河川敷にセシウム含む木材チップ
2百~3百トン、琵琶湖近く2013年9月18日滋賀県は17日、同県高島市安曇川町下小川の琵琶湖近くにある鴨川の河川敷などに木材チップ200~300トンが放置されているのが見つかったと発表した。県の調査でチップからは、最大で1キログラム当たり3千ベクレルの放射性セシウムが検出された。水との接触の防止など特別な措置が必要な基準(8千ベクレル)は下回ったが、再利用可能な基準(100ベクレル)は上回った。県は「どこから持ち込まれたか調査中」としている。県によると、チップは河川工事などに使う通路に敷かれていたほか、土のう袋77個にも入れられていた。4月下旬に付近の住民から情報提供があった。
(共同)
やっぱり江戸はスゴかった3/井戸のはなし
井戸といえば、地下水を汲みあげるものと昔から相場が決まっていますが、実は、江戸の街にあるあの井戸は、地下水を汲みあげているのではありません。
なんと、水道水を汲みあげているのです。
江戸の町は、海に面した低湿地です。
だから井戸を掘っても良い水が出ない。
そこで、関東平野を流れる大きな河川から、上水と呼ばれる水道川を造って町に水をひき、これをさらに地下に設置した石や木でできた水道管を使って、江戸市中にくまなく分配していたのです。
ちなみにいまの水道は、蛇口をひねれば、勢いよく水が出ます。
これは「加圧式」といって、水に圧力をかけて流しているからです。
これに対して江戸の水道は「自然下流式」といって、地下にある石や木、あるいは竹でできた水道管に水を流します。
その水道管から、「水道桝(ます)」あるいは「水道井戸」と呼ばれる地上への穴(江戸の街中の長屋などにある、アノ井戸です)に水を流し、ここから竹竿の先に桶をつけたつるべを下ろして水を汲み上げ、生活用水にしたのです。
こうしてできた「水道井戸」は、江戸時代の中期頃には江戸市中にほぼ20~30メートル四方に1か所の割合で設置されていました。
また「水道井戸」に水を分配するための地下水道は、なんと総延長が150kmに達しています。
文句なしに当時の世界一の規模です。
江戸の町の人口は、100万人。当時のロンドンやパリでも50万人程度で、人口も世界一なら、はりめぐらされた地下水道の規模も世界一、そして水道井戸の数も世界一だったわけです。
いまでは「水道」といえば、地下を走る水道管をイメージしますが、江戸時代で「水道」といえば、河川から市中に水を引き込むために造られた小川を指します。
つまり、水面が地表に露出している水の道です。
この水の道は「上水」ともいい、江戸で最初に造られた「上水」が、小石川上水で、これは正18(1590)年に築かれました。
天正18年といえば、豊臣秀吉が全国を統一した年です。
小石川上水は、河川から小石川まで引いた水を、まず小石川の庭園の池に引き込み、その池で鯉を飼うことで、水の安全をリアルタイムで確認し、安全な状態なら、そのまま水を流す。
鯉に万一のことがあれば、水門を閉じ、緊急に備えるなどの配慮もされていました。
その後、江戸では神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水の六上水が築造されています。
こうして築かれた「上水」も、なんと8代将軍徳川吉宗の時代の享保7(1722)年には、亀有・青山・三田・千川の4上水が、儒官、室鳩巣(むろきゅうそう)の提案で廃止されています。
理由は江戸の人口が減り、水の需要が減ったからではありません。
江戸の人口は増え続け、生活用水の需要も(いまの電力さながらに)増え続けていた。
にもかかわらず「上水」が廃止となったのは、地表に水面が露出している「水道」では、その管理がたいへんだからです。
たしかに水面が地表に露出していれば、虫もはいるし、ゴミもまじる。猫の死骸などが浮かぶこともある。
大事な飲料水を得るための水道です。
管理には相当な人手が必要です。
それなら、倹約のためにも、むしろ水が汚れない地下水道の方が、はるかに合理的だというわけです。
で、実際に4上水が廃止されています。
けれど、ここには大切なポイントがあります。
水の流れを詳しくみてみます。
江戸の街には井戸が出ない。
だから河川から、地表に水面が露出した「上水」とよばれる水の道で、水を江戸市内に流し込みます。
この名残が、まっすぐに伸びた、都内の水道道路などに残っています。
また総武線の「水道橋駅」は、その水道がお堀をまたぐ橋となって架かっていたことから、その地名が残っている。
さて、市内に「上水」で引き込んだ水は、今度は石樋(せきひ)と呼ばれる石でできた水道管で、江戸の市中の地下に引き込まれます。
そして石樋から、木樋(もくひ)を使って支流とし、さらに竹でできた竹樋(たけひ)を使うことで、江戸市中にくまなく水を分配し、分配された水を「水道井戸」で受けて、これをみんなで使っていた。
要するに、水の水位は常に一定であるという仕組みを使って、水道井戸に水を流し込んでいたわけですが、その井戸の管理は、各長屋ごと、あるいは各お屋敷ごとで行われていました。
これはこれで考えてみると、たいへん危険なことです。
もし誰かが、上手の方にある水道井戸に毒を入れたら、その毒は下流の家庭全部に回ってしまう。
地表に露出した水道なら、ある程度は管理できたとしても、地下では誰にも見えません。
先ほど述べたとおり、江戸の人口は100万人です。
100万人もの人がいたら、中に頭のおかしなヤツがいたとしても、おかしくない。
たまたまその世代にはいなかったとしても、常時100万人ということは、江戸250年という期間の中では、延べ人数にして1000万の人がそこで暮らしたことになる。
確率論からすれば、おかしなことを考えるバカ者がいても、けっしておかしくありません。
けれど江戸時代を通じ、そのようなバカ者は、誰ひとりいなかった。
江戸社会は、それほどまでに治安がよく、誰ひとりバカなことを考える者のいない社会だった、ということです。
これはすごいことです。
要するに申し上げたいのは、それだけ江戸社会というのは、治安がよかった、ということです。
江戸に住む生活者のひとりひとりが、上は将軍から下は一般庶民にいたるまで、老若男女を問わず「やっていいこと、いけないこと」の区別をしっかりとわきまえていたということです。
「ならぬことは、ならぬのです」ということを、幼いころからしっかりと叩きこまれた。
個人の「自由」というのは、一定のルールを守ることで維持されるということを、理屈抜きでしっかりとわきまえていた、ということです。
戦後社会は、これと異なります。
個人は自由であり、子供には持って生まれた素養と人格があり、たとえ教師や両親といえども、それを犯してはならないという。
だから子供は自由です。我儘のし放題が許容される。
みんなで野球をしようぜ、といっても、俺はサッカーがいいといえば、それが許容される。
授業中に先生の話を聞かず、隣の席の子とおしゃべりに夢中になっていても、それを咎める先生に問題があるとされる。
注意をすれば、注意をした側に問題がある、注意の仕方がおかしい、変だ、そもそも注意をする資格があるのかないのか、そんなことがルールとして定まっているのかなど、かしましい議論が展開される。
批判をすることがあたかも正義であり、その批判という正義の前には、教師が生徒に教えるという手段としても目的さえもが失われてしまう。
戦後の日本は、個人主義礼讃の社会です。
江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性の高低は、ものすごく相関関係にあるものです。
昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていない。震災が起こり、避難所生活になっても、誰ひとり暴動など起こさず、ひたすら明日を信じて生きようとしている。
それが日本人です。