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『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
■日本の歴史:読む年表より その4
◆企画院設立 1937年(昭和12年)
日本を右翼社会主義国家にした官僚たちの「経済版参謀本部」。
軍部の台頭に呼応する形で右翼社会主義に傾斜していったのが官僚たちであった。
大恐慌前の日本の経済政策の基本は言うまでもなく自由主義であり、財閥の活動を奨励こそすれ、統制しようとはしなかった。
それが、大恐慌が起こって世界的に自由主義経済が疑問視されるようになると、役人たちは「今こそわれらの出番ではないか」と考えるようになった。
国の統制力が強いほど、官僚の権限も大きくなるからである。
世界的不況のいまこそ国が経済を統制して私有財産を制限し、貧富の差をなくすべきだと彼らは考えた。
もはや政治家にまかせてはおけない、軍部が『天皇の軍隊』と言うのなら、東京帝国大学法学部卒業のエリートである自分たちも天皇に直結して、政治家から独立して行動できる、というのが彼らの理屈であった。
こうして登場したのが、『天皇の官僚』を自称する「新官僚」であった。
統制派が完全掌握した陸軍とともに、彼らは「革新官僚」として経済統制を推し進め、ナチスばりの全体主義国家をつくろうとし始めた。
それを象徴するのが、二・二六事件の翌年、昭和十二年十月二十五日に創設された企画院である。
これはシナ事変勃発に対応するため、戦時統制経済のあらゆる基本計画を一手に作り上げるという目的で作られたものである。
言ってみれば「経済版の参謀本部」で、その権限はあらゆる経済分野をカバーする強大なものとなった。
その企画院によって生み出されたのが、国家総動員体制であった。
日本に存在するすべての資源と人間を、国家の命令一つで自由に動かせるということであり、まさに統制経済が行き着くところまで行ったという観がある。
この体制では釘一本、人一人を動かすのでも、政府の命令、つまり官僚が作った文書が必要なのである。
昭和十三年に制定された「国家総動員法」によって自由主義経済は封じられ、日本は完全な右翼社会主義の国家となった。
もはや議会にそれを止める力はなかった。
大正デモクラシーが育てた政党政治はもろくも崩れ去ったのである。
そもそも企画院をつくった近衛文麿首相自身、社会主義的政策に共感していた人物だが、革新官僚たちの主張が共産主義に通ずるものであることに初めは気づかなかった。
彼は、終戦直前になって「右翼も左翼も同じだということに、ようやく気づいた」と告白している。
昭和二十年(一九四五)二月十四日に近衛が昭和天皇に呈出した上奏文のなかに
「右翼は国体の衣を付けた共産主義者であります。
……彼らの主張の背後に潜んでいる意図を十分に看取できなかったことは、まったく不明の致すところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じている次第です」
という一節がある。
首相として軍人や官僚たちと仕事をした人の最終的意見であるから、まさに注目すべきものであろう。史:読む年表より その4
◆アメリカが「ハル・ノート」提示 1941年(昭和16年)
日米戦争に追い込んだ英国・ロシアの陰謀とアメリカの“最後通告。
慮溝橋事件に始まったシナ事変(日華事変)は ずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。
気がつくと日本は、「ABCD包囲陣」に取り囲まれていた。
Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはインドネシアを植民地にしていたオランダ(ダッチ)である。
最近の研究によると、この包囲陣を画策したのはイギリスのチャーチル首相であったようだ。
第二次欧州大戦において、ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前の灯であった。
チャーチルは「アメリカを戦争に引きずりこむしかない」と考えたが、ルーズベルト米大統領は「絶対に参戦しない」という公約を掲げて当選していたのだから、簡単に応じるはずはない。
そこでチャーチルは迂回作戦をとり、まず日米戦争が起こるように仕向け、日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが自動的に戦うことになるよう仕組んだ。
アメリカやオランダを説得してABCD包囲陣で日本を経済封鎖し、鉄鉱石一つ、石油一滴入れないようにしたのである。
言うまでもないが、石油や鉄がなければ二十世紀の国家は存続しない。
それをまったく封じてしまおうというのだから、これは日本に「死ね」と言っているに等しい。
さらに追い撃ちをかけるように、アメリカは「ハル・ノート」を突きつけてきた。
これはシナ大陸や仏領インドシナからの即時撤退、日独伊三国同盟の破棄、反日的蒋介石政権の承認など、日本政府が飲めるわけがない要求ばかりを書き連ねてきたものであった。
実質的な最後通と言ってもいい。
のちに東京裁判のパル裁判官はアメリカの現代史家ノックを引用して、ハル・ノートのような覚書を突きつけられたら、
「モナコ王国やルクセンブルグ大公国のような小国でも、アメリカに対して矛を取って立ち上がったであろう」
と言っている。
この「ハル・ノート」は実はハル国務長官の案ではなく、財務省高官ハリー・ホワイトが起草したものであることが戦後明らかになったが、このホワイトはなんと、戦後、ソ連のスパイ容疑を問われて自殺した人物なのである。
つまり、ソ連の指導者スターリンの意向を受けて日本を対米戦争に追い込むために書かれたのが「ハル・ノート」であった。
個人同士でも、息の根をとめるほど相手を追いつめれば、どんなにおとなしい人間でも牙を剥いて反撃してくるだろう。
アメリカが、排日運動を始めてから日本に対して四十年来やってきたのは、そういうことであった。
さらに、米国務長官ケロッグは、アメリカ議会における答弁の中で、
「国境を越えて攻め入るようなことだけでなく、重大な経済的脅威を与えることも侵略戦争と見なされる」
と言っている。
ケロッグの定義によれば、石油禁輸は、日本に対して侵略戦争をしかけたものである。
日本が開戦に踏み切ったのは無理からぬことだった。
◆日米開戦 1941年(昭和16年)
万死に値する日本大使館の怠慢によって真珠湾攻撃は「奇襲」となった。
昭和十六年十二月八日、ついに日本は真珠湾攻撃を行う。
日米開戦であった。
東京裁判では、「日本は世界に戦争をしかける密議を行っていた」と決めつけられた。
だが、当時の日本の状況はそれどころではなかった。
海軍が対米戦争の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の三カ月前からようやく始まった。
まったく泥縄式であった。にもかかわらず日本が謀議をめぐらせたかのような印象があるのは、真珠湾攻撃が「卑怯な奇襲攻撃」ということになってしまったせいであろう。
このニュースは、戦争に消極的だったアメリカ世論をいっペんに変え、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。
しかし、実際には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。
日本政府の計画では、開戦の三十分前に米国務省に国交断絶の通告を渡すことになっていた。
それが遅れたのは、ひとえにワシントンの日本大使館の怠慢ゆえであった。
開戦前日の午前中、外務省は野村喜三郎大使に向けて予告電報を送った。
「これから重大な外交文書を送るから万端の準備をしておくように」
という内容である。
当時はすでに開戦前夜のごとき状況であったにもかかわらず、いったい何を血迷ったのか、日本大使館の連中は同僚の送別会を行うため、夜になって一人の当直も置かずに引き上げてしまったのである。
運命の十二月七日(ワシントン時間)、
朝九時に出勤した海軍武官が電報の束が突っ込まれているのを見て「何か大事な電報ではないのか」と連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。
あわでて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。
しかも、この文書を現地時間午後一時にアメリカに手渡せと書いてある。
大使館員が震え上がったのは言うまでもない。
緊張のためタイプを打ち間違えてばかりでいっこうに捗らないので、彼らは米国務省に約束の時間を一時間延ばしてもらうという最悪の判断をした。
結局、断交通告を届けたのは真珠湾攻撃から五十五分も経ってからのことであった。
ルーズベルト大統領は、この日本側の失態を最大限に利用した。
「奇襲攻撃後にのうのうと断交通知を持ってきた日本ほど、卑劣で悪辣な国はない」
と世界に向けて宣伝したのだ。
いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っていたのであろう。
弁解の余地はまったくない。
必要だったのは、戦後でもかまわないから本当に切腹をすることであった。
そしてそれが世界に報道されることだったのだ。
東京裁判では、日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思のあったことは認められた。
だが、日本に有利な事実はなかなか世界の、否、日本人の知識にもならないのである。
◆「ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査
2013/03/07産経新聞
外務省は7日、昭和16年の真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯に関する連合国軍総司令部(GHQ)国際検察局による調査実態の記録を含む外交文書ファイル72冊を公開した。
国際検察局が終戦後、外務省担当者らに事情聴取を行い、詳細な経緯を調査していたことなどが明らかになった。
外務省が作成した昭和21年8月1日付の文書によると、国際検察局は親電が早期に届けられれば戦争回避が可能だったと認識しており、開戦当時の東郷茂徳外相が伝達を遅らせたとして開戦責任の証拠固めをしたと分析している。
ルーズベルト親電をめぐっては、平成16年に元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大教授(当時)が、グルー駐日米大使に配達される前に東郷外相が解読していた可能性を指摘。
親電の内容を受けて日米開戦の最後通告を修正したため、開戦通告は真珠湾攻撃の約1時間後になったとしている。
国際検察局側の認識は井口氏の議論と重なっており、対米通告遅延の論争に一石を投じそうだ。
国際検察局の職員2人は昭和21年8月1日、外務省の電信官2人を尋問した。
国際検察局の2人は東郷外相の名前を出しながら、親電配達が遅れた経緯や、事前に外務省が解読した上で陸海軍に送付した事実の有無を質問した。
電信官2人は
「本件親電には何等関係がなかった」
「斯かる事実ありたるを知らざる」
と回答した。
文書では聴取を受けた印象として、国際検察局側が
「東郷外務大臣は親電を解読したものを事前に見ているに違いない。
この電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることが出来た」
と認識していると指摘。
さらに「検事(ママ)局側の同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするものの如く観取せられた」
と分析している。
東郷外相は終戦後、極東軍事裁判でいわゆる「A級戦犯」として禁錮20年の刑を言い渡され、服役中の25年7月に死亡。
53年10月、靖国神社に合祀された。
【ルーズベルト親電】
日米開戦直前に昭和天皇に宛てた親電で、日本に和平を呼びかける一方、日本軍の仏印からの全面撤退を要求する内容。
日本時間12月7日正午、東京電報局に到着。
グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。
親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。
◆抹殺されたヤルタ密約知らせる「小野寺電」と「堀電」
2012/08/08産経新聞
大本営に届きながら抹殺された可能性が高まった小野寺信武官のヤルタ密約電報。
書簡で「着信」を証言した大本営参謀の堀栄三氏自身がヤルタ会談4カ月前、台湾沖航空戦の勒果を訂正する電報を打ちながら、参謀本部作戦課を中心とする「奥の院」で握り潰されるなど、極秘情報は生かされなかった。
ソ連に和平仲介を託す愚策によって終戦工作がもたつくうちに、原爆を投下され、ソ連の侵攻で多くの命を失い、北方領土を占領されただけに、機密情報を抹殺した代償はあまりにも大きい。
◆覆された定説
大戦末期の昭和20年2月4日から11日、米英ソ首脳がクリミア半島のヤルタに集まり、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にドイツ降伏3カ月後に対日参戦することが決まった。
ヤルタ協定は密約だったため、「日本側は全く知らず、なおソ連に希望的観測をつないでいた」
(防衛研究所戦史室『戦史叢書』)
というのが定説だった。
小野寺武官が亡命ポーランド政府参謀本部から得たヤルタ密約の核心部分の「ソ連が対日参戦に踏み切る意向を固めた」との情報が公電で参謀本部に届きながら「奥の院」が抹殺した疑いが濃厚となったことで、少なくとも軍中枢は密約を知っていたことになる。
なぜ機密情報は国策に生かされなかったのだろうか。
それは指導層が「ソ連和平仲介工作」構想を水面下で始めていたからだ。
ドイツ降伏後にソ連が参戦するとの情報は不都合でかつ不愉快だったとみられる。
「奥の院」が機密情報を握り潰したのはヤルタ密約が初めてではない。
堀氏が打った台湾沖航空戦の電報も同じだ。
昭和19年10月、大本営は台湾沖航空戦の戦果を発表した。
空母11隻撃沈、8隻撃破。
しかし、実際は米軍巡洋艦2隻を大破させたにすぎなかった。
堀氏は、誤報であったことを出張先の鹿児島の鹿屋基地でつかみ、大本営に公電を打電した。
しかし大本営は訂正せず、隠蔽した。
「幻の大戦果」を前提に日本軍はその後、レイテ決戦へ突き進み、連合艦隊は事実上壊滅した。
堀氏の長男、元夫氏によると、昭和33年夏、堀氏は、シベリア抑留から帰国した元大本営作戦課の参謀だった瀬島龍三氏と東京都港区虎ノ門にあった共済会館食堂でカレーライスを食べながら、瀬島氏から「きみの電報を握り潰した」と聞かされた。
元夫氏も同席していたという。
瀬島氏は、その後、「堀君の間違いではないか」と否定するようになり、平成19年9月他界している。
堀氏は書簡で、大本営では作戦が上位にあり、情報を軽視する体質があり、自らの「台湾沖航空戦電」と「小野寺電」が「奥の院」で連鎖して握り潰されたことを明らかにしている。
「奥の院」でどのように抹殺されたのか詳細は不明のままだが、福島原発事故でも生死に関わる情報が政府内で握り潰されたことが露呈。
度し難い官僚主義による情報軽視の構図は今なお続いている。
◆ソ連対日参戦のヤルタ密約情報「小野寺電」に有力証拠
2012/05/11産経新聞
第二次大戦末期のヤルタ会談直後、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を、スウェーデンの首都ストックホルムにあるドイツ公使館が把握、打電していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。
ストックホルムでは、陸軍の小野寺信(まこと)駐在武官がドイツの情報士官と緊密に情報交換しており、武官が得た「ヤルタ密約」情報が士官を通じ、ドイツ側に流れていた可能性が出てきた。
新たな情報経路の判明はソ連参戦の半年前、大本営に同じ情報を送ったとする小野寺武官の主張を支える有力な根拠になりそうだ。
中立条約が存在していたソ連に、英米との和平仲介を依頼すべきだと考えた一部政治家や陸軍にとって、ソ連の対日参戦情報は不都合なものだった。
小野寺武官が送ったとするソ連参戦情報が軍上層部に届いた形跡がなく、情報が握りつぶされたとすれば、結果として終戦が遅れ、米国の原爆投下やソ連による北方四島の不法占拠などを招いた点で責任はきわめて大きい。
秘密文書については、産経新聞がロンドンの公文書館で存在を確認した。
ドイツの在ストックホルム公使館がヤルタ会談直後の1945年2月14日に入手した情報として、独外務省が全ての在外公館宛てに発信した電報を英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したものだ。
内容は「英国からの情報で、ソ連は三巨頭会談において対日政策を変更し、参戦を決めた」との趣旨だが、参戦時期は明示されていない。
小野寺武官とストックホルムで連携していたのは、ドイツ軍のカール・ハインツ・クレーマー情報士官だった。
英国立公文書館の所蔵資料によると、英情報局秘密情報部(SIS)は44年12月9日付で、
「小野寺とクレーマーは同じ情報を共有して、それぞれ本国に打電している」
と分析。
また、産経新聞が一橋大学の加藤哲郎名誉教授から提供を受けた、米国立公文書館所蔵の米中央情報局(CIA)のファイルにも、
「小野寺武官がポーランド情報でドイツ諜報部門の事務所を頻繁に訪れている」
=CIAの前身である戦略情報局(OSS)の45年2月15日付行動監視メモ=
との記録が残っていた。
さらに、CIAファイルには、クレーマー士官が戦後の米側の尋問で、
「小野寺から44年秋ごろと45年2、3月ごろの2回、欧州で連合国の有力情報をもらった」
と証言していることも分かった。
(46年3月19日付調書)
これらの文書は、小野寺武官が入手したと主張する「ヤルタ密約」の情報が、クレーマー士官を経由してドイツ側に流れていた可能性を強くうかがわせる。
一方、大島浩駐独大使は昭和34(1959)年、防衛庁(当時)の聴取に「昭和20年3月ごろか、『ヤルタ会談の結果、ロシアが適当な時期に参戦する』ことを(ドイツの)リッベントロップ外相から聞いた」(防諜ニ関スル回想聴取録)と語っていた。
クレーマー士官はSISの尋問(1945年7月23日)に対し、上司だったドイツ親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長に「小野寺情報を報告していた」と答えており、小野寺武官が獲得した「ヤルタ密約」の情報はドイツ政府中枢で検討された末、大島大使に伝わった可能性も見え隠れする。
(肩書はいずれも当時)
◆大本営 握り潰す? 元ソ連課長「入手」と記述
米英ソ三国首脳が昭和20(1945)年2月4~11日、クリミア半島のヤルタに集い、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを約束した「ヤルタ密約」。
ストックホルム駐在武官だった小野寺信氏が会談直後にキャッチし、発信したとされるソ連参戦情報は大本営や政府上層部に届いた形跡がなく、終戦に向けた当時の日本の動きをめぐる大きな謎として残されてきた。
小野寺氏は、終戦時のソ連大使だった佐藤尚武氏が昭和58(1983)年に発表した「回顧八十年」で、本国に打電した情報が上層部に伝達されていなかったことを知った。
そして3年後に母校・仙台幼年学校の会報「山紫に水清き」に、「ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告した」と書いた。
小野寺氏の妻、百合子さんもその後、産経新聞の取材や自著を通じて、「ヤルタ密約」の情報はヤルタ会談終了直後の45年2月半ば、夫の武官仲間だったポーランド人、ブルジェスクウィンスキー氏から「英国のポーランド亡命政府から入った情報」としてもたらされ、夫の依頼で特別暗号を組んで参謀本部次長(秦彦三郎中将)宛てに打電したと証言し、「機密電の行方」を追い続けた。
しかし、この機密電を見たり、接したりしたという軍の元高官は現れなかった。
平成元(1989)年になって、参謀本部情報部の情報将校だった堀栄三氏が「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」を著し、「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『ブ情報』の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」と明らかにした。
堀氏がいう「ブ情報」の「ブ」は、百合子さんが指摘したブルジェスクウィンスキー氏を指すとみられる。
一方、小野寺氏が佐藤元ソ連大使の回顧録により「機密電の行方不明」に気づく9年前の昭和49(1974)年、大本営参謀本部ソ連課長を務めた林三郎氏が回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で、
「彼(スターリン)は同会談(ヤルタ会談)において、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、わが参謀本部は本会談の直後ごろに入手した」
と記していた。
この記述は最近まで関係者の間でほとんど知られず、改めて「小野寺氏の機密電」との関係で注目されている。
【小野寺武官の「プ情報」】
駐ストックホルム陸軍武官の小野寺信氏が、ロンドンに本拠を置く亡命ポーランド政府参謀本部から駐ストックホルム武官のフェリックス・ブルジュスクウインスキー氏を通じて入手した情報を指す。
ヤルタ密約情報もポーランド参謀本部からブルジェスクウインスキー氏を経由してもたらされたが、実際は「ブ情報」の中でも、とりわけ重要な「ス情報」として百合子夫人が打電した。
◆ソ連参戦情報の小野寺電、大本営に着信 参謀が証言
2012/08/08産経新聞
堀栄三氏は平成元年に出版した『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』の中で、
「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺信陸軍武官の『ブ情報』の電報にもあった」
と大本営参謀の中で唯一、小野寺電が届いていたと明記していた。
このため小野寺氏の妻・百合子夫人が堀氏に問い合わせ、同氏が平成2年7月26日付と同年8月14日に書いたのがこの書簡である。
日ソ中立条約に違反してソ連が満州(中国東北部)に侵攻して9日で67年。
第二次大戦末期のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を入手し、大本営に打電したとされるストックホルム駐在、小野寺武官の公電について、大本営の情報参謀だった堀氏が参謀本部に着信しながら、握り潰されたのは確実と証言する書簡を送っていたことが7日明らかになった。
小野寺氏の証言を裏付ける有力な証拠で、ソ連参戦情報を得ながら、十分に生かせなかった陸軍中枢の責任が改めて問われそうだ。
書簡によると、堀氏は
「大本営の中には、次長、作戦部長、作戦課、軍務課の一握りの『奥の院』があって、同じ小野寺電でも、戦争の趨勢や軍の士気に重大な影響のあるものは、情報部にも見せず、一握りだけが握りつぶしていたことは確実です。
好例としては、私の『台湾沖航空戦』の戦果に疑問を持った電報が握りつぶされたり(これは瀬島龍三氏(四十四期)が私に告白しながら、その後は一切とぼけて語らず)、
また『米国が原爆を研究中である』旨の情報が握り潰されて、私達が最後までテニアンの正体不明機を解明出来なかった」
と記し証言している。
さらに「『あの電報が参謀本部に不着』ということは絶対にありません。
(中略)
大本営の一握りの奥の院のことや、軍事機密とされると最早、キリノ参謀のところには廻(まわ)ってこなくなって、赤表紙の部厚い封筒に入れられて、一握りのピンの者にのみ廻って見せる方法がとられていました。
(中略)
当時の私達には『ドイツが降伏したら、三カ月後にソ連は対日参戦する』というのが常識の判断になっていましたが、そういう判断が私達の部内に、そもそもあったこと自体、(小野寺武官の)ブ情報の内容が一握りの者から洩らされていたのです」
と記している。
◆抹殺された不都合な真実
ゾルゲ事件などの国際情報戦を研究する加藤哲郎一橋大名誉教授の話
「英米のアーカイブ資料の信頼性は高く、ヤルタ密約情報が小野寺からクレーマーに渡っていたことがうかがえる。
実際の電報は見つかっていないものの、これで(ヤルタ密約の内容を入手して打電したという)小野寺証言の信憑性はきわめて高くなった。
小野寺電が届いていたとなると、受け取った参謀本部、とりわけソ連情報分析を行っていた関係者がどう対応したかが問題となる。
ヤルタ会談が行われたころから政府、軍部をあげて密かに始まったソ連を仲介とする和平工作の大きな動きのなかで、不都合な真実だった小野寺のスクープ電報が抹殺され、握りつぶされたと考えられる」
◆終戦の遅れ 統帥部に責任
インテリジェンス分野に詳しい手嶋龍一慶応大学大学院教授の話
「ヤルタ密約を亡命ポーランド政府から極秘に入手し、大本営に打電したとされる小野寺信駐在武官の証言が裏付けられることになった。
大本営が小野寺電を受け取った記録が見当たらず、関係者の間で大きな謎とされてきたが、現代史の空白がまたひとつ埋められることになった。
ソ連を仲介者に終戦工作を進めていた陸軍が意図的に小野寺電を握りつぶした可能性が高くなった。
もし1945年2月半ばにソ連の対日参戦の密約が明らかになっていれば、英米直接和平派の発言力が増し、終戦が早まったかもしれない。
終戦が遅れ、原爆投下、ソ連参戦と北方領土占拠を招いてしまった統帥部の責任が改めて問われることになろう」
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
■日本の歴史:読む年表より その4
◆企画院設立 1937年(昭和12年)
日本を右翼社会主義国家にした官僚たちの「経済版参謀本部」。
軍部の台頭に呼応する形で右翼社会主義に傾斜していったのが官僚たちであった。
大恐慌前の日本の経済政策の基本は言うまでもなく自由主義であり、財閥の活動を奨励こそすれ、統制しようとはしなかった。
それが、大恐慌が起こって世界的に自由主義経済が疑問視されるようになると、役人たちは「今こそわれらの出番ではないか」と考えるようになった。
国の統制力が強いほど、官僚の権限も大きくなるからである。
世界的不況のいまこそ国が経済を統制して私有財産を制限し、貧富の差をなくすべきだと彼らは考えた。
もはや政治家にまかせてはおけない、軍部が『天皇の軍隊』と言うのなら、東京帝国大学法学部卒業のエリートである自分たちも天皇に直結して、政治家から独立して行動できる、というのが彼らの理屈であった。
こうして登場したのが、『天皇の官僚』を自称する「新官僚」であった。
統制派が完全掌握した陸軍とともに、彼らは「革新官僚」として経済統制を推し進め、ナチスばりの全体主義国家をつくろうとし始めた。
それを象徴するのが、二・二六事件の翌年、昭和十二年十月二十五日に創設された企画院である。
これはシナ事変勃発に対応するため、戦時統制経済のあらゆる基本計画を一手に作り上げるという目的で作られたものである。
言ってみれば「経済版の参謀本部」で、その権限はあらゆる経済分野をカバーする強大なものとなった。
その企画院によって生み出されたのが、国家総動員体制であった。
日本に存在するすべての資源と人間を、国家の命令一つで自由に動かせるということであり、まさに統制経済が行き着くところまで行ったという観がある。
この体制では釘一本、人一人を動かすのでも、政府の命令、つまり官僚が作った文書が必要なのである。
昭和十三年に制定された「国家総動員法」によって自由主義経済は封じられ、日本は完全な右翼社会主義の国家となった。
もはや議会にそれを止める力はなかった。
大正デモクラシーが育てた政党政治はもろくも崩れ去ったのである。
そもそも企画院をつくった近衛文麿首相自身、社会主義的政策に共感していた人物だが、革新官僚たちの主張が共産主義に通ずるものであることに初めは気づかなかった。
彼は、終戦直前になって「右翼も左翼も同じだということに、ようやく気づいた」と告白している。
昭和二十年(一九四五)二月十四日に近衛が昭和天皇に呈出した上奏文のなかに
「右翼は国体の衣を付けた共産主義者であります。
……彼らの主張の背後に潜んでいる意図を十分に看取できなかったことは、まったく不明の致すところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じている次第です」
という一節がある。
首相として軍人や官僚たちと仕事をした人の最終的意見であるから、まさに注目すべきものであろう。史:読む年表より その4
◆アメリカが「ハル・ノート」提示 1941年(昭和16年)
日米戦争に追い込んだ英国・ロシアの陰謀とアメリカの“最後通告。
慮溝橋事件に始まったシナ事変(日華事変)は ずるずると拡大していったが、その一方で、日本を取り巻く国際環境はますます悪化していった。
気がつくと日本は、「ABCD包囲陣」に取り囲まれていた。
Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはインドネシアを植民地にしていたオランダ(ダッチ)である。
最近の研究によると、この包囲陣を画策したのはイギリスのチャーチル首相であったようだ。
第二次欧州大戦において、ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前の灯であった。
チャーチルは「アメリカを戦争に引きずりこむしかない」と考えたが、ルーズベルト米大統領は「絶対に参戦しない」という公約を掲げて当選していたのだから、簡単に応じるはずはない。
そこでチャーチルは迂回作戦をとり、まず日米戦争が起こるように仕向け、日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが自動的に戦うことになるよう仕組んだ。
アメリカやオランダを説得してABCD包囲陣で日本を経済封鎖し、鉄鉱石一つ、石油一滴入れないようにしたのである。
言うまでもないが、石油や鉄がなければ二十世紀の国家は存続しない。
それをまったく封じてしまおうというのだから、これは日本に「死ね」と言っているに等しい。
さらに追い撃ちをかけるように、アメリカは「ハル・ノート」を突きつけてきた。
これはシナ大陸や仏領インドシナからの即時撤退、日独伊三国同盟の破棄、反日的蒋介石政権の承認など、日本政府が飲めるわけがない要求ばかりを書き連ねてきたものであった。
実質的な最後通と言ってもいい。
のちに東京裁判のパル裁判官はアメリカの現代史家ノックを引用して、ハル・ノートのような覚書を突きつけられたら、
「モナコ王国やルクセンブルグ大公国のような小国でも、アメリカに対して矛を取って立ち上がったであろう」
と言っている。
この「ハル・ノート」は実はハル国務長官の案ではなく、財務省高官ハリー・ホワイトが起草したものであることが戦後明らかになったが、このホワイトはなんと、戦後、ソ連のスパイ容疑を問われて自殺した人物なのである。
つまり、ソ連の指導者スターリンの意向を受けて日本を対米戦争に追い込むために書かれたのが「ハル・ノート」であった。
個人同士でも、息の根をとめるほど相手を追いつめれば、どんなにおとなしい人間でも牙を剥いて反撃してくるだろう。
アメリカが、排日運動を始めてから日本に対して四十年来やってきたのは、そういうことであった。
さらに、米国務長官ケロッグは、アメリカ議会における答弁の中で、
「国境を越えて攻め入るようなことだけでなく、重大な経済的脅威を与えることも侵略戦争と見なされる」
と言っている。
ケロッグの定義によれば、石油禁輸は、日本に対して侵略戦争をしかけたものである。
日本が開戦に踏み切ったのは無理からぬことだった。
◆日米開戦 1941年(昭和16年)
万死に値する日本大使館の怠慢によって真珠湾攻撃は「奇襲」となった。
昭和十六年十二月八日、ついに日本は真珠湾攻撃を行う。
日米開戦であった。
東京裁判では、「日本は世界に戦争をしかける密議を行っていた」と決めつけられた。
だが、当時の日本の状況はそれどころではなかった。
海軍が対米戦争の研究を始めたのは石油禁輸の問題が出てからであり、真珠湾攻撃の図上演習は作戦開始の三カ月前からようやく始まった。
まったく泥縄式であった。にもかかわらず日本が謀議をめぐらせたかのような印象があるのは、真珠湾攻撃が「卑怯な奇襲攻撃」ということになってしまったせいであろう。
このニュースは、戦争に消極的だったアメリカ世論をいっペんに変え、日本を叩き潰すことがアメリカ人にとって“正義”になったのである。
しかし、実際には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。
日本政府の計画では、開戦の三十分前に米国務省に国交断絶の通告を渡すことになっていた。
それが遅れたのは、ひとえにワシントンの日本大使館の怠慢ゆえであった。
開戦前日の午前中、外務省は野村喜三郎大使に向けて予告電報を送った。
「これから重大な外交文書を送るから万端の準備をしておくように」
という内容である。
当時はすでに開戦前夜のごとき状況であったにもかかわらず、いったい何を血迷ったのか、日本大使館の連中は同僚の送別会を行うため、夜になって一人の当直も置かずに引き上げてしまったのである。
運命の十二月七日(ワシントン時間)、
朝九時に出勤した海軍武官が電報の束が突っ込まれているのを見て「何か大事な電報ではないのか」と連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。
あわでて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。
しかも、この文書を現地時間午後一時にアメリカに手渡せと書いてある。
大使館員が震え上がったのは言うまでもない。
緊張のためタイプを打ち間違えてばかりでいっこうに捗らないので、彼らは米国務省に約束の時間を一時間延ばしてもらうという最悪の判断をした。
結局、断交通告を届けたのは真珠湾攻撃から五十五分も経ってからのことであった。
ルーズベルト大統領は、この日本側の失態を最大限に利用した。
「奇襲攻撃後にのうのうと断交通知を持ってきた日本ほど、卑劣で悪辣な国はない」
と世界に向けて宣伝したのだ。
いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っていたのであろう。
弁解の余地はまったくない。
必要だったのは、戦後でもかまわないから本当に切腹をすることであった。
そしてそれが世界に報道されることだったのだ。
東京裁判では、日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思のあったことは認められた。
だが、日本に有利な事実はなかなか世界の、否、日本人の知識にもならないのである。
◆「ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査
2013/03/07産経新聞
外務省は7日、昭和16年の真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯に関する連合国軍総司令部(GHQ)国際検察局による調査実態の記録を含む外交文書ファイル72冊を公開した。
国際検察局が終戦後、外務省担当者らに事情聴取を行い、詳細な経緯を調査していたことなどが明らかになった。
外務省が作成した昭和21年8月1日付の文書によると、国際検察局は親電が早期に届けられれば戦争回避が可能だったと認識しており、開戦当時の東郷茂徳外相が伝達を遅らせたとして開戦責任の証拠固めをしたと分析している。
ルーズベルト親電をめぐっては、平成16年に元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大教授(当時)が、グルー駐日米大使に配達される前に東郷外相が解読していた可能性を指摘。
親電の内容を受けて日米開戦の最後通告を修正したため、開戦通告は真珠湾攻撃の約1時間後になったとしている。
国際検察局側の認識は井口氏の議論と重なっており、対米通告遅延の論争に一石を投じそうだ。
国際検察局の職員2人は昭和21年8月1日、外務省の電信官2人を尋問した。
国際検察局の2人は東郷外相の名前を出しながら、親電配達が遅れた経緯や、事前に外務省が解読した上で陸海軍に送付した事実の有無を質問した。
電信官2人は
「本件親電には何等関係がなかった」
「斯かる事実ありたるを知らざる」
と回答した。
文書では聴取を受けた印象として、国際検察局側が
「東郷外務大臣は親電を解読したものを事前に見ているに違いない。
この電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることが出来た」
と認識していると指摘。
さらに「検事(ママ)局側の同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするものの如く観取せられた」
と分析している。
東郷外相は終戦後、極東軍事裁判でいわゆる「A級戦犯」として禁錮20年の刑を言い渡され、服役中の25年7月に死亡。
53年10月、靖国神社に合祀された。
【ルーズベルト親電】
日米開戦直前に昭和天皇に宛てた親電で、日本に和平を呼びかける一方、日本軍の仏印からの全面撤退を要求する内容。
日本時間12月7日正午、東京電報局に到着。
グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。
親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。
◆抹殺されたヤルタ密約知らせる「小野寺電」と「堀電」
2012/08/08産経新聞
大本営に届きながら抹殺された可能性が高まった小野寺信武官のヤルタ密約電報。
書簡で「着信」を証言した大本営参謀の堀栄三氏自身がヤルタ会談4カ月前、台湾沖航空戦の勒果を訂正する電報を打ちながら、参謀本部作戦課を中心とする「奥の院」で握り潰されるなど、極秘情報は生かされなかった。
ソ連に和平仲介を託す愚策によって終戦工作がもたつくうちに、原爆を投下され、ソ連の侵攻で多くの命を失い、北方領土を占領されただけに、機密情報を抹殺した代償はあまりにも大きい。
◆覆された定説
大戦末期の昭和20年2月4日から11日、米英ソ首脳がクリミア半島のヤルタに集まり、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にドイツ降伏3カ月後に対日参戦することが決まった。
ヤルタ協定は密約だったため、「日本側は全く知らず、なおソ連に希望的観測をつないでいた」
(防衛研究所戦史室『戦史叢書』)
というのが定説だった。
小野寺武官が亡命ポーランド政府参謀本部から得たヤルタ密約の核心部分の「ソ連が対日参戦に踏み切る意向を固めた」との情報が公電で参謀本部に届きながら「奥の院」が抹殺した疑いが濃厚となったことで、少なくとも軍中枢は密約を知っていたことになる。
なぜ機密情報は国策に生かされなかったのだろうか。
それは指導層が「ソ連和平仲介工作」構想を水面下で始めていたからだ。
ドイツ降伏後にソ連が参戦するとの情報は不都合でかつ不愉快だったとみられる。
「奥の院」が機密情報を握り潰したのはヤルタ密約が初めてではない。
堀氏が打った台湾沖航空戦の電報も同じだ。
昭和19年10月、大本営は台湾沖航空戦の戦果を発表した。
空母11隻撃沈、8隻撃破。
しかし、実際は米軍巡洋艦2隻を大破させたにすぎなかった。
堀氏は、誤報であったことを出張先の鹿児島の鹿屋基地でつかみ、大本営に公電を打電した。
しかし大本営は訂正せず、隠蔽した。
「幻の大戦果」を前提に日本軍はその後、レイテ決戦へ突き進み、連合艦隊は事実上壊滅した。
堀氏の長男、元夫氏によると、昭和33年夏、堀氏は、シベリア抑留から帰国した元大本営作戦課の参謀だった瀬島龍三氏と東京都港区虎ノ門にあった共済会館食堂でカレーライスを食べながら、瀬島氏から「きみの電報を握り潰した」と聞かされた。
元夫氏も同席していたという。
瀬島氏は、その後、「堀君の間違いではないか」と否定するようになり、平成19年9月他界している。
堀氏は書簡で、大本営では作戦が上位にあり、情報を軽視する体質があり、自らの「台湾沖航空戦電」と「小野寺電」が「奥の院」で連鎖して握り潰されたことを明らかにしている。
「奥の院」でどのように抹殺されたのか詳細は不明のままだが、福島原発事故でも生死に関わる情報が政府内で握り潰されたことが露呈。
度し難い官僚主義による情報軽視の構図は今なお続いている。
◆ソ連対日参戦のヤルタ密約情報「小野寺電」に有力証拠
2012/05/11産経新聞
第二次大戦末期のヤルタ会談直後、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を、スウェーデンの首都ストックホルムにあるドイツ公使館が把握、打電していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。
ストックホルムでは、陸軍の小野寺信(まこと)駐在武官がドイツの情報士官と緊密に情報交換しており、武官が得た「ヤルタ密約」情報が士官を通じ、ドイツ側に流れていた可能性が出てきた。
新たな情報経路の判明はソ連参戦の半年前、大本営に同じ情報を送ったとする小野寺武官の主張を支える有力な根拠になりそうだ。
中立条約が存在していたソ連に、英米との和平仲介を依頼すべきだと考えた一部政治家や陸軍にとって、ソ連の対日参戦情報は不都合なものだった。
小野寺武官が送ったとするソ連参戦情報が軍上層部に届いた形跡がなく、情報が握りつぶされたとすれば、結果として終戦が遅れ、米国の原爆投下やソ連による北方四島の不法占拠などを招いた点で責任はきわめて大きい。
秘密文書については、産経新聞がロンドンの公文書館で存在を確認した。
ドイツの在ストックホルム公使館がヤルタ会談直後の1945年2月14日に入手した情報として、独外務省が全ての在外公館宛てに発信した電報を英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したものだ。
内容は「英国からの情報で、ソ連は三巨頭会談において対日政策を変更し、参戦を決めた」との趣旨だが、参戦時期は明示されていない。
小野寺武官とストックホルムで連携していたのは、ドイツ軍のカール・ハインツ・クレーマー情報士官だった。
英国立公文書館の所蔵資料によると、英情報局秘密情報部(SIS)は44年12月9日付で、
「小野寺とクレーマーは同じ情報を共有して、それぞれ本国に打電している」
と分析。
また、産経新聞が一橋大学の加藤哲郎名誉教授から提供を受けた、米国立公文書館所蔵の米中央情報局(CIA)のファイルにも、
「小野寺武官がポーランド情報でドイツ諜報部門の事務所を頻繁に訪れている」
=CIAの前身である戦略情報局(OSS)の45年2月15日付行動監視メモ=
との記録が残っていた。
さらに、CIAファイルには、クレーマー士官が戦後の米側の尋問で、
「小野寺から44年秋ごろと45年2、3月ごろの2回、欧州で連合国の有力情報をもらった」
と証言していることも分かった。
(46年3月19日付調書)
これらの文書は、小野寺武官が入手したと主張する「ヤルタ密約」の情報が、クレーマー士官を経由してドイツ側に流れていた可能性を強くうかがわせる。
一方、大島浩駐独大使は昭和34(1959)年、防衛庁(当時)の聴取に「昭和20年3月ごろか、『ヤルタ会談の結果、ロシアが適当な時期に参戦する』ことを(ドイツの)リッベントロップ外相から聞いた」(防諜ニ関スル回想聴取録)と語っていた。
クレーマー士官はSISの尋問(1945年7月23日)に対し、上司だったドイツ親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長に「小野寺情報を報告していた」と答えており、小野寺武官が獲得した「ヤルタ密約」の情報はドイツ政府中枢で検討された末、大島大使に伝わった可能性も見え隠れする。
(肩書はいずれも当時)
◆大本営 握り潰す? 元ソ連課長「入手」と記述
米英ソ三国首脳が昭和20(1945)年2月4~11日、クリミア半島のヤルタに集い、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを約束した「ヤルタ密約」。
ストックホルム駐在武官だった小野寺信氏が会談直後にキャッチし、発信したとされるソ連参戦情報は大本営や政府上層部に届いた形跡がなく、終戦に向けた当時の日本の動きをめぐる大きな謎として残されてきた。
小野寺氏は、終戦時のソ連大使だった佐藤尚武氏が昭和58(1983)年に発表した「回顧八十年」で、本国に打電した情報が上層部に伝達されていなかったことを知った。
そして3年後に母校・仙台幼年学校の会報「山紫に水清き」に、「ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告した」と書いた。
小野寺氏の妻、百合子さんもその後、産経新聞の取材や自著を通じて、「ヤルタ密約」の情報はヤルタ会談終了直後の45年2月半ば、夫の武官仲間だったポーランド人、ブルジェスクウィンスキー氏から「英国のポーランド亡命政府から入った情報」としてもたらされ、夫の依頼で特別暗号を組んで参謀本部次長(秦彦三郎中将)宛てに打電したと証言し、「機密電の行方」を追い続けた。
しかし、この機密電を見たり、接したりしたという軍の元高官は現れなかった。
平成元(1989)年になって、参謀本部情報部の情報将校だった堀栄三氏が「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」を著し、「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『ブ情報』の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」と明らかにした。
堀氏がいう「ブ情報」の「ブ」は、百合子さんが指摘したブルジェスクウィンスキー氏を指すとみられる。
一方、小野寺氏が佐藤元ソ連大使の回顧録により「機密電の行方不明」に気づく9年前の昭和49(1974)年、大本営参謀本部ソ連課長を務めた林三郎氏が回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で、
「彼(スターリン)は同会談(ヤルタ会談)において、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、わが参謀本部は本会談の直後ごろに入手した」
と記していた。
この記述は最近まで関係者の間でほとんど知られず、改めて「小野寺氏の機密電」との関係で注目されている。
【小野寺武官の「プ情報」】
駐ストックホルム陸軍武官の小野寺信氏が、ロンドンに本拠を置く亡命ポーランド政府参謀本部から駐ストックホルム武官のフェリックス・ブルジュスクウインスキー氏を通じて入手した情報を指す。
ヤルタ密約情報もポーランド参謀本部からブルジェスクウインスキー氏を経由してもたらされたが、実際は「ブ情報」の中でも、とりわけ重要な「ス情報」として百合子夫人が打電した。
◆ソ連参戦情報の小野寺電、大本営に着信 参謀が証言
2012/08/08産経新聞
堀栄三氏は平成元年に出版した『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』の中で、
「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺信陸軍武官の『ブ情報』の電報にもあった」
と大本営参謀の中で唯一、小野寺電が届いていたと明記していた。
このため小野寺氏の妻・百合子夫人が堀氏に問い合わせ、同氏が平成2年7月26日付と同年8月14日に書いたのがこの書簡である。
日ソ中立条約に違反してソ連が満州(中国東北部)に侵攻して9日で67年。
第二次大戦末期のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を入手し、大本営に打電したとされるストックホルム駐在、小野寺武官の公電について、大本営の情報参謀だった堀氏が参謀本部に着信しながら、握り潰されたのは確実と証言する書簡を送っていたことが7日明らかになった。
小野寺氏の証言を裏付ける有力な証拠で、ソ連参戦情報を得ながら、十分に生かせなかった陸軍中枢の責任が改めて問われそうだ。
書簡によると、堀氏は
「大本営の中には、次長、作戦部長、作戦課、軍務課の一握りの『奥の院』があって、同じ小野寺電でも、戦争の趨勢や軍の士気に重大な影響のあるものは、情報部にも見せず、一握りだけが握りつぶしていたことは確実です。
好例としては、私の『台湾沖航空戦』の戦果に疑問を持った電報が握りつぶされたり(これは瀬島龍三氏(四十四期)が私に告白しながら、その後は一切とぼけて語らず)、
また『米国が原爆を研究中である』旨の情報が握り潰されて、私達が最後までテニアンの正体不明機を解明出来なかった」
と記し証言している。
さらに「『あの電報が参謀本部に不着』ということは絶対にありません。
(中略)
大本営の一握りの奥の院のことや、軍事機密とされると最早、キリノ参謀のところには廻(まわ)ってこなくなって、赤表紙の部厚い封筒に入れられて、一握りのピンの者にのみ廻って見せる方法がとられていました。
(中略)
当時の私達には『ドイツが降伏したら、三カ月後にソ連は対日参戦する』というのが常識の判断になっていましたが、そういう判断が私達の部内に、そもそもあったこと自体、(小野寺武官の)ブ情報の内容が一握りの者から洩らされていたのです」
と記している。
◆抹殺された不都合な真実
ゾルゲ事件などの国際情報戦を研究する加藤哲郎一橋大名誉教授の話
「英米のアーカイブ資料の信頼性は高く、ヤルタ密約情報が小野寺からクレーマーに渡っていたことがうかがえる。
実際の電報は見つかっていないものの、これで(ヤルタ密約の内容を入手して打電したという)小野寺証言の信憑性はきわめて高くなった。
小野寺電が届いていたとなると、受け取った参謀本部、とりわけソ連情報分析を行っていた関係者がどう対応したかが問題となる。
ヤルタ会談が行われたころから政府、軍部をあげて密かに始まったソ連を仲介とする和平工作の大きな動きのなかで、不都合な真実だった小野寺のスクープ電報が抹殺され、握りつぶされたと考えられる」
◆終戦の遅れ 統帥部に責任
インテリジェンス分野に詳しい手嶋龍一慶応大学大学院教授の話
「ヤルタ密約を亡命ポーランド政府から極秘に入手し、大本営に打電したとされる小野寺信駐在武官の証言が裏付けられることになった。
大本営が小野寺電を受け取った記録が見当たらず、関係者の間で大きな謎とされてきたが、現代史の空白がまたひとつ埋められることになった。
ソ連を仲介者に終戦工作を進めていた陸軍が意図的に小野寺電を握りつぶした可能性が高くなった。
もし1945年2月半ばにソ連の対日参戦の密約が明らかになっていれば、英米直接和平派の発言力が増し、終戦が早まったかもしれない。
終戦が遅れ、原爆投下、ソ連参戦と北方領土占拠を招いてしまった統帥部の責任が改めて問われることになろう」