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原発報道リテラシー/お前がゆうな1

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原発風評被害 
放射能の基準から考え直せ

(2月25日付・読売社説)
放射能の安全基準について政府は根底から考え直すべきだ。
政権交代はその好機と言えよう。
消費者庁が、東京電力福島第一原子力発電所事故による風評被害の対策を強化する。
森消費者相は、「民主党政権は消費者の不安を募らせた」と述べ、具体策の検討を指示した。
福島県産の農産物は、検査で安全を確認し出荷されているが、価格を安くしなければ売れない。流通量もなかなか増えない。
森氏が、「安全基準への疑問や不安があると思う」と指摘したのは、もっともである。
野田政権は、食品中の放射能基準を海外より厳格化した。
政府の放射線審議会は、弊害が出ると警告したが、小宮山厚生労働相(当時)が政治的に押し切った。
その結果、基準超過が増え、食品の信頼回復は進まない。
過去の核実験の影響としか考えられない放射性物質が検出され、出荷停止となった野生キノコもある。
問題なのは、野田政権が年1ミリ・シーベルトの被曝線 量を安全と危険の境界線としたことだ。
年1ミリ・シーベルトは法的に放射性物質を扱う施設の管理基準に過ぎないのに、この線引きを食品基準にも適用した。
国際放射線防護委員会(ICRP)も、年1ミリ・シーベルト以下が望ましいとしている。
ただ、野田政権との違いは、これを超えても直ちに危険とは見なさないことだ。
ICRPは総量で100ミリ・シーベルトまでなら明確な健康影響は検出できないとの立場だ。
ICRPが考える1ミリ・シーベルトは、安全性に余裕を見込んだ数値で、合理的に達成できるなら、との条件も付く。
世界には、大地などから年10ミリ・シーベルトの放射線を浴びる地域がある。
病院の放射線診断で1回に約7ミリ・シーベルト被曝することもある。
1ミリ・シーベルトでの線引きは、16万人近くの避難者の帰還を遅らせる要因にもなっている。
ICRPは、被災地の復旧過程では、年20ミリ・シーベルトまで許容し、可能な範囲で年1ミリ・シーベルト以下にするとの考え方を示している。
だが、細野環境相(当時)は、1ミリ・シーベルト以下への除染を強調した。
ICRPの考え方は、住民の生活確保と除染の両立だが、除染が偏重される結果となった。
政治の誤ったメッセージと言えば、泉田裕彦新潟県知事も同様だ。
柏崎市、三条市が岩手県のがれきを一般ごみとして処理したことを「犯罪行為」と非難した。
しかし、がれきの放射能は県内のごみと変わらない。
首長が風評被害を増長させては困る。
 
 
毎日、ずっと1ミリシーベルト浴び続け、生活する可能性があることと、放射線診断とはまったく違うのに、意図的に並べて語ろうとする。
安全ってことになると毎日、子どもも妊婦も、そこでずっと生活しなきゃいけないことについて、どういうつもりでこういう記事読まそうとしてんのか、って思う。
 
 

なぜ日本にこんなに多くの原発があるのか

日本の原子力発電機の数は54基と米仏に継ぐ世界第三位で、建設中・計画中のものを含めると69基と第二位である(2010.1.1時点)。
国土面積あたりの基数は主要国の中では最多であろう。
 
世界唯一の被爆国である日本で、しかも地震の被害が当初から懸念されていた原子力発電が、安全が確保されないままなぜここまで普及したのか。
それには導入当初の特殊な政治的事情を振り返ってみる必要がある。
 
ここでは「大正力」「原子力の父」といわれた正力松太郎とオーナーであった読売新聞、同時期に原発推進に動いた中曽根康弘の動きを中心に見てみたい。
 
当時正力は読売グループのオーナーとして創設間もない日本テレビを含め全権を掌握していたが、かねてからの政界進出の夢を諦めきれずにいた。
原子力を武器に一気に首相の座まで狙っていたと言われている。
中曽根は55年の保守合同で旧民主党から河野派入りするまで野党暮らしが続いていたが、この原発推進過程で正力に接近し、正力派の立ち上げに動いている。渡邊恒雄との接点ができたのもこのころである。
 
 
1953.7   
中曽根康弘が、米政府関係者の勧めによりヘンリー・キッシンジャー(後国務長官)主催のハーバ ード大インターナショナルセミナーに参加。原子力施設を見学(~11月まで)
中曽根の回想(東奥日報HP)
 
12.8
国連総会において、アイセンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」演説。原子力の平和利用提唱
 
1954.1.21
ジェネラル・ダイナミクス社建造所にて原子力潜水艦ノーチラス進水。
同社社長兼会長のジョン・Jホプキンスが挨拶
 
3.1
ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)。
第五福竜丸が被爆
 
3.3
中曽根康弘、稲葉修らが原子炉築造費を含めた研究予算要求を国会へ提出し、可決
 
3.14
第五福竜丸焼津へ帰港。被爆を最初にスクープしたのは読売新聞だった。
 
3.15
被爆したマグロ等が築地に入荷。以降、日本全国で850隻の漁船から460tの放射能汚染に侵された魚が見つかる。
以降、原水爆禁止運動が急速に拡大し、三千万人の反核署名を集める戦後最大の反米運動に発展
 
4.22
米・国家安全保障会議の作戦調整委員会(OCB)が「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。福竜丸乗員の死亡を予測し、死因を放射能によるものではない、と主張する方針を策定
 
7~8月
読売新聞、新宿伊勢丹で「誰にでも分かる原子力展」開催。
第五福竜丸の船体を展示
 
8.30
米において原子力法成立。米国企業の原子炉輸出が可能に
 
9.23
第五福竜丸久保山無線長、放射能症で死去。米国は4月の方針通り水爆実験との関連を否定
 
1955.1.1
読売新聞が「米の原子力平和使節ホプキンス氏招待」と告知。
以降5月の来日まで大々的にキャンペーンを展開
 
2.27
正力松太郎、衆議院議員初当選
 
11.1
読売新聞、原子力博覧会を開催(12.12まで。約37万人が来場)
 
11.27
正力松太郎、北海道開発庁長官として初入閣
 
(第三次鳩山内閣。 70歳)
 
12.19
原子力基本法成立
 
1956.1.1
正力松太郎、原子力委員会初代委員長就任
 
5.19
正力松太郎、科学技術庁初代長官就任
「5年以内に原子力発電を行なう。」と提唱
 
6   
茨城県東海村に特殊法人日本原子力研究所発足(財団法人としては前年11月から)
 
12.23
正力松太郎、科学技術庁長官、原子力委員会委員長を退任
 
(鳩山内閣退陣による)

1957.5  
九電力社長会で、九社出資による「原子力発電振興会社」説立案が出される(民間主導案)。
 
7.10 
正力松太郎、 国務大臣国家公安委員長の兼務として原子力委員会委員長に復帰
 
(第一次岸内閣)
7   
電源開発株式会社が原子力発電は政府主導でと主張する意見書提出。
経済企画庁長官だった河野一郎がこの方針を支持し、正力と対立。
中曽根は正力から離反
 
(電源開発出資割合は政府66.67%、九電力33.33%)

1957.11.1 
茨城県東海村に日本原子力発電株式会社発足(九電力80%、政府20%出資)
 
中曽根康弘は強硬に地元群馬県への誘致を目指し、正力に
働きかけていたという。
(柴田秀利著「戦後マスコミ回遊記」より。柴田は日本テレビ元専務)
このころ、正力松太郎は原発の早期開発のため英国炉の導入を推進し、米国とその意向を恐れる外務省、財界の反発を招く。
 
1958.6.12 
正力松太郎、原子力委員会委員長他を退任し、閣外へ
 
(岸内閣改造による)

1959.6.18 
中曽根康弘、科学技術庁長官兼原子力委員会委員長就任
 
(41歳。第二次岸改造内閣~1960.7.19まで)
 
1960.1   
東海原子力発電所着工
 
(正力主導により英国製原子炉を導入したが、英国製輸入はこれが最初で最後)
 
1961     
 原子力損害賠償法成立
 
1963.10.26 
日本原子力研究所の試験炉が、日本初の原子力発電に成功
 
1965.5.4   
東海原子力発電所、初臨界に到達
 
1964~65  
中曽根康弘、渡邊恒雄、児玉誉士夫と共に九頭竜ダム(水力発電所)疑惑に関与
 
1966    
中曽根派結成
 
1967.9
福島第一原発着工
 
 
 
これを見ると、

・原子力発電の供与を同盟国つなぎとめの手段としようとした米国
・米国と結び、原子力により政界進出を図ったが、その後離反し英国炉の導入に奔った正力
・米国の示唆で原子力発電推進に取り組み、一度は正力と手を握ったが、離反し原発の主導権を握った中曽根

これらの思惑が錯綜しているのが分かる。
米国は一旦は日本への原子炉提供に積極的になるも、原子炉を持たせることによる核武装の可能性には怯えて、自国で管理できない英国炉の導入に奔る正力を切ることになる。
一方中曽根は、原発推進を通じて一度は正力派の立ち上げに動いたとも言われるが、米国に逆らう正力の暴走を見て離反し、河野一郎の下へ戻っていった。
その結果、正力退任の一年後、科学技術庁長官兼原子力委員会委員長の座を射止める。
これをきっかけに力を付け、九頭竜ダム疑惑に関与する一方、河野の死の翌年にはついに中曽根派を結成する。
 
原子力発電については1954年にソ連が先鞭をつけ、以降米英が続いた。
西側諸国内でも米英は競争関係にあった。
そのため、58年に科学技術庁長官に復帰した正力が早期開発のため英国炉の導入を図ると、米側の猛烈な巻き返しにあい、ついにはその座を追われることになる。
このあたり、田中角栄が濃縮ウラン導入を巡って英仏に接近し、原油確保のためのアラブ寄り外交政策も含め米国に忌避されることになった事情にも似ている。
 
正力はCIAのエージェントだったとも言われるが、彼の行動が全て米国の意に沿ったものであったわけではない。
もちろん、一気に首相の座を射止めたかったという彼の野心もあったろうが、原子力の持つ力が日本の発展に役立つということに加え、日本も核武装したいという思いもあったのだろう。
 
しかし、地震の多い日本で、十分な検討、確証もないまま原発導入を強引に進めたのは、やはり早計ではなかったか。
当初正力は、米国の戦略どおり読売グループをフルに活用して原子力の宣伝に努めた。
日本テレビでも頻繁に原発PR番組を放映し、ディズニー製作の原発PR映画まで放送している。
このような強引な宣伝がなければ、日本への原発の導入はもっと遅れ、結果ここまでの数にはなっていなかったのではないか。

確かに未来の予見は困難である。
しかし政治家は結果責任を負わなければいけない。
日本史上において、大正力と中曽根の負った罪は、非常に大きい。

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