大日本帝国のユダヤ難民救出
■1.ユダヤ人排斥■1933(昭和8)年1月、ヒトラーは首相に就任すると、4月1日にユダヤ人排斥運動声明を行い、ユダヤ人商店のボイコット、ユダヤ人の公職追放、教師・芸術家・音楽家の締め出し、ニュルンベルク法(1935)によるドイツ市民資格剥奪、と矢継ぎ早にユダヤ人排斥政策が打ち出していった。急増するドイツ、オーストリアからのユダヤ人難民を救うために、米国のハル国務長官が1938(昭和13)年3月に国際委員会を組織する提案を行い、その第1回委員会がフランスで開かれた。しかし国際社会はユダヤ人に対して冷たかった。米国の議会は自国の政府提案を拒否。ベルギー、オランダ、アルゼンチン、ブラジル等は、移民受け入れの余地なしと回答。カナダは協力の意向あるも、収容能力に限度あり。イギリスは、農業移民ならギニア植民地に収容できるかもしれない、といかにも老獪な事実上の拒否。同年11月7日にユダヤ系ポーランド人の一少年が、パリのドイツ大使館書記官を暗殺したのを機に、宣伝相ゲッベルスは報復を呼びかけた。その結果、ドイツ全土のほとんどのユダヤ教会堂が焼討ちや打ち壊しにあい、7千5百のユダヤ人商店が破壊された。街路がガラスの破片で覆われて輝いたので、「水晶の夜」とよばれる。ユダヤ人の死者は91人、強制収容所送りは2万6千人に達したという。この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。■2.帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神■水晶の夜から1ヶ月も経たない昭和13年12月6日、日本では5相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)で「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が決定された。これはユダヤ人を「獨国(ドイツ)と同様極端に排斥するが如き態度に出づるは啻(ただ)に帝国の多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」とするものだった。この時、日本はドイツ、イタリアとの三国同盟の前身たる防共協定を結んでいた。その同盟国のユダヤ人排斥を「人種平等の精神に合致せざる」と批判し、かつ世界各国が受け入れを拒否した難民にも、入国規則内で公正に対応する、というのである。有色人種国家として、ただ一国近代化に成功して、世界5大国の一角を占めるようになった日本にとって、長年戦ってきた人種差別に今また苦しめられているユダヤ民族の苦境は、他人事ではなかった。■3.陸軍随一のユダヤ問題研究家・安江仙弘大佐■5相会議での「猶太(ユダヤ)人対策要綱」策定に大きな力となった人物がいた。安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐である。安江大佐は幼年学校時代からロシア語を学び、シベリア出兵時に武功をたて、その後、陸軍随一のユダヤ問題研究家となった。この前年の昭和12(1937)年12月26日、満洲ハルピンにて、第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、ハルピン陸軍特務機関長の樋口季一郎陸軍少将が、ドイツのユダヤ人排斥政策を批判し、「ユダヤ人を追放するまえに、彼らに安住の地をあたえよ!」と演説して、聴衆を感激させた。この大会のわずか3日前に樋口少将を補佐するために陸軍中央部から派遣されたのが、安江大佐であった。大会後、翌13年1月21日には、安江大佐が中心となって、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太民族施策要領」を策定し、世界に散在せるユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合するを理想とする」とした。「八紘一宇」の八紘とは、四方と四隅、すなわち、世界中のことで、一宇とは「一つ屋根」を意味する。初代・神武天皇が即位された時に、人民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、天の下のすべての人民が一つ屋根のもとで家族のように仲良く暮らすことを、建国の理想とされた。英語では、UniversalBrotherhood(世界同胞主義)と訳されている。関東軍はこの八紘一宇の精神をもって、ユダヤ民族を助けるべきである、と安江大佐は主張したのである。同時に「施策要領」は「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」とした。ユダヤ難民をあくまで人道的に取り扱うが、ユダヤ資本をあてにするような事はしない、という方針である。この後、3月8日から12日にかけて、約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出した。■4.八紘一宇を国是として■安江大佐は9月19日、外務省本省において、外務、陸海軍関係者を集めて、ユダヤ問題に関する講演を行い、次のように述べた。「ユダヤ人は従来第三者のごとき地位にあったが、支那事変とともに我々の軒先に入ってきたのである。これをいかに扱うか。ドイツのごとき方法を取るべからざることは明瞭である。日本の八紘一宇、満洲の諸民族協和の精神からしても排撃方針は不可である。よろしく保護し、御稜威を彼らにおよぼすべきである」御稜威(みいつ)とは皇室の民を守る威光のことである。その威光をユダヤ難民にも及ぼすべく、安江大佐は日本帝国全体の国策決定を板垣征四郎・陸軍大臣に働きかけた。曰く:「我国は、八紘一宇を国是としておりユダヤ民族に対してもこれを例外とすべきではない。彼らは世界中に行先無く、保護を求めているのである。窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずという。況(いわ)んや彼らは人間ではないか」講演、板垣大臣への説得とも、常に「八紘一宇」が安江大佐の主張の基盤となっていた。こうした働きかけにより12月6日の五相会議において、板垣陸軍大臣より「猶太人対策要綱」が提案され、国策として決定されたのである。■5.安居楽業■五相会議の20日後、12月26日から3日間、第二次極東ユダヤ人大会がハルピンで開かれた。上海、青島、天津、大連、などから1千余名のユダヤ人が集まった。日満側からは安江大佐やハルピン副市長・大迫幸男などが参列した。大会では以下のような決議文を採択し、カウフマン会長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人団体等に打電された。(漢字、カタカナ書き、句読点を一部改める)この日本国ならびに満洲国の示されたる誠意と同情的処置とは吾人をここに安居楽業せしむると共に、吾人特有の文化を発展せしめ、かつ日満両国に対し、善良なる人民たらしめ得るものとす。ここに民族大会において吾人はユダヤ民族が民族的平等と民族的権利とを国法にしたがい享受すると共に東亜新秩序の再建に努力しある日満両国に対し、あらゆる協力をなすべき事を誓い、かつこれを吾人同族に対し、呼びかけるものなり。
■6.安江機関■昭和15(1940)年12月、安江大佐は予備役に編入され、またその年の第4回ユダヤ人大会は中止命令が出た。安江大佐の推測では、この二つは東条陸軍大臣の直々の命令であり、それは9月に締結したばかりの日独伊三国同盟の手前、ナチス・ドイツへの気兼ねと、大佐が東条と対立関係にあった石原完爾中将の同志であった、という2点が理由だった。安江大佐が松岡外務大臣を訪ねると、自分から満鉄の佐々木副総裁によく話をしておくとして、今後は外務省とも密接に連絡して戴きたい。私は貴君に働いて戴き度い事が色々ある。ユダヤ人に対しても八紘一宇の大精神で向かわねばならない。ドイツの尻馬に乗って日本がユダヤ排斥をやらねばならぬ理由がどこにあります
か。日本には日本の立場がある。今、日本を見渡した所、真にお国のためにユダヤ人に接している人は貴君しかいない。とにかく貴君の今後の活動のために尽力します。松岡外相の尽力で、安江大佐は満洲国政府顧問、および満鉄総裁室付嘱託となり、安江機関が昭和16年1月に大連に誕生して、満洲・支那在住のユダヤ人保護の活動を続けた。■7.ゴールデン・ブックへの記載■昭和16年11月1日、安江大佐に対し、ハルピン市のホテル・モデルンで数百人のユダヤ人列席のもと、世界ユダヤ人会議代表M・ウスイシキン博士署名の「ゴールデン・ブック」への登録証書授与が挙行された。ゴールデン・ブックは、ユダヤ人の保護・救出で功労のあった人を顕彰するためのものである。この時、吹雪の中で2万人とも言われるユダヤ難民を救出した樋口季一郎少将、および、樋口・安江と力をあわせてきた満洲ユダヤ人社会のリーダー、カウフマン博士もともに記録された。恐らく同時期であると思われるが、海軍の犬塚惟重大佐も、ゴールデン・ブック記載の申し出を受けた。犬塚大佐については、いづれ稿を改めて紹介するが、犬塚機関を作って、安江大佐とも協力しながら、上海のユダヤ人社会を保護した人物である。犬塚大佐は次のように述べて、申し出を辞退したという。「私の哀れなユダヤ難民を助け東亜のユダヤ民族の平和と安全を守る工作は、犬塚個人の工作ではなく、天皇陛下の万民へのご仁慈にしたがって働いているだけである。私はかつて、東京の軍令部にいた時、広田外相からこんな話を伺ったことがある。広田外相が恒例の国際情勢を陛下に奏上申しあげたうちでナチスのユダヤ虐待にふれたところ、陛下は身を乗り出されて憂い深げにいろいろご下問なさるので、外相は失礼ながら陛下はユダヤ人を日本人と思い間違いあそばしているのではないかと不審に存じ上げたが、陛下は『いやユダヤとわかっているが、哀れなもの』と仰せられて、そのご仁愛のほどに恐懼したというのだ。私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の名を書くように」■8.もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか■ユダヤ人を救出して顕彰せられた日本人としては、「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受けた杉原千畝がいる。ポーランドの独ソ分割によって追われたユダヤ難民6千人(推定)に対して、日本へのビザを発行して命を救ったカウナス(バルト3国の一つ、リトアニアの臨時首都)領事代理である。大量のビザ発行手続きに関しては、外務省訓令を逸脱していており、これをもって杉原の行為を、国策に反した個人的善行と見なす見方があるが、五相会議決定、安江機関、犬塚機関という一連の流れの中で見なければならない。杉原自身はユダヤ人救出の動機を後年、こう述べている。「それは私が、外務省に仕える役人であっただけではなく、天皇陛下に仕える一臣民であったからです。悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、もしここに天皇陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということでした。陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか。それとも温情をかけられるだろうか。そう考えると、結果ははっきりしていました。私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをするだけでした。もし外務省に(ビザ発給に関する)訓令違反を咎められたら、私が破ったのは訓令であって、日本の道徳律ではないと思えば良いと腹を決めました」■9.八紘一宇が作った「楽園」■安江大佐が説き、日本政府が制定したユダヤ人保護政策は常に「八紘一宇」をその根拠としてきた。それははるか神話の時代から皇室の理想として綿々と受け継がれ、当時においては昭和天皇の民族の分け隔てなく人民を愛する一視同仁の大御心に体現されていた。安江大佐が「八紘一宇」というのも、犬塚大佐や杉原領事代理が「昭和天皇の御心」というのも、同じなのである。それぞれがこの理想に導かれて、それぞれの場でユダヤ人保護・救出に尽くしてきたのだった。日本占領下の上海で犬塚機関が保護したユダヤ難民は2万5千人を超え、大戦中も「一つ屋根」の楽園だった。
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ユダヤ人と八紘一宇
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