転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
■日本の歴史:読む年表より その2
◆北清事変(義和団の乱) 1900年(明治33年)
日本軍の勇敢さと品格が日英同盟の引きがねとなった。
「三国干渉」以降の晴国は、西洋列強から領土を好きなように食い荒らされているような状態であり、シナ人たちが白人排斥の感情を抱くようになったのは無理のない話であった。
その旗頭となったのが「扶清滅洋」とか「代天行道」(天に代わって正義を実現する)をスローガンにする「義和団」という宗教集団であった。
この義和団の起こした反乱は清全体に広がり、とうとう北京を制圧し、同地の公使館区域を包囲するという事態にまで発展した。
清国政府は傍観するのみで、義和団を排除しようとしないどころか、これをきっかけに諸外国と戦うという詔勅まで出したのである。
ここに至って、義和団の暴動は内乱から一転して対外戦争になった。
清国正規兵が北京の公使館や天津の租界を攻撃しはじめたのだ。
列国は驚愕した。
このままでは、公使館員や居留民が皆殺しになるのは目に見えている。
しかし、ヨーロッパから援軍を派遣するのでは間に合わない。
そこで、欧米列強はみな日本が救援軍を送ることを望んだ。
日本政府は国際社会の反応を恐れて慎重な姿勢をとっていたが、欧州各国の意見を代表する形でイギリス政府から正式な申し入れがあったため、ようやく出兵を承諾した。
日本軍は欧米との連合軍の先頭に立って力戦奮闘した。
その結果、北京もついに落城した。
この北清事変において、欧米列国は日本軍の規律正しさに感嘆した。
とりわけ彼らを驚かせたのは、日本軍だけが占領地域において略奪行為を行わなかったという事実であった。
北京でも上海でも連合軍は大規模な略奪を行ったが、日本軍だけは任務終了後ただちに帰国した。
救援軍の到着まで、北京の公使館区域が持ちこたえたのも口本人の括躍が大きかった。
十一カ国の公使館員を中心につくられた義勇軍の中で、日本人義勇兵は柴九郎中佐の指揮の下、最も勇敢にして見事な戦いぶりをみせた。
事件を取材して『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは、
「柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一様の賞讃の的になった」
と書いている。
列国の外交官やマスコミは日本軍の模範的行動を見て印象を一変させ、「同盟相手として信ずるに足りる国である」という親日的感情を抱いた。
大英帝国が日本と同盟を結ぶに至ったのは、これが一つの要因となった。
結局、国家間の外交も、人間が動かすものだ。
そこには打算もあるだろうが、最終的な決め手となるのは、やはり人間的な信頼関係ではないか。
そのことを、このときの日本軍の活躍は教えてくれている。
◆日英同盟の立役者 柴五郎(1860~1945年)
明治33年に清国で義和団の乱(北清事変)が勃発した。
義和団の排外運動によって、各国の公使館員、武官、キリスト教徒避難民の総勢約4千人は、北京の公使館区域において55日間の龍城戦を余儀なくされた。
この時、僅かの日本軍と各国の義勇隊を見事に統率、指揮して、4万人もの義和団の攻撃から公使館区域を守り抜いたのが駐在武官であった柴である。
柴の働きは各国から称賛された。
特に英国のマクドナルド公使は、
「北京龍城の功績の半ばは特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」
と柴の功績をたたえ、ビクトリア女王に日本との同盟を強く進言した。
日英同盟締結の陰には柴の存在があったのである。
柴は、「賊軍」会津の出身でありながら、陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。
会津藩士の五男として生まれた柴の生涯は壮絶であった。
戊辰戦争によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。
幼い柴は、敵の目を逃れて、自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた。
捕虜とされた後、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住するが、極寒の地での生活は困窮を極めた。
「炉辺にありても氷点下十度十五度なり。
炊きたる飯も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
衣服は凍死を免れる程度なれなければ米俵にもぐりて苦しめらる」
「餓死、凍死を免るるが精一杯なり。
栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。
寒さひとしお骨を噛む」。
後に柴はこう回顧している。
野良犬の死骸をも食べ、絶望的な境遇を必死に生き抜いた柴を支えたものは、
「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民、言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず」
という会津武士の衿持であった。
「非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし」。
齢80を超してもなお、
「懊悩流テイやむことなし」
と書き残した言葉の意味は重い。
(2012/10/27産経新聞)
◆日英同盟成立 1902年
世界の常識をくつがえし、ロシアとの開戦を可能にした同盟。
三国干渉の後、ロシア海軍が遼東半島沿岸や朝鮮西海の制海権を握ったことは、日本の防衛に大変な脅威となった。
「開戦やむなし」の声も高まったが、日本がロシアに勝てる可能性は万に一つもない。
日本政府も欧米諸国もそう思っていた。
ところが、日本にとって思わぬ味方が現われた。
大英帝国から同盟の提案があったのである。
日英同盟成立のニュースを聞いて、当時の国際社会は文字どおり仰天した。
なぜなら、世界に冠たる大英帝国が、有色人種の小国と同盟を結ぶというのは、当時の常識では考えられないことであった。
伊藤博文ですら、イギリスの提案を信じず、ロシアと妥協するほうが可能性は高いと見ていたのである。
イギリスはその頃、南アフリカのボーア戦争に手を焼いていた。
英陸軍が東アジアでロシアの南下を抑えることは全く不可能とわかったので、東アジアに信頼できる国を求めていたのだが、当時は日本にはまだよく知られていなかった。
イギリスはアジアの植民地を守るためのパートナーとして日本を選んだのだ。
もちろん、同盟とは言っても、はるばるヨーロッパからイギリス軍が授軍に来てくれるわけではない。
武器供与をしてくれるわけでも、戦費を調達してくれるわけでもない。
しかし、かの大英帝国がロシアに対していっさいの便宜供与を拒絶し、圧力をかけつづけてくれれば、ロシア軍の動きは大いに妨げられる。
ロシアと同盟関係にある国も、イギリスとの関係上、ロシアを軍事的に助けることはないだろう。
そうなれば、小国日本がロシアに勝つチャンスが生まれるはずだ。
日英同盟が結ばれたことが、日本をロシアとの開戦に踏みきらせたのである。
日本にとって日英同盟の持つ意味はまことに大きかったわけだが、およそ二十年間にわたって続いたこの同盟は、日露戦争以後も両国にとって重要な意味を持ちつづけた。
イギリスの同盟国ということで、国際社会における日本の信用は大いに高まった。
また、日本にアジアを任せていられたおかげで、イギリスもヨーロッパ人陸での外交に力を集中することができた。
その日英同盟の解消を企んだのはアメリカであった。
シナ大陸進出を最大の目的にしていたアメリカは、なんとか日本の力を殺ぎたかった。
日本を第一の仮想敵国とみなし、精力的に運動した結果、大正十年(一九二一)のワシントン会議において日英同盟は解消されることになった。
そのかわり日・英・米・仏の四国協定が結ばれたのだが、“共同責任は無責任”という言葉のとおり、この条約は何の意味もなかった。
イギリスとの同盟がなくなったと見るや、アメリカは日本を狙い撃ちしはじめ、これ以降、日米関係は悪化の一途をたどる。
◆日露開戦(日露戦争) 1904年(明治37年)
開戦を決意すると同時に講和の準備を始めた明治政府の高度な外交センス。
“国家存亡の秋”という表現があるが、まさに同家の存続を賭けた日露戦争に日本は勝利を収めた。
これは世界中の度肝を抜く二十世紀初頭の大事件だった。
もちろん、当時世界最強と言われたロシア軍相手に完勝できるなどとは日本政府はまったく考えていなかった。
そこで「少しでも日本が優勢になれば、ただちにロシアと講和を結び、できるだけ有利な条件で戦争を終えるしかない」と、その際の講和の仲介を中立的な立場にあるアメリカに依頼していた。
開戦を決意すると同時に和平のための特使を送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導こうとした明治政府の外交センスの高さは、いくら評価してもしきれるものではない。
「いつ、どのようにして戦争を終わらせるか」を、まったく考えずにシナやアメリカ相手の戦争に突入した昭和の政府や軍部を考えると、天と地ほどの違いがある。
さらに、政府は諜報活動や謀略活動にも力を往いだ。
そのなかで最大の頁献をなしたのが明石元二郎大佐である。
彼が行ったのはロシアの革命勢力の授助であった。
その働きは、「数個師団に匹敵した」と言われ、ヨーロッパ各地に亡命している革命家たちを資金面でも援助し、ロシアにおける反政府暴動や争議を扇動した。
明石の活動によってロシア政府は戦争に専心できなくなってしまった。
日露戦争は単に日本がロシアに勝ったというだけの戦争ではない。
空前の影響を世界中に及ぼしたのである。
それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実である。
日露戦争がなかったら、あるいは日本が負けていたならば、白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、二十一世紀の今日でも、世界は間違いなく植民地と人種差別に満ちていたであろう。
日本が強国ロシアを相手に勝ったのを見て、ほかの有色人種にも、自分たちにもできるかもしれないという意識が生まれた。
インドでは民族運動が起こり、あの頑迷な清朝政府までが千三百年続いた科挙を廃止し、日本に留学生を送るようになった。
日露戦争で日本が勝ったために、白人優位の時代に終止符が打たれたのである。
◆奉天会戦 1905年
世界最強のコサック駒兵を封じ込めた秋山好古将軍の画期的なな戦術。
海軍はともかく、陸軍のほうはロシアに対して万に一つも勝ち目がないと世界中から思われていた。
世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵の運用は明治になって西洋から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。
日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、騎馬での戦いでは日本人がコサックに勝でるわけがない。
だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。
日本兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。
その結果、最終決戦となった明治三十八年の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現われなかった。
この奉天会戦で秋山の部隊は敵の猛攻を受けながらも敵陣深く進むことに成功し、ついにはロシア軍の中心部近くにまで達した。
わずか三千の兵力にすぎない秋山の部隊が出現したことを聞いて、敵将クロパトキンは震えあがり、ついにロシア軍に総退却を指令した。
日本軍はこの機を逃さず追撃を開始し、二万人のロシア兵を捕虜にした。
言ってみれば、秋山の部隊が奉天会戦の勝敗を決定したようなものであった。
世界中の人々にとっで、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。
戦争が終わり、真実が分かったとき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅し、世界の陸軍を変えてしまったのだ。
世界長大の陸軍国ロシアを相手に日本が勝利できた原因として、総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎をはじめ、当時の日本軍の指揮官たちがみな維新の戦いや西南戦争の経験者ぞろいであり、実際の戦争を体で知っていた人材であったことも大きかった。
たとえば、第一軍を率いた黒木為禎将軍は奉天会戦に先立つ遼陽会戦において、軍事史上類を見ない一個師団二万人による夜襲を実行した。
わずか一連隊の兵をロシアの防衛線となっている太子河の川岸に薄く並べ、あたかも黒木軍がそこにいるように見せかけて、その間に渡河して奇襲するという、まさに常識破りの作戦であった。
黒木軍に随行していたドイツの観戦武官ホフマンが「この作戦は危険すぎるのではないか」と質問した。
これに対して、黒木は「私の勘では、この作戦はうまくいく。まあ見ていなさい」と答えたという。
この史上空前の奇襲作戦は、みごとに成功した。
ホフマン自身が著書に記したところによれば、ホフマンは黒木将軍の手を取り、
「将軍、私はこれほど尊い教訓を受けたことがありません」
と感謝したという。
日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。
大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるをえない。
◆日本海海戦 1905年(明治38年)
日本の科学力が世界最強の艦隊を葬り、戦艦の歴史を変えた。
日本海海戦で日本海軍は、バルト海からはるばる回航してきたロシアのパルチック艦隊相手にパーフェクトな勝利を収め、これに世界の人々は驚愕した。
戦力については、海軍の総排水量はロシアの半分であった。
戦艦の数と大砲の門数もロシアが上回っている。
しかし、終わってみれば日本の軍艦は一隻も沈まず、パルチック艦隊はほとんど全部が沈むか、捕獲された。
ウラジオストクまで逃げおおせた軍艦は損傷を受けた巡洋艦一隻と駆逐艦二隻だけであった。
日本側の損害は水雷艇が三隻、波をかぶって転覆したのみである。
これほどの完全勝利は海戦史上に類例がない。
日露戦争当時の海戦では、いかに敵艦を沈めるかが最大の目標であった。
つまり、艦砲で砲弾を打ち込み、敵艦に穴を開けるということが主だったわけである。
だが、つねに波に揺れている敵艦に砲弾を命中させるのは至難のわざである。
また、仮に命中させたとしでも、必ずしも沈没させうるわけではない。
戦艦は船体に分厚い鉄板や鋼板を用いて、砲弾が貫通しないようにしているからである。
装甲した戦艦を沈没させることは容易ではない。
たとえば、日本海海戦においても、東郷平八郎大将の座乗した旗艦「三笠」は敵弾を三十七発も受け、甲板や舷側に穴が開き、百余人の死傷者が出たが、それでも沈まずに戦いつづけている。
戦艦というのは、船底を破られないかぎり、なかなか沈没しないものなのである。
だから、夜陰に乗じて水雷艇で戦艦を撃沈するとか、軍港内に停泊している艦船に向けて陸から大砲を打ち込むほうが、ずっと効率的なのだ。
実際、日本海軍を苦しめた旅順艦隊を最終的に全滅させたのは、二〇三高地から旅順港に打ち込まれた二十八センチ砲であった。
にもかかわらず、艦隊同士の直接対決で日本が一方的な勝利を収め得たのは、日本オリジナルの「下瀬火薬」と呼ばれる新式火薬が威力を発揮したからである。
これ以降、爆薬の歴史が変わったといっても過言ではない。
この火薬が生み出す爆風の力は従来型の数倍にも達し、炸裂した砲弾のかけらは猛スピードで飛散するから殺傷力は格段に高い。
さらに、気化した三千度の高熱ガスが塗装に引火しで火事を起こした。
日本軍の砲弾が当たるたびに猛烈な爆発と火災が起き、ロシア海軍の戦闘力はたちまち失われた。
少々砲撃の狙いが外れても大損害を与えられたから、日本は圧倒的に有利であった。
加えて、伊集院五郎の開発した伊集院信管によって日本の砲弾が「魚雷式」になっていたこと、木村駿吉が開発した無線電信機器によって、「敵艦見ユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。
海戦において実用に耐えうる電信機器を開発したのは、木村が初めてであった。
陸軍の機関銃とともに、当時の日本軍がこうした画期的な“新技術”を導入したことが日露戦争の帰趨を決め、戦争の概念を一変させたのである。
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。
「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。
これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。
下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日韓併合 1910年
伊藤博文暗殺によって日韓関係は予想外の方向に動いた。
三国干渉に日本が屈したのをみて、「事大主義」(強いものにつく)の伝統を持つ韓国は、親露派が力を得、反日・侮日政策をとるようになって政情は騒然とし、日韓関係も緊張した。
そこで日本政府は韓国の富国・近代化が実現するまで外交権を預かろうとした。
明治三十七年(一九〇四)、日韓新条約が日露戦争勃発の半年後に調印され、さらに戦争終結後、協約によって韓国は日本の保護国となった。
(ある国が他の国を保護国にすることは、当時もいまも普通に行われている)
世界各国もこれを了承した。
ところが、初代韓国統監となった伊藤博文は明治四十二年(一九〇九)、満洲ハルビン駅で韓国人安重根に暗殺されてしまう。
超大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまったのだから、韓国政府は震え上がった。
日本人が激怒したのは言うまでもない。
日韓併合の議論はこうした状況から生まれ、韓国側からも政府・民間を問わず併合の提案があった。
英米の新聞も「東アジア安定のために日韓併合を支持する」という姿勢を示した。
それで日本は日韓併合条約を締結したのである。
とはいえ、これは日本にとって大変な負担であった。
朝鮮半島が日本の領土である以上、日本軍を置かねばならない。
陸軍は二個師団の増設を要求したが、日露戦争を終えたばかりの日本にはそんな経済的ゆとりはどこにもない。
師団増設問題は大きな政治問題になった。
それでもインフラの整備や教育にも巨額の予算を割き、日本は韓国の近代化を推進したのである。
戦後、「日韓併合は植民地支配だった」という言われ方をされてきた。
だが、「朝鮮人は被支配者ではなく同じ日本国民である」というのが当時の考え方であった。
天皇直属の軍人にもコリア人がいて、中将になった人もあった。
後に韓国大統領になる朴青年は、士官学校を出て少尉に任官している。
これは当時の国際常識から見れば、例外的と言っていいほど人道的なやり方であった。
李朝の一族は王公族として皇族に準ずる扱いを受けたし、李王の世子には皇室から配偶者を出されたのである。
西洋諸国の場合、植民地の王族や酋長が本国の王室や貴族と同列に置かれ、婚姻関係を結ぶなどというのは、絶対にありえない話であろう。
また、「日韓併合条約は無効である」と言うような人もいるが、昭和四十年(一九六五)、日韓基本条約が締結されたときに、日韓併合条約は有効であることが両国で確認され、賠償金は日本は韓国に三億ドルの無償贈与、借款五億ドルを提供し、韓国は対日賠償を一切求めぬということになっている。
したがって、もはや“戦後補償”など持ち出す筋合いのものではない。
まして「朝鮮における唯一の合法政権」として韓国と基本条約を結んだのだから、北朝鮮に対する戦後補償など、日韓基本条約の大前提をくつがえす言語道断の暴論であり、無知としか言いようのない妄言である。
◆米「絶対的排日移民法」成立 1924年(大正13年)
人種差別に基づいた感情的な法律が日米開戦の遠因となった。
国内を開拓しつくし、新たなるフロンティアを求めてシナ大陸への進出を目論むアメリカにとって、すでにシナで力を得ていた日本は邪魔な存在となっていた。
シナ大陸にはヨーロッパ列国も進出しているわけだが、どうしても憎悪は日本にだけ向くことになる。
人種偏見の時代には当然であった。
しかも国内では日本人移民が西海岸の農地の多くを開拓し、所有しているのである。
加えて、日露戦争の勝利が恐怖心を植えつけた。
アメリカが恐れたのは
「日本にはバルチック艦隊を沈めた連合艦隊があるのに、我々にはそれに対抗する太平洋艦隊がない」
ということであった。
アメリカの新聞には「日本軍襲来」というデマ記事さえ流れるようになった。
そこで彼らは法律を変えることで日本人に対抗しようとした。
つまり、州ごとに次から次へと排日移民法を成立させて、まず日本人移民を締め出そうとしたのである。
日本政府は外交努力を重ね、明治四十一年(一九〇八)には「日米紳士協約」でアメリカ合衆国には移民を送らないというところまで譲歩した。
日本がいかに欧米諸国の理性に期待していたかは、国際連盟において「人種差別撤廃条項」を提案したことでもよく分かる。
だが、これは議長であるウィルソン米大統領の発言により否決された。
これでアメリカにおける排日運動はいよいよ勢いづき、その総決算という形で生まれたのが、一九二四年(大正十三年)に定められた「帰化(国籍取得)に不適格なる外国人」についでのいわゆる「絶対的排日移民法」または「帰化不能外国人移民法」と呼ばれる連邦法であった。
つまりアメリカは国家全体として全日本人移民を排除する意思を示したのである。
この法律の成立は日本人に大きなショックを与え、対米感情を一変させた。
すでにアメリカの排日運動は二十年近く続いていたのだが、日本人の心にはどこかアメリカに対する期待や信頼があった。
しかしこれ以来、当然ながら日本は言論界・財界まであげて反米に回った
戦後に出版されたさまざまな回顧録には、
「日米開戦を知って、『これは大変なことになった』と思った」
と書いてある。
もちろん、これは嘘ではない。
だが、その一方で当時の日本人の多くが「これでスカッとした」という感情を抱いたことを言わねば、これは真実を語ったことにならないのである。
戦後、「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」という主旨のことを昭和天皇がおっしゃった。
まことに正鵠を射たご観察だったと思う。
◆治安維持法公布 1925年
「一天皇制廃止」の暴力的イデオロキーに対抗した“法”の功罪。
一九二二年(大正十一年)、ソヴィエト社会主義共和国が成立し、ロシアにかわって、より恐るべきソ連が誕生した。
同年、モスクワおよびペテルスブルクで第四回コミンテルン(ソ連共産党を中心に結成された国際組織)総会が開かれ、世界中から君主制を廃止するという決議がなされた。
当然ながら、日本共産党も皇室廃止をめざすことになった。
この決議に対して当時の日本人は恐怖を抱いた。
その五年前にソ連共産党はロマノフ王朝のニコライ二世夫妻はじめ、王家の家族を皆殺しにして「君主制の廃止」を行っていたからだ。
これに対して、政府は大正十四年、治安維持法を公布した。
その主旨はあくまでも暴力とつねにセットになっている共産主義イデオロギーの国内流入と、右翼(主張は社会主義)の暴力行動を防ぐことにあった。
それ以外の労働運動や社会運動まで取り締まることを考えていなかったことは、治安維持法と同時期に公布された普通選挙法に基づき、昭和三年(一九二八)に行われた最初の普通選挙で社会民衆党、労働農民党、日本労農党といった無産政党が議席を獲得していることからも明らかであろう。
治安維持法によって無実の人まで逮捕・勾留されたのは、動かしがたい事実である。
だが、隣国ソ連の暴力的イデオロギーやテロ思想に対して対抗措置をとった日本政府の立場は、今日から見ても理解できるものだし、未然に防いだという点については評価できるのではないか。
さらに、この治安維持法によって死刑を宣告された共産党員は一人もいなかった。
治安維持法では天皇の名の下に取り調べが行われ、裁判を受けることができた。
あくまで思想を捨てず、「非転向」を貫いたと自慢する共産党貝がいるのも、実はそのためである。
しかし、その人たちが信じる共産主義の国では、いったん逮捕されると裁判を受ける権利さえ許されず銃殺された人が無数にいる。
日本でも、作家小林多喜二のように警察で拷問を受けて死んだ人がいたのは事実である。
しかし、それは共産主義国家のように最初から取調べもせずに死刑にされたのとは意味が違う。
転向や非転向というのは、命があってこそ成り立つ話なのである。
治安維持法を悪と決めつけるのはたやすい。
特高(特別高等警察)でさえも最初は反対した法律である。
だが、そのような悪法がなぜ成立したかということをも、あわせて考えなければ、歴史から何の教訓も得られないのではないか。
「治安維持法は民衆弾圧の道具」と強調されすぎたことによって、現代の政府や警察がマスコミなどを気にしすぎ、思想や宗教が絡む事件に対して非常に臆病になっているのも、治安維持法の“亡霊”に怯えているからではないかと思う。
◆世界大恐慌 1929年
「ホーリー・スムート」法が大恐慌を引き起こし、ドイツや日本を戦争に追い込んだ。
一九二九年(昭和四年)に、下院議員ホーリーと上院議員スムートが「ホーリー・スムート法案」を連邦議会に提出した。
二人は外国製品をアメリカ市場から閉め出して自分の関連する企業の利益を大幅に上げるため、超高率の関税をかけようとしたのである。
こんな法律が通れば世界の貿易は麻痺し、不景気になることは目に見えているから、株式が大暴落し、大不況が起こった。
まさにその不景気を打開するために、アメリカ議会はこの法律を翌年成立させたのだが、世界中の国が報復措置をとり、わずか一年半で二十五の国が、アメリカ製品に対する関税を引き上げたのである。
世界大恐慌の真因は、ホーリー・スムート法によってアメリカが自由貿易を捨て、ブロック経済に入ったことである。
これに対抗して大英帝国、およびその植民地も、カナダで開かれたオタワ会議(一九三二年)においてブロック経済を行うことを決定した。
当時の大英帝国といえば、植民地を含めると世界の四分の一を占めるほどの規模である。
現在のEU(欧州連合)をしのぐ経済グループが、国際経済から離脱したのだ。
日本が「我々も自給自足圏を作るしかない」と考えたのも当然の展開であった。
日本を中心とする経済ブロックを東アジアに作って大不況を生き残ろうという考えは、やがて「日満ブロック政策」(日本と満洲を一つの経済圏とする政策)となった。
絶体絶命の窮地に立たされたのは、第一次大戦の敗北によってすべての植民地を失い、千三百二十億マルクという巨額の賠償金を払いつづけていたドイツであった。
ブロック経済によって貿易を封じられ、大不況による超インフレと大量の失業者を出した経済的苦境を解決すると言って現われたのが、ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)であった。
彼は賠償金支払いを放棄し、社会主義的政策をその大方針として自給自足の可能な国家を建設するための戦争に備えた。
ドイツやイタリアのような「持たざる国」では、「持てる国」英米の経済ブロック化に対抗する国家社会主義化(ファッショ化)が国民の絶大な支持を得たのである。
第二次世界大戦はドイツや日本が始めたものだとされるが、一九三〇年代のファッショ化の引きがねを引き、ドイツや日本を戦争に追い込む経済体制を作ったのはアメリカとイギリスであった。
そのことを最もよく知っていたのはまさに英米自身で、だからこそ第二次大戦の終結が見え出した一九四四年(昭和十九年)七月、アメリカのブレトン・ウッズで戦後の世界経済を考える会議を開き、自由貿易体制の世界を作る金融機関設置を決めたのである。
これは、第二次大戦の原因は自由貿易制度の破壊で、その元凶はアメリカのホーリー・スムート法とイギリスのオタワ会議であったことをアメリカとイギリスが自白したことを示すものであった。
◆満洲国建国 1932年(昭和7年)
「五族協和」の理想を掲げた満洲国の正当性。
満洲にいた日本陸軍、すなわち関東軍は昭和六年、日本政府の方針をまったく無視して満洲の諸都市を制圧し、さらに満洲国の独立を実現させた。
(昭和七年三月一日建国宣言)
これが満洲事変である。
統帥権干犯問題を盾に勝手な行動を起こしたのは関東軍将校の暴走としか言いようがないが、しかし、その軍事行動自体は国際法上、何の問題もなかった。
そもそも日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから南満洲における権益を譲り受けている。
これは当時の清国政権も承認している。
しかも、当時、満洲にいた日本人がシナ兵や匪賊に襲われ、殺害される事件がたびたび起きでいた。
関東軍はコリア人を含む日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのであって、外交上、非道なことをやったわけではない。
さらに、満洲国建国自体は悪いことではなかった。
満洲は歴史的に見てシナ固有の領土ではない。
たしかに満洲は清朝の一部であったが、これは清朝を建てた満洲族が満洲の出身であったからにすぎない。
本来、シナ人(漢民族)と満洲人はまったく別の民族なのであり、別の言語系統に属している。
万里の長城以北の土地をシナ人が自分の領土と主張することは常識的に言ってもおかしいのだ。
満洲国皇帝となった薄儀(一九〇六~六七)は辛亥革命(一九二~一二)によって退位させられた最後の清朝皇帝である。
「革命」とはいうものの、正確に言えばシナ民族の満洲族王朝に対する独立運動であった。
シナ人によって紫禁城を追い出された薄儀が、自分の民族の故郷に戻って満洲国の皇帝になるのは当然の話である。
関東軍は満洲事変からわずか一年後に、薄儀を迎えて満洲国の建国を実現させた。
これは事後処理としては決して悪くないし、当時の国際常識から言えば非常に穏健な方法であり、民族自決の観点から言えばむしろ筋の通った話である。
しかも、満洲は日露戦争以後、治安もよくなり、日本人のみならず、シナ人やモンゴル人が急速に流入していた。
きちんとした政権が存在しないまま、このような大量流人が続けば、土地の所有権などをめぐって必ずや国際紛争が起こるはずである。
満洲に満洲族の本来の皇帝である薄儀が来て統治者となるアイデアは、民族自決のみならず、国際紛争を未然に防ぐという上でも優れたものであった。
アメリカが西部開拓にあたって「もともとこの土地はインディアンのものだから」と、インディアンの官長が治める自治国を作ったであろうか。
満洲に満洲族の自治国家を作ろうとした日本と、どちらが文明的な態度であろう。
たしかに満洲国は、日本の傀儡国家であったかもしれない。
だが、薄儀は自らの希望と意思で満洲国皇帝になったのであり、彼なりに満洲の地に自民族の国家を作りたかったのである。
そこのところを見落として満洲国を傀儡国家と呼ぶのは、満洲族に失礼な言い方であろう。
満洲国の調査のために国際連盟から派遣されたリットン調査団も、その報告書の中で、「日本の侵略とは簡単に言えない」という主旨の結論を述べている。
満洲国は独立後、目覚ましい発展を遂げた。
かつて住む人もほとんどなかったクノーマンズ・ランドが、日本を凌ぐほど繁栄した地域に一変した。
これは、いかに満洲国を認めない人でも否定できない事実である。
たとえば南満洲鉄道(満鉄)は世界全体を見渡しても、これほど近代的な鉄道はなかったであろう。
また、見事な開発がなされた首都新京(長春)や奉天(藩陽)などの都市は、日本から訪れた旅行者を感嘆させた。
満洲国のスローガンは“五族協和”、
つまり満洲民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族が共存共栄するというものであったが、移民の実態を見るかぎり、この理念はみごとに実現しつつあったと言わざるをえない。
バチカン(ローマ教皇)を含む当時の世界の独立国の半分近い二十数カ国がその独立を承認した満洲国は、日本の敗戦とともに十数年で消えてなくなったから、その評価はむずかしいが、ある種の理想に基づいて作られた正当性のある国家であることは間違いない。
ただ、軍部が独走せず、政府が主体となって諸外国の承認のもとに満洲国を独立させていたら少なくとも満洲民族にとっては幸福であったろう。
現在のように中国の支配下で少数民族として虐げられるようなことはなかったであろう。
いまや満洲族はチベット族よりも危うい運命にあり、地球上から消えかかっていることを忘れてはならない。
◆二二六事件勃発 1936年(昭和11年)
青年将校たちがめざした“昭和維新”は右実社会主義革命だった。
戦後、国家主義者とか軍国主義者と呼ばれているのは、実は右翼の社会主義者たちであった。
彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
若い軍人たちが右翼社会主義思想に飛びついたのは日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。
社会に対する“義憤”に駆られた青年将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。
農民が飢えに苦しんでいるのに、一部の財閥が巨利を貧り、政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない、というわけである。
そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。
彼らは対立して抗争を繰り返していたが、天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行することを目指す点では同じであった。
皇道派はテロ活動によって体制の転覆を狙い、軍の上層部を中心に組織された統制派は、合法的に社会主義体制を実現することをめざした。
天皇のみを崇める右翼社会主義革命思想により、昭和七年に海軍青年将校の反乱「五・一五事件」が起きて犬養毅首相が殺された。
しかし、犯人の将校たちの刑は最高で禁錮十五年であった。
これは犯人たちを「昭和維新の志士」として減刑嘆願運動が盛り上がったためである。
昭和十一年の二・二六事件は、社会主義的正義感に燃え、“昭和維新”を唱える皇道派の陸軍青年将校が起こした悲劇である。
斎藤実内大臣(海軍大将)、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)などが、兵隊を指揮する青年将校たちに殺された。
これによっで日本は良識派の斎藤や渡辺を失い、ユダヤ財閥と太いパイプを持っていた高橋を失ったのである。
だが、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義的政権」をめざした彼らの目論見は完全な失敗に終わった。
昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧された。
これによって陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。
そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。
政府も議会も二一六事件以来、恐れをなして軍の意向に逆らえなくなった。
統制派の意思は陸軍の意思となり、陸軍の意思は日本の意思であるかのごとき状態になった。
しかも、統帥権干犯問題によって「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。
◆盧溝橋事件 1937年(昭和12年)
「漁夫の利」を狙って中国共産党が仕掛けたワナ。
二・二六事件以後、軍の意図に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなった。
日本は国家社会主義への道を驀進し、ついにシナ事変が起こる。
だが、それが日本軍による“侵略”であったかといえば、これは違う。
敗戦後に連合軍によって行われた東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、
「シナ事変はすべて日本軍の陰謀で起こされた」
という主旨の判決が出た。
そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映されたのだ。
慮溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという意図はまったくなかった。
これは日本にとってはまったくの偶発事件であったし、また事件勃発後も、これを拡大して全面的なシナとの武力対決に広げようというつもりはなかった。
さらに、慮溝橋事件については、戦後になって重大な事実が明らかになってきた。
それは、この事件が中国共産党の仕組んだワナであったということである。
つまり、日本軍と国民政府軍の衝突を意図的に作り出して中国共産党が「漁夫の利」を得ようとしたのだ。
虞溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲したということは、公刊された中国側資料の中に記述されているし、また、日本側でも慮溝橋事件直後、中共軍司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受したという証言もある。
重要なことは、東京裁判も慮溝橋事件の論告とそれにもとづく審査を途中でやめてしまったことである。
この事件の発端をよく調べると、責任が日本軍になかったことが明らかになるからだ。
やはり、日本軍は慮溝橋事件に「巻き込まれた」のである。
これに対し、「そもそも、そんなところに日本軍がいたこと自体が悪いのだ」という意見が日本で見られる。
しかし、日本軍部隊は条約によって駐留を認められていたのだ。
現在でも、日本や韓国には条約によってアメリカ軍が駐留している。
このアメリカ軍に対し、暗夜に発砲すれば、事件が起こっで当然であろう。
慮溝棉事件はそれと同じであり、また事件から四日目の七月十一日に事態収拾のため現地協定を成立させたのは、ほめられてよいことであった。
◆通州事件 1937年(昭和12年)
シナ人による日本人虐殺を歴史から抹殺しようとする“進歩的”知識人たち。
慮溝橋事件から約三週間後の昭和十二年七月二十九日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(巽東防共自治政府軍)による大規模な日本人虐殺事件が起こった。
殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数のコリア人も含む)の二百数十名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法で日本人を惨殺した。
これが、シナ事変が日本の一方的な“侵略”ではないことを示す、最も象徴的な「通州事件」である。
この通州事件については、戦後ほとんど語られなくなった。
岩波書店の『近代日本総合年表』(三版・一九九一年)には七月二十八日まであって、事件のあった二十九日から八月九日までは空白である。
このように、現代のほとんどの本には通州事件のことは載っていないし、あったとしても事件の本質を歪めて書いている。
なぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。
東京裁判において通州事件についての論議が却下されたのも同じ理由からである。
事件の目撃者三人の宣誓口供書だけは受理されたが、その内容は酸鼻を極めた残虐なものであって、とても人間のやることとは思えない。
現地の日本軍兵士のみならず、国民の怒りは頂点に達した。
もしアメリカ人市民がこんな殺され方をされたらアメリカがどんな行動を起こすか想像してみたらよい。
当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。
東京裁判で通州事件のことが話題になったとき、これを不利な材料と見た人たちは
「あの事件は、そもそも日本軍が通州の保安隊施設を誤爆したからだ」
と言い立てた。
たしかに、虐殺事件の直前に誤爆事件があったのは事実である。
当時のシナ大陸は国民政府のほか、各地に自治政府が乱立して、非常に複雑な事態になっていた。
そのため、関東軍の爆撃機が、国民政府軍の兵営を爆撃するつもりで、その隣にあった通州の巽東防共自治政府保安部隊の施設を誤爆したのだ。
この結果、数名の保安隊貞が死亡した。
だが、この事件は、ただちに関東軍の責任者が巽東政府を訪問して陳謝したので、一件落着となった。
遺族のところにも足を運んでいる。
事後処理に手落ちはない。
では、なぜ日本人居留民が襲われたのか。
巽東防共自治政府は親日的とされていたが、要するに反日側に寝返って、誤爆事件以前から虐殺を行う気でいたのである。
近年出版された中国側資料によると、彼ら保安隊は口実を作って、日本人居留民らを通州城内に集合させ、そののち城門を閉めて虐殺を行ったらしい。
進歩的な歴史家や知識人たちは、日本人でありながらこのような事実を故意に隠して、日本がシナを一方的に攻撃していたと言いつづけているのである。
◆第二次上海事変 1937年(昭和12年)
国際世論の同情を集めるため無差別爆撃を行った蒋介石の犯罪。
通州で虐殺が行われる一方、上海でも日本人の生命に危険が及んでいた。
居留民保護のため駐屯していた日本の海軍陸戦隊(米海兵隊とは違い、本格的な陸戦の装備を持っていない。居留民保護のための便宜的な軍隊)に対し、国民政府軍の蒋介石が戦闘をしかけたのである。
この「第二次上海事変」も、例によって戦後の東京裁判史観では「日本が蒋介石軍に対して攻撃をしかけた」ということになっている。
だが、上海にいた日本海軍陸戦隊四千名に対して蒋介石軍は正規軍十個師団五万人を配置した。
日本総領事館と商社の電話線を切断し、多くのシナ人を含む一般市民が逃げられないように道路をすべて封鎖したうえで民間人がいるに決まっているホテルなどを爆撃したのである。
その結果、三千六百名あまりの死傷者を出した。
この一事をみただけでも、日本が“侵略”したというような話でないのは明らかではないか。
蒋介石が狙ったのは、「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出し、国際世論の同情を集めようということであった。
蒋介石は一般市民を犠牲にすることを厭わないばかりか、あえて欧米人の被害者を出すことで欧米の目を向けさせようとしたとも言われる。
そのようなことで無差別爆撃をやったとすれば、これこそ“戦争犯罪”と呼ぶべきものであろう。
上海戦線には、中国が十年も前からドイツの参謀将校を招いて作った陣地と武器が待ちかまえており、上陸した日本陸軍は日露戦争の旅順攻略戦のような人員の被害を受けた。
国民政府が上海地区にトーチカや機関銃陣地などをドイツの参謀将校の指示に従って配備し、日本軍を誘い込もうとしたことは明らかである。
第一次欧州大戦で近代的な陣地戦を経験したドイツの参謀将校を招いて堅固な陣地を作ってから日本人居留地区に攻撃をしかけ、その救援に来た日本軍を残滅することなら可能であると蒋介石は考えたのである。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
■日本の歴史:読む年表より その2
◆北清事変(義和団の乱) 1900年(明治33年)
日本軍の勇敢さと品格が日英同盟の引きがねとなった。
「三国干渉」以降の晴国は、西洋列強から領土を好きなように食い荒らされているような状態であり、シナ人たちが白人排斥の感情を抱くようになったのは無理のない話であった。
その旗頭となったのが「扶清滅洋」とか「代天行道」(天に代わって正義を実現する)をスローガンにする「義和団」という宗教集団であった。
この義和団の起こした反乱は清全体に広がり、とうとう北京を制圧し、同地の公使館区域を包囲するという事態にまで発展した。
清国政府は傍観するのみで、義和団を排除しようとしないどころか、これをきっかけに諸外国と戦うという詔勅まで出したのである。
ここに至って、義和団の暴動は内乱から一転して対外戦争になった。
清国正規兵が北京の公使館や天津の租界を攻撃しはじめたのだ。
列国は驚愕した。
このままでは、公使館員や居留民が皆殺しになるのは目に見えている。
しかし、ヨーロッパから援軍を派遣するのでは間に合わない。
そこで、欧米列強はみな日本が救援軍を送ることを望んだ。
日本政府は国際社会の反応を恐れて慎重な姿勢をとっていたが、欧州各国の意見を代表する形でイギリス政府から正式な申し入れがあったため、ようやく出兵を承諾した。
日本軍は欧米との連合軍の先頭に立って力戦奮闘した。
その結果、北京もついに落城した。
この北清事変において、欧米列国は日本軍の規律正しさに感嘆した。
とりわけ彼らを驚かせたのは、日本軍だけが占領地域において略奪行為を行わなかったという事実であった。
北京でも上海でも連合軍は大規模な略奪を行ったが、日本軍だけは任務終了後ただちに帰国した。
救援軍の到着まで、北京の公使館区域が持ちこたえたのも口本人の括躍が大きかった。
十一カ国の公使館員を中心につくられた義勇軍の中で、日本人義勇兵は柴九郎中佐の指揮の下、最も勇敢にして見事な戦いぶりをみせた。
事件を取材して『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは、
「柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一様の賞讃の的になった」
と書いている。
列国の外交官やマスコミは日本軍の模範的行動を見て印象を一変させ、「同盟相手として信ずるに足りる国である」という親日的感情を抱いた。
大英帝国が日本と同盟を結ぶに至ったのは、これが一つの要因となった。
結局、国家間の外交も、人間が動かすものだ。
そこには打算もあるだろうが、最終的な決め手となるのは、やはり人間的な信頼関係ではないか。
そのことを、このときの日本軍の活躍は教えてくれている。
◆日英同盟の立役者 柴五郎(1860~1945年)
明治33年に清国で義和団の乱(北清事変)が勃発した。
義和団の排外運動によって、各国の公使館員、武官、キリスト教徒避難民の総勢約4千人は、北京の公使館区域において55日間の龍城戦を余儀なくされた。
この時、僅かの日本軍と各国の義勇隊を見事に統率、指揮して、4万人もの義和団の攻撃から公使館区域を守り抜いたのが駐在武官であった柴である。
柴の働きは各国から称賛された。
特に英国のマクドナルド公使は、
「北京龍城の功績の半ばは特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」
と柴の功績をたたえ、ビクトリア女王に日本との同盟を強く進言した。
日英同盟締結の陰には柴の存在があったのである。
柴は、「賊軍」会津の出身でありながら、陸軍大将にまでなった「不屈の軍人」である。
会津藩士の五男として生まれた柴の生涯は壮絶であった。
戊辰戦争によって、柴の祖母、母、兄嫁、姉と7歳の妹は自刃。
幼い柴は、敵の目を逃れて、自宅の焼け跡から遺骨を拾い集めた。
捕虜とされた後、一家は陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住するが、極寒の地での生活は困窮を極めた。
「炉辺にありても氷点下十度十五度なり。
炊きたる飯も石のごとく凍り、これを解かして啜る。
衣服は凍死を免れる程度なれなければ米俵にもぐりて苦しめらる」
「餓死、凍死を免るるが精一杯なり。
栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。
寒さひとしお骨を噛む」。
後に柴はこう回顧している。
野良犬の死骸をも食べ、絶望的な境遇を必死に生き抜いた柴を支えたものは、
「朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民、言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず」
という会津武士の衿持であった。
「非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮かびて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし」。
齢80を超してもなお、
「懊悩流テイやむことなし」
と書き残した言葉の意味は重い。
(2012/10/27産経新聞)
◆日英同盟成立 1902年
世界の常識をくつがえし、ロシアとの開戦を可能にした同盟。
三国干渉の後、ロシア海軍が遼東半島沿岸や朝鮮西海の制海権を握ったことは、日本の防衛に大変な脅威となった。
「開戦やむなし」の声も高まったが、日本がロシアに勝てる可能性は万に一つもない。
日本政府も欧米諸国もそう思っていた。
ところが、日本にとって思わぬ味方が現われた。
大英帝国から同盟の提案があったのである。
日英同盟成立のニュースを聞いて、当時の国際社会は文字どおり仰天した。
なぜなら、世界に冠たる大英帝国が、有色人種の小国と同盟を結ぶというのは、当時の常識では考えられないことであった。
伊藤博文ですら、イギリスの提案を信じず、ロシアと妥協するほうが可能性は高いと見ていたのである。
イギリスはその頃、南アフリカのボーア戦争に手を焼いていた。
英陸軍が東アジアでロシアの南下を抑えることは全く不可能とわかったので、東アジアに信頼できる国を求めていたのだが、当時は日本にはまだよく知られていなかった。
イギリスはアジアの植民地を守るためのパートナーとして日本を選んだのだ。
もちろん、同盟とは言っても、はるばるヨーロッパからイギリス軍が授軍に来てくれるわけではない。
武器供与をしてくれるわけでも、戦費を調達してくれるわけでもない。
しかし、かの大英帝国がロシアに対していっさいの便宜供与を拒絶し、圧力をかけつづけてくれれば、ロシア軍の動きは大いに妨げられる。
ロシアと同盟関係にある国も、イギリスとの関係上、ロシアを軍事的に助けることはないだろう。
そうなれば、小国日本がロシアに勝つチャンスが生まれるはずだ。
日英同盟が結ばれたことが、日本をロシアとの開戦に踏みきらせたのである。
日本にとって日英同盟の持つ意味はまことに大きかったわけだが、およそ二十年間にわたって続いたこの同盟は、日露戦争以後も両国にとって重要な意味を持ちつづけた。
イギリスの同盟国ということで、国際社会における日本の信用は大いに高まった。
また、日本にアジアを任せていられたおかげで、イギリスもヨーロッパ人陸での外交に力を集中することができた。
その日英同盟の解消を企んだのはアメリカであった。
シナ大陸進出を最大の目的にしていたアメリカは、なんとか日本の力を殺ぎたかった。
日本を第一の仮想敵国とみなし、精力的に運動した結果、大正十年(一九二一)のワシントン会議において日英同盟は解消されることになった。
そのかわり日・英・米・仏の四国協定が結ばれたのだが、“共同責任は無責任”という言葉のとおり、この条約は何の意味もなかった。
イギリスとの同盟がなくなったと見るや、アメリカは日本を狙い撃ちしはじめ、これ以降、日米関係は悪化の一途をたどる。
◆日露開戦(日露戦争) 1904年(明治37年)
開戦を決意すると同時に講和の準備を始めた明治政府の高度な外交センス。
“国家存亡の秋”という表現があるが、まさに同家の存続を賭けた日露戦争に日本は勝利を収めた。
これは世界中の度肝を抜く二十世紀初頭の大事件だった。
もちろん、当時世界最強と言われたロシア軍相手に完勝できるなどとは日本政府はまったく考えていなかった。
そこで「少しでも日本が優勢になれば、ただちにロシアと講和を結び、できるだけ有利な条件で戦争を終えるしかない」と、その際の講和の仲介を中立的な立場にあるアメリカに依頼していた。
開戦を決意すると同時に和平のための特使を送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導こうとした明治政府の外交センスの高さは、いくら評価してもしきれるものではない。
「いつ、どのようにして戦争を終わらせるか」を、まったく考えずにシナやアメリカ相手の戦争に突入した昭和の政府や軍部を考えると、天と地ほどの違いがある。
さらに、政府は諜報活動や謀略活動にも力を往いだ。
そのなかで最大の頁献をなしたのが明石元二郎大佐である。
彼が行ったのはロシアの革命勢力の授助であった。
その働きは、「数個師団に匹敵した」と言われ、ヨーロッパ各地に亡命している革命家たちを資金面でも援助し、ロシアにおける反政府暴動や争議を扇動した。
明石の活動によってロシア政府は戦争に専心できなくなってしまった。
日露戦争は単に日本がロシアに勝ったというだけの戦争ではない。
空前の影響を世界中に及ぼしたのである。
それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実である。
日露戦争がなかったら、あるいは日本が負けていたならば、白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、二十一世紀の今日でも、世界は間違いなく植民地と人種差別に満ちていたであろう。
日本が強国ロシアを相手に勝ったのを見て、ほかの有色人種にも、自分たちにもできるかもしれないという意識が生まれた。
インドでは民族運動が起こり、あの頑迷な清朝政府までが千三百年続いた科挙を廃止し、日本に留学生を送るようになった。
日露戦争で日本が勝ったために、白人優位の時代に終止符が打たれたのである。
◆奉天会戦 1905年
世界最強のコサック駒兵を封じ込めた秋山好古将軍の画期的なな戦術。
海軍はともかく、陸軍のほうはロシアに対して万に一つも勝ち目がないと世界中から思われていた。
世界最強と目されるロシアのコサック騎兵に比べ、日本の騎兵の運用は明治になって西洋から大急ぎで学んだばかりだし、馬もあわててオーストラリアから輸入して育成したものだった。
日本騎兵の創設者、秋山好古が考えたのは、騎馬での戦いでは日本人がコサックに勝でるわけがない。
だから、コサック兵が現われたらただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙ぎ倒してしまおうと彼は考えたのである。
さらに秋山将軍は、当時ヨーロッパで発明されたばかりで、「悪魔的兵器」と言われながらもその威力が戦場では未知数であった「機関銃」を採用した。
日本兵の機関銃の前にコサック騎兵は次々と倒され、なす術もなかった。
その結果、最終決戦となった明治三十八年の奉天会戦の戦場では、とうとうコサックは前線に現われなかった。
この奉天会戦で秋山の部隊は敵の猛攻を受けながらも敵陣深く進むことに成功し、ついにはロシア軍の中心部近くにまで達した。
わずか三千の兵力にすぎない秋山の部隊が出現したことを聞いて、敵将クロパトキンは震えあがり、ついにロシア軍に総退却を指令した。
日本軍はこの機を逃さず追撃を開始し、二万人のロシア兵を捕虜にした。
言ってみれば、秋山の部隊が奉天会戦の勝敗を決定したようなものであった。
世界中の人々にとっで、日本軍の勝利はまるで奇跡を見ているかのようであったと思われる。
戦争が終わり、真実が分かったとき、それまで世界中で「陸軍の華」と呼ばれた騎兵は、世界の陸軍から急速に消滅し、世界の陸軍を変えてしまったのだ。
世界長大の陸軍国ロシアを相手に日本が勝利できた原因として、総司令官大山巌、総参謀長児玉源太郎をはじめ、当時の日本軍の指揮官たちがみな維新の戦いや西南戦争の経験者ぞろいであり、実際の戦争を体で知っていた人材であったことも大きかった。
たとえば、第一軍を率いた黒木為禎将軍は奉天会戦に先立つ遼陽会戦において、軍事史上類を見ない一個師団二万人による夜襲を実行した。
わずか一連隊の兵をロシアの防衛線となっている太子河の川岸に薄く並べ、あたかも黒木軍がそこにいるように見せかけて、その間に渡河して奇襲するという、まさに常識破りの作戦であった。
黒木軍に随行していたドイツの観戦武官ホフマンが「この作戦は危険すぎるのではないか」と質問した。
これに対して、黒木は「私の勘では、この作戦はうまくいく。まあ見ていなさい」と答えたという。
この史上空前の奇襲作戦は、みごとに成功した。
ホフマン自身が著書に記したところによれば、ホフマンは黒木将軍の手を取り、
「将軍、私はこれほど尊い教訓を受けたことがありません」
と感謝したという。
日露戦争における陸軍の司令官たちはみな実戦で学び、鍛えられた人たちばかりであった。
大東亜戦争において、教科書どおりの戦法を繰り返して何ら学ぶところのなかった士官学校出のエリート軍人たちが多かったのとは、大いに違うと言わざるをえない。
◆日本海海戦 1905年(明治38年)
日本の科学力が世界最強の艦隊を葬り、戦艦の歴史を変えた。
日本海海戦で日本海軍は、バルト海からはるばる回航してきたロシアのパルチック艦隊相手にパーフェクトな勝利を収め、これに世界の人々は驚愕した。
戦力については、海軍の総排水量はロシアの半分であった。
戦艦の数と大砲の門数もロシアが上回っている。
しかし、終わってみれば日本の軍艦は一隻も沈まず、パルチック艦隊はほとんど全部が沈むか、捕獲された。
ウラジオストクまで逃げおおせた軍艦は損傷を受けた巡洋艦一隻と駆逐艦二隻だけであった。
日本側の損害は水雷艇が三隻、波をかぶって転覆したのみである。
これほどの完全勝利は海戦史上に類例がない。
日露戦争当時の海戦では、いかに敵艦を沈めるかが最大の目標であった。
つまり、艦砲で砲弾を打ち込み、敵艦に穴を開けるということが主だったわけである。
だが、つねに波に揺れている敵艦に砲弾を命中させるのは至難のわざである。
また、仮に命中させたとしでも、必ずしも沈没させうるわけではない。
戦艦は船体に分厚い鉄板や鋼板を用いて、砲弾が貫通しないようにしているからである。
装甲した戦艦を沈没させることは容易ではない。
たとえば、日本海海戦においても、東郷平八郎大将の座乗した旗艦「三笠」は敵弾を三十七発も受け、甲板や舷側に穴が開き、百余人の死傷者が出たが、それでも沈まずに戦いつづけている。
戦艦というのは、船底を破られないかぎり、なかなか沈没しないものなのである。
だから、夜陰に乗じて水雷艇で戦艦を撃沈するとか、軍港内に停泊している艦船に向けて陸から大砲を打ち込むほうが、ずっと効率的なのだ。
実際、日本海軍を苦しめた旅順艦隊を最終的に全滅させたのは、二〇三高地から旅順港に打ち込まれた二十八センチ砲であった。
にもかかわらず、艦隊同士の直接対決で日本が一方的な勝利を収め得たのは、日本オリジナルの「下瀬火薬」と呼ばれる新式火薬が威力を発揮したからである。
これ以降、爆薬の歴史が変わったといっても過言ではない。
この火薬が生み出す爆風の力は従来型の数倍にも達し、炸裂した砲弾のかけらは猛スピードで飛散するから殺傷力は格段に高い。
さらに、気化した三千度の高熱ガスが塗装に引火しで火事を起こした。
日本軍の砲弾が当たるたびに猛烈な爆発と火災が起き、ロシア海軍の戦闘力はたちまち失われた。
少々砲撃の狙いが外れても大損害を与えられたから、日本は圧倒的に有利であった。
加えて、伊集院五郎の開発した伊集院信管によって日本の砲弾が「魚雷式」になっていたこと、木村駿吉が開発した無線電信機器によって、「敵艦見ユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。
海戦において実用に耐えうる電信機器を開発したのは、木村が初めてであった。
陸軍の機関銃とともに、当時の日本軍がこうした画期的な“新技術”を導入したことが日露戦争の帰趨を決め、戦争の概念を一変させたのである。
世界の海軍関係者は衝撃を受けた。
「装甲による防御」という考えが、下瀬火薬によって否定されてしまったからである。
これ以来、世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する。
下瀬火薬は、戦艦の歴史を変えたほどの大発明だったのである。
◆日韓併合 1910年
伊藤博文暗殺によって日韓関係は予想外の方向に動いた。
三国干渉に日本が屈したのをみて、「事大主義」(強いものにつく)の伝統を持つ韓国は、親露派が力を得、反日・侮日政策をとるようになって政情は騒然とし、日韓関係も緊張した。
そこで日本政府は韓国の富国・近代化が実現するまで外交権を預かろうとした。
明治三十七年(一九〇四)、日韓新条約が日露戦争勃発の半年後に調印され、さらに戦争終結後、協約によって韓国は日本の保護国となった。
(ある国が他の国を保護国にすることは、当時もいまも普通に行われている)
世界各国もこれを了承した。
ところが、初代韓国統監となった伊藤博文は明治四十二年(一九〇九)、満洲ハルビン駅で韓国人安重根に暗殺されてしまう。
超大国ロシアを倒した日本の元勲を暗殺してしまったのだから、韓国政府は震え上がった。
日本人が激怒したのは言うまでもない。
日韓併合の議論はこうした状況から生まれ、韓国側からも政府・民間を問わず併合の提案があった。
英米の新聞も「東アジア安定のために日韓併合を支持する」という姿勢を示した。
それで日本は日韓併合条約を締結したのである。
とはいえ、これは日本にとって大変な負担であった。
朝鮮半島が日本の領土である以上、日本軍を置かねばならない。
陸軍は二個師団の増設を要求したが、日露戦争を終えたばかりの日本にはそんな経済的ゆとりはどこにもない。
師団増設問題は大きな政治問題になった。
それでもインフラの整備や教育にも巨額の予算を割き、日本は韓国の近代化を推進したのである。
戦後、「日韓併合は植民地支配だった」という言われ方をされてきた。
だが、「朝鮮人は被支配者ではなく同じ日本国民である」というのが当時の考え方であった。
天皇直属の軍人にもコリア人がいて、中将になった人もあった。
後に韓国大統領になる朴青年は、士官学校を出て少尉に任官している。
これは当時の国際常識から見れば、例外的と言っていいほど人道的なやり方であった。
李朝の一族は王公族として皇族に準ずる扱いを受けたし、李王の世子には皇室から配偶者を出されたのである。
西洋諸国の場合、植民地の王族や酋長が本国の王室や貴族と同列に置かれ、婚姻関係を結ぶなどというのは、絶対にありえない話であろう。
また、「日韓併合条約は無効である」と言うような人もいるが、昭和四十年(一九六五)、日韓基本条約が締結されたときに、日韓併合条約は有効であることが両国で確認され、賠償金は日本は韓国に三億ドルの無償贈与、借款五億ドルを提供し、韓国は対日賠償を一切求めぬということになっている。
したがって、もはや“戦後補償”など持ち出す筋合いのものではない。
まして「朝鮮における唯一の合法政権」として韓国と基本条約を結んだのだから、北朝鮮に対する戦後補償など、日韓基本条約の大前提をくつがえす言語道断の暴論であり、無知としか言いようのない妄言である。
◆米「絶対的排日移民法」成立 1924年(大正13年)
人種差別に基づいた感情的な法律が日米開戦の遠因となった。
国内を開拓しつくし、新たなるフロンティアを求めてシナ大陸への進出を目論むアメリカにとって、すでにシナで力を得ていた日本は邪魔な存在となっていた。
シナ大陸にはヨーロッパ列国も進出しているわけだが、どうしても憎悪は日本にだけ向くことになる。
人種偏見の時代には当然であった。
しかも国内では日本人移民が西海岸の農地の多くを開拓し、所有しているのである。
加えて、日露戦争の勝利が恐怖心を植えつけた。
アメリカが恐れたのは
「日本にはバルチック艦隊を沈めた連合艦隊があるのに、我々にはそれに対抗する太平洋艦隊がない」
ということであった。
アメリカの新聞には「日本軍襲来」というデマ記事さえ流れるようになった。
そこで彼らは法律を変えることで日本人に対抗しようとした。
つまり、州ごとに次から次へと排日移民法を成立させて、まず日本人移民を締め出そうとしたのである。
日本政府は外交努力を重ね、明治四十一年(一九〇八)には「日米紳士協約」でアメリカ合衆国には移民を送らないというところまで譲歩した。
日本がいかに欧米諸国の理性に期待していたかは、国際連盟において「人種差別撤廃条項」を提案したことでもよく分かる。
だが、これは議長であるウィルソン米大統領の発言により否決された。
これでアメリカにおける排日運動はいよいよ勢いづき、その総決算という形で生まれたのが、一九二四年(大正十三年)に定められた「帰化(国籍取得)に不適格なる外国人」についでのいわゆる「絶対的排日移民法」または「帰化不能外国人移民法」と呼ばれる連邦法であった。
つまりアメリカは国家全体として全日本人移民を排除する意思を示したのである。
この法律の成立は日本人に大きなショックを与え、対米感情を一変させた。
すでにアメリカの排日運動は二十年近く続いていたのだが、日本人の心にはどこかアメリカに対する期待や信頼があった。
しかしこれ以来、当然ながら日本は言論界・財界まであげて反米に回った
戦後に出版されたさまざまな回顧録には、
「日米開戦を知って、『これは大変なことになった』と思った」
と書いてある。
もちろん、これは嘘ではない。
だが、その一方で当時の日本人の多くが「これでスカッとした」という感情を抱いたことを言わねば、これは真実を語ったことにならないのである。
戦後、「この大戦の遠因はアメリカ移民の問題であり、近因は石油が禁輸されたことである」という主旨のことを昭和天皇がおっしゃった。
まことに正鵠を射たご観察だったと思う。
◆治安維持法公布 1925年
「一天皇制廃止」の暴力的イデオロキーに対抗した“法”の功罪。
一九二二年(大正十一年)、ソヴィエト社会主義共和国が成立し、ロシアにかわって、より恐るべきソ連が誕生した。
同年、モスクワおよびペテルスブルクで第四回コミンテルン(ソ連共産党を中心に結成された国際組織)総会が開かれ、世界中から君主制を廃止するという決議がなされた。
当然ながら、日本共産党も皇室廃止をめざすことになった。
この決議に対して当時の日本人は恐怖を抱いた。
その五年前にソ連共産党はロマノフ王朝のニコライ二世夫妻はじめ、王家の家族を皆殺しにして「君主制の廃止」を行っていたからだ。
これに対して、政府は大正十四年、治安維持法を公布した。
その主旨はあくまでも暴力とつねにセットになっている共産主義イデオロギーの国内流入と、右翼(主張は社会主義)の暴力行動を防ぐことにあった。
それ以外の労働運動や社会運動まで取り締まることを考えていなかったことは、治安維持法と同時期に公布された普通選挙法に基づき、昭和三年(一九二八)に行われた最初の普通選挙で社会民衆党、労働農民党、日本労農党といった無産政党が議席を獲得していることからも明らかであろう。
治安維持法によって無実の人まで逮捕・勾留されたのは、動かしがたい事実である。
だが、隣国ソ連の暴力的イデオロギーやテロ思想に対して対抗措置をとった日本政府の立場は、今日から見ても理解できるものだし、未然に防いだという点については評価できるのではないか。
さらに、この治安維持法によって死刑を宣告された共産党員は一人もいなかった。
治安維持法では天皇の名の下に取り調べが行われ、裁判を受けることができた。
あくまで思想を捨てず、「非転向」を貫いたと自慢する共産党貝がいるのも、実はそのためである。
しかし、その人たちが信じる共産主義の国では、いったん逮捕されると裁判を受ける権利さえ許されず銃殺された人が無数にいる。
日本でも、作家小林多喜二のように警察で拷問を受けて死んだ人がいたのは事実である。
しかし、それは共産主義国家のように最初から取調べもせずに死刑にされたのとは意味が違う。
転向や非転向というのは、命があってこそ成り立つ話なのである。
治安維持法を悪と決めつけるのはたやすい。
特高(特別高等警察)でさえも最初は反対した法律である。
だが、そのような悪法がなぜ成立したかということをも、あわせて考えなければ、歴史から何の教訓も得られないのではないか。
「治安維持法は民衆弾圧の道具」と強調されすぎたことによって、現代の政府や警察がマスコミなどを気にしすぎ、思想や宗教が絡む事件に対して非常に臆病になっているのも、治安維持法の“亡霊”に怯えているからではないかと思う。
◆世界大恐慌 1929年
「ホーリー・スムート」法が大恐慌を引き起こし、ドイツや日本を戦争に追い込んだ。
一九二九年(昭和四年)に、下院議員ホーリーと上院議員スムートが「ホーリー・スムート法案」を連邦議会に提出した。
二人は外国製品をアメリカ市場から閉め出して自分の関連する企業の利益を大幅に上げるため、超高率の関税をかけようとしたのである。
こんな法律が通れば世界の貿易は麻痺し、不景気になることは目に見えているから、株式が大暴落し、大不況が起こった。
まさにその不景気を打開するために、アメリカ議会はこの法律を翌年成立させたのだが、世界中の国が報復措置をとり、わずか一年半で二十五の国が、アメリカ製品に対する関税を引き上げたのである。
世界大恐慌の真因は、ホーリー・スムート法によってアメリカが自由貿易を捨て、ブロック経済に入ったことである。
これに対抗して大英帝国、およびその植民地も、カナダで開かれたオタワ会議(一九三二年)においてブロック経済を行うことを決定した。
当時の大英帝国といえば、植民地を含めると世界の四分の一を占めるほどの規模である。
現在のEU(欧州連合)をしのぐ経済グループが、国際経済から離脱したのだ。
日本が「我々も自給自足圏を作るしかない」と考えたのも当然の展開であった。
日本を中心とする経済ブロックを東アジアに作って大不況を生き残ろうという考えは、やがて「日満ブロック政策」(日本と満洲を一つの経済圏とする政策)となった。
絶体絶命の窮地に立たされたのは、第一次大戦の敗北によってすべての植民地を失い、千三百二十億マルクという巨額の賠償金を払いつづけていたドイツであった。
ブロック経済によって貿易を封じられ、大不況による超インフレと大量の失業者を出した経済的苦境を解決すると言って現われたのが、ヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)であった。
彼は賠償金支払いを放棄し、社会主義的政策をその大方針として自給自足の可能な国家を建設するための戦争に備えた。
ドイツやイタリアのような「持たざる国」では、「持てる国」英米の経済ブロック化に対抗する国家社会主義化(ファッショ化)が国民の絶大な支持を得たのである。
第二次世界大戦はドイツや日本が始めたものだとされるが、一九三〇年代のファッショ化の引きがねを引き、ドイツや日本を戦争に追い込む経済体制を作ったのはアメリカとイギリスであった。
そのことを最もよく知っていたのはまさに英米自身で、だからこそ第二次大戦の終結が見え出した一九四四年(昭和十九年)七月、アメリカのブレトン・ウッズで戦後の世界経済を考える会議を開き、自由貿易体制の世界を作る金融機関設置を決めたのである。
これは、第二次大戦の原因は自由貿易制度の破壊で、その元凶はアメリカのホーリー・スムート法とイギリスのオタワ会議であったことをアメリカとイギリスが自白したことを示すものであった。
◆満洲国建国 1932年(昭和7年)
「五族協和」の理想を掲げた満洲国の正当性。
満洲にいた日本陸軍、すなわち関東軍は昭和六年、日本政府の方針をまったく無視して満洲の諸都市を制圧し、さらに満洲国の独立を実現させた。
(昭和七年三月一日建国宣言)
これが満洲事変である。
統帥権干犯問題を盾に勝手な行動を起こしたのは関東軍将校の暴走としか言いようがないが、しかし、その軍事行動自体は国際法上、何の問題もなかった。
そもそも日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから南満洲における権益を譲り受けている。
これは当時の清国政権も承認している。
しかも、当時、満洲にいた日本人がシナ兵や匪賊に襲われ、殺害される事件がたびたび起きでいた。
関東軍はコリア人を含む日本人居留民の安全を守るために実力行使をしたのであって、外交上、非道なことをやったわけではない。
さらに、満洲国建国自体は悪いことではなかった。
満洲は歴史的に見てシナ固有の領土ではない。
たしかに満洲は清朝の一部であったが、これは清朝を建てた満洲族が満洲の出身であったからにすぎない。
本来、シナ人(漢民族)と満洲人はまったく別の民族なのであり、別の言語系統に属している。
万里の長城以北の土地をシナ人が自分の領土と主張することは常識的に言ってもおかしいのだ。
満洲国皇帝となった薄儀(一九〇六~六七)は辛亥革命(一九二~一二)によって退位させられた最後の清朝皇帝である。
「革命」とはいうものの、正確に言えばシナ民族の満洲族王朝に対する独立運動であった。
シナ人によって紫禁城を追い出された薄儀が、自分の民族の故郷に戻って満洲国の皇帝になるのは当然の話である。
関東軍は満洲事変からわずか一年後に、薄儀を迎えて満洲国の建国を実現させた。
これは事後処理としては決して悪くないし、当時の国際常識から言えば非常に穏健な方法であり、民族自決の観点から言えばむしろ筋の通った話である。
しかも、満洲は日露戦争以後、治安もよくなり、日本人のみならず、シナ人やモンゴル人が急速に流入していた。
きちんとした政権が存在しないまま、このような大量流人が続けば、土地の所有権などをめぐって必ずや国際紛争が起こるはずである。
満洲に満洲族の本来の皇帝である薄儀が来て統治者となるアイデアは、民族自決のみならず、国際紛争を未然に防ぐという上でも優れたものであった。
アメリカが西部開拓にあたって「もともとこの土地はインディアンのものだから」と、インディアンの官長が治める自治国を作ったであろうか。
満洲に満洲族の自治国家を作ろうとした日本と、どちらが文明的な態度であろう。
たしかに満洲国は、日本の傀儡国家であったかもしれない。
だが、薄儀は自らの希望と意思で満洲国皇帝になったのであり、彼なりに満洲の地に自民族の国家を作りたかったのである。
そこのところを見落として満洲国を傀儡国家と呼ぶのは、満洲族に失礼な言い方であろう。
満洲国の調査のために国際連盟から派遣されたリットン調査団も、その報告書の中で、「日本の侵略とは簡単に言えない」という主旨の結論を述べている。
満洲国は独立後、目覚ましい発展を遂げた。
かつて住む人もほとんどなかったクノーマンズ・ランドが、日本を凌ぐほど繁栄した地域に一変した。
これは、いかに満洲国を認めない人でも否定できない事実である。
たとえば南満洲鉄道(満鉄)は世界全体を見渡しても、これほど近代的な鉄道はなかったであろう。
また、見事な開発がなされた首都新京(長春)や奉天(藩陽)などの都市は、日本から訪れた旅行者を感嘆させた。
満洲国のスローガンは“五族協和”、
つまり満洲民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族が共存共栄するというものであったが、移民の実態を見るかぎり、この理念はみごとに実現しつつあったと言わざるをえない。
バチカン(ローマ教皇)を含む当時の世界の独立国の半分近い二十数カ国がその独立を承認した満洲国は、日本の敗戦とともに十数年で消えてなくなったから、その評価はむずかしいが、ある種の理想に基づいて作られた正当性のある国家であることは間違いない。
ただ、軍部が独走せず、政府が主体となって諸外国の承認のもとに満洲国を独立させていたら少なくとも満洲民族にとっては幸福であったろう。
現在のように中国の支配下で少数民族として虐げられるようなことはなかったであろう。
いまや満洲族はチベット族よりも危うい運命にあり、地球上から消えかかっていることを忘れてはならない。
◆二二六事件勃発 1936年(昭和11年)
青年将校たちがめざした“昭和維新”は右実社会主義革命だった。
戦後、国家主義者とか軍国主義者と呼ばれているのは、実は右翼の社会主義者たちであった。
彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしようと考えたのである。
若い軍人たちが右翼社会主義思想に飛びついたのは日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。
社会に対する“義憤”に駆られた青年将校たちが怒りを向けたのが、資本主義と政党政治であった。
農民が飢えに苦しんでいるのに、一部の財閥が巨利を貧り、政治家たちは、目先の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない、というわけである。
そこで生まれた陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。
彼らは対立して抗争を繰り返していたが、天皇の名によって議会を停止し、私有財産を国有化して社会主義的政策を実行することを目指す点では同じであった。
皇道派はテロ活動によって体制の転覆を狙い、軍の上層部を中心に組織された統制派は、合法的に社会主義体制を実現することをめざした。
天皇のみを崇める右翼社会主義革命思想により、昭和七年に海軍青年将校の反乱「五・一五事件」が起きて犬養毅首相が殺された。
しかし、犯人の将校たちの刑は最高で禁錮十五年であった。
これは犯人たちを「昭和維新の志士」として減刑嘆願運動が盛り上がったためである。
昭和十一年の二・二六事件は、社会主義的正義感に燃え、“昭和維新”を唱える皇道派の陸軍青年将校が起こした悲劇である。
斎藤実内大臣(海軍大将)、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)などが、兵隊を指揮する青年将校たちに殺された。
これによっで日本は良識派の斎藤や渡辺を失い、ユダヤ財閥と太いパイプを持っていた高橋を失ったのである。
だが、軍部を中心とした「天皇を戴く社会主義的政権」をめざした彼らの目論見は完全な失敗に終わった。
昭和天皇の断固たる決意もあって、反乱軍は鎮圧された。
これによって陸軍内の皇道派は勢力を失い、統制派が陸軍の主導権を握ったのである。
そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされることになった。
政府も議会も二一六事件以来、恐れをなして軍の意向に逆らえなくなった。
統制派の意思は陸軍の意思となり、陸軍の意思は日本の意思であるかのごとき状態になった。
しかも、統帥権干犯問題によって「憲法上」、政府は軍に干渉できないことになっていた。
◆盧溝橋事件 1937年(昭和12年)
「漁夫の利」を狙って中国共産党が仕掛けたワナ。
二・二六事件以後、軍の意図に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなった。
日本は国家社会主義への道を驀進し、ついにシナ事変が起こる。
だが、それが日本軍による“侵略”であったかといえば、これは違う。
敗戦後に連合軍によって行われた東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、
「シナ事変はすべて日本軍の陰謀で起こされた」
という主旨の判決が出た。
そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映されたのだ。
慮溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという意図はまったくなかった。
これは日本にとってはまったくの偶発事件であったし、また事件勃発後も、これを拡大して全面的なシナとの武力対決に広げようというつもりはなかった。
さらに、慮溝橋事件については、戦後になって重大な事実が明らかになってきた。
それは、この事件が中国共産党の仕組んだワナであったということである。
つまり、日本軍と国民政府軍の衝突を意図的に作り出して中国共産党が「漁夫の利」を得ようとしたのだ。
虞溝橋の国民政府軍の中に中共軍のスパイが入り込んで、日本軍に向けて発砲したということは、公刊された中国側資料の中に記述されているし、また、日本側でも慮溝橋事件直後、中共軍司令部に向けて「成功せり」という緊急電報が打たれたのを傍受したという証言もある。
重要なことは、東京裁判も慮溝橋事件の論告とそれにもとづく審査を途中でやめてしまったことである。
この事件の発端をよく調べると、責任が日本軍になかったことが明らかになるからだ。
やはり、日本軍は慮溝橋事件に「巻き込まれた」のである。
これに対し、「そもそも、そんなところに日本軍がいたこと自体が悪いのだ」という意見が日本で見られる。
しかし、日本軍部隊は条約によって駐留を認められていたのだ。
現在でも、日本や韓国には条約によってアメリカ軍が駐留している。
このアメリカ軍に対し、暗夜に発砲すれば、事件が起こっで当然であろう。
慮溝棉事件はそれと同じであり、また事件から四日目の七月十一日に事態収拾のため現地協定を成立させたのは、ほめられてよいことであった。
◆通州事件 1937年(昭和12年)
シナ人による日本人虐殺を歴史から抹殺しようとする“進歩的”知識人たち。
慮溝橋事件から約三週間後の昭和十二年七月二十九日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(巽東防共自治政府軍)による大規模な日本人虐殺事件が起こった。
殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数のコリア人も含む)の二百数十名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法で日本人を惨殺した。
これが、シナ事変が日本の一方的な“侵略”ではないことを示す、最も象徴的な「通州事件」である。
この通州事件については、戦後ほとんど語られなくなった。
岩波書店の『近代日本総合年表』(三版・一九九一年)には七月二十八日まであって、事件のあった二十九日から八月九日までは空白である。
このように、現代のほとんどの本には通州事件のことは載っていないし、あったとしても事件の本質を歪めて書いている。
なぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。
東京裁判において通州事件についての論議が却下されたのも同じ理由からである。
事件の目撃者三人の宣誓口供書だけは受理されたが、その内容は酸鼻を極めた残虐なものであって、とても人間のやることとは思えない。
現地の日本軍兵士のみならず、国民の怒りは頂点に達した。
もしアメリカ人市民がこんな殺され方をされたらアメリカがどんな行動を起こすか想像してみたらよい。
当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできない。
東京裁判で通州事件のことが話題になったとき、これを不利な材料と見た人たちは
「あの事件は、そもそも日本軍が通州の保安隊施設を誤爆したからだ」
と言い立てた。
たしかに、虐殺事件の直前に誤爆事件があったのは事実である。
当時のシナ大陸は国民政府のほか、各地に自治政府が乱立して、非常に複雑な事態になっていた。
そのため、関東軍の爆撃機が、国民政府軍の兵営を爆撃するつもりで、その隣にあった通州の巽東防共自治政府保安部隊の施設を誤爆したのだ。
この結果、数名の保安隊貞が死亡した。
だが、この事件は、ただちに関東軍の責任者が巽東政府を訪問して陳謝したので、一件落着となった。
遺族のところにも足を運んでいる。
事後処理に手落ちはない。
では、なぜ日本人居留民が襲われたのか。
巽東防共自治政府は親日的とされていたが、要するに反日側に寝返って、誤爆事件以前から虐殺を行う気でいたのである。
近年出版された中国側資料によると、彼ら保安隊は口実を作って、日本人居留民らを通州城内に集合させ、そののち城門を閉めて虐殺を行ったらしい。
進歩的な歴史家や知識人たちは、日本人でありながらこのような事実を故意に隠して、日本がシナを一方的に攻撃していたと言いつづけているのである。
◆第二次上海事変 1937年(昭和12年)
国際世論の同情を集めるため無差別爆撃を行った蒋介石の犯罪。
通州で虐殺が行われる一方、上海でも日本人の生命に危険が及んでいた。
居留民保護のため駐屯していた日本の海軍陸戦隊(米海兵隊とは違い、本格的な陸戦の装備を持っていない。居留民保護のための便宜的な軍隊)に対し、国民政府軍の蒋介石が戦闘をしかけたのである。
この「第二次上海事変」も、例によって戦後の東京裁判史観では「日本が蒋介石軍に対して攻撃をしかけた」ということになっている。
だが、上海にいた日本海軍陸戦隊四千名に対して蒋介石軍は正規軍十個師団五万人を配置した。
日本総領事館と商社の電話線を切断し、多くのシナ人を含む一般市民が逃げられないように道路をすべて封鎖したうえで民間人がいるに決まっているホテルなどを爆撃したのである。
その結果、三千六百名あまりの死傷者を出した。
この一事をみただけでも、日本が“侵略”したというような話でないのは明らかではないか。
蒋介石が狙ったのは、「日本がシナを蹂躙している」というイメージを作り出し、国際世論の同情を集めようということであった。
蒋介石は一般市民を犠牲にすることを厭わないばかりか、あえて欧米人の被害者を出すことで欧米の目を向けさせようとしたとも言われる。
そのようなことで無差別爆撃をやったとすれば、これこそ“戦争犯罪”と呼ぶべきものであろう。
上海戦線には、中国が十年も前からドイツの参謀将校を招いて作った陣地と武器が待ちかまえており、上陸した日本陸軍は日露戦争の旅順攻略戦のような人員の被害を受けた。
国民政府が上海地区にトーチカや機関銃陣地などをドイツの参謀将校の指示に従って配備し、日本軍を誘い込もうとしたことは明らかである。
第一次欧州大戦で近代的な陣地戦を経験したドイツの参謀将校を招いて堅固な陣地を作ってから日本人居留地区に攻撃をしかけ、その救援に来た日本軍を残滅することなら可能であると蒋介石は考えたのである。