転載元 ねずさんのひとりごとマイセンのスープ皿
マイセンのスープ皿
上の写真の絵皿は、1730年頃ドイツで作られたマイセンのスープ皿です。
ホンモノです。
国宝級の扱いを受けている逸品です。マイセン磁器は、ごく最近の作品でも、絵皿付きのコーヒーカップ1個で30万円以上します。
女房と自分の分をセットでそろえたら、それだけで車が一台買えてしまう。
まして写真にあるような300年前の初期の頃の作品ともなると、もはや値段のつけようがなくなります。何千万とか億の世界です。
要するにマイセン磁器というのは、ヨーロッパ磁器の最高峰だ、ということです。マイセンというのは、ドイツ東部のザクセン州のドレスデンの近くにあるエルベ河沿いの小さな城下町です。そこにあるお城の名前が、アルブレヒト城で、むかしむかしこのお城にフリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)という王様がいました。
王様は、錬金術師だったヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに、磁器の開発を命じました。錬金術師のベトガーは、見事、磁器焼に成功しました。
それが日本で江戸時代中期にあたる、1709年のことです。翌1710年には、「王立マイセン磁器製作所」がアルブレヒト城内に設立され、本格的なマイセン磁器の生産が始まっています。
アウグスト2世という王様は、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねた強王で、ザクセン選帝侯とも呼ばれた覇者です。
そのアウグスト2世が生きた時代は、実は、東インド会社から運ばれた支那や日本の磁器が、王侯貴族の憧憬の的となった時代です。
東インド会社というのは、アジア地域との貿易の独占権を与えられた会社でした。
世界初の株式会社でもあります。後にイギリスがこの東インド会社を支配するようになりますが、アウグスト2世の当時は、まだオランダが東インド会社の権利を独占していました。
東インド会社は、当初、支那の景徳鎮(けいとくちん)の磁器を買付けて、ヨーロッパ各地で販売していたのです。
「支那の景徳鎮磁器」という言い方は、適切でないかもしれません。
景徳鎮(けいとくちん)というのは、昌江の南にあるので、昔は漢字で昌南と書きました。昌南は、英語だとChangnanです。で、そのChangnanから、たくさんの時期がヨーロッパに渡り、Changnanの磁器が縮まって「China」となりました。従って、Chinaという呼称は、欧州では陶磁器をあらわす単語であり、China=陶磁器=支那、という意味の単語になっています。
なぜ昌南の陶器が欧州で好まれたかというと、これにも理由があって、当時の欧州の城塞宮殿には、トイレがありません。
用をたすときは、男女とも部屋の隅に行き、そこに置いてある壷をまたいでその中に、出しました。
壷に溜まった汚物は、窓からジャーっとばかり捨てたので、下の道が汚物だらけになる。
そこで考案されたのが、石畳で、石と石の間に隙間をつくることで、汚物をその隙間から土中に沁み込ませたというわけです。
そんなわけで、中世の欧州では、大小の用をたすための大型の「壷」の需要が高かったわけで、その壷として、昌南の大型壷のニーズが高まったわけです。
初期の頃の昌南の壷は、ただおおきいだけで彩色性がなかったのですが、そこは宮殿に置くものです。
だんだんに彩色がされるようになり、綺麗な絵柄が描かれるようになっていき、そうなると異国情緒あふれる壷がますますもてはやされる、というふうに昌南の壷が発展していったわけです。
ところが支那のことです。
せっかくこうして確立された安定的なビジネスルートを、自らの手で壊してしまったのです。
どういうことかというと、正保元(1644)年に明が滅んでしまった。
清が起こったからですが、当然、世は戦乱のまっただ中となります。
支那は易姓革命の国で、清王朝が誕生すると、過去の一切は否定されますから、それまであった利権や販売ルート、果ては工場に至るまで徹底的に破壊され、技術者も「旧王朝の利権派」とみなされて、殺されてしまう。
要するに、まるで反日デモの暴徒のような混乱のなかで、磁器生産が困難になってしまったのです。
ところが、モノはトイレ壷です。
需要は大きい。というより、なくては困るものです。
そこで東インド会社は、支那の昌南以外で磁器を探しました。
そして日本に目を付けたのです。
「やきもの」というのは、素地の状態や焼成温度などによって陶器と磁器に分けられます。
「陶器」は「土もの」です。陶土を原料とする。
益子焼や薩摩焼、美濃焼などが、これにあたります。
日本における陶器の歴史は、めちゃくちゃ古いです。
そもそも縄文式土器といわれるものが、陶器そのもので、世界最古の土器は、日本の大平山元1遺跡で発見された1万6,500年前のものです。
ちなみに、陶器と土器の違いは、1000度以下で野焼きされるものが「土器」、1000度以上の高温で窯で焼くのが「陶器」と区別されています。
要するに、陶器の基になったのが土器、といったところです。
誤解があるといけませんので、すこし補足しておくと、秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮人陶器職人が日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼のモトを築いたという人がいますが、これは違います。
薩摩も唐津も、遥か太古の昔から陶器を作っていて、室町から戦国時代には、きわめて装飾性の高い秀麗な陶器を数多く産しています。
ところが流行というのはおもしろいもので、華美なものが流行ると、その次には地味なものが流行ります。
信長の時代は、ある意味、日本が高度成長をした時代だったわけですが、そうした中で、侘び、サビなどの飾りを捨てた質素なものがもてはやされるようになりました。
要するに、世界中の様々な華麗な物品が日本にはいってきた中にあって、「俺たち武家なんだから、質実剛健でいなくちゃ」という気風が一方に生まれ、それが地味なもの、華美を排したものに対して価値を見いだす、という方向に嗜好が動いたわけです。
そうした時代背景の中で、朝鮮では、当時、いまだに土器が生産されています。
李氏朝鮮は貧困が支配した国であり、まさに「貧しい」から技術も育たず、貧しい陶器、つまり縄文式土器からさらに装飾性までをも取り払ったような、厚手の土器があちこちで生産されていたわけです。
しかもいちおうは「輸入品」です。
これが当時の武家社会にウケた。
つまり「品がある」というわけです。
「品(ひん)」というのは「貧(ひん)」です。
みるからに「貧しい品」が、「品があるしなもの」です。
たとえ生活が豊かになっても、貧しさを忘れず、粗食、粗衣、粗品で身を包む。
それが「つつしみ」です。
そういう文化的土壌の中で、当時、朝鮮の陶器が、まさに稀少な(朝鮮半島では一般的な品であっても、日本では輸入品ですから稀少品)品として、「貧を忘れないための貴重な品」となったわけです。
これは、まさに黄金の国ジパングの住民ならではの発想といえるものかもしれません。
そして秀吉の時代になって朝鮮出兵が行われると、朝鮮にいた陶器職人の中で、粗品であっても、端正な陶器を作る職人が、貴重な存在として、日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼などの技術の一端に加えられ、貧の良い焼き物として、日本中でもてはやされるようになっていったわけです。
誤解を得やすいことなのですが、要するに当時、朝鮮半島における陶器文化が高度に発展していたから、日本がそれを学んだのではなく、当時、東南アジア諸国に日本人町をつくり、欧州にまで旅をし、鉄砲の保有数世界一、黄金の所持高世界一であった豊かな日本にいた日本の武人たちが、武家社会の武人としての質実の道を忘れないためにともてはやしたのが、まるで縄文時代の遺物のような朝鮮半島の貧しい陶器だった、ということです。このあたり、たいへんに誤解を生んでいるようなので、補足させていただきます。
ただ、こうして「貧のある(品のある)」陶器がもてはやされるようになると、一方では、さらに技術を磨き、洗練された物品を作り出すのも日本の特徴です。
江戸時代の初期になって、佐賀県の有田町の周辺で、陶石を発見するのです。
で、有田に「磁器」窯が開かれて、日本初(世界初)の磁器が作られました。
よく、陶磁器といいますが、陶器と磁器は、原料が違います。
陶器が土を原料とするのに対し、「磁器」は「石もの」で陶石を原料とします。
なにせ石ですから、陶器よりも高温で焼かなければなりません。
そのため磁器は、陶器よりもかなり硬くなり、素地は透き通った真っ白になります。
素地が真っ白だということは、彩色性がきわめてよくなるということです。
つまり、磁器に絵を描いて焼くことで、きわめて芸術性の高い磁器ができあがる。
支那では、明代になって、土で焼く「陶器」に、色や絵を付けたものが大流行します。
「なるほど、これはいい」と、支那の色絵の技術を聞いた佐賀の酒井田柿右衛門が、工夫を重ねて、石焼で、素地の真っ白な磁器に色を付けて焼く技術を開発します。
江戸時代の後期に、全国各地で「磁器」の生産が始まるまでは、有田が日本国内で唯一「磁器」を生産するところでしたが、積み出しが伊万里(いまり)港からされたので、「伊万里焼き」とも呼ばれています。
作品には、製造時期や様式などによって、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などがあります。
さらに、献上用の極上品のみを焼いたものが、鍋島藩の藩窯のものが「鍋島様式」、天皇に納めたものが「禁裏様式」です。
江戸日本は鎖国中ですが、オランダとだけは通商をしていました。
そして当時の東インド会社は、オランダが所有しています。
そして明国の衰退によって、昌南の陶器の入手が困難になったオランダの東インド会社は、この日本の有田焼に目を付けます。
18世紀に作られた有田焼
有田焼は、万治2(1659)年から、本格的な輸出がはじまりました。
日本の有田焼が、ヨーロッパに紹介されたのです。
これが大評判になりました。
なにせ、素地が純白です。
そして絵柄がまさに芸術品です。
有田焼は、ヨーロッパの王侯貴族たちに「白い黄金」と呼ばれるようになりました。
彼らは有田焼を手に入れるために、わざわざアムステルダムまで人を派遣して、日本から入る船を待機させたもしています。
おかげで、佐賀からヨーロッパに渡った「磁器」は、約100年の間になんと120万個以上にのぼります。
記録に残っていない磁器を含めれると、実際にはその2~3倍の有田焼がヨーロッパに持ち込まれているとさえいわれています。
有田焼の絵柄が、支那の磁器と似ているという人がいます。
しかしそれは違います。
余白や間を活かして、花鳥風月を華麗に明るく可憐に描く手法は、日本独自のスタイルです。
有田焼のなかでも、とくに柿右衛門様式の磁器は、ヨーロッパで大センセーションを起こします。
東洋の陶磁器は欧州において、日本の有田焼によって、支那製の単なる大小の用たし壷という地位から、いっきに美術工芸品としての地位を欧州で確立したのです。
なかでも柿右衛門様式の有田焼は、最も高価で最も魅力的なものとされています。
柿右衛門様式
ヨーロッパ貴族たちは、自身の邸宅を有田焼きで飾ることを最高のステイタスとするようになりました。
柿右衛門様式の有田焼は、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ロンドンのハンプトンコート宮殿やバッキンガム宮殿などを筆頭に、欧州各地の王宮や城を彩ります。
なかでもとりわけ有田焼のコレクションに熱心だったのが、冒頭のアウグスト2世(1670~1733)でした。
彼は熱烈に日本の磁器を愛し、ドレスデンのツヴィンガー城に、柿右衛門を含む膨大な数の東洋磁器を集めていたのです。
なにせ彼は、享保7(1722)年に「日本宮」という磁器の収集館まで建設している。エルベ川側から見た日本宮
そしてアウグスト2世は、コレクションするだけでなく、自らも日本の有田焼に似た磁器を作りたいと考えるようになりました。
で、錬金術師のベトガーに、マイセンで磁器の開発に取り組ませたわけです。
なんとアウグスト2世は、開発した磁器の技法が城外に洩れないようにと、ベトガーをアルブレヒト城内に幽閉してしまっています。
おかげでベドガーは、城から出たくても出られない。
ついにベドガーは、廃人同様となり、マイセン窯誕生のわずか9年後に、37歳で亡くなってしまっています。
一説によれば、城外に愛する女性がいて、その女性と逢えなくなったことがつらくてたまらず、廃人になったという説もあります。
なにか、気持ちはわかる気がします。
いずれにせよ、絶対的な王権を用いてまで門外不出にした、それほどまでにアウグスト2世は、有田焼にこだわりました。
ちなみに、冒頭のマイセン焼きの絵皿ですが、よく見ると(写真が小さいのでわかりにくいかもしれませんが)中央の木から、なぜか竹が生え、その竹からも太い枝が出て、先っちょにバラのような花が咲いています。
あたりまえのことですが、木から竹は生えないし、竹に樹木のような枝はつかない。バラのような花が咲くこともありません。
竹は、もともとイネ科の植物で、アジアの熱帯から温帯に分布している植物です。
ヨーロッパにはありません。
当然、マイセンの職人さんたちは、当時、竹の実物を見ることはなかったでしょうし、見たことのない植物は正確に描けない。
おかげでマイセンの食器には、こうしたありえない絵柄ができあがっています。
要するに、初期の頃のマイセン磁器は、日本の有田焼の模倣からスタートした、ということです。
アウグスト2世の磁器への情熱は、単に「日本の有田焼のような美しい磁器を作りたい」という憧れだけでなく、当時のヨーロッパで熱狂的な高値で売買される磁器を、自らの手で作り上げれば、莫大な富が手に入るという考えにも裏打ちされています。
こうした思考は、自然とヨーロッパの貴族社会に伝播します。
列国の王侯貴族や事業家も、自分で磁器を作れば、莫大な富が手に入ると考えるようになり、ヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まる。
有田焼の模倣品は、イギリスのチェルシー窯、ボウ窯、フランスのシャンティー窯など、次々と欧州各国に広がりました。
現在、ロイヤルコペンハーゲン(デンマーク)は、特に日本で人気のある磁器メーカーなのだけれど、藍色の唐草模様を付けたブルーフルーテッドシリーズは、どうみても有田焼の模様です。ブルーフルーテッドシリーズ
ヨーロッパにおける有田焼の技法は、いまでは、あまりに大規模に模倣されたために、その起源が日本にあることすら忘れられてしまっているほです。
それだけ、日本の文化がヨーロッパ磁器に大きな影響を及ぼしたということです。
ちなみに、石から焼く磁器の製造方法は、当然のことながら支那にも(日本でいう江戸時代に)伝播しています。
模造品を作って、格安で売るのは、古来変わらぬ支那人の習性です。
ただし、最近のものでもそうなのだけれど、支那産のこうした美術工芸品は、申し訳ないけれど品がない。
派手に過ぎるか、絵柄がぼやけていて、これまた大量に欧州に渡っているのだけれど、ひとついえることは、日本製が上物とされ、支那製のものは、あくまで東洋風の模造品という扱いです。
なぜ日本製の有田焼がヨーロッパで高級品として絶賛されたのか。
理由はもちろん白い磁器の美しさもあるけれど、それ以上に、そこに描かれた絵柄が、なにより決して権威主義的でなく、明るく可憐であることが挙げられます。華美なようでいて、質素
質素なようでいて、華やか
簡単なようでいて、複雑
こうした磁器がなぜ日本で生まれたのかといえば、そこには品と調和を重んじる日本人の心があるからだと思うのです。
磁器に描かれる絵は、磁器の上という小さな世界に描かれた非現実の世界です。
描かれているもの、たとえば鳥や草花は、それぞれ現実の世に存在するものであっても、それが描かれるときには、非現実です。
つまり、現実として虚偽があるところに、非現実としての、芸術としての真実が生まれます。
そういう「芸術としての真実」は、単なる模倣や、コピー商品による儲け主義のところには、決して生まれません。
あくまでもそこには、生涯をかけて追求するという鉄の意思と、どこまでも調和のある美しさを求めようとする、品性からしか生まれない。
オリジナルと模倣の違いが、ここにあると思うのです。
その違いが、支那の磁器と日本の磁器の大きな違いになっています。
マイセンの陶磁器は、日本の模倣から出発して世界最高峰の芸術を築きました。
それができたのは、ゴッホと同じく、日本美を謙虚に学び、自らの美意識のなかで芸術としての真実を追究したからです。
逆に特アが古来変わらず、世界中の秀逸な物品を模倣しながら、逆にその品の品位を貶め続けるのは、彼らに謙虚さがなく、いたずらに批判と金儲けだけに走るからです。
昨今の日本に「2位じゃだめなんですか?」と言ったおバカがいたけれど、最高のものを追求するというのは、スパコンにしても工芸品にしても実用品にしても、仮に最初は模倣から出発したとしても、最後は、オリジナルな真実をどこまでも追求していく姿勢によってしか、なし得ない。
批判と儲け主義だけでは、世界も歴史も認めないのです。
謙虚さと、真実を追求する姿勢、そういう姿勢を育成しようとする、国家国民の共通の意思と仕組みが必要です。
マイセンも、国王の庇護のもとに模倣からはじめて、結果的に現代社会になっても、今なお続くマイセン・ブランドを構築しています。
あたりまえのことですが、民と官は、本来、対立する存在ではない。
互いに、協力しあい、相互に力を合わせて発展さえていくためのものです。
建設談合が良い例です。
公共工事に伴う建設談合があって、建設業者は、20%の利益が確実に保証された。
しかも支払いはお役所ですから、固い。
利益が一定割合で保証されているなら、業者間の競争は「利益以外の部分」での競争となる。
つまり、どれだけ「よりよい仕事をしたか」になる。
だから、上はゼネコンから、下は下請けに至るまで、みんなが「より良い仕事」をしようとし、結果として日本は世界最高ともいえる建設技術を育んだのです。
海外にいくとすぐにわかることです。
ビルのガラスに映った隣のビルの景色が、日本なら、まるで一枚モノのガラスと見まごうばかりにきれいに写っている。
海外では、影がバラバラに歪みます。
戦後日本は、外圧と左翼の煽動に負けて、日本的な仕組みを否定し、談合を廃止しました。
結果、建設は儲からない仕事となり、利益を出すためには、下請けを叩くか手抜き工事するしかなくなり、人件費を浮かせるために外国人の素人作業員を雇われるようになって、日本人の職場が奪われ、かつての職人気質さえも、いまやほんの一握りの頑固者達が命がけで守っているだけのものとなりつつあるといわれています。
要するに日本の質が下がった。
道徳的に高い価値観を持ち、優れた社会システムを持った日本は、何も外国人のいいなりになって自ら品位を貶める必要など、まるでないのです。
すべてを受け入れる。
そしてみんなで工夫をしながら、それをより高次元なものに昇華させていく。
私達は、戦後日本が否定してきた一切のことを、いまあらためて再考すべきときにきているように思います。
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マイセンのスープ皿
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