■実体験と現在だけを重視する「ピダハン」は将来を心配しない
転載元 『乗り移り人生相談』島地勝彦
ミツハシ
アマゾンで『人類の星の時間』を検索すると、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」の欄にシマジさんの本がいくつも並んでいますからね。
『乗り移り人生相談』でツヴァイクを知り、作品を買った人は確かに相当な数に上ると思います。
みすず書房で思い出しましたが、『ピダハン』も面白いですよ。
ちょっと話していいですか。
シマジ
もちろんだ。ミツハシも本を薦めろ。
ミツハシ
ピダハンというのはアマゾン奥地に住む少数民族で、この本は、彼らの地に赴いたキリスト教の伝道師で言語学者である著者がピダハンの生活と言語を丹念に描いたものです。
これも同じくみすず書房から出ていて、ある方から薦められて読んだのですが、衝撃的な面白さでした。
何しろピダハンの言葉には、数も、色の名前も、右も左もないんです。
形容詞に比較級がなく、動詞に完了形がなく、名詞に複数形がない。
そもそも抽象概念がなく、自分がじかに体験したことと、自分と同時期に生きていた知人が直接体験したことだけしか信じないし、会話に値しないと考える。
自分が体験していないことは無意味だと考える人たちだから、神様も創世神話もない。
著者はピダハンたちに自分がいかにして神に救われたかを知ってもらおうとして、敬愛する母親が自殺し、その後アルコールや薬物におぼれた生活をしていたときにイエスの教えに触れて立ち直った体験を話すんですが、ピダハンたちは大笑いして言うんです。
「ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりはしない」。
実体験と現在だけを重視するピダハンは将来を不安視したり心配したりしない。幸福そうなピダハンを見て、敬虔なキリスト教徒だった著者はついに無神論者になってしまうんです。
シマジ
ほーっ、面白そうだな。
過去や未来ではなく、いまを重んじ、自分を信じる生き方というのは、
「人生は冥土までの暇つぶし」や
「遊戯三昧」に通じんじゃないか。
ミツハシ
私も『ピダハン』を読んでいて「遊戯三昧」を思い出しました。
もちろん、アマゾンの奥地ですから危険だらけの環境です。
その中で狩猟や食事やセックスや踊りといった行為に没入して、その日より先のことを計画しない。
そもそも「心配」に相当する言葉がピダハン語にはないらしいのです。
著者は
「ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ」
と書いているんですが、
これこそ「遊戯三昧」だと思いましたね。
シマジ
なるほどな。
未来を心配しすぎることが生きることへの不安と疲れを生むのかもしれないな。
確かに、いまという瞬間だけを生きていれば、自殺なんて考えない。
ピダハンは賢人だな。
しかし、ミツハシ、これで『ピダハン』もまたよく売れ出すんじゃないか。
やっぱりみすず書房の社長は俺たちに感謝状を寄こすべきだ。
【遊戯三昧: ゆげ ざんまい】
仏や菩薩の境地で遊びに集中すること。迷いの心にとらわれることなく遊びふけること。
【人生とは冥土までの暇つぶし】
今東光大僧正に「人生とは何ですか」と訊いた。
すると即座に答えが返って来た。
「人生とは冥土までの暇つぶしや。
だからこそ、上等な暇つぶしをせなあかん」
■「ピダハン」という民の生き方と言葉
転載元 月の光で澄み渡る
2012/12/20
先日のNHKのEテレで放送されていた「地球ドラマチック」の「ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」という特集を見ました。
私は「ピダハン」のことを知らなかったのですが、数年前にNHKスペシャルで放送されていたアマゾンの少数民族の
「ヤノマミ」
を特集した
「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」
という番組がとても良かったので、
“謎の言語”というのも不思議ですし、
何となく気になって録画をしておきました。
今回の「ピダハン」の特集も、とても良かったです。
オーストラリアで2012年に制作された番組だそうです。
この番組が、ピダハンの村の初のテレビ取材だということでした。
「ピダハン」と呼ばれる少数民族の方たちは、アマゾンの奥地のマイシ川という川の近くで狩猟や採集をしながら400人ほどで生活をしているそうなのですが、長い間、外国人と接触する機会がなく、独自の発展をしたその言葉は、口笛でも、ハミングでも、言葉として成立するもののようでした。
ピダハンの言葉を研究しているダニエル・エヴェレットさんというベントレー大学の教授の方が番組に登場していたのですが、エヴェレットさんは、元々は、1950年代にはしかの流行を止めるためにピダハンの村へやって来ることになったアメリカ人の流れで、1977年の25歳の頃にキリスト教の伝道師(宣教師のことでしょうか)としてやって来た人だったようでした。
エヴェレットさんは、キリスト教の聖書をピダハン語に翻訳するために、ピダハンの人から言葉を習い、次第に仲良くなっていったそうなのですが、ピダハンの人たちと一緒にその村で生活をするうちに、キリスト教の聖書の神の教えをピダハンの人たちに伝えることに意味を見出せなくなっていき、
植民地主義なのではないかという疑問を持つようにもなり、
次第に「無神論者」になって、キリスト教の信仰を捨てる決意をしたそうです。
ただ、そのことで妻とは離婚することになってしまい、子供も父親の変化に悩んでしまっているということを、エヴェレットさんは気にかけていました。
ピダハンの人たちは、自分たちの言葉を「真っ直ぐな頭」と言い、
異国の言葉を「ねじれた頭」と言うそうです。
ピダハンの言語には、色を表す言葉も、数字を表す言葉もないそうです。
数に関しては、少ないとか、少し多いとか、たくさんあるとか、そのように表していました。
それでも、自分たちの暮らす森の自然についての知識は、大人も子供も、とても豊富だということでした。
動植物の名前や、その生態にとても詳しいそうです。
子供の「人数」を知らなくても、顔と名前を一致させているので、見失ってしまうことなどはないということでした。
ピダハンの言葉には過去や未来を表す時制もないそうなのですが、エヴェレットさんによると、ピダハンは今現在を生きる人たちで、過去の後悔することも未来の心配をすることもなく、現在だけをありのままに受け入れて、常にリラックスした状態で幸せを感じながら生活をしているということでした。
そのため、ピダハンの人たちは、過去形や未来形ではなく、また現在進行形でもなく、全て現在形で会話をしているようでした。
「魚を取る」とか「彼女は言う」とか、一つ一つの文も短いようでした。
エヴェレットさんは、キリスト教など、宗教を信じさせるためには、相手が不幸だったり、思い悩んだりしていることが前提だと話していました。
そのため、すでに常に充足し、幸せを感じている状態のピダハンの人たちに、キリスト教の「神」のメッセージを伝えることは無意味であると思うようになったそうです。
エヴェレットさんにピダハンの言葉を教えた先生でありエヴェレットさんの友人でもあるピダハンの人は、
「神は外国人である。俺たちは神を知らない。だからいらない。」
と説明していました。論理的です。
ピダハンの村に来たキリスト教の伝道師たちは、結局、一人のピダハンも、キリスト教に入信させることはできなかったのだそうです。
ピダハンはすごいなと思いました。
そして、エヴェレットさんは、ピダハンの言語を研究し、それについての論文を発表したそうなのですが、そのために、現代言語学者たちから批判されることになってしまったのだそうです。
マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキーという言語学者の教授は、言語学の世界では権威のある人だそうなのですが、全ての人間の言語の文法には、普遍的文法という人間の遺伝子に備わっている同じ法則の文法があるとするそのチョムスキー教授の提唱する説と、
エヴェレットさんが見つけたピダハンの言語の法則が、対立するということでした。
ピダハンの言語には、文を際限なく伸ばしていく「リカージョン」と呼ばれる文法上の法則がないということでした。
リカージョンという文法法則は、
例えば、「○○だと彼は言った」を
「『○○だと彼は言った』と彼は言った」
というように伸ばしていくものだそうですが、
ピダハンの言葉には文の途中に使うための「~と」などの接続詞がないそうです。
「私は言った」は成立するようなのですが、「私と彼は言った」などのように使うことはできないそうです。
「私または彼は言った」も成立しないそうです。
エヴェレットさんは、人間に普遍的な根本原理などないのではないかと考えるようになり、チョムスキー教授の、言語学の世界では通説になっている説と対立することになったのだそうです。
ピダハン語の発見によって、言語学の世界は、人間の言葉はどこから発生したのか、私たち人間を人間としているものは何なのか、という根源的な問題に直面しているそうです。
エヴェレットさんは、ある言語を使う人たちの文化がその言語の文法全体に影響を与えていると考えているそうです。
でも、ハーバード大学の心理学者のスティーブン・ピンカー教授は、言語の違いは文化の違いとは関係ないという学説が主流だと話していました。
エヴェレットさんは、ひたすら現在を生きるという生き方がピダハンの文化であり、その文化がピダハン語に影響を与えていると考えていました。
ピダハンの言語に現在形しか存在しないのは、過去形も未来形も、ピダハンの人たちには必要ないことだからだと考えていました。
マサチューセッツ工科大学の脳科学・認知科学研究所のテッド・ギブソン教授たちのチームは、コンピュータープログラムを作り、ピダハン語を科学的に調査することにしたそうなのですが、ダニエル・エヴェレットさんが元キリスト教の伝道師だという理由で、
ブラジルのFUNAI(国立先住民族保護財団)からピダハンの村に入って行う調査を断られてしまったそうです。
エヴェレットさんが最後に村に行った2年前までは大丈夫だったそうなのですが、FUNAIの管理官によると、エヴェレットさんが今はキリスト教徒ではないとしても、とにかくキリスト教は先住民族保護にとって脅威だという理由で、ピダハンの村に入るのを拒否しているということでした。
マサチューセッツ工科大学の研究者たちは、エヴェレットさんのピダハン語や当時録音しておいたピダハン語から文章を集めてデータベース化して、ピダハン語のリカージョンの有無を調べることにしていました。
そして、3か月後に解析が完了した結果、リカージョンはピダハン語には存在しないというエヴェレットさんの仮説の正しかったことが判明したそうです。
接続詞もなく、他の言語と異なり、複雑な文法がないことも分かったそうです。
その調査結果についてチョムスキー教授は、信頼できない検証だと否定し、全ての言語がリカージョンに基づいていることは疑うようのない事実だと話していました。
先住民族保護財団は、エヴェレットさんがピダハンの村に入るのを許可しなかったようなのですが、なぜかテレビ番組の撮影班が入るのは許可したそうで、エヴェレットさんは、ピダハンの友人たちにビデオメッセージを送ることにしていたのですが、その村の文化は、ブラジル政府の支援?によって、2年前とは大きく変化していたのでした。
家も建てられ、電気も通り、トイレも病院も、学校などの施設も作られていました。
学校では、ポルトガル語が教えられているそうです。
水道もあり、テレビもありました。村の人たちは、便利になったと喜んでいる様子でした。
エヴェレットさんのピダハン語の先生は、電気が来て病気の検査ができるようになったのは良いが、文化は変わったと話していました。
文明を使う人たちがその文明に頼ってこなかった人たちに自分たちの文明を奨励したことによって、少数民族の特有の文化が失われていくことについて、ピンカー教授は、絶滅の危機に瀕している文化を、科学者はできる限り記録し、後世に残すべきだと話していました。
エヴェレットさんの
「僕は村に戻りたい。ピダハンと一緒にいたい」
というビデオメッセージを見たピダハンの人たちは、
「FUNAIに話す。俺たちはダニエルが好き」
と伝えていました。
とても良い特集でした。
ピダハンの村の変化には少し悲しい感じがしてしまったのですが、村の人たちは便利になったと喜んでいたので、例えば日本の幕末や明治初頭の頃のように、当時の日本を好きな外国人が西欧の文化を取り入れつつある日本の文化の変化を寂しく思っていたのだということを思いました。
文明を知っている人たちが文明を伝えないことが「人種差別」や「人権侵害」になるという考え方もあるそうで、それにも少し驚きました。
先住民族の保護をするというのは大切なことですが、そこに何かを与え続けるというのが保護になるのでしょうか。先住民族や少数民族の人たちの暮らしを、放っておくとか、そっと見守るということは、どうしてもできないことなのでしょうか。
ダニエル・エヴェレットさんの言語についての考え方は、アメリカの大学の権威の言語学の教授たちには否定されているようでしたが、番組を見ていて、私はきっと日本人になら簡単に理解することができる問題なのではないかなと思えました。
それとも、日本人の言語学者や心理学者の方たちも、チョムスキーさんたちと同じような意見なのでしょうか。
私には、ある言語がその言語を使う人たちの文化の影響を受けていないと考えるほうが、不自然のように思えます。
通説が当てはまらない例外もあるかもしれないと、どうして考えないのでしょうか。
私は言語学にも詳しくないので、細かいことは分かりませんが、新しい発見や新しい説を自分の考えに取り入れようとしない研究者は、本当に本物の研究者なのかなと、少し不思議に思いました。
独自の文化や風習を自分たちで守ろうとする少数民族の人たちの生活が、これからも無事に続けられるといいなと思います。その周辺国や先進国?の人たちは、
(時には親切心からだとは思うのですが)
自分たちと同じではないとすぐに同じようにさせようとするところがあるような気がするので、蔓延してしまう病気の治療などをする場合はもしかしたら仕方がないのかもしれないのですが、自分たちの価値観や思想や宗教などを押し付けるのは、止めてほしいように思います。
多様性が存在したほうが面白いと思うのですが、あるいは、異国の者に見つかってしまったということが、すでに変化の兆しになってしまうのかもしれません。
「新種」の生物も、発見されると一部は研究や資料のために殺されてしまいますし、発見されないことが穏やかに生きていく方法であるのかもしれないなと、今回のピダハンの方たちの特集番組を見て、また改めて思いました。
文明の利器が入ってくるという変化のあったピダハンの人たちは、過去の後悔もなく、未来の不安もないという、ただ現在のみに充足するという穏やかで幸福な伝統の生き方を、貫く事はできるのでしょうか。ポルトガル語を習うことで、ピダハンの人たちの中のピダハン語やピダハン語を作ったような生き方がいつの間にか消えてしまわないでしょうか。
勝手なことなのですが、少し心配になりました。
■ピダハンの社会を鏡として
これからの「ソーシャル」を考える
転載元 Think Social Blog
2012年4月12日
今回はいつも扱っている「サービスデザイン」の話題とは趣向を変えて、
ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者によって書かれた、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの言語と文化を紹介した『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』という本からいくつかのエピソードを引用しながら話を進めてみようと思います。
この本を読んでいて感じるのは、西洋のみならず他のどんな言語とも異なる特殊なピタハン語を話すピタハンの人びとは、その言葉だけでなく、その生活や文化、価値観もとても特殊であり、西洋人である著者や僕たち日本人も驚かせるような隔たりをもっているということです。
その社会の価値観や文化は僕たちには想像するのがむずかしいことだったりもします。
ただ、そうした自分たちの文化や価値観とは異なるピダハンたちの社会に目を向けることで、僕たちがなぜ"Think Social"を名乗りつつ、これまでになかった新しい「社会」について考え活動しようとしているかを、みなさんに伝えられるのではないかと思い、今回は記事を書いてみようと思ったのです。
というわけで、さっそくピダハンたちの社会の特徴の一端を見てみることにしましょう。
◆子どもが危険な状況にあっても注意しない親
ピダハンの社会が僕らや西洋社会のそれと違うことの一例がピタハンの家族観にあります。
著者のダニエル・L・エヴェレットは自分たち西洋の人びととピダハンの人びとの家族観の違いについて、こんなエピソードを紹介しています。
焚火の近くで転んで火傷をした幼児をピダハンの母親が心配するどころか叱りつけるシーンです。
《ある朝わたしは、よちよち歩きの子供がおぼつかない足取りで焚火に近づいていくのを目撃した。
子供が火に近づくと、手をうんと伸ばせば届くほどのところにいた母親が子どもに低い声を発した。
けれども子どもを火から遠ざけようとはしない。
子どもはよろめき、真っ赤に焼けた石炭のすぐわきに倒れ込んだ。
脚と尻に火傷を負い、子どもは痛みに泣き喚いた。
母親は乱暴に抱き起こし、叱りつけた。》
著者は長年、ピタハンの村で彼らといっしょに暮らしていて、ピタハンの母親が子どもをとても慈しむことを知っています。
なのに、その母親が熱い日のまわりでよちよち歩く子どもを見ても注意もしないのに、子どもが火傷をすると叱りつけることに著者は驚くのです。
また別のエピソードでは、同じようによちよち歩きの2歳くらいの子どもが刃渡り20センチほどの鋭い刃物を振り回して遊び、刃先がその子どもの目や胸、腕などを掠めているのを著者は目にします。著者が驚いたのは、そのあとで幼児が刃物を落としたとき、ほかの人との会話に夢中だった、その子の母親が会話をやめることもなく、刃物を子どもに拾って渡したからです。
幸い、そのときは子どもは怪我をしなかったのだけど、別の機会に著者らはピダハンらの子どもたちがナイフでひどい怪我をするのを何度も見たと言います。
この場合でも、ピダハンの親たちは自分が慈しむ子どもたちが危険な状況にあうのを注意しようとしないのです。
◆子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある
愛しい子どもが危険な状況にあったら注意をするなどして、子どもを危険な対象(火や刃物など)から遠ざけようとするのが、僕たち日本人にとっても、著者ら西洋人にとっても、当たり前と考えられる親の思いでしょう。
ところが、上の2つのエピソードに見られるようにピダハンの人びとは子どもを危険から遠ざけることをしません。
けれど、彼らが子どもを慈しむ気持ちに欠けるのかというと、著者によればそうではないということなのです。
これはどういうことなのでしょう?
著者による理解はこうです。
《わたしはまず、見たかぎりでピダハンが赤ちゃん言葉で子どもたちに話しかけないことから考えはじめた。
ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある。
子どもたちは優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象とは見なされない。
子どもたちも公平に扱われ、身体の大きさや体力に合わせて食事の分量などは変わるけれども、基本的には能力においては大人と対等と考えられている。》
大人と対等な存在として扱うからこそ、ピダハンらは子どもがすることを保護者として注意することをしないのです。
大人が大人に火は危ないよとか、刃物は危険だよとわざわざ教えてあげないのと同じように、子どもに対しても同様に扱うのがピダハンの社会なのです。
◆ひとりひとりが自分で自分の始末をつける社会
ピタハンの社会においては、子どもを大人と対等な存在として扱うというだけではなく、そもそも「ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ」るのだといいます。
その姿勢は非常に徹底されていて、ここでもまた驚かされるエピソードがたくさん紹介されています。
例えば、ピダハンの女性はひとりで出産するそうですが、難産で苦しみ、
「助けて、お願い! 赤ちゃんが出てこない」
と叫んでも、近くにいる人は助けず、それで妊婦が赤ん坊ともども死んでしまうことがあると著者は書いています。
また、母親が赤ん坊を残して病気などで亡くなった場合でも、ピダハンらは「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」と言って、赤ん坊が死んでしまうのを悲しみつつも、赤ん坊を死なせることもあるといいます。
それはピダハンが冷酷だからではなく、医者のいない土地でたくましくなければ死んでしまう環境で、どういう状態だと死に直結するのかを、著者ら西洋人が気づくよりもずっと見抜けてしまうからなのだと言います。
その場しのぎの優しさを見せて相手を助けることができても、ずっとその人を助け続けることはできない場合、
助けることよりも、その人自身の力で困難を乗り越えるのを見届けることが大事なのでしょう。
僕たちの暮らす社会のように生きるために必要なものを自分の身体のなかにではなく、外部のツールや仕組みとして保持するのとは異なり、そうしたツールや仕組みがなく、かつピダハンら自身がそれを拒むようなほとんど人工物に依存することがないアマゾンの奥地の環境で生き続けていくためには、ひとりひとりが自身の中に自分の生命や暮らしを持続可能にする力を宿らせない限り、生きていくことはできないのでしょうから。
こうした赤ん坊の頃からひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられる社会においては、若者はひきこもったり、ふてくされたり、自分のとった行動の責任から逃れようとしたり、青春の苦悩や憂鬱や不安に苛まれたりすることはなく、誰もが自分の人生に満足している人たちの社会ができあがるのだといいます。
◆全体が1つの家族であるような社会
現存するピダハンは300人程度だといいます。
そのすべてのピダハンが他のピダハンをxahagi(アハイギー、同胞)と考えています。
「ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられる」ように育てられる一方で、ピダハンは家族や集団との絆を重視し、違う村に住んでいるピダハン同士でも同じピダハンとしての帰属意識が非常に強いといいます。
そのピダハンの帰属意識の強さを示すエピソードとして、著者はピダハン語を教わっているピダハンの1人(カアブーギー)が自分の兄弟(カアパーシ)が酒を飲んで酔っぱらい大事にしている犬を撃ち殺されてしまった話を紹介しています。
(ピダハンは極度にお酒が弱いそうです)
《「カアパーシをどうするつもりだい?」わたしは尋ねた。
「どうするとは?」カアブーギーは不思議そうに訊き返す。
「つまり、犬を撃たれたことにどう始末をつけるのかということだよ」
「何もしない。
兄弟を痛めつけたりはしない。
あいつは子どもじみたことをした。
悪いことをした。
だがあいつは酒を飲んでいて、頭がまともに働いていなかった。
おれの犬を傷つけてはいけなかった。
これはおれの子どもとおんなじだったんだ」
このときのカアブーギーのように、怒って当然のことをされたときでも、ピダハンは忍耐強く、愛情たっぷりに相手を理解しようとする。
(略)
彼らはピダハン社会を一種の家族と見なしていて、その一員であれば仲間の全員を護り、世話する責任があると感じている。》
ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるよう育つこと、それでいてひとりひとりが自分はピダハンの一員であるという帰属意識を強くもち、仲間のことや自分たちの暮らしを護っていこうとすること。
これって何かに似ていると感じないでしょうか?
◆ピダハンの人びとと、現代の「ソーシャル」な若者たちの類似
私には、このピダハンの社会における強い絆とひとりひとりが自分で生きる力をもつことを重視する姿勢が、いま自分たちの力で従来のそれとは異なる新しい社会の仕組みやあり方を考え、生み出していこうとする若い世代の人びとの姿とリンクして見えるのですが、どうでしょうか?
それは自分たちの製品が売れればいいとか、自分たちの暮らしがよくなればいいといった従来の私的欲求の追求を重視する価値観とは異なり、自分たちの行動に対しても他者が行なう行動に対しても「それをすることで社会はどうよくなるの?」と問う行動規範をもつ、自分たちが社会の一員であることが強く意識された価値観です。
そして、ここも従来の姿勢とは異なる点だと思いますが、目の前にある様々な社会の課題に対しても、まわりの誰かが解決してくれるだろうと期待して待つのではなく、自分たちの課題であると捉えて自分たちで始末をしようとする姿勢もみられます。
こうした点で、私にはなんとなく今の若者たちの姿勢とピダハンの人びととの類似が感じられるのです。
ピダハンの人びとが現状に限りなく満足しているのに対して、今の若者は正反対に現状に問題を感じて行動していることなど、いろんな点で相違があるのはもちろんのことですが、自分たちの社会をまわりの人びとといっしょになって良くしようと考え、いっしょに活動する人たちと深い絆をもちながら、それでいて、それぞれが生きていくためには、まわりに縛られることなく(ノマドな状態で)自分の力で生きていける状態を目指す点ではとても共通点を感じます。
そして、おそらく、新しい社会を作るためには、まさにそうした姿勢が必要なんだと感じるのです。
それが本当の意味での参加のデザインなのでしょうし、チーム・ビルディングだと思いますし...。
そうしたことを考える上でも、はたまた自分たちが生きる社会とはまったく別の社会があることを知るためにも『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』はおすすめの一冊です。
興味のある方はぜひ読んでみてください。
転載元 『乗り移り人生相談』島地勝彦
ミツハシ
アマゾンで『人類の星の時間』を検索すると、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」の欄にシマジさんの本がいくつも並んでいますからね。
『乗り移り人生相談』でツヴァイクを知り、作品を買った人は確かに相当な数に上ると思います。
みすず書房で思い出しましたが、『ピダハン』も面白いですよ。
ちょっと話していいですか。
シマジ
もちろんだ。ミツハシも本を薦めろ。
ミツハシ
ピダハンというのはアマゾン奥地に住む少数民族で、この本は、彼らの地に赴いたキリスト教の伝道師で言語学者である著者がピダハンの生活と言語を丹念に描いたものです。
これも同じくみすず書房から出ていて、ある方から薦められて読んだのですが、衝撃的な面白さでした。
何しろピダハンの言葉には、数も、色の名前も、右も左もないんです。
形容詞に比較級がなく、動詞に完了形がなく、名詞に複数形がない。
そもそも抽象概念がなく、自分がじかに体験したことと、自分と同時期に生きていた知人が直接体験したことだけしか信じないし、会話に値しないと考える。
自分が体験していないことは無意味だと考える人たちだから、神様も創世神話もない。
著者はピダハンたちに自分がいかにして神に救われたかを知ってもらおうとして、敬愛する母親が自殺し、その後アルコールや薬物におぼれた生活をしていたときにイエスの教えに触れて立ち直った体験を話すんですが、ピダハンたちは大笑いして言うんです。
「ハハハ。愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりはしない」。
実体験と現在だけを重視するピダハンは将来を不安視したり心配したりしない。幸福そうなピダハンを見て、敬虔なキリスト教徒だった著者はついに無神論者になってしまうんです。
シマジ
ほーっ、面白そうだな。
過去や未来ではなく、いまを重んじ、自分を信じる生き方というのは、
「人生は冥土までの暇つぶし」や
「遊戯三昧」に通じんじゃないか。
ミツハシ
私も『ピダハン』を読んでいて「遊戯三昧」を思い出しました。
もちろん、アマゾンの奥地ですから危険だらけの環境です。
その中で狩猟や食事やセックスや踊りといった行為に没入して、その日より先のことを計画しない。
そもそも「心配」に相当する言葉がピダハン語にはないらしいのです。
著者は
「ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ」
と書いているんですが、
これこそ「遊戯三昧」だと思いましたね。
シマジ
なるほどな。
未来を心配しすぎることが生きることへの不安と疲れを生むのかもしれないな。
確かに、いまという瞬間だけを生きていれば、自殺なんて考えない。
ピダハンは賢人だな。
しかし、ミツハシ、これで『ピダハン』もまたよく売れ出すんじゃないか。
やっぱりみすず書房の社長は俺たちに感謝状を寄こすべきだ。
【遊戯三昧: ゆげ ざんまい】
仏や菩薩の境地で遊びに集中すること。迷いの心にとらわれることなく遊びふけること。
【人生とは冥土までの暇つぶし】
今東光大僧正に「人生とは何ですか」と訊いた。
すると即座に答えが返って来た。
「人生とは冥土までの暇つぶしや。
だからこそ、上等な暇つぶしをせなあかん」
■「ピダハン」という民の生き方と言葉
転載元 月の光で澄み渡る
2012/12/20
先日のNHKのEテレで放送されていた「地球ドラマチック」の「ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」という特集を見ました。
私は「ピダハン」のことを知らなかったのですが、数年前にNHKスペシャルで放送されていたアマゾンの少数民族の
「ヤノマミ」
を特集した
「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」
という番組がとても良かったので、
“謎の言語”というのも不思議ですし、
何となく気になって録画をしておきました。
今回の「ピダハン」の特集も、とても良かったです。
オーストラリアで2012年に制作された番組だそうです。
この番組が、ピダハンの村の初のテレビ取材だということでした。
「ピダハン」と呼ばれる少数民族の方たちは、アマゾンの奥地のマイシ川という川の近くで狩猟や採集をしながら400人ほどで生活をしているそうなのですが、長い間、外国人と接触する機会がなく、独自の発展をしたその言葉は、口笛でも、ハミングでも、言葉として成立するもののようでした。
ピダハンの言葉を研究しているダニエル・エヴェレットさんというベントレー大学の教授の方が番組に登場していたのですが、エヴェレットさんは、元々は、1950年代にはしかの流行を止めるためにピダハンの村へやって来ることになったアメリカ人の流れで、1977年の25歳の頃にキリスト教の伝道師(宣教師のことでしょうか)としてやって来た人だったようでした。
エヴェレットさんは、キリスト教の聖書をピダハン語に翻訳するために、ピダハンの人から言葉を習い、次第に仲良くなっていったそうなのですが、ピダハンの人たちと一緒にその村で生活をするうちに、キリスト教の聖書の神の教えをピダハンの人たちに伝えることに意味を見出せなくなっていき、
植民地主義なのではないかという疑問を持つようにもなり、
次第に「無神論者」になって、キリスト教の信仰を捨てる決意をしたそうです。
ただ、そのことで妻とは離婚することになってしまい、子供も父親の変化に悩んでしまっているということを、エヴェレットさんは気にかけていました。
ピダハンの人たちは、自分たちの言葉を「真っ直ぐな頭」と言い、
異国の言葉を「ねじれた頭」と言うそうです。
ピダハンの言語には、色を表す言葉も、数字を表す言葉もないそうです。
数に関しては、少ないとか、少し多いとか、たくさんあるとか、そのように表していました。
それでも、自分たちの暮らす森の自然についての知識は、大人も子供も、とても豊富だということでした。
動植物の名前や、その生態にとても詳しいそうです。
子供の「人数」を知らなくても、顔と名前を一致させているので、見失ってしまうことなどはないということでした。
ピダハンの言葉には過去や未来を表す時制もないそうなのですが、エヴェレットさんによると、ピダハンは今現在を生きる人たちで、過去の後悔することも未来の心配をすることもなく、現在だけをありのままに受け入れて、常にリラックスした状態で幸せを感じながら生活をしているということでした。
そのため、ピダハンの人たちは、過去形や未来形ではなく、また現在進行形でもなく、全て現在形で会話をしているようでした。
「魚を取る」とか「彼女は言う」とか、一つ一つの文も短いようでした。
エヴェレットさんは、キリスト教など、宗教を信じさせるためには、相手が不幸だったり、思い悩んだりしていることが前提だと話していました。
そのため、すでに常に充足し、幸せを感じている状態のピダハンの人たちに、キリスト教の「神」のメッセージを伝えることは無意味であると思うようになったそうです。
エヴェレットさんにピダハンの言葉を教えた先生でありエヴェレットさんの友人でもあるピダハンの人は、
「神は外国人である。俺たちは神を知らない。だからいらない。」
と説明していました。論理的です。
ピダハンの村に来たキリスト教の伝道師たちは、結局、一人のピダハンも、キリスト教に入信させることはできなかったのだそうです。
ピダハンはすごいなと思いました。
そして、エヴェレットさんは、ピダハンの言語を研究し、それについての論文を発表したそうなのですが、そのために、現代言語学者たちから批判されることになってしまったのだそうです。
マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキーという言語学者の教授は、言語学の世界では権威のある人だそうなのですが、全ての人間の言語の文法には、普遍的文法という人間の遺伝子に備わっている同じ法則の文法があるとするそのチョムスキー教授の提唱する説と、
エヴェレットさんが見つけたピダハンの言語の法則が、対立するということでした。
ピダハンの言語には、文を際限なく伸ばしていく「リカージョン」と呼ばれる文法上の法則がないということでした。
リカージョンという文法法則は、
例えば、「○○だと彼は言った」を
「『○○だと彼は言った』と彼は言った」
というように伸ばしていくものだそうですが、
ピダハンの言葉には文の途中に使うための「~と」などの接続詞がないそうです。
「私は言った」は成立するようなのですが、「私と彼は言った」などのように使うことはできないそうです。
「私または彼は言った」も成立しないそうです。
エヴェレットさんは、人間に普遍的な根本原理などないのではないかと考えるようになり、チョムスキー教授の、言語学の世界では通説になっている説と対立することになったのだそうです。
ピダハン語の発見によって、言語学の世界は、人間の言葉はどこから発生したのか、私たち人間を人間としているものは何なのか、という根源的な問題に直面しているそうです。
エヴェレットさんは、ある言語を使う人たちの文化がその言語の文法全体に影響を与えていると考えているそうです。
でも、ハーバード大学の心理学者のスティーブン・ピンカー教授は、言語の違いは文化の違いとは関係ないという学説が主流だと話していました。
エヴェレットさんは、ひたすら現在を生きるという生き方がピダハンの文化であり、その文化がピダハン語に影響を与えていると考えていました。
ピダハンの言語に現在形しか存在しないのは、過去形も未来形も、ピダハンの人たちには必要ないことだからだと考えていました。
マサチューセッツ工科大学の脳科学・認知科学研究所のテッド・ギブソン教授たちのチームは、コンピュータープログラムを作り、ピダハン語を科学的に調査することにしたそうなのですが、ダニエル・エヴェレットさんが元キリスト教の伝道師だという理由で、
ブラジルのFUNAI(国立先住民族保護財団)からピダハンの村に入って行う調査を断られてしまったそうです。
エヴェレットさんが最後に村に行った2年前までは大丈夫だったそうなのですが、FUNAIの管理官によると、エヴェレットさんが今はキリスト教徒ではないとしても、とにかくキリスト教は先住民族保護にとって脅威だという理由で、ピダハンの村に入るのを拒否しているということでした。
マサチューセッツ工科大学の研究者たちは、エヴェレットさんのピダハン語や当時録音しておいたピダハン語から文章を集めてデータベース化して、ピダハン語のリカージョンの有無を調べることにしていました。
そして、3か月後に解析が完了した結果、リカージョンはピダハン語には存在しないというエヴェレットさんの仮説の正しかったことが判明したそうです。
接続詞もなく、他の言語と異なり、複雑な文法がないことも分かったそうです。
その調査結果についてチョムスキー教授は、信頼できない検証だと否定し、全ての言語がリカージョンに基づいていることは疑うようのない事実だと話していました。
先住民族保護財団は、エヴェレットさんがピダハンの村に入るのを許可しなかったようなのですが、なぜかテレビ番組の撮影班が入るのは許可したそうで、エヴェレットさんは、ピダハンの友人たちにビデオメッセージを送ることにしていたのですが、その村の文化は、ブラジル政府の支援?によって、2年前とは大きく変化していたのでした。
家も建てられ、電気も通り、トイレも病院も、学校などの施設も作られていました。
学校では、ポルトガル語が教えられているそうです。
水道もあり、テレビもありました。村の人たちは、便利になったと喜んでいる様子でした。
エヴェレットさんのピダハン語の先生は、電気が来て病気の検査ができるようになったのは良いが、文化は変わったと話していました。
文明を使う人たちがその文明に頼ってこなかった人たちに自分たちの文明を奨励したことによって、少数民族の特有の文化が失われていくことについて、ピンカー教授は、絶滅の危機に瀕している文化を、科学者はできる限り記録し、後世に残すべきだと話していました。
エヴェレットさんの
「僕は村に戻りたい。ピダハンと一緒にいたい」
というビデオメッセージを見たピダハンの人たちは、
「FUNAIに話す。俺たちはダニエルが好き」
と伝えていました。
とても良い特集でした。
ピダハンの村の変化には少し悲しい感じがしてしまったのですが、村の人たちは便利になったと喜んでいたので、例えば日本の幕末や明治初頭の頃のように、当時の日本を好きな外国人が西欧の文化を取り入れつつある日本の文化の変化を寂しく思っていたのだということを思いました。
文明を知っている人たちが文明を伝えないことが「人種差別」や「人権侵害」になるという考え方もあるそうで、それにも少し驚きました。
先住民族の保護をするというのは大切なことですが、そこに何かを与え続けるというのが保護になるのでしょうか。先住民族や少数民族の人たちの暮らしを、放っておくとか、そっと見守るということは、どうしてもできないことなのでしょうか。
ダニエル・エヴェレットさんの言語についての考え方は、アメリカの大学の権威の言語学の教授たちには否定されているようでしたが、番組を見ていて、私はきっと日本人になら簡単に理解することができる問題なのではないかなと思えました。
それとも、日本人の言語学者や心理学者の方たちも、チョムスキーさんたちと同じような意見なのでしょうか。
私には、ある言語がその言語を使う人たちの文化の影響を受けていないと考えるほうが、不自然のように思えます。
通説が当てはまらない例外もあるかもしれないと、どうして考えないのでしょうか。
私は言語学にも詳しくないので、細かいことは分かりませんが、新しい発見や新しい説を自分の考えに取り入れようとしない研究者は、本当に本物の研究者なのかなと、少し不思議に思いました。
独自の文化や風習を自分たちで守ろうとする少数民族の人たちの生活が、これからも無事に続けられるといいなと思います。その周辺国や先進国?の人たちは、
(時には親切心からだとは思うのですが)
自分たちと同じではないとすぐに同じようにさせようとするところがあるような気がするので、蔓延してしまう病気の治療などをする場合はもしかしたら仕方がないのかもしれないのですが、自分たちの価値観や思想や宗教などを押し付けるのは、止めてほしいように思います。
多様性が存在したほうが面白いと思うのですが、あるいは、異国の者に見つかってしまったということが、すでに変化の兆しになってしまうのかもしれません。
「新種」の生物も、発見されると一部は研究や資料のために殺されてしまいますし、発見されないことが穏やかに生きていく方法であるのかもしれないなと、今回のピダハンの方たちの特集番組を見て、また改めて思いました。
文明の利器が入ってくるという変化のあったピダハンの人たちは、過去の後悔もなく、未来の不安もないという、ただ現在のみに充足するという穏やかで幸福な伝統の生き方を、貫く事はできるのでしょうか。ポルトガル語を習うことで、ピダハンの人たちの中のピダハン語やピダハン語を作ったような生き方がいつの間にか消えてしまわないでしょうか。
勝手なことなのですが、少し心配になりました。
■ピダハンの社会を鏡として
これからの「ソーシャル」を考える
転載元 Think Social Blog
2012年4月12日
今回はいつも扱っている「サービスデザイン」の話題とは趣向を変えて、
ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者によって書かれた、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの言語と文化を紹介した『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』という本からいくつかのエピソードを引用しながら話を進めてみようと思います。
この本を読んでいて感じるのは、西洋のみならず他のどんな言語とも異なる特殊なピタハン語を話すピタハンの人びとは、その言葉だけでなく、その生活や文化、価値観もとても特殊であり、西洋人である著者や僕たち日本人も驚かせるような隔たりをもっているということです。
その社会の価値観や文化は僕たちには想像するのがむずかしいことだったりもします。
ただ、そうした自分たちの文化や価値観とは異なるピダハンたちの社会に目を向けることで、僕たちがなぜ"Think Social"を名乗りつつ、これまでになかった新しい「社会」について考え活動しようとしているかを、みなさんに伝えられるのではないかと思い、今回は記事を書いてみようと思ったのです。
というわけで、さっそくピダハンたちの社会の特徴の一端を見てみることにしましょう。
◆子どもが危険な状況にあっても注意しない親
ピダハンの社会が僕らや西洋社会のそれと違うことの一例がピタハンの家族観にあります。
著者のダニエル・L・エヴェレットは自分たち西洋の人びととピダハンの人びとの家族観の違いについて、こんなエピソードを紹介しています。
焚火の近くで転んで火傷をした幼児をピダハンの母親が心配するどころか叱りつけるシーンです。
《ある朝わたしは、よちよち歩きの子供がおぼつかない足取りで焚火に近づいていくのを目撃した。
子供が火に近づくと、手をうんと伸ばせば届くほどのところにいた母親が子どもに低い声を発した。
けれども子どもを火から遠ざけようとはしない。
子どもはよろめき、真っ赤に焼けた石炭のすぐわきに倒れ込んだ。
脚と尻に火傷を負い、子どもは痛みに泣き喚いた。
母親は乱暴に抱き起こし、叱りつけた。》
著者は長年、ピタハンの村で彼らといっしょに暮らしていて、ピタハンの母親が子どもをとても慈しむことを知っています。
なのに、その母親が熱い日のまわりでよちよち歩く子どもを見ても注意もしないのに、子どもが火傷をすると叱りつけることに著者は驚くのです。
また別のエピソードでは、同じようによちよち歩きの2歳くらいの子どもが刃渡り20センチほどの鋭い刃物を振り回して遊び、刃先がその子どもの目や胸、腕などを掠めているのを著者は目にします。著者が驚いたのは、そのあとで幼児が刃物を落としたとき、ほかの人との会話に夢中だった、その子の母親が会話をやめることもなく、刃物を子どもに拾って渡したからです。
幸い、そのときは子どもは怪我をしなかったのだけど、別の機会に著者らはピダハンらの子どもたちがナイフでひどい怪我をするのを何度も見たと言います。
この場合でも、ピダハンの親たちは自分が慈しむ子どもたちが危険な状況にあうのを注意しようとしないのです。
◆子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある
愛しい子どもが危険な状況にあったら注意をするなどして、子どもを危険な対象(火や刃物など)から遠ざけようとするのが、僕たち日本人にとっても、著者ら西洋人にとっても、当たり前と考えられる親の思いでしょう。
ところが、上の2つのエピソードに見られるようにピダハンの人びとは子どもを危険から遠ざけることをしません。
けれど、彼らが子どもを慈しむ気持ちに欠けるのかというと、著者によればそうではないということなのです。
これはどういうことなのでしょう?
著者による理解はこうです。
《わたしはまず、見たかぎりでピダハンが赤ちゃん言葉で子どもたちに話しかけないことから考えはじめた。
ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある。
子どもたちは優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象とは見なされない。
子どもたちも公平に扱われ、身体の大きさや体力に合わせて食事の分量などは変わるけれども、基本的には能力においては大人と対等と考えられている。》
大人と対等な存在として扱うからこそ、ピダハンらは子どもがすることを保護者として注意することをしないのです。
大人が大人に火は危ないよとか、刃物は危険だよとわざわざ教えてあげないのと同じように、子どもに対しても同様に扱うのがピダハンの社会なのです。
◆ひとりひとりが自分で自分の始末をつける社会
ピタハンの社会においては、子どもを大人と対等な存在として扱うというだけではなく、そもそも「ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ」るのだといいます。
その姿勢は非常に徹底されていて、ここでもまた驚かされるエピソードがたくさん紹介されています。
例えば、ピダハンの女性はひとりで出産するそうですが、難産で苦しみ、
「助けて、お願い! 赤ちゃんが出てこない」
と叫んでも、近くにいる人は助けず、それで妊婦が赤ん坊ともども死んでしまうことがあると著者は書いています。
また、母親が赤ん坊を残して病気などで亡くなった場合でも、ピダハンらは「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母親がいない」と言って、赤ん坊が死んでしまうのを悲しみつつも、赤ん坊を死なせることもあるといいます。
それはピダハンが冷酷だからではなく、医者のいない土地でたくましくなければ死んでしまう環境で、どういう状態だと死に直結するのかを、著者ら西洋人が気づくよりもずっと見抜けてしまうからなのだと言います。
その場しのぎの優しさを見せて相手を助けることができても、ずっとその人を助け続けることはできない場合、
助けることよりも、その人自身の力で困難を乗り越えるのを見届けることが大事なのでしょう。
僕たちの暮らす社会のように生きるために必要なものを自分の身体のなかにではなく、外部のツールや仕組みとして保持するのとは異なり、そうしたツールや仕組みがなく、かつピダハンら自身がそれを拒むようなほとんど人工物に依存することがないアマゾンの奥地の環境で生き続けていくためには、ひとりひとりが自身の中に自分の生命や暮らしを持続可能にする力を宿らせない限り、生きていくことはできないのでしょうから。
こうした赤ん坊の頃からひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられる社会においては、若者はひきこもったり、ふてくされたり、自分のとった行動の責任から逃れようとしたり、青春の苦悩や憂鬱や不安に苛まれたりすることはなく、誰もが自分の人生に満足している人たちの社会ができあがるのだといいます。
◆全体が1つの家族であるような社会
現存するピダハンは300人程度だといいます。
そのすべてのピダハンが他のピダハンをxahagi(アハイギー、同胞)と考えています。
「ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられる」ように育てられる一方で、ピダハンは家族や集団との絆を重視し、違う村に住んでいるピダハン同士でも同じピダハンとしての帰属意識が非常に強いといいます。
そのピダハンの帰属意識の強さを示すエピソードとして、著者はピダハン語を教わっているピダハンの1人(カアブーギー)が自分の兄弟(カアパーシ)が酒を飲んで酔っぱらい大事にしている犬を撃ち殺されてしまった話を紹介しています。
(ピダハンは極度にお酒が弱いそうです)
《「カアパーシをどうするつもりだい?」わたしは尋ねた。
「どうするとは?」カアブーギーは不思議そうに訊き返す。
「つまり、犬を撃たれたことにどう始末をつけるのかということだよ」
「何もしない。
兄弟を痛めつけたりはしない。
あいつは子どもじみたことをした。
悪いことをした。
だがあいつは酒を飲んでいて、頭がまともに働いていなかった。
おれの犬を傷つけてはいけなかった。
これはおれの子どもとおんなじだったんだ」
このときのカアブーギーのように、怒って当然のことをされたときでも、ピダハンは忍耐強く、愛情たっぷりに相手を理解しようとする。
(略)
彼らはピダハン社会を一種の家族と見なしていて、その一員であれば仲間の全員を護り、世話する責任があると感じている。》
ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるよう育つこと、それでいてひとりひとりが自分はピダハンの一員であるという帰属意識を強くもち、仲間のことや自分たちの暮らしを護っていこうとすること。
これって何かに似ていると感じないでしょうか?
◆ピダハンの人びとと、現代の「ソーシャル」な若者たちの類似
私には、このピダハンの社会における強い絆とひとりひとりが自分で生きる力をもつことを重視する姿勢が、いま自分たちの力で従来のそれとは異なる新しい社会の仕組みやあり方を考え、生み出していこうとする若い世代の人びとの姿とリンクして見えるのですが、どうでしょうか?
それは自分たちの製品が売れればいいとか、自分たちの暮らしがよくなればいいといった従来の私的欲求の追求を重視する価値観とは異なり、自分たちの行動に対しても他者が行なう行動に対しても「それをすることで社会はどうよくなるの?」と問う行動規範をもつ、自分たちが社会の一員であることが強く意識された価値観です。
そして、ここも従来の姿勢とは異なる点だと思いますが、目の前にある様々な社会の課題に対しても、まわりの誰かが解決してくれるだろうと期待して待つのではなく、自分たちの課題であると捉えて自分たちで始末をしようとする姿勢もみられます。
こうした点で、私にはなんとなく今の若者たちの姿勢とピダハンの人びととの類似が感じられるのです。
ピダハンの人びとが現状に限りなく満足しているのに対して、今の若者は正反対に現状に問題を感じて行動していることなど、いろんな点で相違があるのはもちろんのことですが、自分たちの社会をまわりの人びとといっしょになって良くしようと考え、いっしょに活動する人たちと深い絆をもちながら、それでいて、それぞれが生きていくためには、まわりに縛られることなく(ノマドな状態で)自分の力で生きていける状態を目指す点ではとても共通点を感じます。
そして、おそらく、新しい社会を作るためには、まさにそうした姿勢が必要なんだと感じるのです。
それが本当の意味での参加のデザインなのでしょうし、チーム・ビルディングだと思いますし...。
そうしたことを考える上でも、はたまた自分たちが生きる社会とはまったく別の社会があることを知るためにも『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』はおすすめの一冊です。
興味のある方はぜひ読んでみてください。