の歴史対立である。
<185>
自分たちの立場や見方を支持するかどうかが良心的か否かの分かれ目なのだ。
つまり良心的ということの基準は自分たちにあるという、典型的な自己中心主義である。
●野田首相も"極右"にされた
<186>
韓国メディアは近年、日本での気に入らない現象には手当たりしだい「極右」であり、「妄言」といって表現のバーゲンセールをしている。
"白髪三千丈"的な過剰表現の伝統を背景にした、安易な記号化である。
韓国のメディアは何事についても「こうあるべき」が優先するいわば"べき論"の世界なのだ。
したがってニュースでは必ずといっていいほど「問題になっています」がつく。
これは問題が存在するというより、記者が主観的に問題にしている、あるいは問題にしようとしているという意味なのだ。
<188>
鄭大均・首都大学東京教授(文化人類学専攻)は、(『韓国が「反日」をやる日は来るのか』2012年、新人物往来社刊でこう言っている)
「韓国社会の同質性という条件はナショナリズムを燃え上がらせるには格好の環境にある。
(中略)
韓国は文字通りの民族国家(エスニック・ステート)に近い国であり、一体感の誇示にほぼ理想的な条件を備えている。
『韓民族の優秀性』の神話であれ、『日帝強占期』の神話であれ、なぜかくも急速に韓国人の心や身体に刷り込まれたかの根本理由はここにある。
韓国社会の同質性は、それ自体が純粋性や固有性の表象として利用されるとともに、批判勢力や牽制・抑圧集団の不在を意味する」
韓国の愛国・反日情緒は同質性・均質性社会では容易に揺るがない。
そして同質的で均質的であることに対する表立った自己批判はまだ見当たらない。
◆第九章 たかがビビンバ、されどビビンバ
●ビビンバはつらい?
<190>
筆者が産経新聞に長期連載している週末コラム「ソウルからヨボセヨ」の2009年12月26日付けの記事が騒ぎの発端となった。
以下全文引用。
韓国料理のビビンバは日本人にも人気がある。
韓国では今、「韓国料理の世界化」といって、このビビンバを世界に売り出そうというキャンペーンが国を挙げて展開されている。
その一環として最近、米国の新聞にビビンバの広告が掲載されたと話題になっている。
その美しいカラー写真があらためて韓国の新聞に紹介され、在韓日本人とのさる忘年会の席でも話題になっていた。
しかし「ビビンバ見た目はいいが食べてビックリなんだよねえ」と"世界化"の展望には首を傾げる声が多かった。
ビビンバは日本のチラシ寿司風に野菜や卵などいろんな具がご飯の上に美しく乗って出てくる。
ところが、それを食べるときはスプーンを手に握りしめ、具や御飯、味噌などを猛烈にかき混ぜる。
韓国人だとこねあげるという感じだ。
そして当初の美しい彩りが消え、具とご飯がぐちゃぐちゃになった正体不明のものを、スプーンですくって食べる。
ビビンバは正確には「ビビム・バプ」で「混ぜたご飯」をいう。
問題は「ビビム」で、これは単に混ぜるというより「かき混ぜる」感じでかなり強い。
韓国人の食習慣の一つに之があって、なんでもビビって(?)食べる癖がある。
その為カレーライスやジャージャー麺、かき氷、日本の牛丼、チラシ寿司もみんなたちまちかき混ぜ、こね上げて食べる。
広告写真を見てビビンバを食べに行った米国人が、その"羊頭狗肉"に驚かねばいいが、と気になっている。
<191>
これが韓国で大問題になったのだ。
端的にいえば
「韓国の食文化をバカにしている」
「日本の極右言論人クロダがまた妄言」
というのだ。
<192>
中央日報2010年1月8日付けのコラム「韓国料理世界化の熱風その後」から。
「ビビンバはおいしい。
それに家で盆暮れなどのご馳走を食べた後、残り物を美味しく処理できるという美徳にもなる食べ物だ。
ところで、ある日本の言論人はビビンバが口に合わなかったようだ。
この人は昨年末に自らのコラムで『ビビンバは表と裏が違う羊頭狗肉だ』と非難した。
そのためほとんどすべての大韓民国国民が怒った。ネット世界や文化人たちまでが立ち上がり、彼の無知を叱咤した」
<194>
ビビンバを米国市場で売り出そうとした場合、米国人は食べる前の彩りはさておき、その食べ方に戸惑うのではないだろうか、という話である。
●韓国料理の世界化キャンペーン
<195>
韓国が「韓国料理の世界化」を言い出す際に際してはきっかけがあった。
それがまた「日本」だった。
そのきっかけは、フランスのグルメ・ガイド『ミシュランガイド』のトップクラスに日本の店がたくさん登場したというニュースだった。
これは韓国では嫉妬込みでかなり詳しく伝えられた。
韓国人は自分たちが世界で何番目かというランキングが大好きだ。
世界やアジアでの順位を見て競争心をかきたてられ、順位が上がるようがんばろうというわけだ。
(中略)
とくに日本より上か下かの比較は韓国人とっては尽きない「元気の素」になっている。
だから『ミシュランガイド』での日本の躍進は韓国を大いに刺激し、「われもわれも」となったのだ。
そこで登場したのが「韓国料理の世界化」キャンペーンだった。
(中略)
そして世界化候補のトップバッターにビビンバが指名されたのだ。
●世界四大料理にいれられた日本料理
<196>
そもそも世界の食文化マーケットにそんなランクがあるのかどうか知らないが、(官民挙げての韓国料理の世界化)キャンペーンで紹介された世界ベスト4は、フランス料理、中華料理、イタリア料理、日本料理となっていた。
日本料理を「世界の四強」と評価しているのだ。
世界で日本料理店が最も多いのは韓国だからかもしれない。
韓国人は世界で最も日本料理が好きである。
反日だけど日本料理は大好き!韓国では「日本」はそれほど親しく日常生活に入り込んでいるのだ。
<198>
先に紹介した中央日報コラムの女性記者の論評にもあるように、ビビンバとはもともと「残り物をおいしく処理した食べ物」だろう。
家庭で残り物のおかずをご飯に混ぜて簡単に食べるというもので、手の込んだものではない。
(中略)
もともと余り物をかき集めたようなものだから、料理というほどのものではなかった。
<199>
(ビビンバ擁護論は)結局は批判を拒否したいつもの「ウリナラ・チェゴ!(我が国最高!)という文化ナショナリズムになってしまった。
その代表例をいくつか紹介しておく、
李御嚀・梨花女子大名誉教授は、
(中略)
筆者のビビンバ批判(?)に対する反論として「ビビンバ交響曲」論を展開している。
<200>
BCラジオの人気番組「視線集中」で語り合っている
要約すれば、西洋料理は途中でパンやシャーベットなどで舌をすすぎながら一品、逸品を味わう独奏スタイルだが、ビビンバは多様な色と味の多様な材料を混合することで個別の味を越えて生み出される調和された味であり、音楽で言えば交響曲だという。
そこにはお互い色合いが異なっても一つにまとまろう、自らと異なる異質なものを調和させようという、昔からの民への教えとしての「混合の思想」といった哲学がある。
またビビンバにはその材料の多様さから文明の全過程が込められているため"統合料理"である、というのだ。
彼は懐石料理など日本料理も一品、一品味わうので西洋料理と似ているといい、しかくくだんの記者(筆者のこと)は日本人だから見た目のいい日本料理の観点からビビンバを批判している、としたうえで、
「食べるのが惜しいほど美しい日本料理だが、食べてみるとまずい。
これこそ羊頭狗肉じゃないのかね」
とやはり羊頭狗肉にこだわっていた。
しかし最後は、
「だからといって(クロダ記者のビビンバ批判を)そんなに非難することはないのであって、そんな見方もあるのかというくらいでいいのではないか、それが韓国人の雅量というものであり、ビビンバ文化の情緒というものだよ」
と見事な(?)オチを付けていた。
<201>
李御嚀教授のこういう話術は実に面白い。
しかし普通、韓国人の雅量は「日本」が相手となるととたんに視野狭窄になって画一性に落ち込んでしまう。
彼はそのあたりを承知であえて韓国の聴取者に「ビビンバ文化の情緒」を強調したのかもしれない。
したがって、ほとんどの議論が世界化の方法論にはいかず、ビビンバ礼賛という自画自賛の自己確認ばかりだった。
<202>
最大手紙、朝鮮日報は週末版の特集で筆者へのインタビューと共に料理専門家二人を登場させ「"クロダ・ビビンバ"に応える」としてビビンバ擁護を展開していた。(2010年1月16-17日付け)
そこで筆者は「ビビンバが韓国人にとってそんなに大きな意味があるとは知らなかった」と皮肉をしゃべったのだが、ビビンバが「韓国文化の心髄」なら日頃もっと大事にされてもいいはずだ。
しかし、ビビンバ専門のシェフ(職人)などいない。
いたとしても誰も評価などしてくれないだろう。
ビビンバ専門店も数えるほどしか存在しない。
このことは問題の世界化とも関係するが、世界化の前に韓国の食文化として国内での正当な社会的評価が先ではないか、というのが筆者の問題提起であった。
●日本の寿司と韓国のビビンバの違い
<203>
日本には寿司職人というのが存在する。
専門の料理学校もある。
職人や店は親子代々を含め、何年いや何十年とその道一筋で寿司を握り、売っている。
志願者も多い。客はそれを高く評価し、日常的に寿司を好み、なじみの店に通う。
日本文化として日本社会で格たる地位を築いているのだ。
寿司は日本国内での食文化ビジネスとしての圧倒的存在感や人気、評価があったうえで世界に広がった。
寿司文化のようなビビンバ文化が存在するのか。
親子代々、ビビンバ一筋何十年がありうるのか。
回転寿司のように"回転ビビンバ"のような発想は可能か。
いずれもノーだ。
●ビビンバと慰安婦の取り合わせ
<207>
ビビンバ騒ぎは近年、韓国で目立つ愛国主義、ナショナリズムの産物である。
それも問題提起が日本人でなかったらそんなに話題にはならなかっただろう。
(中略)
韓国では日本は依然として「元気の素」である。
その意味では韓国は依然、「日本離れ」していないのである。
◆第十章 東日本大震災の親日・反日
●地震を知らない韓国人の恐怖心
<211>
地震を知らない韓国の人達は、地震が頻発する日本に同情する一方、どこか優越感を感じている。
自然環境を背景にした対日優越には地震の有無のほか、もうひとつ島国への妙な蔑視意識がある。
韓国人は日本をコケにする時にはよく「島国・日本」という。
南北を超えて朝鮮半島文化にその心理があるということだが、これは中華文明圏で自らを「小華の国」として一段と高く位置づける伝統的な"華夷秩序"意識からきている。
こうした優越感は、日本に支配されたという過去の歴史から来るコンプレックスに対する補償心理にもなっている。
●「日本沈没」報道に非難殺到
<212>
日本は地震が多く、島国だからいつかは沈没する…
この「日本沈没」論は韓国人にとってはどこか快感である。
従って2012年3月11日、日本で起きた東日本大震災を伝える韓国マスコミがまず「日本沈没」と報道したのはむべなるかなだった。
<213>
しかし韓国人のそれまでの「日本沈没」への快感は観念だったといっていい。
ところが東日本大震災の現実の姿は圧倒的なリアリズムだった。
誰もがあの映像には度肝を抜かれ、息をのんだ。
その結果、不思議なことが起こった。
「日本沈没」というメディアの報道に対し「不謹慎だ」「品がない」として批判、非難が殺到したのである。
<214>
圧倒的な現実を前に観念としての日頃の快感は吹っ飛んだのである。
韓国人はそれまで「日本沈没」論を楽しんできたのであって、現実の日本沈没を楽しんだわけではない。
そんなものは実際は存在しなかったからだ。
それが現実のものとして眼前に現れたのだ。
(中略)
恐怖と戦慄のみである。
●「日本人よ、いっそ叫びなさい」
<216>
未曽有の大地震発生で韓国からも多くの取材陣が現地に繰り込んだ。
その報道のほとんどが秩序ある被災者たちの姿を称賛していた。
その現地レポートの中で「いっそのこと叫びなさい」と題する一文が興味深かった。
悲劇や苦痛にも感情を抑える日本人に韓国人はイラだっているのだ。
記事はもちろん日本人批判ではなく、"がんばれ論"のひとつだったが。
<217>
韓国の反日はむしろマスコミ主導といっていい。
それは昔からの傾向だが近年はそれが目立つ。
そのマスコミが突然のように"親日キャンペーン"を一斉に始めたのだから驚いた。
韓国人はこの支援活動に呼応したのは、韓国人は日本人よりはるかに感情的で感傷的だからだ。
●対日自信の余裕で盛り上がった救援キャンペーン
<220>
異例の対日支援キャンペーンの裏には、明らかに経済発展、国力増大を背景にした自信感や余裕、優越感があると感じられる。
口をそろえて「人類愛」を強調しているのは、普遍的高みに立っての余裕の誇示である。
日本への支援に韓国は自分なりの意味づけをしているのである。
(中略)
その意味では、決して"無償"ではなかったということもできるが、日本のことわざにも「情けは人のためならず」がある。
国際関係、とくに「愛憎が交錯」する日韓の間ではそういうものだろう。
●支援ムードが一転、反日に
<221>
局面が友好・支援からいつもの反日に一転した。
しかもそれが「独島問題」がらみだったから、なおさら興味をそそられる。
<223>
韓国の支援活動は日本の教科書問題に連動して急速にしぼんでしまう。
韓国世論は「日本の裏切り」「日本は恩知らず」などといって反日に急速に回帰することになる。
●やはり革命的変化はなかった
<223>
こうした教科書介入自体が国際的常識では考えられない韓国の特異な反日情緒だが、前述のように「独島教」ともいうべき宗教的思い込みから教科書記述にも異様に関心が高い。
<225>
(この頃行われたセミナーで筆者はこう反論した)
「震災日本を助けているのだから教科書・領土問題では韓国に譲れ、という、対日支援を他の懸案につなげる考えは韓国にとってもまずいのではないか。
そんなことをいえば逆に韓国国民の人道的支援という純粋な善意が疑われるかもしれない。
検定教科書は領土問題について日本が内外に明らかにしている公式立場を記述しているだけで、それによって韓国の独島支配の現状が変わるものではない。
したがって今回は静かに対応してはどうか。
そうすれば日本での韓国への親近感はさらに高まり、韓国の国家的品格も高まるはずだ」
<226>
東亜日報 (2011年3月31日号)は次のように主張している。
「韓国では大震災の日本を助けようと大々的な募金活動が展開されている。
(中略)
今回の教科書検定発表にもかかわらず大震災被災者支援と独島問題は別だという韓国人の認識に変わりはない。
日本政府も大震災を通じ、隣国との善隣関係が重要だといことが分かったはずだから、不幸な過去史清算に逆行するような行動は遺憾である」
地震と独島(教科書検定)は別だというのなら、教科書での日本非難に際し震災支援のことを持ち出す必要はないだろう。
(中略)
この論理は「過去史清算に逆行するような行動」である竹島領有権の主張はするなというものだ。
●善意を無に帰すメディアの反日
<227>
教科書・独島問題の再燃でメディアは早速、「日本教科書歪曲で支援募金団体に失望感」と伝えた(3月30日聯合ニュース)。
この後、支援活動は急速に後退するマスコミの支援キャンペーンも終わる。
◆第十一章 韓国の反日と中国の反日
●軽量化する韓国の反日
<231>
中国は国家体制の違いから国民に政治的自由がないため、その反日は背後で政府の意志が働いている場合が多い。
韓国では逆に政府の意志は関係なく、その意味では統制はきかない。
(中略)
中国の反日は政府に利用されるが、韓国では政府が反日に影響され政策が左右されるという図式である。
韓国人には日本に対する
(中略)
親近感を含めた"接近感"があるのに対し、中国人にはそれがない。
政府は反日をコントロールできない
<238>
1988年の盧泰愚政権以降、特に1990年代以降は民主化によって
(中略)
政府がメディアやNGOの主導する反日に引きずられるようになった。
<239>
韓国の反日は今や統制不可能になっているのだ。
繰り返すが「反日無罪」の国家的、社会的雰囲気はそれを物語っている。
しかし、にもかかわらず最近の韓国の反日は中国の激烈さに比べると、統制不能なのにあの程度かという思いが一方ではする。
中国のような極端な反日は見当たらない
<242>
韓国では昔から日本製品不買運動にはどこかリアリティが感じられない。
前述のように中国人とは違って韓国人には「日本」は生活化しているからだ。
●日本製品不買運動はいつも不発弾
<244>
中国で反日暴動が荒れ狂っている時、その風景はテレビを通じ韓国でも連日のように報道された
(韓国人の)多くは「あれはひどい……」と批判的だった。
そして「われわれはあれとは違う」「我々だったらあんなことはしない」というのだ。
つまり中国の暴徒化した激しい反日風景を批判し、中国を「遅れた国」として一段下に見るという優越感を語るのだった。
これはメディアや一部知識人、そして政治・外交の局面でしばしばみられる。
●毒を食らわば……の李明博
<245>
「東(北)アジア情勢の不安要因」については韓国でのセミナーでよく論争になる。
韓国識者たちはいつも「それは日本の右傾化」といい、これに対し筆者は「中国の軍事的膨張と覇権主義が問題」と反論する。
反日が大好きな韓国マスコミは当然、いつも前者を主張しているが、大統領以下、韓国の国際情勢感が反日で目が曇ってしまい、いかに自己中心的でズレているものかを物語るものだ。
●日本外しで米中G2論
<247>
中国に対し彼ら(韓国人)は決して親近感は持っていないように見える。
端的に言って好きではない、場合によっては嫌いなようにも見える。
韓国から近年、中国観光にはたくさん出かけているが、人々に中国文化へのあこがれは感じられない。
それに漢字を捨ててしまっている。
<248>
近年の韓国では政治・外交・メディア、識者の反日と、必ずしもそうではない一般大衆の対日観(感)の間に乖離現象が目立つ。
ところが中国については、一般大衆はきわめて冷めているが政治・外交・メディア、識者たちは中国傾斜になっている。
その意味では韓国人の対日本観も対中国観も一般大衆次元では極めてマトモである。
ところがそれに対し教育、啓蒙、善導、扇動……のメディアが余計、かつ過剰意識で不必要な(?)知恵をつけ、それに政治・外交が便乗するという図式になっているのだ。
この図式は将来、変わることがあるのだろうか。
正直に言ってまだ見通せない。
◆第十二章 韓国の中の日本-統一教会と創価学会
●日本人妻が韓国人の夫を殺害
<249>
事件があったのは2012年8月下旬。
現場は
(中略)
ソウルの北東、江原道春川市で、市内に住む52歳の日本人女性が51歳になる夫を殺害し警察に届けた。
<250>
地元での報道などによると、夫は酒癖が悪く、病弱にもかかわらずよく酒を飲み、酔うと家財道具を投げたり妻に当たり散らすなど乱暴が絶えなかった。
夫婦には定期的な収入はなく、行政当局からの生活保護資金がすべてだったが、家賃や電気、水道、ガス代などを払えばほとんど残らなかった。
日本人妻は夫の看病のかたわら、お手伝いさんなどで生活費を稼いでいた。
実は彼女は統一教会(世界基督教統一神霊協会)のメンバーで統一教会を通じた韓国人男性との結婚だった。
このため統一教会の他の日本人妻たちが同情し生活支援をしていた。
そんな結婚生活が17年間続いたのだが、8月21日未明、寝ていた夫の顔にタオルを押し付けて死亡させた。
京郷新聞ネットが「日本人女性、韓国人の夫を殺害し臆面もなく届け出」という見出しで事件を伝えたため、ネット世界で抗議が殺到したのだ。
「臆面もなく」という表現に人々が怒ったのだ。
●反日報道を痛烈批判
<251>
事件を伝えたネットニュースが加害者の日本人女性を「よくもぬけぬけと……」と非難調で伝えたため、抗議の書き込みが殺到したのだ。
日本人女性に同情し、報道があまりに非情だというのだ。
<252>
この事件に対するネティズンたちのコメントは、日本人女性への同情と、悪意の見出しに対する記者への非難が圧倒的だった。
興味深かったのは、事件を伝える記事の(見出し)が日韓関係に結び付けて日本非難、つまり反日報道をしているとして、批判意見が噴出していたことだ。
<254>
(ネティズンたちは)実にまともで冷静である。
韓国メディアの反日報道の正体を見ぬいているのだ。
メディアの「反日商売」というか、メディアが耳目を引くためよく反日感情を利用した報道をしていることを韓国人もよく知っているのだ。
国民は韓国マスコミで日常的に見られるその種の扇動的な反日報道に、一方では食傷している感じがうかがわれる。
●統一教会の日本人女性はどこに
<256>
統一教会の場合、極めて多くの(7000人と言われている)日本人女性が結婚というかたちで韓国社会に入り込み定着している。
その宗教に対する評価は別にして、その存在は数が多いだけに日韓関係では無視できないように思う。
そして"日本文化"としての彼女らが、韓国社会にもたらす影響は気になる。
●日本宗教の韓国進出
<259>
日本ルーツである仏教系の創価学会が近年、韓国で信者を増やしている。
(中略)
信徒数は公称で150万人という。
(中略)
韓国のキリスト教会で最大の教団といわれる「純福音協会」の信徒数を上回っている。
韓国における日本系宗教の歴史で言えば天理教が古い。
日本統治時代から布教活動をしており一定の基盤を築いている。
天理教で興味深いのは、日本における韓国語(朝鮮語)教育の草分けであることだ。
朝鮮半島での布教活動のために必要だったからだ。
●創価学会はなぜ成功したか
<260>
筆者のソウル留学時代の記憶では、街では創価学会というより「ナンミョホレンゲキョ」といわれ蔑視的だった。
<261>
それが1990年代以降、大きく変化した。
普通の宗教として韓国社会に定着し始めたのだ。
創価学会が韓国で成功(?)した一つの要因として"歴史問題"があるといわれる。
創価学会には日本での歴史において、戦前、軍部によって幹部が捕まるなど活動を弾圧されたという過去がある。
このため韓国では「みなさんと同じく日本軍国主義の被害者」として共感を得たというのだ。これは歴史好きで反日志向の韓国マスコミを説得するには効果があった。
<262>
こうした「韓国の中の日本」は意外に知られていないし、ましてやその意味など考えられたことはない。
いささか大げさになるが、日韓関係にもそれなりに重層的なところがあって、そこに反日一辺倒ではない韓国社会の意外な断面が窺われるという一例である。
●韓国は記者冥利に尽きる
<266>
韓国のネット王国ぶりを考えれば日本より媒体は多様化しているかもしれない。
客観的な日本情報つまり反論を、マインド・コントロールされている韓国社会、韓国国民にいかに効果的に伝達するか。
すこぶる多様化した媒体を考えれば日本にとって工夫の余地は十分ある。
●この程度の反日はあたりまえ?
<267>
アルジェリアでの日本人の多数の犠牲で改めて考えたのだが、韓国では過去、日韓の政治的対立や民族感情の噴出、つまり反日による日本人の被害や犠牲は意外に少ないのだ。
<268>
国民感情あるいは民族感情は政治的出来事にだけ現れるものではない。
日常的な事件、事故にも表れるものだが、韓国では日本人がらみのものは殆ど目につかない。
あの反日は日本にとっては当然、あってしかるべきものなのかもしれない。
というのは、日本という国の韓国をはじめ国際社会における過去および現在、未来の存在感の大きさを考えれば、それはあってもおかしくないのだ。
それは堂々と(!)受け止めなければならない。
◆あとがき
<269>
韓国を訪れる日本人の間では昔から韓国について「昼は反日、夜は親日」と言われてきた。
<270>
韓国で新しくスタートした朴槿惠(パククネ)政権は対外関係の重点を「米日中」から「米中日」に変えた。
極めてドライだが韓国-朝鮮半島の民族は古来、そうした目ざとさで生き残ってきた。
ドライな相手に「謝罪と反省」一辺倒の「とにかくすみません」という自虐史観「贖罪史観」では到底太刀打ちできない。
中国の軍事的脅威や北朝鮮の核脅迫、そして韓国の台頭を含めこの地域の国際環境はすっかり変わってしまったのだ。
もう日本が警戒される時代ではない。
「東アジア歴史戦争」の中で日本だけが1945年の「謝罪と反省の時代」にとどまっている理由はない。
2013年5月ソウルにて
(了)
●ソウル地下鉄は日本の支援で完成
<149>
朴正煕大統領夫人がテロに斃れた1974年8月15日は、ソウル地下鉄の開通式の日だった。
ソウル地下鉄一号線は実は日本の資金援助と技術支援で完成した
<150>
1973年に東京で起きた韓国の情報機関(中央情報部)による金大中拉致事件の後、日本ではマスコミを中心に「韓国はいかにひどい国か」と激しい"韓国叩き"が行われた。
日本のマスコミには韓国に関するあらゆる悪情報があふれた。
日本政府は安保的観点などから金大中事件で韓国(朴政権)が政治的に弱体化することを懸念し、韓国政府に対する厳しい追及を控え、事件処理を韓国側に任せることで政治決着させた。
これがまた日本国内では"日韓癒着"として政府非難になってはねかえってきた。
(中略)
そこで取り上げられたのが「ソウル地下鉄問題」だった。
1976-1978年にかけ韓国批判の代表例で日本のマスコミや国会をにぎわした。
<151>
技術サイドの支援・協力に当たった日本の鉄道建設公団「鉄建公団」の人達は8月15日の開通式には当然、招かれ共に完成を祝えると思っていた。
ところが彼らには招待がなく、開通式には参加できなかったというのだ。
いかに残念だったか、その時の心情を語ってくれた。
<152>
これは韓国におけるいわゆる「日本隠し」の一例である。
(中略)
日本にお世話に勝ったことを隠そうとする。
反日の手前それは民族的自尊心にかかわる。
「あるべき歴史」観からは宿敵・日本からの支援、協力の受け入れなどあってはならないのだ。
●協力と反日のパラドックス
<152>
日本と韓国の関係において、韓国にとってあれだけ批判、非難し続けている日本に、手助けされたりお世話になったということは実に我慢ならないことだ。
(中略)
そこで日本に対する、あるいは自らに対する我慢ならない感情をなだめるために二つの心理操作が行われてきた。
一つは日本の協力や支援を「当然」「当たり前のこと」として心理的負担にならないようにすること。
もう一つは支援、協力の事実をできるだけ隠し広く知られないようにすることだ。
(中略)
この二つが絶妙にあいまって、韓国人は対日心理のバランスを保ってきたのである。
<154>
日韓国交正常化の韓国にとっての意味は、
(中略)
韓国の対外信用度が一気に高まった。
いわば日本の"お墨付き"によって韓国の対外関係は広がり、安定、拡大に向かったのだ。
国交正常化交渉では、
(中略)
日本側には個人補償的な資金提供案もあったが、韓国側は国が代表し一括して受け取ることを主張しそうなった。
韓国政府は資金のほとんどを経済的、社会的基盤作りのために使い、それがその後の経済発展の基礎となり現在の繁栄につながった。
ところがその後、特に近年、戦時中の韓国人慰安婦や徴用労働者など「個人被害」についての補償問題が、日本への新たな要求として盛んに語られている。
過去にかかわる「補償」は韓国政府が代表し日本から一括して受け取ったわけだから、個人には韓国政府が対応すれば済む話である。
(中略)
にもかかわらず日本への要求が執拗に続いているのは、日本対する非難、糾弾を目的とした、日本を国家として屈服させようという反日運動というしかない。
だから日本としてはまともに付き合いきれないのだ。
<157>
韓国側の韓日協力委員会の現在の会長は南(直+心)祐(ナムドクウ)元首相であり、
(中略)
彼が経済企画院長官(閣僚)をしていた1970年代後半に経済企画院が発行した『請求権資金白書』(1976年12月刊)というのがあり、(この中で)請求権資金5億ドルがどのように使われたかを詳細に記録した韓国政府の公式報告書である。
<158>
これを見ると請求権資金、つまり日本からの支援協力が韓国のあらゆる分野の建設、発展に投入されたことが分かる。
韓国を南北に貫く陸の大動脈になった京釜高速道路建設、韓国が世界に誇る製鉄所・浦項綜合製鉄(現POSCO)建設、主都ソウルを洪水から守る韓国最大の昭陽江(ソヤンガン)ダム建設をはじめ、その資金は韓国のインフラ(社会産業基盤)のほとんどすべてに使われている。
<159>
対日請求権資金、つまり日本による「過去補償」にはこんな事実があり、記録まであるのに、韓国社会ではほとんど知られていない。
いや知らされていないのだ。
メディアや知識人は意図的に隠してきたのだ。
政府もまた日本への各種の要求を続けるために、口を閉ざしてきた。
<160>
必要なのは今さらの正常化批判ではなく、この50年間に間違いなく行われた日本の韓国に対する支援、協力その成果の確認である。
韓国社会には今なお「日本は韓国のためにいいことは何もしていない」「何も償ってはいない」という虚偽が流布され、政治家やメディアや知識人はそう言い続けている。
国交正常化50周年で「新たな協力時代」をいうのなら、まずこの姿勢が改められなければならない。
●金大中は日本を評価した
<161>
1998年10月、東京での日韓首脳会談の際、発表された金大中大統領と小渕恵三首相による「日韓共同宣言」で、
(中略)
金大中大統領は「世界経済及び開発途上国に対する経済支援等、国際社会の平和と繁栄に日本が果たしてきた役割を高く評価する」としている。
しかし、あくまでも「相互の発展に寄与」であり、「国際社会での役割」としてである。
「我が国に対する」ではないのだ。
正直ではない。これでは印象に残らない。
やはり民族的自尊心のせいである。
「日本は我が国の発展に寄与した」とはいえないのだ。
●奇妙に広がるウリジナル幻想
<161>
韓国の過度の民族的自尊心は近年、
(中略)
「ウリジナル主義」の方向に向けて広がっている。
ウリジナルとは、何でも韓国が起源だとする韓国の風潮を皮肉った言葉だ。
<162>
日本文化についてのウリジナル主義は対日コンプレックスの裏返しである。
(中略)
もともと韓国は中国文明圏の先輩、優等生として日本より文化が進んでいたという民族的自負心、自尊心を背景にした「あるべき歴史」なのだ。
<163>
とくに代表的な日本文化に対するウリジナル主義は日本への対抗心を物語っている。
近隣地域だけに似たようなものはありうる。
しかし、それに独自の創造性を加味し、いかに"文化"に仕立て上げるかが重要であって、そうしてこそ人々に評価され持続的に存続できる。
だから韓国が問題にしなければならないのは、今、韓国に日本のような大衆的でかつ洗練された茶道、生け花、相撲、剣道、柔道、歌舞伎………がなぜないのかであって、ルーツを自慢することではないだろう。
<164>
相撲もそうだが、ウリジナルつまり起源を主張するわりには伝統がないがしろにされている。
●中国とも繰り広げるルーツ合戦
<165>
韓中ウリジナル戦争のきわめつけは高句麗問題だ。
古代・東アジアで朝鮮半島北部から旧満州にかけて存在した古代国家・高句麗の歴史をめぐって、中韓双方で取り合っているのだ。
こちらは近年、膨張主義、覇権主義が目立つ中国が仕掛けたもので「高句麗は中国の一地方政権でその歴史は中国史の一部に過ぎない」と主張し、高句麗を中国に囲い込んでしまった。
これに対し韓国は、高句麗は百済、新羅とともに韓民族の古代三国のひとつであると猛反発し、中国を「歴史歪曲」どころか「歴史侵略」「歴史略奪」であるとして紛争になっている。
民族主義で威勢のいい両国が歴史戦争でガチンコになっているのだ。
<166>
中朝国境地帯には朝鮮族自治州が存在し、全体で約二百万人の道俗が居住している。
この地域は19世紀末の日清戦争の後、日本が清(中国)に売り渡したもので無効だと、昔から韓国は主張している。
これには「高句麗の地は我々の地」という歴史回復欲、つまり「あるべき歴史」観が作用している。
かつてわが民族が駆けまわった北方の地への再進出は、彼らの「見果てぬ夢」である。
そこに「あるべき歴史」を求めてもおかしくない。
<167>
日中間の尖閣諸島問題も実は歴史戦争である。
東アジアはただ今、歴史戦争真っ盛りなのだ。
日本はこの歴史戦争でしっかり応戦できているのだろうか。
◆第八章 日本人が次々と"極右"に
●アメリカ人記者も反日の韓国を批判
<168>
歴史についていえば、
「外国人は『正しい歴史』とか『本当の歴史』を学ぶべきだ」
という韓国人達の説教に私は辟易している。
実際のところそれは『歴史についての韓国人の解釈』という意味だ。
なぜなら歴史は自然科学ではないし、いくつかの基礎的事実を除けば歴史的出来事や流れについては解釈は自由だからだ。
私はこれまで異なった見解を認める韓国のメディアの記事を見たことがない。
そのいつものやり方は『異論は無視しろ』『韓国の主張を繰り返せ』である……
これは韓国駐在の米国人記者(アンドルー・サーモン)が韓国の英字紙「コリアン・タイムズ」(2012年4月30日付)に寄稿したものである。
●韓国版ニューズウィークから消された記事
<170>
米週刊誌『ニューズウィーク』(日本版2012年9月5日号)が、竹島・独島の特集記事を掲載した。
この記事は
(中略)
英語のアジア版(9月10日号)、および日本語の日本版にはそのまま掲載されたが、韓国で発行される韓国語の韓国版には載らなかった。
韓国版ではアジア版の記事を外して韓国の読者には読ませなくしたのである。
記事は
(中略)
この間の経緯と双方の立場が詳しく紹介されている。
(中略)
韓国の興奮ぶりに対し若干の戸惑いや違和感は示しているが、韓国の主張、立場は十分紹介されている。
<171>
ただ韓国にとって不満があるとすれば、記事が結論部分で、韓国が拒否している日本による国際司法裁判所提訴問題を肯定的に紹介していることや、国交正常化の際に問題が"棚上げ"になり未解決だったことを紹介していることだろうか。
つまり日本の立場や主張、韓国にとっての異論が詳しく紹介されていることが気に食わないというわけだ。
韓国の読者には日本の主張などの異論は読ませたくないということなのだろう。
韓国版(9月19日号)に韓国編集長の「"独島記事"を載せない理由」題する記事の冒頭にはこう書かれている。
「ニューズウィーク・アジア版の表紙記事(カバーストーリー)は日本の資格だけを反映して編集されている。
要約すれば日本は独島と韓日の過去史問題を合理的に解決しようとしているのに比べ、韓国人は理性的でなく独島に"執着"していると主張している。
ニューズウィークの日本版編集長であるニューズウィーク東京特派員が作製した記事にいかなる問題があるのか検討してみる……」
中身は全てアジア版記事に対する韓国の立場からする反駁と批判で、かつ日本批判である。
<172>
この問題に関する韓国及び韓国社会を外部世界はどう見ているかということ自体を、韓国の読者(韓国国民)には知らせたくないのだ。
そしてひたすら「韓国の主張の繰り返し」である。
●親日タブーに挑んだ韓国人の末路
<172>
日本で若い韓国人の手になる『親日派のための弁明』(2002年、金完燮著)という本がベストセラーになったことがある。
<173>
韓国は1980年代末、所謂軍事政権が終わり民主化時代になった。
民主化で多くのタブーが解けるなか、依然残ったのが日本タブーというか親日タブーである。
<174>
この親日タブーに挑戦したのが『親日派のための弁明』であった。
彼の歴史認識で興味深いのはこんな風に言っていることだ。
「我々は国を奪われたのではなく、日本という、よりましな統治者を受け入れたのである。
これは明らかに進歩であり民衆の自然な選択であった……」
当時の朝鮮半島においては「日本は唯一の革命勢力だった」ということで日本を評価し、その日本と手を結んだ「親日派」を擁護するのだ。
<175>
ところが、金氏は(国会に)招かれた立場であるにもかかわらず、国会内のセミナーでは興奮した参加者から殴られ、法廷では傍聴者から暴行を受けているのだ。
(このような行為は)民主主義国家ではとうてい認められないものだ。
民主化を謳歌する民主化時代の韓国で、暴行が平然と行われ、しかもそれを誰も批判しない。
現場には韓国メディアはいたのだが、ニュースにもなっていない。
民主化を誇る韓国だが親日タブーだけは今なお確固として顕在なのだ。
●日本メディア追放論の亡霊
<177>
左派系メディアの「ハンギョレ新聞」が産経新聞ソウル支局の閉鎖を主張したのだ。
過去の軍事政権の言論弾圧をあれだけ非難、罵倒してきたいわゆる"民主化勢力"が、今度は平気で外国メディアの閉鎖、追放を言い出したのだ。
もうひとつすごかったのは、ついに国会でも産経新聞支局閉鎖を主張する声が上がったことだ。
<178>
韓国の民主化勢力というのは面白い。
それまで相手を独裁とか、非民主的とか言論弾圧とか非難してきたのが、立場が変わると、とくに政権の座に着いたりすると同じ手法を使いたがる。
彼らにとって民主化や民主主義とは、あくまでも相手にやらせるものであって、自分がやるものではないということのようだ。
●別件逮捕もあります
<181>
韓国のマスコミが筆者や産経新聞を「極右」と言い出したのはいつごろだろうか。
韓国版『ニューズウィーク』(2001年5月9日号)の「日本、右向け右」という特集で「右翼のラッパ手・産経新聞」と題する記事の一環(のインタビューで筆者・黒田はこう答えた)
Q なぜ今(産経新聞が)極右と言われると思うか?
A 韓半島で冷戦構造が緩和され、韓国メディアの北朝鮮を見る視覚が大きく変わり、安保問題の重要性が相対的に落ちた結果と思う。
産経は変化していないのに韓国が左傾化したため、産経が相対的に右傾化したように見えるようだ。
韓国が変わったのだ。
●韓国との歴史対立はなぜ顕在化したのか
<183>
冷戦構造下の日本の政治やメディアは安保重視の観点から韓国の存在と役割を重視し、韓国を刺激したり韓国と対立することを避ける傾向にあった。
(中略)
それが冷戦構造の変化、ソ連圏(共産主義)という大きな敵がいなくなったため、韓国にそれほど気を使わなくてもよくなったのだ。
東西両陣営内で、それまで米ソ超大国の抑えによって隠されていた問題が表に出始めたのだ。旧ソ連圏で起きた民族紛争はその象徴だし、北朝鮮の核開発など自己主張もそうだ。
これが米国圏でも発生したのが、日韓の歴史対立である。
<185>
自分たちの立場や見方を支持するかどうかが良心的か否かの分かれ目なのだ。
つまり良心的ということの基準は自分たちにあるという、典型的な自己中心主義である。
●野田首相も"極右"にされた
<186>
韓国メディアは近年、日本での気に入らない現象には手当たりしだい「極右」であり、「妄言」といって表現のバーゲンセールをしている。
"白髪三千丈"的な過剰表現の伝統を背景にした、安易な記号化である。
韓国のメディアは何事についても「こうあるべき」が優先するいわば"べき論"の世界なのだ。
したがってニュースでは必ずといっていいほど「問題になっています」がつく。
これは問題が存在するというより、記者が主観的に問題にしている、あるいは問題にしようとしているという意味なのだ。
<188>
鄭大均・首都大学東京教授(文化人類学専攻)は、(『韓国が「反日」をやる日は来るのか』2012年、新人物往来社刊でこう言っている)
「韓国社会の同質性という条件はナショナリズムを燃え上がらせるには格好の環境にある。
(中略)
韓国は文字通りの民族国家(エスニック・ステート)に近い国であり、一体感の誇示にほぼ理想的な条件を備えている。
『韓民族の優秀性』の神話であれ、『日帝強占期』の神話であれ、なぜかくも急速に韓国人の心や身体に刷り込まれたかの根本理由はここにある。
韓国社会の同質性は、それ自体が純粋性や固有性の表象として利用されるとともに、批判勢力や牽制・抑圧集団の不在を意味する」
韓国の愛国・反日情緒は同質性・均質性社会では容易に揺るがない。
そして同質的で均質的であることに対する表立った自己批判はまだ見当たらない。
◆第九章 たかがビビンバ、されどビビンバ
●ビビンバはつらい?
<190>
筆者が産経新聞に長期連載している週末コラム「ソウルからヨボセヨ」の2009年12月26日付けの記事が騒ぎの発端となった。
以下全文引用。
韓国料理のビビンバは日本人にも人気がある。
韓国では今、「韓国料理の世界化」といって、このビビンバを世界に売り出そうというキャンペーンが国を挙げて展開されている。
その一環として最近、米国の新聞にビビンバの広告が掲載されたと話題になっている。
その美しいカラー写真があらためて韓国の新聞に紹介され、在韓日本人とのさる忘年会の席でも話題になっていた。
しかし「ビビンバ見た目はいいが食べてビックリなんだよねえ」と"世界化"の展望には首を傾げる声が多かった。
ビビンバは日本のチラシ寿司風に野菜や卵などいろんな具がご飯の上に美しく乗って出てくる。
ところが、それを食べるときはスプーンを手に握りしめ、具や御飯、味噌などを猛烈にかき混ぜる。
韓国人だとこねあげるという感じだ。
そして当初の美しい彩りが消え、具とご飯がぐちゃぐちゃになった正体不明のものを、スプーンですくって食べる。
ビビンバは正確には「ビビム・バプ」で「混ぜたご飯」をいう。
問題は「ビビム」で、これは単に混ぜるというより「かき混ぜる」感じでかなり強い。
韓国人の食習慣の一つに之があって、なんでもビビって(?)食べる癖がある。
その為カレーライスやジャージャー麺、かき氷、日本の牛丼、チラシ寿司もみんなたちまちかき混ぜ、こね上げて食べる。
広告写真を見てビビンバを食べに行った米国人が、その"羊頭狗肉"に驚かねばいいが、と気になっている。
<191>
これが韓国で大問題になったのだ。
端的にいえば
「韓国の食文化をバカにしている」
「日本の極右言論人クロダがまた妄言」
というのだ。
<192>
中央日報2010年1月8日付けのコラム「韓国料理世界化の熱風その後」から。
「ビビンバはおいしい。
それに家で盆暮れなどのご馳走を食べた後、残り物を美味しく処理できるという美徳にもなる食べ物だ。
ところで、ある日本の言論人はビビンバが口に合わなかったようだ。
この人は昨年末に自らのコラムで『ビビンバは表と裏が違う羊頭狗肉だ』と非難した。
そのためほとんどすべての大韓民国国民が怒った。ネット世界や文化人たちまでが立ち上がり、彼の無知を叱咤した」
<194>
ビビンバを米国市場で売り出そうとした場合、米国人は食べる前の彩りはさておき、その食べ方に戸惑うのではないだろうか、という話である。
●韓国料理の世界化キャンペーン
<195>
韓国が「韓国料理の世界化」を言い出す際に際してはきっかけがあった。
それがまた「日本」だった。
そのきっかけは、フランスのグルメ・ガイド『ミシュランガイド』のトップクラスに日本の店がたくさん登場したというニュースだった。
これは韓国では嫉妬込みでかなり詳しく伝えられた。
韓国人は自分たちが世界で何番目かというランキングが大好きだ。
世界やアジアでの順位を見て競争心をかきたてられ、順位が上がるようがんばろうというわけだ。
(中略)
とくに日本より上か下かの比較は韓国人とっては尽きない「元気の素」になっている。
だから『ミシュランガイド』での日本の躍進は韓国を大いに刺激し、「われもわれも」となったのだ。
そこで登場したのが「韓国料理の世界化」キャンペーンだった。
(中略)
そして世界化候補のトップバッターにビビンバが指名されたのだ。
●世界四大料理にいれられた日本料理
<196>
そもそも世界の食文化マーケットにそんなランクがあるのかどうか知らないが、(官民挙げての韓国料理の世界化)キャンペーンで紹介された世界ベスト4は、フランス料理、中華料理、イタリア料理、日本料理となっていた。
日本料理を「世界の四強」と評価しているのだ。
世界で日本料理店が最も多いのは韓国だからかもしれない。
韓国人は世界で最も日本料理が好きである。
反日だけど日本料理は大好き!韓国では「日本」はそれほど親しく日常生活に入り込んでいるのだ。
<198>
先に紹介した中央日報コラムの女性記者の論評にもあるように、ビビンバとはもともと「残り物をおいしく処理した食べ物」だろう。
家庭で残り物のおかずをご飯に混ぜて簡単に食べるというもので、手の込んだものではない。
(中略)
もともと余り物をかき集めたようなものだから、料理というほどのものではなかった。
<199>
(ビビンバ擁護論は)結局は批判を拒否したいつもの「ウリナラ・チェゴ!(我が国最高!)という文化ナショナリズムになってしまった。
その代表例をいくつか紹介しておく、
李御嚀・梨花女子大名誉教授は、
(中略)
筆者のビビンバ批判(?)に対する反論として「ビビンバ交響曲」論を展開している。
<200>
BCラジオの人気番組「視線集中」で語り合っている
要約すれば、西洋料理は途中でパンやシャーベットなどで舌をすすぎながら一品、逸品を味わう独奏スタイルだが、ビビンバは多様な色と味の多様な材料を混合することで個別の味を越えて生み出される調和された味であり、音楽で言えば交響曲だという。
そこにはお互い色合いが異なっても一つにまとまろう、自らと異なる異質なものを調和させようという、昔からの民への教えとしての「混合の思想」といった哲学がある。
またビビンバにはその材料の多様さから文明の全過程が込められているため"統合料理"である、というのだ。
彼は懐石料理など日本料理も一品、一品味わうので西洋料理と似ているといい、しかくくだんの記者(筆者のこと)は日本人だから見た目のいい日本料理の観点からビビンバを批判している、としたうえで、
「食べるのが惜しいほど美しい日本料理だが、食べてみるとまずい。
これこそ羊頭狗肉じゃないのかね」
とやはり羊頭狗肉にこだわっていた。
しかし最後は、
「だからといって(クロダ記者のビビンバ批判を)そんなに非難することはないのであって、そんな見方もあるのかというくらいでいいのではないか、それが韓国人の雅量というものであり、ビビンバ文化の情緒というものだよ」
と見事な(?)オチを付けていた。
<201>
李御嚀教授のこういう話術は実に面白い。
しかし普通、韓国人の雅量は「日本」が相手となるととたんに視野狭窄になって画一性に落ち込んでしまう。
彼はそのあたりを承知であえて韓国の聴取者に「ビビンバ文化の情緒」を強調したのかもしれない。
したがって、ほとんどの議論が世界化の方法論にはいかず、ビビンバ礼賛という自画自賛の自己確認ばかりだった。
<202>
最大手紙、朝鮮日報は週末版の特集で筆者へのインタビューと共に料理専門家二人を登場させ「"クロダ・ビビンバ"に応える」としてビビンバ擁護を展開していた。(2010年1月16-17日付け)
そこで筆者は「ビビンバが韓国人にとってそんなに大きな意味があるとは知らなかった」と皮肉をしゃべったのだが、ビビンバが「韓国文化の心髄」なら日頃もっと大事にされてもいいはずだ。
しかし、ビビンバ専門のシェフ(職人)などいない。
いたとしても誰も評価などしてくれないだろう。
ビビンバ専門店も数えるほどしか存在しない。
このことは問題の世界化とも関係するが、世界化の前に韓国の食文化として国内での正当な社会的評価が先ではないか、というのが筆者の問題提起であった。
●日本の寿司と韓国のビビンバの違い
<203>
日本には寿司職人というのが存在する。
専門の料理学校もある。
職人や店は親子代々を含め、何年いや何十年とその道一筋で寿司を握り、売っている。
志願者も多い。客はそれを高く評価し、日常的に寿司を好み、なじみの店に通う。
日本文化として日本社会で格たる地位を築いているのだ。
寿司は日本国内での食文化ビジネスとしての圧倒的存在感や人気、評価があったうえで世界に広がった。
寿司文化のようなビビンバ文化が存在するのか。
親子代々、ビビンバ一筋何十年がありうるのか。
回転寿司のように"回転ビビンバ"のような発想は可能か。
いずれもノーだ。
●ビビンバと慰安婦の取り合わせ
<207>
ビビンバ騒ぎは近年、韓国で目立つ愛国主義、ナショナリズムの産物である。
それも問題提起が日本人でなかったらそんなに話題にはならなかっただろう。
(中略)
韓国では日本は依然として「元気の素」である。
その意味では韓国は依然、「日本離れ」していないのである。
◆第十章 東日本大震災の親日・反日
●地震を知らない韓国人の恐怖心
<211>
地震を知らない韓国の人達は、地震が頻発する日本に同情する一方、どこか優越感を感じている。
自然環境を背景にした対日優越には地震の有無のほか、もうひとつ島国への妙な蔑視意識がある。
韓国人は日本をコケにする時にはよく「島国・日本」という。
南北を超えて朝鮮半島文化にその心理があるということだが、これは中華文明圏で自らを「小華の国」として一段と高く位置づける伝統的な"華夷秩序"意識からきている。
こうした優越感は、日本に支配されたという過去の歴史から来るコンプレックスに対する補償心理にもなっている。
●「日本沈没」報道に非難殺到
<212>
日本は地震が多く、島国だからいつかは沈没する…
この「日本沈没」論は韓国人にとってはどこか快感である。
従って2012年3月11日、日本で起きた東日本大震災を伝える韓国マスコミがまず「日本沈没」と報道したのはむべなるかなだった。
<213>
しかし韓国人のそれまでの「日本沈没」への快感は観念だったといっていい。
ところが東日本大震災の現実の姿は圧倒的なリアリズムだった。
誰もがあの映像には度肝を抜かれ、息をのんだ。
その結果、不思議なことが起こった。
「日本沈没」というメディアの報道に対し「不謹慎だ」「品がない」として批判、非難が殺到したのである。
<214>
圧倒的な現実を前に観念としての日頃の快感は吹っ飛んだのである。
韓国人はそれまで「日本沈没」論を楽しんできたのであって、現実の日本沈没を楽しんだわけではない。
そんなものは実際は存在しなかったからだ。
それが現実のものとして眼前に現れたのだ。
(中略)
恐怖と戦慄のみである。
●「日本人よ、いっそ叫びなさい」
<216>
未曽有の大地震発生で韓国からも多くの取材陣が現地に繰り込んだ。
その報道のほとんどが秩序ある被災者たちの姿を称賛していた。
その現地レポートの中で「いっそのこと叫びなさい」と題する一文が興味深かった。
悲劇や苦痛にも感情を抑える日本人に韓国人はイラだっているのだ。
記事はもちろん日本人批判ではなく、"がんばれ論"のひとつだったが。
<217>
韓国の反日はむしろマスコミ主導といっていい。
それは昔からの傾向だが近年はそれが目立つ。
そのマスコミが突然のように"親日キャンペーン"を一斉に始めたのだから驚いた。
韓国人はこの支援活動に呼応したのは、韓国人は日本人よりはるかに感情的で感傷的だからだ。
●対日自信の余裕で盛り上がった救援キャンペーン
<220>
異例の対日支援キャンペーンの裏には、明らかに経済発展、国力増大を背景にした自信感や余裕、優越感があると感じられる。
口をそろえて「人類愛」を強調しているのは、普遍的高みに立っての余裕の誇示である。
日本への支援に韓国は自分なりの意味づけをしているのである。
(中略)
その意味では、決して"無償"ではなかったということもできるが、日本のことわざにも「情けは人のためならず」がある。
国際関係、とくに「愛憎が交錯」する日韓の間ではそういうものだろう。
●支援ムードが一転、反日に
<221>
局面が友好・支援からいつもの反日に一転した。
しかもそれが「独島問題」がらみだったから、なおさら興味をそそられる。
<223>
韓国の支援活動は日本の教科書問題に連動して急速にしぼんでしまう。
韓国世論は「日本の裏切り」「日本は恩知らず」などといって反日に急速に回帰することになる。
●やはり革命的変化はなかった
<223>
こうした教科書介入自体が国際的常識では考えられない韓国の特異な反日情緒だが、前述のように「独島教」ともいうべき宗教的思い込みから教科書記述にも異様に関心が高い。
<225>
(この頃行われたセミナーで筆者はこう反論した)
「震災日本を助けているのだから教科書・領土問題では韓国に譲れ、という、対日支援を他の懸案につなげる考えは韓国にとってもまずいのではないか。
そんなことをいえば逆に韓国国民の人道的支援という純粋な善意が疑われるかもしれない。
検定教科書は領土問題について日本が内外に明らかにしている公式立場を記述しているだけで、それによって韓国の独島支配の現状が変わるものではない。
したがって今回は静かに対応してはどうか。
そうすれば日本での韓国への親近感はさらに高まり、韓国の国家的品格も高まるはずだ」
<226>
東亜日報 (2011年3月31日号)は次のように主張している。
「韓国では大震災の日本を助けようと大々的な募金活動が展開されている。
(中略)
今回の教科書検定発表にもかかわらず大震災被災者支援と独島問題は別だという韓国人の認識に変わりはない。
日本政府も大震災を通じ、隣国との善隣関係が重要だといことが分かったはずだから、不幸な過去史清算に逆行するような行動は遺憾である」
地震と独島(教科書検定)は別だというのなら、教科書での日本非難に際し震災支援のことを持ち出す必要はないだろう。
(中略)
この論理は「過去史清算に逆行するような行動」である竹島領有権の主張はするなというものだ。
●善意を無に帰すメディアの反日
<227>
教科書・独島問題の再燃でメディアは早速、「日本教科書歪曲で支援募金団体に失望感」と伝えた(3月30日聯合ニュース)。
この後、支援活動は急速に後退するマスコミの支援キャンペーンも終わる。
◆第十一章 韓国の反日と中国の反日
●軽量化する韓国の反日
<231>
中国は国家体制の違いから国民に政治的自由がないため、その反日は背後で政府の意志が働いている場合が多い。
韓国では逆に政府の意志は関係なく、その意味では統制はきかない。
(中略)
中国の反日は政府に利用されるが、韓国では政府が反日に影響され政策が左右されるという図式である。
韓国人には日本に対する
(中略)
親近感を含めた"接近感"があるのに対し、中国人にはそれがない。
政府は反日をコントロールできない
<238>
1988年の盧泰愚政権以降、特に1990年代以降は民主化によって
(中略)
政府がメディアやNGOの主導する反日に引きずられるようになった。
<239>
韓国の反日は今や統制不可能になっているのだ。
繰り返すが「反日無罪」の国家的、社会的雰囲気はそれを物語っている。
しかし、にもかかわらず最近の韓国の反日は中国の激烈さに比べると、統制不能なのにあの程度かという思いが一方ではする。
中国のような極端な反日は見当たらない
<242>
韓国では昔から日本製品不買運動にはどこかリアリティが感じられない。
前述のように中国人とは違って韓国人には「日本」は生活化しているからだ。
●日本製品不買運動はいつも不発弾
<244>
中国で反日暴動が荒れ狂っている時、その風景はテレビを通じ韓国でも連日のように報道された
(韓国人の)多くは「あれはひどい……」と批判的だった。
そして「われわれはあれとは違う」「我々だったらあんなことはしない」というのだ。
つまり中国の暴徒化した激しい反日風景を批判し、中国を「遅れた国」として一段下に見るという優越感を語るのだった。
これはメディアや一部知識人、そして政治・外交の局面でしばしばみられる。
●毒を食らわば……の李明博
<245>
「東(北)アジア情勢の不安要因」については韓国でのセミナーでよく論争になる。
韓国識者たちはいつも「それは日本の右傾化」といい、これに対し筆者は「中国の軍事的膨張と覇権主義が問題」と反論する。
反日が大好きな韓国マスコミは当然、いつも前者を主張しているが、大統領以下、韓国の国際情勢感が反日で目が曇ってしまい、いかに自己中心的でズレているものかを物語るものだ。
●日本外しで米中G2論
<247>
中国に対し彼ら(韓国人)は決して親近感は持っていないように見える。
端的に言って好きではない、場合によっては嫌いなようにも見える。
韓国から近年、中国観光にはたくさん出かけているが、人々に中国文化へのあこがれは感じられない。
それに漢字を捨ててしまっている。
<248>
近年の韓国では政治・外交・メディア、識者の反日と、必ずしもそうではない一般大衆の対日観(感)の間に乖離現象が目立つ。
ところが中国については、一般大衆はきわめて冷めているが政治・外交・メディア、識者たちは中国傾斜になっている。
その意味では韓国人の対日本観も対中国観も一般大衆次元では極めてマトモである。
ところがそれに対し教育、啓蒙、善導、扇動……のメディアが余計、かつ過剰意識で不必要な(?)知恵をつけ、それに政治・外交が便乗するという図式になっているのだ。
この図式は将来、変わることがあるのだろうか。
正直に言ってまだ見通せない。
◆第十二章 韓国の中の日本-統一教会と創価学会
●日本人妻が韓国人の夫を殺害
<249>
事件があったのは2012年8月下旬。
現場は
(中略)
ソウルの北東、江原道春川市で、市内に住む52歳の日本人女性が51歳になる夫を殺害し警察に届けた。
<250>
地元での報道などによると、夫は酒癖が悪く、病弱にもかかわらずよく酒を飲み、酔うと家財道具を投げたり妻に当たり散らすなど乱暴が絶えなかった。
夫婦には定期的な収入はなく、行政当局からの生活保護資金がすべてだったが、家賃や電気、水道、ガス代などを払えばほとんど残らなかった。
日本人妻は夫の看病のかたわら、お手伝いさんなどで生活費を稼いでいた。
実は彼女は統一教会(世界基督教統一神霊協会)のメンバーで統一教会を通じた韓国人男性との結婚だった。
このため統一教会の他の日本人妻たちが同情し生活支援をしていた。
そんな結婚生活が17年間続いたのだが、8月21日未明、寝ていた夫の顔にタオルを押し付けて死亡させた。
京郷新聞ネットが「日本人女性、韓国人の夫を殺害し臆面もなく届け出」という見出しで事件を伝えたため、ネット世界で抗議が殺到したのだ。
「臆面もなく」という表現に人々が怒ったのだ。
●反日報道を痛烈批判
<251>
事件を伝えたネットニュースが加害者の日本人女性を「よくもぬけぬけと……」と非難調で伝えたため、抗議の書き込みが殺到したのだ。
日本人女性に同情し、報道があまりに非情だというのだ。
<252>
この事件に対するネティズンたちのコメントは、日本人女性への同情と、悪意の見出しに対する記者への非難が圧倒的だった。
興味深かったのは、事件を伝える記事の(見出し)が日韓関係に結び付けて日本非難、つまり反日報道をしているとして、批判意見が噴出していたことだ。
<254>
(ネティズンたちは)実にまともで冷静である。
韓国メディアの反日報道の正体を見ぬいているのだ。
メディアの「反日商売」というか、メディアが耳目を引くためよく反日感情を利用した報道をしていることを韓国人もよく知っているのだ。
国民は韓国マスコミで日常的に見られるその種の扇動的な反日報道に、一方では食傷している感じがうかがわれる。
●統一教会の日本人女性はどこに
<256>
統一教会の場合、極めて多くの(7000人と言われている)日本人女性が結婚というかたちで韓国社会に入り込み定着している。
その宗教に対する評価は別にして、その存在は数が多いだけに日韓関係では無視できないように思う。
そして"日本文化"としての彼女らが、韓国社会にもたらす影響は気になる。
●日本宗教の韓国進出
<259>
日本ルーツである仏教系の創価学会が近年、韓国で信者を増やしている。
(中略)
信徒数は公称で150万人という。
(中略)
韓国のキリスト教会で最大の教団といわれる「純福音協会」の信徒数を上回っている。
韓国における日本系宗教の歴史で言えば天理教が古い。
日本統治時代から布教活動をしており一定の基盤を築いている。
天理教で興味深いのは、日本における韓国語(朝鮮語)教育の草分けであることだ。
朝鮮半島での布教活動のために必要だったからだ。
●創価学会はなぜ成功したか
<260>
筆者のソウル留学時代の記憶では、街では創価学会というより「ナンミョホレンゲキョ」といわれ蔑視的だった。
<261>
それが1990年代以降、大きく変化した。
普通の宗教として韓国社会に定着し始めたのだ。
創価学会が韓国で成功(?)した一つの要因として"歴史問題"があるといわれる。
創価学会には日本での歴史において、戦前、軍部によって幹部が捕まるなど活動を弾圧されたという過去がある。
このため韓国では「みなさんと同じく日本軍国主義の被害者」として共感を得たというのだ。これは歴史好きで反日志向の韓国マスコミを説得するには効果があった。
<262>
こうした「韓国の中の日本」は意外に知られていないし、ましてやその意味など考えられたことはない。
いささか大げさになるが、日韓関係にもそれなりに重層的なところがあって、そこに反日一辺倒ではない韓国社会の意外な断面が窺われるという一例である。
●韓国は記者冥利に尽きる
<266>
韓国のネット王国ぶりを考えれば日本より媒体は多様化しているかもしれない。
客観的な日本情報つまり反論を、マインド・コントロールされている韓国社会、韓国国民にいかに効果的に伝達するか。
すこぶる多様化した媒体を考えれば日本にとって工夫の余地は十分ある。
●この程度の反日はあたりまえ?
<267>
アルジェリアでの日本人の多数の犠牲で改めて考えたのだが、韓国では過去、日韓の政治的対立や民族感情の噴出、つまり反日による日本人の被害や犠牲は意外に少ないのだ。
<268>
国民感情あるいは民族感情は政治的出来事にだけ現れるものではない。
日常的な事件、事故にも表れるものだが、韓国では日本人がらみのものは殆ど目につかない。
あの反日は日本にとっては当然、あってしかるべきものなのかもしれない。
というのは、日本という国の韓国をはじめ国際社会における過去および現在、未来の存在感の大きさを考えれば、それはあってもおかしくないのだ。
それは堂々と(!)受け止めなければならない。
◆あとがき
<269>
韓国を訪れる日本人の間では昔から韓国について「昼は反日、夜は親日」と言われてきた。
<270>
韓国で新しくスタートした朴槿惠(パククネ)政権は対外関係の重点を「米日中」から「米中日」に変えた。
極めてドライだが韓国-朝鮮半島の民族は古来、そうした目ざとさで生き残ってきた。
ドライな相手に「謝罪と反省」一辺倒の「とにかくすみません」という自虐史観「贖罪史観」では到底太刀打ちできない。
中国の軍事的脅威や北朝鮮の核脅迫、そして韓国の台頭を含めこの地域の国際環境はすっかり変わってしまったのだ。
もう日本が警戒される時代ではない。
「東アジア歴史戦争」の中で日本だけが1945年の「謝罪と反省の時代」にとどまっている理由はない。
2013年5月ソウルにて
(了)