転載元:
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
http://blog.jog-net.jp/■元旦とともに東からやってくる歳神様
現在の暦では正月は冬のさなかで、「新年」という実感には乏しいが、旧暦では来年の元日は2月1日。
冬至と春分の中間にあたる立春のあたりで、寒さはまだ厳しいだろうが、少しずつ日が長くなり、春の訪れが感じられる時期である。
旧暦は月の満ち欠けに基づく太陰暦なので、大晦日(おおみそか)は闇夜だが、元日の夜には細い弓のような「新月」が現れ、新しい月が始まる。
その闇夜が明ける卯の刻(午前6時)に、歳神様が東の方からやってくる。
歳神様は正月様とも呼ばれるが、祖先の御霊(みたま)である。
わが国では、死者が子孫を見捨てて、自分一人、天国や西方浄土に行ってしまうとは考えなかった。
祖先の霊は子孫をいつも見守ってくれている一家の守護神であり、同時に豊作をもたらす穀霊でもあった。
歳神様のお陰で、一家が一年を無事に過ごせたことに感謝し、また新しい年も幸福に過ごせるようにお祈りする。年末から年始にかけて様々な行事があるが、それらのほとんどは、歳神様をお迎えするためのものなのである。
その由来を辿ってみれば、我々の先祖が、一つ一つの行事にどのような祈りを込めてきたのか、思い出すことができるだろう。■歳暮、餅つき
年末には親やお世話になった人々にお歳暮を贈る。
歳暮とは、文字通り「歳の暮れ」を指すが、もともとは、歳の暮れになって歳神様に米、餅、魚などをお供えしたのが始まりだった。
それが都会に出て帰省できない子供や遠方の親戚が、本家の祭壇にお供えしてもらうよう、供物(くもつ)を贈るようになり、それとともに両親の長寿を願ったのが、お歳暮という習慣に変わっていった。
お歳暮として塩ザケや塩ブリが好まれたが、これらは「年取り肴(さかな)」と呼ばれ、年越しの食膳には必ず出されたものである。
長期保存ができる点も重宝がられた。
年末には餅つきをして鏡餅を作る。鏡餅も歳神様への供え物であり、またご降臨された年神様が家の中で鎮座される場所だった。
もともと餅は神様に供える神聖な食べ物と考えられていた。
鏡餅と呼ばれるのは、昔の鏡が円形だったからで、丸い形は神の御霊を象徴している。大小二つ重ね合わせるのは、月(陰)と日(陽)を表して、月日をめでたく重ねる、あるいは、福徳を重ねるという意味が込められていたようだ。■大掃除、門松、注連(しめ)飾り
年末には大掃除もする。
これは歳神様をお迎えするために住居のお清めをする「すす払い」に由来する。住まいが清められて、人間の方もすがすがしい気持ちで新年を迎えることができる。
それに門松。
これは歳神様が迷わずにご降臨されるために門につける目印である。
とくに松が飾られるようになったのは平安時代からで、松は古くから神が宿る木と考えられていたためだ。
さらにまっすぐに節を伸ばす竹が、長寿を招く縁起物として門松に添えられるようになった。
玄関口や神棚には「注連(しめ)飾り」をつける。
神社でしめ縄を張るのと同じで、家の中が歳神様を迎える神聖な場所である事を示す。
しめ縄の簡略化されたものが、しめ飾りや輪飾りである。
「年男」とは現代ではその年の干支に当たる人を指すが、もともとは歳神様をお迎えする準備を取り仕切る人を意味した。
室町幕府や江戸幕府では、古い儀礼に通じた人が任ぜられたが、一般の家庭でも家長、あるいは、長男などが当たるようになった。
年男は正月が近づいた暮れの大掃除から、門松や注連飾りなどの飾り付け、鏡餅や若水などの歳神様への供え物、おせち料理の準備など一切を取り仕切る。
こうして清められ、供え物も整った所に、いよいよ歳神様をお迎えするのである。■大晦日
1年の最後の日を「大晦日(おおみそか)」と呼ぶ。
大晦日の「晦」は「暗い」という意味で、この日は月の出ない闇夜だからである。
月の満ち欠けを基準にする旧暦では、毎月の最後の日が闇夜だったので、その日を「晦日(みそか)」と言った。
そして一年の最後の「晦日」を、「大晦日」と呼んだのである。
大晦日は「おおつごもり」とも言う。
「つごもり」は「月籠もり」が転じたものである。
この夜は月が籠もって姿を現さない。
翌晩に出てくるのは新月であり、それが徐々に半月になり、満月へと成長していく。その後はまた次第に細っていき、「月籠もり」を迎える。我々の先祖は月の満ち欠けに人間の生死と同じサイクルを観じていたのである。
古くは一日の終わりは日没と考えられていたので、一年の終わりは大晦日の日没時である。
それとともに新年が始まる。
そして大晦日の晩は身を清め、寝ないで翌朝の歳神様のご来臨を待つ。
大晦日の晩を「除夜」とも言うが、「除く」とは「押しのける」という意味で、「古い年を押しのけて新年を迎える夜」という意味がある。
あるいは、「寝ないで朝まで起きているので、夜が除かれるから」という説もある。■初詣、除夜の鐘、おみくじ
大晦日の夜は、神社では境内で火を焚き、夜を徹して神主が罪や穢(けが)れを清める大祓(おおはら)えを行う。
一家の長は、氏神の社に除夜から翌朝まで籠もって歳神を向かえる。
これを年籠り(としごもり)と呼んだ。
この年籠もりが、大晦日の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」の2つに分かれ、後者が現在の「初詣」の原型になった。
寺院では、午前零時を前にして除夜の鐘をつき始め、108回鳴らす。
これは中国の宋代に始まった慣習だが、静かな夜更けに響く鐘の音は、いかにも荘厳な雰囲気を盛り上げる。
年神様を迎える聖なる時にいかにもふさわしい。
異国から伝えられた仏教行事も八百万の神々のおわすわが国では、土着の慣習に自然に融合しているのである。
初詣の際に、おみくじを引くようになったのは、江戸時代ごろからのようであるが、くじによって神意をうかがうことは、そのはるか昔から行われていた。鎌倉時代には、農村で用水を田に引く順番を決めるときや、漁村で漁場の割り当てを決めるときに、話し合いがつかない際には、村人たちがそれぞれ名前を紙片に書き、神主がお祓いをしてから紙片を引いて決めた。
「神仏の配慮は公平」と信じられており、おみくじは、地域共同体を円滑にまとめる手段であった。
日本の神様はこんな所でも助けてくれる。■「神人共食」
歳神様のご降臨の前、午前4時頃に最初に井戸から汲む水を「若水」といった。
これも歳神様にお供えするものである。
若水を汲むことを「若水迎え」と言って、その途中で人に出会っても話をするのは厳禁とされた。
神棚に供えたあとの若水を飲めば一年の邪気を除くと信じられていた。
おせち料理は、もともと季節の変わり目として何回かある節句の時に歳神様にお供えする「お節料理」だった。
やがて、節句のなかでも正月がもっとも重要なものということから、正月料理を指すようになった。
またお雑煮は、歳神様に供えた餅を神棚から下ろし、それを野菜や鶏肉、魚などを煮込んで作る。
関西では丸餅を使うが、これは現在でも歳神様に供えた鏡餅をかたどっているためと言われている。
おせち料理やお雑煮などを食べるのに使う祝い箸は両端が細くなっている。これは一方で歳神様が食べられるからである。
このように歳神様と家族とで一緒に食事をすることを「神人共食」という。
どこの国でも、お客に食事を出して一緒に食べることが、お互いの親密度を高める手段となっているが、それが神様にまで適用されているのが、わが国の面白い所である。
日本の神様は一神教のように天地を創造した超越神ではなく、子孫の家に上がり込んで饗応を受ける、気さくな親しみ深い存在なのである。■数え年とお年玉
元旦に飲むおとそは、もともとは中国の唐代から飲まれるようになった薬酒の一種で「お屠蘇」と書く。
「悪鬼を屠(ほふ)り、死者を蘇らせる」という意味で、こう書くと、日本人の感覚からするとややグロテスクである。
元旦にお屠蘇を飲む習慣は、平安時代に日本に伝わって、宮中の元旦の儀式として取り入れられ、やがて庶民の間にも広まっていった。御神酒を神様に供えるという日本古来の風習との親和性があったからだろう。
除夜の鐘と同じく、異国の習慣でも、古来からの日本の風習と親和性があるものは、素直に取り入れる所に、我が祖先の柔軟性が窺われる。
数え年では、元日に家族全員が一斉に年をとる。
だから、古い年を無事に過ごし、新しい年を一緒に迎える正月は、格別のものがあったろう。
西洋流に個人毎に異なる誕生日を持つという風習が広まって以来、年をとるということは、ひどく個人的な営みになってしまった。
一緒に年を取るのは家族ばかりではない。
家で飼っている牛や馬、臼や鍋、釜、包丁、鉈などの道具も一緒に年をとると考え、餅を供えたりする。
動物や道具も一緒にこの世で生を営んでいるという仲間意識のようなものを持っていたからであろう。
正月に子供たちが貰うお年玉は、もともとは歳神様からの贈り物だった。
歳神様にお供えした餅を下ろし、年少者に分け与えたのが始まりと言われている。
地域によっては、歳神に扮装した村人が元旦に各家庭を回って、子供たちに丸餅を配って歩く風習がいまだに続いている。■鏡開き、小正月
1月11日には、歳神様に供えた鏡餅を下ろして、雑煮や汁粉にして食べる。
これを「鏡開き」と言う。
歳神様が宿っている鏡餅に刃物を入れるのは忌むべきことなので、手や木槌で割る。
また「切る」「割る」とは縁起の悪い言葉なので「開き」と言いかえる。
昔の武家では、鏡餅で作った雑煮や汁粉を主君と家来が揃って食べ、商家でも主人と使用人たちが一緒に食べた。
「神人同食」と同様、同じ食物を共に食べることで、親密さを深めることができるのである。
1月15日を「小正月」という。新年の最初の満月の日である。
この日の朝には小豆がゆを食べる習慣があった。
小豆のような赤い色の食べ物は、身体の邪気を払うと考えられていた。
めでたい時に、赤飯を炊くのもこの理由からだろう。
この日の前後に「左義長」または「どんど焼き」「どんど祭り」などと呼ばれる火祭りが行われる。
正月に飾った門松やしめ飾りを、神社や寺院の境内に持ち寄って燃やす。
その時の煙に乗って、新年に訪れた歳神様が天上に帰って行く。
この時に、餅や芋、だんごなどを棒に刺して、焼いて食べると、その年は無病息災であると信じられていた。■ハレとケ
古来から日本人はハレの日とケの日を厳密に分けていた、という民俗学の説がある。
ケの日はふだんどおりの日常生活を送るが、それが続くと次第に生きるエネルギーが枯渇してくる。
それが「ケ枯れ」(汚れ)である、という。
「ケ枯れ」を回復するために、人々はハレの日の祭事を行う。
日常を抜け出して、「晴れ着」を着たり、神聖な食べ物である赤飯や餅を食べたり、酒を飲んだりする。
正月は、そのハレの日の中でも中心的なものであった。
禊ぎをして身のケガレをとり、家のお祓いをして、歳神様をお迎えする。
歳神様は一家の守護神であり、また豊穣の神でもあった。
この慈愛あふれる歳神様と酒食を共にすることで、人々は新たなる年に向かうエネルギーをいただく。
我々の祖先は、こうした豊かな世界観に基づいて、正月行事を行い、そこから新しい一年に向かうエネルギーを得ていたのである。
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正月行事と先祖の祈り
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