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長谷川幸洋/

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長谷川幸洋著 『政府はこうして国民を騙す』(講談社)
~情報操作は日常的に行われている~

現代ビジネス 賢者の知恵 2013年02月09日(土) 
 
 
巻頭抜粋
メディアは政府や権力から独立しているべきだ。
これは当たり前のことなのだが、残念ながら日本では十分に実現しているとは言いがたい。
2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故を経て、国民の間には「日本のマスコミは政府や電力会社の言いなりで大本営発表を垂れ流すばかりだ」といった批判が広がった。
そんな批判はインターネットの普及もあって、いまや多くの人々に共有されている。
だが、大本営発表報道は3.11の後から始まったわけではない。
それ以前から、ずっと続いていた。
それが3.11後に、だれの目にもあきらかになったという話である。
 
……
 
言うまでもなく、ジャーナリストは官僚でも政治家でもない。
社会や政治、経済の出来事をプロとして観察、分析して報道かつ論評する職業人である。
官僚がつくった政策をそのまま紹介するだけなら、役所のホームページを見ればいい。
インターネットがなかった時代には、要約係として新聞の有用性もあったが、いまやだれでも役所のホームページをチェックできる。
「それを読むのは面倒だから新聞がある」、そういう時代はもう終わった。
 
政治の話も同様だ。
政治家の発言を紹介したり、国会の動きを伝えるだけなら、政治家や国会のホームページなどを見ればいい。
いまでは国会審議の様子を伝える個人のブログもたくさんある。
 
社会に有益性のない仕事はやがて淘汰される。
必要がないものにカネを払って購読する消費者や広告料を払うスポンサーはいない。
インターネットで情報が氾濫する中で、ジャーナリストは何をすべきなのか。 
そう考えると「メディアの自立」という命題はごく自然に出てくる。
メディアが官僚や政治家、政党から自立していないなら、そんなメディアが発信する情報や分析にたいした意味はない。
メディアの情報や分析に意味があるとすれば、それは官僚や政治家、政党の情報をメディア自身がしっかり評価、分析して、独自の立場から報道し、論じるからではないのか。
偏見と言われるくらい、思い切って書かなければ、いつまでたっても、メディアは自分の足で立てない。
 
一方、「新聞をはじめメディアは中立で客観的であるべきだ」という議論もある。
読者は白紙の状態で新聞を読むのだから、新聞自身に色がついていたら困る。新聞は無色透明な情報を提供するのが役目で「色を考えるのは読者に任せるべきだ」という話でもある。
はたしてそうか。
 
情報には、みんな色がついている。
それは同じ顔をした人間がいないようなものだ。
情報を発信する側には必ず意図や思惑がある。
官僚には自分たちの既得権益を拡大したいという思惑があり、政治家には権力を握りたいという意図がある。
そういう情報を扱う職業人としてのジャーナリストは、自分なりの座標軸をしっかり定めたうえで、何をどう伝えるか、絶えず新しい方法を探っていくべきだと思う。
 
 
小沢報道でメディアが犯した罪
2009年の西松建設事件は、途中から旗色が悪くなった検察の訴因変更によって陸山会事件に変わり、検察審査会が小沢を強制起訴した後になって、検察官が検審に提出した捜査報告書が完全なでっち上げだったことが暴露された。
小沢事件が「検察の暴走事件」に姿を変えたのである。
小沢一郎の犯罪とされたものは一審無罪となっただけでなく、攻守が完全に入れ替わって、検事の犯罪疑惑が濃厚になった。にもかかわらず、だれ一人として罪に問われないまま、闇に葬り去られようとしている。
 
デタラメの捜査報告書を提出し、検察審査会の議論を誘導して強引に起訴に持ち込んだ。
検察が事件を理解する重要な決め手になる文書をでっち上げて罪に問う。
相手は本来なら内閣総理大臣になっていたかもしれない政治家である。
民主主義国家にとって、これほど恐ろしい話はない。
メディアにとって深刻なのは当初、検察情報に依拠した形で小沢の疑惑を「これでもか」と大報道で追及しながら、検察の暴走が暴露されると、こちらは通りいっぺんに批判しただけで事実上、真相をうやむやのまま放置してしまった点である。
これでは「権力の監視役」を標榜するメディアが責任を果たしたとは、とうてい言えない。
メディアの自殺行為と批判されてもやむをえないと思う。
 
検察の暴走は結局、法務省による甘い人事上の処分で幕引きになる。
だが、法務・検察が「これで一件落着」と思っていても終わらないだろう。
国民はしっかり本質を見抜いている。
国民の抗議行動とデモが続く原発問題と同じである。

 
福島原発事故は終わっていない。
それは、なにより故郷を追われた「さまよえる人々」の存在が証明している。
原発事故の避難者は2012年8月現在、福島県だけで16万人余を数える。
これは親類宅などに避難した自主避難者を含んでいない。
単なる引っ越しにカウントされたりしている避難者を合わせると、事故によって故郷を失った人々はもっと多いはずだ。
避難者たちは今後、各地で除染が進んだとしても、事故以前の生活に戻れるかといえば、かなり厳しい。
専門家たちは、森林や田畑の除染は「きわめて難しく、ほとんど不可能」とみている。
家屋や学校、幼稚園、目先の道路などは除染できても、汚染された地域で農業や牧畜を事業として再開するのは難しい。
どう16万人を救っていくのか。生活や仕事をどう支えていくのか。
それは、とてつもなく重い課題である。
これを解決せずして日本の未来はない。
国土の3%を放射能で汚し、故郷を奪い、生活と人生を破壊しながら、東京電力はいまも生きながらえている。
そして関西電力の大飯原発は再稼働された。
そんな事態がいったい、どうして許されるのか。
 
政府は東電支援に当たって「国民負担の最小化」を繰り返し、強調してきた。
国民負担には、そのものずばりの税金による負担と電気料金の値上げがある。
税金であれ電気料金値上げであれ、家計の負担になるのは同じだ。
このうち税金について、政府は「東電救済には1円も投入しない」と言ってきた。
一方、電気料金の値上げは2012年9月からの実施が決まってしまった。
国民負担の最小化を言うなら、東電をさっさと破綻処理すればよかった。
破綻させて株主には100%減資を、銀行には債権放棄を求めれば、その分、東電が処理しなければならない債務は減るので、最終的には少なくとも数兆円の国民負担が減ったはずだ。
 
政府は厳密に国民負担の話をしたり文書に残すときは、注意深く「最小化」ではなく「極小化」という。
それは、政府の案では最小化にはならない事情がよくわかっているからだ。
極小化であれば、ある一定条件(この場合は株主と銀行の責任免除)の下で部分的に小さくなる点(極小値)を目指せばいい。
これに対して、最小化は文字通りの最小化である。
つまり極小化は、けっして最小化と同じではない。
ほとんどのメディアはおおざっぱに考えて、最小化も極小化も区別しない。
そのことが官僚や官僚のブリーフィングを受けた大臣にはわかっているので、たとえば枝野幸男経産相は機構が1兆円を出資した2012年7月になっても、まだ平気で「これ(出資)は賠償、廃止措置、電力の安定供給という三つの課題を国民負担最小化する中でしっかりと実現するためのものであります」と自慢げに語っている(7月31日の記者会見)。
これはメディアが馬鹿にされているという話である。
経産省は「どうせ最小化も極小化も違いがわからないだろう」とタカをくくっているのだ。
 
電気料金値上げは結局、決まってしまった。
では、東電に投入された公的資金は本当に一時的な肩代わりで、最終的にはきちんと国民に返済されるのだろうか。
それをたしかめるには東電の経営実態をみればいい。
 
政府の支援を受ける前提として、東電は原子力損害賠償支援機構法に基づいて2012年4月27日に「総合特別事業計画」を作成した。
それによれば、東電の純資産は2012年3月期の5,774億円から2013年3月期には1兆3,760億円に増加する見通しだ。
ほぼ1兆円の出資に見合っている。
当期利益は2013年3月期に2,014億円の損失を出すのを底に、2014年3月期は1,067億円の黒字転換をはたす。
それ以降、2022年3月期まで毎年1,000億円前後の利益を出すシナリオを描いた。
 
政府が損害賠償支払いのために機構に交付国債を交付し、機構がそれを現金化、東京電力に資金を交付する。
東電は後で機構に毎年、特別負担金を支払って返済する。
交付国債だけでは資金不足の場合や後に東電の返済負担が過大になった場合には、交付国債とは別に国が機構に資金(現金)を交付することもできる。
ただし機構は交付国債を現金化した分については国に返済するが、現金で受取った分については国への返済義務はない。
このほか、機構は国の政府保証を得て民間の金融機関から資金を借り入れ、東電に出資や融資もできる。
 
機構は2012年7月31日、東電に1兆円を出資し事実上、国有化したが、その際の資金は政府保証付きで民間金融機関から5,000億円ずつ2回に分けて資金を借り入れた。
 
実は、このシナリオは肝心かなめの賠償費用を一切、盛り込んでいない。
なぜなら当面、賠償支援機構が賠償費用をぜんぶ立て替え払いしてくれるからだ。
いくらかかろうと機構が払ってくれるので、収支シミュレーションで計算する必要がない。
それには、次のような事情がある。
 
原子力損害賠償支援機構法によれば、機構が政府から受けた交付国債を現金化して東電にカネを渡す。
東電は後で「特別負担金」として機構に長期で分割返済する仕組みである。
 
除染はどうかといえば、こちらも当面は国と地方が分担して除染事業を実施するので、東電は費用を心配をする必要がない。
だが、これはあくまで一時しのぎである。
除染費用は後で東電が国に支払うのだ。

それに廃炉がある。
当座の応急措置分は先のシナリオに計上しているが、最終的な廃炉費用総額はわからず、計算から除いている。
 
ようするに「2010年代半ば以降には社債市場に復帰して、2022年3月期まで毎年1,000億円前後の利益を出す」というシナリオは、賠償も除染も廃炉もぜんぶ除き、借金返済を棚上げしたうえでの話なのである。
それで1,000億円程度の利益である。
そんな額で「特別負担金」は支払えるのか。
賠償と除染、廃炉にかかる費用はいくらか。
日本経済研究センターの試算によれば、少なくとも20兆円、最大で250兆円かかるという。
借金が総額20兆円として年1,000億円の利益を全部返済に充てたとしても利子なしでも200年、250兆円なら2500年かかる計算である。
こんな話を信じる人がどこにいるのだろうか。
こんな状態で社債市場に復帰できるわけがない。
 
実は交付国債以外にも、機構法では機構が「現金」を東電に渡したり、政府保証付きで民間金融機関から資金を借りて、東電に出融資する道が開かれている。
実際、機構の1兆円出資は民間金融機関から政府保証付きで調達した資金が原資だった。
このうち機構に対する政府の現金交付は実行されていないが、法律上は機構が現金で受け取って東電に渡した分は機構が政府に返済する必要はない。
返済しなければならないのは、あくまで交付国債を現金化した分だけだ。
つまり、東電が返済しなければそれまでである。
このカラクリは非常に複雑で、素人が法律を斜め読みしたくらいでは、とてもわからない。新聞もまったく報じていない。
交付国債の現金化による支援を続ける限り、東電はやがて特別負担金の納付による借金返済を迫られる。
だが、それも絵に描いた餅になるだろう。
 
いずれ東電が返済し続けるのはムリとわかるので、どこかの時点で返済不要な現金交付、あるいは政府保証による東電支援に切り替わる可能性がある。
その後で東電が破綻すると、機構の出資や支援が焦げ付いて、カネを貸した民間金融機関から政府保証による返済を迫られる事態になるかもしれない。
そうなれば国民負担は当然、一挙に増える。
最小化どころではなくなってしまうのだ。

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