我々の祖先は四季折々おりおりに神々に祈り、感謝しつつ、一年を送ってきた。■1真冬なのになぜ「初春」?
正月は冬の最中なのに、年賀状では「新春」「迎春」などと書く。
実際の春はまだまだ先のはずなのに、なぜだろう。
これは明治5(1872)年に、それまで千二百年以上も使われていた旧暦を、西洋で用いられていたグレゴリウス暦(新暦)に変更した事から起こった矛盾である。
旧暦なら今年の正月は1月22日。
東京では元日には5時1分だった日没が5時20分となって、日が伸びてきた事が実感できる。
日射しもなんとなく明るく春めいてきて、いかにも「初春」と呼ぶにふさわしい時期である。
1月7日は七草粥を食べるのが旧来の風習で、枕草子には1月6日に京都の野原で七草を採ったという一節があるが、これも旧暦ならではの事で、新暦の1月7日ではハウス栽培物しか手に入らない。■なぜお正月はおめでたいのか?
旧暦なら月の満ち欠けがそのまま分かる。
1日は闇夜で、3日が「三日月」、15日に満月となり、それからまた欠けていって30日には闇夜に戻る。
したがって年末・大晦日は常に闇夜である。
その闇夜に、歳神様とも正月様とも呼ばれる神様が戻ってくる。
それは祖先の御霊である。
わが国では、死者が子孫を見捨てて、自分一人、天国や西方浄土に行ってしまうとは考えなかった。
祖先の霊は子孫をいつも見まもってくれている一家の守護神であり、同時に豊作をもたらす穀霊でもあった。
その歳神様が戻られるための依代(よりしろ、神霊が招き寄せられて乗り移るもの)として門松を立て、神様を迎えた聖域として不浄なものの侵入を禁ずる印のしめ縄をかける。
こうして一家を見守り、豊穣をもたらしてくれる歳神様を揃ってお迎えし、新しい春を迎える。
だから正月はおめでたいのである。
元日には一家揃ってお雑煮を食べる。
それには必ず餅を入れる。
新米でこしらえた餅には、豊かな稔りと幸せをもたらす歳神の御魂が入っているので、それを食べることにより、家族揃って活力に満ちた新しい年を迎えることができる、と信じられてきた。
この歳神の御魂が「お年玉」である。
今日では子供たちにお金をやるのがお年玉となってしまったが、年長者が子供たちの無事の成長を祈る思いには通ずるものがある。■初詣と初日の出
一方、皇居では元旦の午前5時半、神嘉殿の前庭で四方拝(しほうはい)が行われる。
白砂の上に小さな畳を敷き、屏風で周りを囲った御拝座に天皇が出御され、天地四方の神々、神武天皇陵と先帝の御陵などを遙拝される。
これに続いて、宮中三殿(賢所(かしこどころ)・皇霊殿・神殿)で行われる「歳旦祭(さいたんさい)」では、天皇と皇太子が、天照大神、歴代天皇、および八百万の神々に、旧年の神恩を感謝され、新年にあたり国家の隆昌と国民の幸福を祈願される。
四方拝もろもろの民安かれの御いのりも年のはじめぞことにかしこき明治30年、大正天皇の皇太子時代、19歳の時の御歌である。
明治天皇が遙拝されている御拝座の外で陪席されていたのであろう。
四方拝は平安時代の初めから行われており、歴代天皇は千二百年近くの長きにわたって、こうして毎年毎年、国家国民の安寧を祈り続けてこられたのである。
我々が初詣で、家の繁栄と健康を願うのも、この四方拝、歳旦祭の民間版であ
る。
旧暦の大晦日は月のでない闇夜であるから、初日の出はいっそう、まぶしく神々しいものであったろう。
まさに天照大神が
天の岩戸から出られた時を連想させる。■なぜ春分の日に「自然をたたえ、生物をいつくしむ」?
春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)は昼夜の長さが等しい。同時に7日間のお彼岸の中日とされており、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように季節の区切り目となっている。
この春分の日、秋分の日を、祝日法では、それぞれ「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」としている。
なぜか。
朝廷では平安時代初期からこの両日の前後7日間に彼岸会(ひがんえ)という仏事を執り行ってきた。
彼岸会は、迷いの此岸(しがん、この世)から悟りの彼岸(あの世)へ至るための法要であり、江戸時代には庶民の間にまで年中行事として広がった。
お彼岸はインドにも中国にもない、日本独特の行事である。
一説には「彼岸」とはもともと「日の願(ひのがん)」という言葉から出ており、丹後や播磨などでは、お彼岸の7日間「日迎え」「日送り」などと呼ばれる行事を行うという。
春分の頃に豊作を祈り、秋分の頃に豊作を予祝するという仏教渡来以前から存在した農民たちの太陽信仰が起源となっているようだ。太陽は天照大神であり、万物を生み育てる有り難い「お天道様」である。
そのお天道様に豊年を祈るからこそ、春分の日が「自然をたたえ、生物をいつくしむ」とされているのである。
秋分の日はお天道様に感謝する日だったのが、その上に仏教の彼岸会が重ね合わされたので、先祖供養の色彩が濃くなり、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」とされたようだ。■桃の節句と端午の節句
3月3日は桃の節句で、女の子のいる家庭では、お雛人形を飾り、桃の花を添える。
しかし、その頃はまだ梅が満開で、桃の花は4月にならないと咲かない。
これも旧暦の3月3日をそのまま新暦に移した事による矛盾で、旧暦の3月3日は今年なら4月21日である。
枕草子には「三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の、いま咲きはじむる」という一節がある。
雛祭は,江戸中期ころまでは「雛遊び」と呼ばれていた。
これは神を迎えてまつり、男女の健やかな成長を願い災厄をはらう祭りであった。
雛人形は日本に古くからある人形(ひとがた)の考えに基づく。
これは紙や藁(わら)で作った人形で身体を撫でることによって、身の穢(けがれ)や禍を移し、それを川や海に流したり、焼いたりすることで、子どもが健やかに育つように祈るという愛情の籠もった儀式であった。
5月5日は鯉幟。五月晴れの空に勢いよく鯉が泳いでいるというイメージを抱くが、それもやはり新暦になってからの誤解で、旧暦の5月5日は今年なら6月22日。
梅雨入りした頃である。
五月晴れとは、梅雨の合間にたまたま晴れた日の事を言った。
芭蕉が詠んだ「五月雨(さみだれ)を集めて速し最上川」の五月雨とは梅雨のことである。
縦長の布に鯉を描いて竿に立てた幟(のぼり)を、梅雨空に立てたのが鯉幟である。
五月雨の中を勢いよく鯉が上っていく様に、男の子の元気な成長と出世を願ったのである。■祖霊・氏神との交歓
旧暦の7月15日がお盆である。
新暦なら今年は8月30日に当たる。
新暦でもそのまま7月15日に行う地方もあるが、それではまだ梅雨の時期なので、一ヶ月遅らせて8月15日に行う地方が多い。
13日の夕方に迎え火を焚いて、ご先祖の霊をお迎えし、お坊さんにお経をあげて貰ったり、お墓参りをして、16日に送り火を焚いてお送りする。
日本では仏教渡来以前から,正月と7月に魂祭が行われており、後者に仏教行事が重なったようである。
盆踊りは祖霊を供養するための行事で、暑い夏を無事乗り切って、初秋の澄んだ満月の夜に、村中の人々が打ち揃って楽しく踊る姿に、祖霊たちも心を慰めたであろう。
11月15日は七五三。
3歳の男女児、5歳の男児、7歳の女児を盛装させて、神社にお参りする。
旧暦11月15日は、今年では新暦12月26日。
冬の最中の寒い日に子どもを連れて神社に行けるということは、その子が丈夫に育っているという証拠であり、氏神様に感謝するお礼参りだった。
日本では古来から「7つ前は神のうち」と言われ、7つ前までは魂がふらふらして安定しないので、いつあの世に戻るとも限らない、と考えられていた。
乳幼児の死亡率が高かった事が背景にあったのだろう。
それだけに子どもが、3歳、5歳、7歳と無事に育っていく様は、今の親心の何倍もの喜びであったろう。
氏神様のご加護のお陰で、こんなに丈夫に育った子どもを見て下さい、という気持ちで、親は子供たちを連れて、わざわざ寒さの中を神社にお礼お参りにいったのである。■国民がたがいに感謝しあう
11月23日は勤労感謝の日で、祝日法では「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」とされている。
この祝日の起源は天武天皇朝(7世紀後半)に形式の整った新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)である。
新嘗祭では、身を清められた天皇が神嘉殿において、お一人で夕べの儀(午後6時から8時まで)と暁の儀(午後11時か;ら翌朝午前1時まで)を行われる。この時に天皇は、新米の蒸しご飯とお粥、栗のご飯とお粥、白酒(しろき)と黒酒(くろき)、魚の鮮物(なまもの)と干物などからなる御饌(みけ)を竹のお箸で柏の葉に盛りつけて神座に供される。そのあと、それらを天照大神から新しく頂いたものとして、自ら召し上がる。
この新嘗祭の一月ほど前、新暦10月16日、17日に神嘗祭(かんなめさい、かんにえのまつり)が伊勢神宮で執り行われる。
神嘗とは神を饗(あえ)する、すなわち、もてなすことである。
伊勢神宮の御神田からとれた新米に加えて、天皇が自ら皇居内で田植え・刈り取りをされた新米が捧げられる。
豊かな稔りをもたらしてくれた天照大神の恵みを感謝して、その初穂を捧げる感謝の儀式である。
神嘗祭の新米によって神威を盛り返された天照大神の霊力を、新嘗祭の御饌を通じて天皇の体内にいただき、生命力を盛り返される、というのが、新嘗祭の意義だという。
こういう儀式を通じて、国家国民の安寧を祈るという天皇の聖なる使命が千三百年以上にも渡って、代々受け継がれてきたのである。
古代にはこの行事は民間でも広く行われていたようだ。
石川県の奥能登地方には、「アヘノコト」と呼ばれる民俗行事が残っており、秋の収穫を終え冬ごもりする頃、田の神様を迎えて、ご飯や海の幸山の幸を供え、そのお下がりを家族でいただく。
このアヘノコト(饗事)によって、種籾に穀霊を宿して、来年の豊作を祈ると共に、家族みなが祖霊の霊力をいただいて、生命力を盛り返す。まさしく民間のニイナエである。
このようなニイナエの原義を神や天皇という言葉を伏せて述べると、「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」となるのである。■新嘗祭とクリスマス
新嘗祭は、古来は11月の下卯の日(今年は旧暦11月20日、新暦12月31日)に行われていた。
新暦12月22日の冬至の日に近い。
冬至を過ぎると、徐々に太陽が光を増し、昼も長くなっていく。
この時期に太陽神・天照大神の霊力を呼び戻そうというのは、太陽信仰としてごく自然である。
冬至に太陽の復活を祝う風習は世界各地にあった。
キリスト教でもキリストの降誕日が不明であったが、3世紀後半頃から12月25日として祝うようになった。
これは古代のローマ人やゲルマン人が、冬至の日を太陽の誕生日として盛大に祝う習俗があり、キリスト教徒もイエスを太陽になぞらえて、冬至こそ救世主の誕生日にふさわしいと考えたからであろう、と言われている。
とすれば、新嘗祭もクリスマスも文化的には同じ根っこを持つ祭日であるといえる。
お天道様への感謝は、古来、どの民族も持っていたのである。■山川草木も、祖先もすべて血のつながった神々
こうして年中行事や祝祭日を通じて、日本人の一年を見ていくと、その生活がいかに神々と一体になっていたかが、よく分かる。
その神々とは、キリスト教の神のように唯一絶対、万能の超越神ではない。
草場の陰で子孫を見守ってくれる爺っちゃん・婆っちゃんたちであり、豊かな稔りをもたらしてくれる田の神であり、万物を温かく照らしてくれるお天道様である。
それぞれにやさしい温かい神様たちである。
一年の四季の移ろいに従って、そうした神々に平和と豊穣と健康を祈りつつ、毎日、一生懸命働いては、豊作や子供たちの健やかな成長を神の恵みとして感謝する。
そういう敬虔な生活を我々の祖先はこの日本列島で数千年もの間、毎年毎年、繰り返してきたのである。こういう文化的遺伝子は、我々の心の奥深くに継承されている。
昭和56年にNHK世論調査部が実施した「日本人の宗教意識」調査では、次のような回答が得られている。
[ 昔の人は、山や川、井戸やかまどにいたるまで、多くのものに神(神々)の存在を感じたり、神をまつってきましたが、あなたはこうした気持ちがよくわかるような気がしますか?・・・わかる:74.9%
「祖先の人たちと深い心のつながりを感じることがありますか?・・・感じる:59.9% ]
わが国では山川草木も、祖先もすべて神である。
しかもこの自然も祖先も、皇室も民草も、そして現在生きている我々も、すべてはイザナギ・イザナミの両神から生まれた血のつながった同族なのだ。
日本人はそうした血のつながった神々に祈ったり、感謝したり、食事や踊りを共に楽しみながら、四季折々を過ごしてきた。
「神国日本」とはまさにこのことである。
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日本人の一年 (ひととせ)
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