Quantcast
Channel: SALUMERA
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2520

『日本精神』を学ぶ/武士道のルーツは『鎌倉』から

$
0
0
転載元
『細川一彦』のオピニオン・サイト

■武士による日本初の固有法・貞永式目
2005.9.14
承久の乱の後、三代執権・北条泰時は、実直な姿勢で仁政に努め、厳正な裁判を行いました。
朝廷を軽んずることもありませんでした。
それにより、世の中は平和を保つことができました。
北畠親房は、『神皇正統記』に次のように書いています。

「凡(およ)そ保元平治より以来の乱(みだ)りがはしきに、頼朝と云ふ人もなく、泰時と云ふものもなからましかば、日本国の人民いかがなりなまし」と。

彼の後、北条氏が長く政権を維持できたのも、泰時の余徳によるところ大といわれます。

泰時の最も重大な功績は、武士が守るべきことを文書化し、武士に規範を与えたことです。
その文書とは、関東御成敗式目(貞永式目)です。

幕府には当初、成文法がなく、頼朝以来の先例と武士社会の道理に基づいて裁判を行っていました。
しかし、承久の乱の後、御家人と荘園領主・農民との紛争が絶えず、裁判の公正のために法典をつくる必要性が高まりました。
そこで、制定されたのが貞永式目なのです。
 
貞永式目は貞永元年(1232)に制定されました。
式目の式は法式、目は条目を意味します。
全文は51箇条。
聖徳太子の十七条憲法の3倍で51箇条にしたといわれます。
内容は、武士の日常を規制する道徳、御家人の所領に関すること、守護・地頭の権利と義務、裁判、家族制度などを定めています。
意外なことに式目は、宗教に関することで始まります。

第1条は、神社を崇敬することです。

「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う。
然れば則ち、恒例の祭祀陵夷(りょうい)を致さず、如在の礼奠怠慢せしむることなかれ……」。

第2条は、仏寺を興隆することです。

「寺社異なりと雖(いえど)も、崇敬は之れ同じ。……」。
即ち、式目は、武士に信仰の大切さを示すことから始まっています。
武士は戦士であり、戦いの場にあることが主であって、日常は従であるというような生活をしていました。
こうした武士にとって、宗教は心のより所だったのです。

以下の条項には、法律と道徳が一体になっているような規定が多くみられます。
たとえば、式目は悪口を禁じています。
重大な問題をふくむ悪口は流罪。
軽い者でも牢に入れるというのですから、相当に厳格な規則でした。
また、人をなぐることも禁じています。
なぐった場合は、侍は所領の没収、財産を持たない者は流罪でした。

また讒訴(ざんそ)をすること、
つまり嘘をついて人を陥れるような訴えをすることについても、所領のある者は没収、所領のない者は流罪、官途に関する者ならば永久に召し使うな、と規定しています。

こうした規定は、当時武士の間に、私闘が多く、つまらない意地の張り合いで殺し合いになったり、武士間の団結にひびが入ることがあったためです。

泰時は、式目が定める究極のところは、
「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫に従」うことにより、
人の心の曲がったところを捨て、真っ直ぐな心を賞して、人民が安らかな生活をできるようにすることだ、と言います。
忠・孝・和が強調されているところに、武士道の道徳がよく表われています。

貞永式目は、武士を対象とする、武士のための法律でした。
しかし天皇を中心とした法制度を変えるものではありませんでした。
その制度の下に、武士社会にのみ当てはまることを補足したものでした。
泰時は式目について朝廷の理解を得られるように書いた手紙に、次のように記しています。

「この式目は仮名しか知らない者が世間に多いので、広く人々に納得させやすいように、武家の人たちへの配慮のために作ったのです。
これによって京都の朝廷での取り決めや律令の規定が変わることは少しもありません」と。

貞永式目は、武士が納得できるものでしたから全国に徹底しました。
そこが形の上では立派でも、ほとんど浸透しない律令とは違っていました。

また、律令が外国(シナ)から継受した法にすぎなかったのに対し、式目はわが国独自のものでした。
武士という戦士の階級が政権を担った歴史は、シナや朝鮮には見られない日本独自のものです。
その武士が初めて日本の固有法をつくったのです。

貞永式目は、鎌倉幕府だけでなく室町幕府にも基本法典として用いられ、戦国大名の分国法にも影響を与えました。
庶民には、読み書きの手本として、数世紀にわたって活用されました。
それにより、日本人全体に親しまれたのです。
こうして貞永式目の普及は、武士道が国民道徳となる基盤の一つを成したといえます。

武士道とは江戸時代にはじめて作られた武士の道徳であって、それ以前には存在しなかったという見方が通説になっています。
私は、「平家物語」や源頼朝の治世、北条泰時と明恵上人、貞永式目等を自分で読み、検討を行った結果通説は安易であり、
もののふの道、さむらひの心を深く解しないものと考えています。


■元寇から日本を守った北条時宗
武士道とは本来、武士の間に形成された道徳です。
武士とは、なにより専門の戦闘者です。
その直接的な役割は軍事にあります。
こうした武士の歴史を振り返るとき、彼らの役割が最も大きく発揮されたのが、元寇の時でした。
この時、彼らは強大な異民族の侵略から国土と国民を守ろうとして、懸命の努力をしたのでした。

東北では近年まで、「モッコが来るぞ」という言葉が使われていたそうです。
「モッコが来る」と聞くと、泣く子も黙る。
それほど恐ろしい「モッコ」とは、蒙古のことでした。
13世紀の日本を襲った元寇は、七百年もたった現代まで、恐怖の記憶として伝えられていたのです。

当時の元は、空前の大帝国でした。
世界の3分の2を征服した蒙古は、朝鮮半島を手に治め、次は日本を狙っていました。
そして文永5年(1268)、時の鎌倉幕府に使者をよこしてきました。

幕府は、老齢の北条政村が身を引いて、若い北条時宗が8代目の執権の座についたところでした。
この時、時宗は、わずか18歳。
日本の運命は、一青年の双肩にかかっていました。

文永11年(1274)、遂に蒙古軍がやってきました。
モンゴルとコリア(高麗)の侵略軍は、対馬・壱岐を攻略し、博多湾から九州に上陸しました。

彼らは集団戦法のうえに、石火矢や毒矢を使います。
日本防衛軍は、源平風の一騎打ちしか知らなかったため苦戦し、多数の犠牲者が出ました。
しかし、鎌倉武士は士気を取り戻し、果敢に防戦しました。
日本刀による斬り込みを受けた蒙古軍は、夜襲を怖れてか上陸した軍勢をすべて船にもどらせました。

この夜、不気味な緊張の中で、にわかに暴風雨が起こりました。
蒙古軍は多くの船が沈み、行方不明は約1万5千人にのぼりました。
結局、コリアの合浦に帰れた船は、九百隻のうち十数隻にすぎなかったといいます。
これが世にいう「神風(かみかぜ)」です。

この後、元のフビライから二度使者が来ましたが、執権時宗は、二度とも使者を斬首しました。
このことは武士たちを奮い立たせました。

若きリーダー・時宗は、超大国・蒙古になんらひるむことなく、毅然としています。
鎌倉にいる時宗の、国の一大事にも微動だにしない豪胆さが、全国の武士の士気を高めたのです。

蒙古は再びやって来ました。
弘安4年(1281)、大軍が日本侵攻に向かって来ました。
モンゴルとコリアの軍は、約4万。
朝鮮から対馬・壱岐を経て、またも博多湾に上陸します。
迎え討つ日本防衛軍は、戦意高く、奮闘を続けました。
元軍は半月ほどの後には、博多湾から撤退せざるを得なかったほどです。

しかし、戦況を変える事態が起こりました。
シナから海路で直接日本に向かった約10万の大軍が到着したのです。
元軍は、相呼応して博多付近に攻め入り、一気に勝敗をつけようとしました。

が、作戦開始のまさにその時です。
再び台風が起こったのです。
その日は、閏(うるう)7月1日、すなわち、太陽暦8月23日のことでした。
元軍の艦隊は、鷹島(伊万里湾口にある島)において、台風によって、壊滅的な打撃を受けたのです。

「元史」には「十万ノ衆、還リ得タル者ハ三人ノミ」と記されています。
二度目の「神風」でした。
こうして、日本は、外敵から守られました。

二度とも台風が吹いて、元の侵略から日本が守られたことは、偶然とは言い切れません。
このことから、わが国は「神国」であり、国の危機には神風が吹いて国が守られるという観念が、国中に広まりました。
しかし、見逃してならないことは、日本防衛軍が元軍の侵攻を防ぎ、2ヶ月近くも上陸を許さなかったということです。
時宗以下、日本武士の必死の防衛努力があったからこそ、台風の季節が到来し、絶妙な天の助けを得られたのです。

「人事を尽くして天命を待つ」
という言葉があるように、人間が最善の努力をしてこそ、天に通じ、「神風」も吹くのです。

逆に、道から外れ、正しい努力を怠ったならば、天佑神助を得られるとは限りません。
大東亜戦争は、それでありました。

国難が去ったとたん、時宗は、34歳の若い生涯を閉じてしまいます。
まるで蒙古の略奪・支配から、この国を守るためだけに、この世に生まれてきたような時宗でした。

また、時宗の指揮の下で、日本の武士たちは、武人としての役割を最大限に発揮したのです。

私たちの国・日本は、多くの先人たちによって守られてきたことに感謝しましょう。
そして、武士道に学び、自ら国を守るという精神を取り戻しましょう。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2520

Trending Articles