転載元: ねずさんの ひとりごと 2011.02.16 Wed大豆と満洲のお話
もやし、枝豆、煮豆、納豆、味噌、醤油、豆乳、ゆば、豆腐、油揚げ、厚揚げ、節分、サラダ油に共通するものは何か、といえば、ご存知「大豆」です。大豆を、暗い所で発芽させるとモヤシ。
未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたら、枝豆。完熟したら大豆です。
完熟大豆を搾ると、大豆油(サラダ油)ができます。
ちなみに、サラダ油は、戦前までは燃料にもされました。また、大豆を煎って粉にしたら、きな粉ができます。
蒸して大豆を麹菌で発酵させると、味噌や醤油ができる。
納豆菌で発酵させたら納豆になる。熟した大豆は、搾(しぼ)ると豆乳がとれます。
その残りカスが、おからです。豆乳を温めると、液面に膜ができますが、これが湯葉(ゆば)です。
ゆばに、にがりを入れて固めると豆腐ができる。豆腐を揚げると厚揚げができるし、焼けば焼き豆腐、茹でれば湯豆腐、凍らせると高野豆腐ができあがります。こんにちの日本人が、大豆を、これだけいろいろなカタチで加工して食しているというのは、それだけ大豆が日本人にとって古くてなじみの深い食品であることを示しています。大豆というのは、植物の中で、唯一肉に匹敵するタンパク質をもっています。
なので大豆は、「畑の(牛)肉」、「大地の黄金」などとも呼ばれます。大豆の生産は、世界では、
1位 アメリカ 8282万トン
2位 ブラジル 5020万トン
3位 アルゼンチン 3830万トン
4位 支那 1690万トン
5位 インド 660万トン
となっています。日本は、国内で年間434万トンが消費されていますが、このうちなんと420万トンを輸入に頼っています。
いまや日本は、世界第3位の大豆輸入国です。日本が大豆を輸入に頼っているから、なんとなく、大豆は欧米産なのだと思っている人も多いようです。
けれども、欧米に大豆がもたらされたのは比較的新しく、ヨーロッパで18世紀、アメリカでは19世紀のことです。そもそも大豆の栽培は、土壌が弱アルカリ性じゃないと生育しないのです。欧米の土壌は弱酸性で、古代、中世のヨーロッパで大豆の栽培が広がらなかったのも、土壌の問題です。この土壌を改良することで、19世紀以降、欧米でも大豆の栽培がされるようになるのですが、これも当初は、もっぱら油やプラスチックの原料などに使う工業用に栽培されています。
食用ではなかったのです。食品として欧米で注目されるようになるのは日本の大正時代(1920年代)以降のことです。なぜ1920年代かというと、これが実は、日本が実に深く関係しています。登場するのは、明治の中ごろ三井物産に入社した商社マン、山本条太郎(やまもとじょうたろう)です。彼は、商社マンとして満洲に一番乗りした男です。山本条太郎は、慶應3(1867)年、福井県旧御駕町で元福井藩士の子として生まれました。(中略)山本条太郎は、後の昭和2年に満鉄の総裁になるのですが、実は、その条太郎が日本の商社マンとして満洲に乗り込んだ第一号です。条太郎が行った頃の満州は、広大な荒れ地が広がるだけの緑のないところです。
当然、作物などない。その満洲で、条太郎が、いちはやく目をつけたのが大豆です。実は、中国に普及した大豆は、もともと南満州にいた貊族(こまぞく)という朝鮮族が、細々と栽培していたものを、いまから約2600年前、斉の桓公(かんこう)がここに攻め込んで、持ち帰った大豆に戎菽(チュウシュク)という名前をつけて、普及させたのです。つまり、満洲では、ほんの小規模ながら、大豆が栽培されていたのです。(中略)山本条太郎は、これに目を付けた。(中略)条太郎が面白いのは、満州での大豆の生育を研究している最中、つまり、まだ満州で大豆が生産段階に入っていない状況の中で、先に販路の開拓までしてしまったことです。彼は、大正9(1920)年には、英国に赴いてヨーロッパ大陸での満洲大豆の独占販売権を得てしまう。この頃のヨーロッパでは、まだ大豆を食べるという習慣がないのです。
大豆は、油をとって燃料にするためのもの、です。それを食べさせる。そのため、条太郎は、大豆の加工の仕方や料理の指導までやって、ヨーロッパ全土に大豆の売り込みをかけます。こうして、ほんの数トンあるかないかだった満洲の大豆は、山本条太郎が名付けた「満洲大豆」の商品名とともに大きく成長します。条太郎が満鉄総裁に就任した昭和2年には、満洲の大豆生産高は、じつに年間500万トンです。
このうち80%にあたる400万トンが輸出で、欧米向けが200万トン。日本へが200万トンです。なんと満洲は、世界最大の大豆生産国になったのです。満州で日本は、まず明治38(1905)年の日露戦争の勝利で、長春から旅順口までの満州鉄道全ての権利を手に入れました。翌、明治39(1906)年には、日本は「南満州鉄道株式会社」(満鉄)を設立しています。すこし考えればわかることですが、鉄道があっても、ただやみくもに大地が広がっているだけのところに列車が走るというだけでは、なんの収益も産みません。ロシアが、そんな、なんの収益のあてもない満鉄を作ったのは、あくまで支那や朝鮮、日本への南下政策のための軍事輸送用です。ところがその満鉄を、日本が得るや、日本はこれを民生用、つまり満州の産業育成のために用いています。とにかくヨーロッパを中心に、無限ともいえる市場が開けているのです。
大豆を作れば売れた。なにせ収穫量の8割以上が商品として輸出されていたのです。売れるから、もっとたくさん作る。
そのために荒れ地を開拓する。開拓するから、農地が広がる。
そこで生産された大豆を運ぶために、満鉄が満州全土にアメーバのように伸びていく。当然、鉄道と鉄道が重なるターミナル駅には、多くの物資や人が集まります。わずか20年前には荒れ果てた大地にすぎなかった満州は、こうして緑豊かな一大農園地帯に変貌していくのです。満州の人たちは大豆と小麦を売って、自分たちはトウモロコシやアワを食べた。
大豆は、満洲に住む人々にとって、まさに黄金と呼ばれるようにさえなっています。当時の記録によれば、満州の貿易額の50%以上が大豆です。満鉄は、ただ大豆栽培を奨励しただけではありません。(中略)満鉄中央試験所では、大豆蛋白質による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法の確立など、その成果は枚挙にいとまがありません。ちなみに、現在世界が大騒ぎしている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究も、世界の先鞭をきって開発研究に取り組んだのが、満鉄中央試験場です。満州は、大豆農場が広がり、関連産業が発展し、生産穀物の中継点となるターミナル駅ができ、そこが街になり、都市になり、建設が進み、人々に供給する電力や交通、流通などの産業が発展する。大都市ができあがります。貧乏人には誰も振り向かないが、ある程度お金を持っていたり、儲けたりしていると、多くの人が寄ってきます。
そういう点は、今も昔もかわりません。満洲が豊かになればなるほど、その利権に垂涎を流す者たちが出てきます。
とりわけ欧米列強にとっては、民度が高く、産業の発達した満洲は、喉から手が出るほどほしいのです。(中略)米国は、満洲建国になんやかやとナンクセをつけて、日本を満洲から追い出しにかかります。一方、軍事力より、五族共和と人種の平等を目指した日本は、満洲統治にあたり、つぎの3項目を基本として掲げました。1 悪い軍閥や官使の腐敗を廃し、東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることを建国の精神とし、資源の開発が一部の階級に独占される弊を除き、多くの人々が餘慶をうけられるようにする。2 門戸開放、機会均等の精神で広く世界に資本をもとめ、諸国の技術経験を適切有効に利用する。3 自給自足を目指す。日本は、この理想を実現するために、満州国建設に伴う産業開発五カ年計画を策定し、当時のカネで、48億円というとほうもない資金を満洲に提供しています。同時に日本は、満州における人材教育に力を注ぎます。
なぜなら、満州経済の発展のためには、人材の育成が不可欠だからです。約束を守り、時間を守るという、いわば「あたりまえのこと」があたりまえにでき、人々が創意工夫をし、公に奉仕する精神がなければ、経済の発展などありえない。しかし、支那から満州までの広大な大地の植民地支配を狙う米英からすれば、これまた日本のしていることは、「余計なこと」です。
英国は、満州から大豆を輸入しています。
これを英国の支配地に置いたら、そこで生まれる利益は、すべて自国のものです。しかも、有色人種(カラード)が働いて給料をもらう状態ではなく、被支配者として給料など与える必要のない植民地体制下では、人件費コストは下がり、儲けは倍します。同様に支那大陸を米国が支配下に置いて、そこで大豆やトウモロコシ、小麦の栽培を行ったら、米国は世界の食卓を支配できる。当時の米国は、フィリピンや太平洋の島々を植民地にしているけれど、そうした島しょでは、広大な地所を必要とする農場の経営はできないのです。そうした米英の思惑の目の前で、満洲は大発展を遂げて行きます。農業、産業、教育の振興と都市部の発展にあわせて、満州鉄道の路線は、昭和14(1939)年には、なんと1万キロメートルを超えた。バス路線は、二万五千キロメートルに及びます。
満州航空輸送会社による国内航空路は、網の目のように張り廻らされた。満洲は、世界有数の経済大国として成長していったのです。満洲国の発展の、おおもとにあったのが、大豆です。ところが、満洲はもともと酸性の土壌です。
大豆の栽培には、土壌がアルカリ性でなければならない。
土壌改良のために、農薬として、大量のリンが必要です。当時の満洲は、大豆生産のために必要なリンを米国から輸入しています。ここに米国が目を付けた。
米国は、リンの満洲に対する輸出を、突然打ち切ってきたのです。ABCD包囲網です。こうなると、満洲経済の基礎中の基礎である大豆の生産ができなくなります。
満洲経済は、その基礎を揺るがせられる。これは、日本の食卓にも重大な影響を与えます。
日本人は、大豆を味噌汁や醤油、豆腐などで、主食並みに消費してるのです。
満州大豆で食卓をうるおしていた日本人にとって、米国のリンの輸出規制は、一大事です。実は、日本が、開戦をするしかないところまで追い詰められた背景には、実は、満州におけるリンの輸出制裁と大豆の栽培というファクターがあったのです。結局、支那大陸から満州の大地に手を伸ばし、そこを植民地支配しようとする米英の目論見は、日本の乾坤一擲の大勝負であった大東亜戦争によって潰えます。くやしまぎれ、というのでしょうか。
米国はGHQを日本に派遣すると、日本で研究されていた農作物や新種の作物などをこぞって本国に持ち帰りました。そして米国内の広大な大地で、それら荒れ地に強い農作物を育て、結果としていま米国は世界最大の農業国家となっています。植民地支配によって、働かずに食おうとした米英は、結局は日本と戦って多くの人命を犠牲にしたあげく、植民地をことごとく手放すことにもなった。彼らはよほどくやしかったのでしょうか。
戦争に負けた日本には、農業政策にこまごまと干渉し、小麦も大豆もいまでは、日本の農家が生産しても儲からないようになっています。おかげで、かつては日本国中、いたるところにあった麦畑や大豆畑が、いまではほとんどみかけなくなっていまった。そして小麦も大豆も、いまの日本は、ことごとく米国の言い値で買わされています。・・・・・・
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J‐プライド/Tumbling Dize
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