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細川一彦/裏切りのラストエンペラー

転載元
細川一彦のオピニオンサイト

■満州国建国の真相――『紫禁城の黄昏』

2005.4.20

『紫禁城の黄昏 完訳』が祥伝社から刊行された。
岩波文庫の『紫禁城の黄昏』は、満州における日本の活動の正当性に触れた部分を中心に、大幅にカットして刊行されたために、悪名高く知られているが、今度のは完訳である。
本書の重要性を世に知らしめてきた渡部昇一氏が監修している。

『紫禁城の黄昏』は、映画「ラストエンペラー」の原作になった本である。
本書は、満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師だったイギリス人、レジナルド・F・ジョンストンの回想録である。

ジョンストンは、当代一流のシナ学者であり、帰国後はロンドン大学教授、同大学東方研究所所長となった権威ある学者である。

清朝は、満州の女真族がシナを征服して立てた王朝である。
溥儀にとって、満州は父祖の地である。
辛亥革命(1911)によって清朝が倒され、紫禁城に閉じ込められた溥儀は、シナ人に愛想を尽かし、父祖の地に戻り、父祖の位につくことを熱望した。
そのことを知ったジョンストンは、満州国の誕生を心から喜んだ。
そして、満州国建国の2年後、昭和9年(1934)に『紫禁城の黄昏』を出版した。

ジョンストンは、この回想録で、満州事変勃発以前に満州独立運動は存在しなかったとするリットン報告書に対し、それはリットン調査団が知らなかっただけだ、と反論している。
また、溥儀は、蒋介石の国民党革命軍が母・西太后の遺骸を暴いた蛮行に対して激しく怒り狂い、これが復辟(ふくへき=退位した君主が再び位につくこと)への決意につながったと述べている。

満州事変・満州国の真相を知るために、実に貴重な本である。
ところが、東京裁判においては、本書は証拠としての採用を却下された。
そして、この裁判もどきの場において、溥儀の満州国皇帝への即位は日本の関東軍の脅迫によるものと決め付けられ、日本を一方的に断罪する歴史観が形成されていった。

日本としては、満州事変(昭和6年)は、日本軍人が中央政府の指示なく、独断で起こした事件である。
このことは弁解の余地がない。
国際連盟において、国内の不一致を語る日本国代表の説明はしどろもどろだ。
外国から「二重政府」と見られ、誤解されてもやむをえない。
昭和8年、意気揚揚と国際連盟を脱退した外相・松岡洋佑は、続いて独伊との三国同盟を推進・締結した。
私は、満州国問題でわが国が国際社会から孤立する道を選択したことが、独伊との三国同盟という最悪の選択につながっていったと思う。

しかし、 国際連盟は、満洲事変・満洲国建国を、侵略行為とは認定せず、中国側の対日制裁発動要求を斥けている。
それゆえ、わが国は国際連盟を自ら脱退する必要などなかったのである。

東京裁判において検察側(連合国側)は、満州事変をきっかけとする満州国の建設は、日本の指導者たちの共同謀議による中華民国への侵略行為とし、その共同謀議の第一段階が柳條湖事件であると主張した。

この筋書きづくりには、「田中上奏文」が使われた可能性がある。
この文書はまったくの偽書だが、今も中国では本物として日本断罪に利用している。

東京裁判において、検察側は、溥儀を証人として呼んで証言させた。
彼は、
「満州国の建設は全く日本軍の脅しによるもの」であり、
「自分はしぶしぶ従った」
「私の行動はすべて日本の脅迫である」と証言した。
ソ連に抑留され、身の危険を感じていた溥儀は、ただただ自己弁護に努め、偽証したのである。

これに対し、弁護側(日本国)は、満州国独立とその手続きとしての清王朝復辟運動は、満州の住民の間に生じた自発的な運動であり、日本の謀略に発するものではないことを立証しようとした。
辛亥革命後の中国は、無政府状態に近い混乱を呈し、軍閥相互の内戦が続き、住民は悪政に苦しんでいた。

大正15年(1926)には既に清朝の「ラストエンペラー」であった宣統帝溥儀を擁立して、君主国を復活させようという動きが各地に生じていたのである。

この事実が立証されると、検察側にとっては、満州国政府は関東軍によって作られた傀儡政権にすぎなかったという起訴状の筋書きが崩れてしまう。
そこで、不利な証拠はすべて、証拠能力なし、重要性なしとして却下されたのである。
その却下された最も重要な資料こそ、『紫禁城の黄昏』である。

ジョンストンは、溥儀の身近で激動の歴史を見てきた目撃者である。
また彼はイギリス人として中立的な立場で日中関係を見ていた。
それゆえに、『紫禁城の黄昏』は、検察側には極めて不利となる内容を含んでいるので、不採用とされたのである。

小堀桂一郎氏らが監修した『東京裁判却下未提出弁護側資料』(国書刊行会)から重要部分を抜粋にて掲載する。


<引用開始>

D177 却下
22.4.10(3)

1.満州独立運動の立証

1934年(105~106項)若し満人が満州に退き、且つ彼等の勢力が支那に於て決定的に完全に凋落して居たることが明かにされたならば、支那とは全然独立に17世紀前半に存在した様な満州朝廷の復興を吾吾が見ることも不可能のことではなかったであろう。

幾多有能の漢人勤王家達はその様な朝廷に官を得、彼等の下に正しい新しい民国の情勢に不満の支那人たちはあらゆる階級を網羅して集ったであろう。
若しその様な朝廷が成立したとしたならば、日ならずして熱河、内蒙古の残部(注)等を風靡したであろうことも想像出来ぬことではない。
支那に於ける革命が漸く危険視されるに至った時、満州に退く事の可能性は決して満人朝廷によって看過されていたわけでは無かった。
否それは真剣に論議され、支那及び満州に於ける王室中心主義者達はそれが現在採る可き最善の道であることを説いたのであった。
しかし摂政及び王族の大半をして北京に留まることを最後的に決定さしたものは、袁世凱から与えられた恩恵条約の条項の素晴らしさに対する愚なとは謂へ正直な信頼であった。
2人の王族がこの決定に且つ驚き且つ怒りこれを摂政及びその同胞の王族達の恥ずべき怯懦となしたのであった。
これら2王族は己等が採決に敗れ、袁世凱の与えたる将来の予約や面を冠った威迫やらがあらゆる反対を押し潰し、摂政及び西太后等は己の意思よりも強い他の意思に屈服し、王家の存立が完全に失われたことを知ると、若し彼等が北京に還ることあらば、その時 は北京城頭に再び龍旗の翻る日か、或は彼等が棺のうちに眠る日であることを誓いながら北京を去って流寓の人となったのであった。
これら2名の王族とは恭親王専偉と蕭親王善耆であった。

恭親王は長い年月の間日本の租借地大連に住み唯唯その王朝の栄光の回復されるのを夢想しながら暮していた。
蕭親王は1922年北京に還った。
棺に納められて。


注:1911年支那が民国となると同時に蒙古は独立を宣言し、且満人皇帝の下に王国制度が支那に復活したならば、蒙古は何時でも自発的にその治下に還ると宣言した。



(257項)
これら王政主義者たちは日本と支那との間、或は満州に於ける支那代表を装うものとの間に衝突が起れば彼等の欲する機会が得られるものと信じていた。
そして若し彼等が外国の勢力と結ぶことに対して支那への反逆であると非難するものがあるならば彼等は支那が既に彼等を外国人(夷子)と呼び、その故に彼等を王権から追ったことをもって答えることが出来た。
外国人、外国人の家族は支那と何等の連関なき故に。



(262項)
かかる事情を知っていて見れば、リットン報告中の
「1931年9月以前に於てはかつて満州独立運動等と云うことは満州に於て聞かれなかった」
(リットン報告書97項)
とある文は、旧王国の為にする運動の存在すると云う証拠が、全然リットン卿並びにその同僚の人々に提供されなかったと仮定するより説明の仕様がない。



(443項)
王室の陵墓(北京東方の東陵)に対する暴行と蹂躪とが1928年7月の3日から11日の間に亘って行われた。



(443~445項)
如何なる行為-侮辱、嘲弄、死を以って脅かすこと、財産の没収、合意の破棄、と雖も忍ぶことは出来たであろう。
だがこの野蛮と神聖への冒涜の恐るべき行為だけは許すことが出来なかった。
この時以来皇帝の支那に対する或はその秕政に責任あるものに対する態度が全く変った。
性格からいえば皇帝は寛容であってその最も暴慢な敵に対してすら怒った言葉を投げるのを聞いたことが無かった位であった。
然しこの事だけは到底彼の黙過し得ぬ所であった。
この時までは皇帝は満州に於ける独立運動が相当の勢を得て居るのを知りつつこれに加わる事をせず、祖先の地満州に招かれて還ると云うことも少しも真面目に考えていなかった。
彼は常に支那が正気に戻り全てがよくなる望みを棄てなかった。
しかしその望みが絶えた今、私が皇帝をその次に訪れた時彼の上に現れた変化は実に著しいものがあった。
その変化は実に激しいものであったので私は皇帝が陵辱された祖先の霊と交霊しているのではないかと疑い、且その祖先の霊達が(そそのかして)己を汚し祖先を辱めた支那から面をそむけ、かつて3百年の昔王朝の強固な礎が築かれた国をしっかり凝視するように皇帝を促している様に思われた。



(448項)

1930年10月11日英国政府を代表して私は威海衛の還付を取行なった。
殆そ(ママ)20万の人口を有ち、ウァイト島(Isle of Wight)の約2倍の面積を有するこの領土は1898年以来植民相に直接責任を有する英委員によって治められて来た。
今この土地は支那に還され領内の人民は全く初めて民国支那の管轄の下に入ることになった。
と云うのはそれが英国に租借されたころは支那はまだ王国だったからである。

威海衛還付の後30年以上の歳月を送った土地を後にして、たとへ返れるとしても何時の日又其処に返れるという当もなく私は英国に返ったのであったが、思いもかけず丁度1年後に私は舞ひ戻って来た。
団匪事件に関連する賠償の事務やら、その年は支那で行われることになっていた隔年毎の太平洋会議に出席する英人団の一員としてやらであった。

1931年9月18日の彼の有名な奉天事件は私の往路の旅の船で日本に着く2、3日前に起ったのだった。
私は支那への旅を続け上海に着くや否や直ちに天津へ汽車で赴き10月7日に到着した。
皇帝は私を待ち設けて居て駅で私は彼の随員の1人に会う様にされた。
天津では彼がもう満州へ発ったと云う噂が専らであったが、私は勿論それが確かなものでないと謂うことを知っていた。
次の2日を私は彼と共に過し将来起る可きこと予見するに足る情報を与えられたのであった。
彼自身私に与えて呉れた情報は鄭考胥によって確認された。
その夜私と彼は皇帝の正賓の客となった。
他の客と云えば鄭垂、陳宝著、錫良等であった。
予想された通りその夜の話の題目は唯一つであった。



2.溥儀帝の満州行は自由意志


(656項)
11月13日に私が上海に帰ったとき、ある非公式の電報により帝は天津を去って満州に向われた事を知った。
支那人は、日本人が帝の意思に逆らってその身を奪い誘拐し去ったものだという風に知らせんと努めた。
この話は欧州人間に広く流布され、多くの人々はそれを信じた。
しかしそれは全然でたらめであった。
帝並に妃が南京の蒋介石と、北京の張学良にあてて、彼等の忠誠を求め、避難所を要求する電報を打ったという事を最近実際に発表した驚くべき話も、同様に偽である。
帝は又満州の国主となる事を承諾されない内に自殺し様と、妃と誓を結ばれたとか言う事も勝手にいいたてられた。
帝が避難所を求められたかも知れない世界中で最後の人物は、蒋介石や張学良ではない、という事をいう必要はあるまい。
尚仮令、皇帝が満州へ奪衣誘拐される危険から逃れる事を欲して居られたなら、彼がなさねばならぬ全ての事は上海行きの英国船へ上船されて行かれる事であるのはいうまでもない。
帝に忠実とその身をささげた鄭考胥の様な人が帝の獄卒であるという様な事は全く絶対に、あり得べからざる事である。
帝が天津を去って満州へ行かれたのは御自身の自由意志である。
帝の信頼のあつい同伴者は現在国務総理の鄭考胥とその息子であったのである

<引用終了>


『紫禁城の黄昏』には、溥儀の親書が序文と写真版で掲載されている。
この親書には、「宣統御筆」という皇帝の判子が押してある。
玉璽(ぎょくじ)である。
それゆえ、溥儀が本書の内容を認めていたことは明白である。
しかし、ソ連に脅されていた溥儀は、東京裁判において、これは自筆ではなく、内容には関知しないと言った。
東京裁判は、もとより真実を明らかにする場ではなく、裁判の名を借りた戦勝国による見せしめの儀式だった。
溥儀の証言への追求は、適当に終了した。

マッカーサーや蒋介石やスターリンらの思惑のもと、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』は証拠として生かされることなく、日本の戦時指導者たちは処刑された。
それと同時に、日本という国そのものが一方的に断罪されたのである。

日本と中国の歴史認識の違いには、上記のような問題がいくつも存在する。
そのことの再検証なくして、歴史認識の見直しはありえない。
中国側が一方的に日本に謝罪・反省を求めることは、フェアーではない。

今回、本書の完訳版が発行されたことは、日中関係史の見直しや、東京裁判史観の打破のために、有意義なことだと思う。

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