転載元:
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座(00年08年27日)
http://blog.jog-net.jp/海ゆかば~慰霊が開く思いやりの心
慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者が受け止め、継承する儀式である。■原子力潜水艦「クルスク」乗員への哀悼
ロシア海軍・北方艦隊の原子力潜水艦「クルスク」が沈没し、乗員118人全員の死亡が確認されるや、各国政府は一斉に追悼の意を表明した。
ロシア政府の事故への対応のまずさや情報の隠匿が国際的に強く批判されていたが、それとはまったく別に他国の軍人であっても、国家のために一命を捧げた人々に敬意を表するのは国際常識である。
平時でも訓練や警戒にあたる軍人は常に死と隣り合わせにいる。
安全第一に作られた旅客用の船や飛行機で我々が気楽な観光旅行をするのとは異なる。
事故をなくすという技術的検討と、事故のリスクを知りつつ職務に殉じた人々への慰霊という精神的行為とは、まったく別次元のものだからだ。■慰霊から生まれる思いやりの心
戦艦大和の年若い士官達は、今の青年と同様、将来への志望を抱き、恋をし、友人と酒を呑んでは騒ぐ、そういう私的な生活を持っていた。
しかし、非常の時にそれらをなげうって、国家に一つしかない命を捧げたのである。
電車の中で席を譲るというような、他人のために自分が我慢をする行為を「思いやり」と呼ぶならば、自らの生命を共同体全体のために捧げる、ということは、他者への思いやりの極限の姿と言える。
慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりに生者が心を開いて、受け止める儀式である。
後に続く者を信じた死者の思いに対し、生者はなにがしかのお返しをしなければ、という気持ちを抱く。
そこから自分も、時には個人的な欲求から離れて、なしうる範囲で公のために尽くしていこうという思いやりが生まれる。
人間が「国家を構成する動物」であると同時に「慰霊を行う動物」でもあるという事は、決して偶然ではない。
国家を成り立たせるためには、相互の思いやりが不可欠であり、慰霊はその思いやりを継承する儀式であるからだ。
確かに慰霊は軍国主義の宣伝、戦争中の戦意高揚に使われる場合もあるが、だからといって慰霊の心まで失っては、相互への思いやりの心をなくして、刹那的欲望だけに生きるアニマルだけになってしまう。
国家はジャングル社会に堕落する。■海ゆかば
海ゆかば水(み)漬(づ)く屍(かばね)
山ゆかば草むす屍
大君の辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
万葉後期を代表する8世紀の歌人・大伴家持の和歌である。
昭和12年に作曲家・信時潔(のぶとききよし)によって、
荘重な旋律をつけられ、当時の国民に愛唱された。
この歌を軍国主義の典型のように早合点する人もいるだろうが、歌詞には、敵を撃滅せよ、とか、外国を侵略せよ、などという点はかけらもない。
ただただ公のための自己犠牲への決意を静かに語っているのみである。
大和と共に沈んだ戦没者はまさに「水漬く屍」である。
大君、すなわち天皇は国民を大御宝(おおみたから)として、その安寧をひたすらにお祈りするのが役割であるから、その天皇の側で死のうという事は、国民全体のために一命を捧げる事である。
「日本の新生にさきがけて散る」
とは、まさにこのことである。
「かへりみはせじ」
とは、大和の若い士官達が、将来の志望や家族、恋人への思いを「かえりずに」死地に赴いた姿に通ずる。
先の大戦中は「滅私奉公」というスローガンが謳われたが、「滅私」では私的な生活を否定することになってしまう。
聖徳太子も「背私奉公」と言われており、
「海ゆかば」でも「かへりみはせじ」である。
家族愛など私的な感情を尊びながらも、非常の時にはあえてそれに背を向けて、公に向かう、という決意が込められている。
「海ゆかば」とはこのように国家国民のために自らの生命を捧げるという極限の思いやりを示した歌であるが、しかしそれは阪神大震災での被災者を助けるために立ち上がった多くの青年達の思いやりと本質的には変わらない。
いや、電車の中でお年寄りのために席を譲ろうとするささやかな親切も、程度の差こそあれ、同じ他者への思いやりである。
イデオロギーや個我へのとらわれを脱して真心に戻れば、誰でもそのような思いやりは持っているものだ。そのような人間らしい思いやりの心を取り戻すことが慰霊の意味である。
それは思いやりに満ちた共同体を作る第一歩なのである。
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慰霊する、ということ
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