台湾につくした日本人列伝
■「多桑」世代の親日感情■
「多桑」とは、台湾語読みで「トーサン」、日本統治時代の「父さん」の名残である。94年に作られた映画「多桑」は、「金馬奨(台湾のアカデミー賞)」の観客投票最優秀作品賞を受けた。映画の主人公セガは、日本教育を受けた世代で、戦後も何かにつけ、日本びいきだ。子供たちには「トーサン」と呼ばせ、家では日本のラジオ放送を聞き、ラジオの具体が悪くなると、日本製じゃないとだめだ、とぼやく。セガの夢は日本に行って、皇居と富士山を見ることだった。しかし、その夢を果たす前に、この世を去る。始めは「奸漢(売国奴)」と非難していた長男も、成人して父親の心情を理解する。この長男が監督として、実体験に基づいて作った映画が「多桑」である。「多桑」世代の人々は、この作品を見て涙を流し、若い世代も関心を向けた。しかし、「多桑」世代の人々は、なぜそんなに親日的なのだろうか。それは、今回の日本の救助隊と同様、いやそれよりもはるかに大きなスケールで、台湾のために尽くした多くの日本人がいたからである。
■児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造■明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていた。ここで第4代総督として任命されたのが、後に日露戦争でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市長)を民政長官に起用した。後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改善に当てた。当初16万9千人もいたアヘン吸引者は、50年後の日本敗戦時には皆無となっていた。また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642名という有様だった。後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは当時の日本本土でも行われていなかった。伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多くの台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかった台北で、大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上げた。児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕作方法、加工法の改善に取り組んだ。この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待する(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満洲軍総参謀長となりながらも、台湾総督の職位を離れなかった。児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予算11万円に対し、集まったのはわずか3千円であった。このことが台湾に伝わると、残りの金額はわずか2週間で集まった。台湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。
■教育に殉じた六氏先生■公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育である。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台北の北方に芝山巌学堂を開いた。当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続けており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具
体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残っていた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨殺されてしまった。「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じ
た人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人教育者は24人を数えた。芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席して、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古跡・芝山巌」を次のように結んでいる。「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し上げます。合掌。
■台湾の神様になった森川巡査■森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。
また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をした。ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何とも仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のために尽力してきた森田巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲し
み、村の共同墓地に懇ろに弔った。それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまった。村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々の信仰を集めているという。
■蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉■日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出するようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、ついに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的
な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をかけた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の代わりに贈られた。
■台湾の土となった明石元二郎総督■大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であった。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いという説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と言った。二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への決意を新たにした。明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付によって200坪もある壮大な墓が作られた。
■東洋一の大水利事業を完成した八田與一■嘉南平野は台湾南部に広がる最大の平原で、香川県ほどの面積をもち、台湾の全耕作地面積の6分の1を占める。しかし雨期には集中豪雨のたびに河水が氾濫し、乾期には旱魃に襲われる。農作物がほとんど育たない不毛の地であった。総督府土木課に奉職する八田與一は大正9年から十年の歳月をかけて、上流の烏山頭で大規模なダムを造り、平野部に1万6千kmもの給排水路を張り巡らすという、東洋最大の水利事業を完成させた。アメリカの土木学会から「八田ダム」と命名され、世界的にも注目されたこの事業によって、不毛の大地であった嘉南平野は緑の沃野に変わった。台湾の民衆がこれをいかに受けとめたかは、昨年4月、嘉義県の呉明○(韋に榲のつくり)氏が自費出版した「嘉南大○(土へんに川)建設工事簡介」の次の文章からうかがわれる。「当時東洋一の大水利事業を完成して、不毛の平原を台湾一の穀物の宝庫に変えた功績は、永久不滅である。現在もなお嘉南(嘉義、海南、雲南)の農民に父のように慕われている八田技師の名は永遠に残るであろう」戦後、日本人の銅像はことごとくを引きずり倒されたが、ただ独り八田技師の銅像が、今なお守り続けられている。さらに、同夫妻の墓も作られて、5月8日の命日には毎年欠かさずに、華南の人々によって供養が続けられている。愛や教育や宗教には国境がないことを如実に物語っている。日本が台湾を植民地にした事には、いろいろ議論がある。しかし、明治日本はそのかけがえのない人材を惜しみなく台湾統治に注ぎ込み、これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注いで台湾の民生向上と発展のために尽くした。この事は、台湾の民衆にもよく伝わり、それが「多桑」世代の親日感を生み出した。大陸中国の圧迫に耐えながらも、台湾は、今日、世界でも有数の経済力を誇る民主主義国として発展した。本稿で紹介した人々は、それを草葉の陰で何よりも喜んでいるに違いない。
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J-プライド/台湾
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