『実語教』日本人千年の教科書
■規則正しく譲り合って滑っていくたくさんの雨傘
雨の降る渋谷ハチ公前の大きなスクランブル交差点では、色とりどりの雨傘がひしめいている。
それを見下ろす高層ビルのレストランで、そのアメリカ人老夫婦はこんなふうに語った。
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私たち、こうするのが大好きなの。
日本のことが一番よくわかるから。
雨の日、そしてことに渋谷のような大きな交差点。
ほら、あちこちの方向へ動く傘をよく見てごらんなさい。
ぶつかったり、押し合ったりしないでしょ?
バレエの舞台の群舞みたいに、規則正しくゆずり合って滑って行く。
演出家がいるかのように。
これだけの数の傘が集まれば、こんな光景はよそでは決して見られない。
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外国人が日本に来て、驚くことの一つが、日本人一人ひとりが持つ他者への気遣いである。
他者への気遣いは日本人の国民性であるが、その国民性を作ってきた本がある。
『実語教』という。
と言っても、知らない人がほとんどだろう。
平安時代の終わりに書かれたと言われ、鎌倉時代に世の中に広まって、江戸時代には寺子屋の教科書とされた。
明治の大ベストセラー、福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、この『実語教』を下敷きとしており、教育勅語でも同様の内容が説かれている。
千年にもわたって、日本人の精神を作ってきた本が、ほとんど忘れ去られている、という点に、戦後思潮の異常さがあるのだが、その内容を実に分かりやすく解説した本が出版された。
齋藤孝氏の『子どもと声に出して読みたい「実語教」』である。
■お年寄りや幼い子どもを助ける
寺子屋などで使われていただけあって、実語教の内容は簡潔である。
同書の末尾に素読用に大きな文字で原文が書かれているが、わずか60余行、全部を素読しても5分もかからない。
内容もほとんど子どもが聴いて分かるような節が多い。
たとえば、次のような一節がある。
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老いたるを敬うは父母の如し。
幼(いとけなき)を愛するは子弟の如し。
お年寄りを見かけたら、自分のお父さんやお母さんのように大切に敬いなさい。
幼い子どもを見かけたら、自分の子どもや弟・妹のようにかわいがってあげなさい。
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齋藤孝氏は、この節を子ども向けに分かりやすく解説している。
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まだ若いみなさんにはわからないかもしれませんが、年をとった人というのは、ちょっと歩くのも大変なことがあります。
そういう大変さはなかなか伝わらないので、おじいさんやおばあさんが階段を上るときとか、大きな荷物を持つのに大変そうにしているのを見たら、すすんで手を貸してあげてください。
「大丈夫ですか?」と手をとってあげるだけでも、お年寄りは助かるのです。
そして、そういう行動をすると、その場の雰囲気がよくなります。
幼い子どもも同じです。
小さな子はあたり構かまわず、いきなり走り出して、転ころんでしまうことがよくあります。
そういう子がいたら、助け起こしてあげましょう。
みんなが積極的にそういう行動をとる社会は、安心して暮らせるいい社会です。
世界には、子どもが車にはねられても助けに行かないような国だってあるのです。
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■ひき逃げされて血を流している幼児も助けない国
「子どもが車にはねられても助けに行かないような国」とは、最近、中国であった事件をさしているのだろう。
それは車がようやく通れるほどの細い道で、2歳の女児がひき逃げされ、路上で血を流して倒れているのに、そのすぐそばを18人もの人が平気で通り過ぎていった、という事件である。
女児はようやく19人目のおばあさんに助けられ、病院に担ぎ込まれたが、死亡してしまった。
この様子は一部始終が監視カメラで撮影されており、映像がネットに流れて、中国内でも怒りの声があがった。
また上海の雑踏で、87歳の老人が脳梗塞で倒れ、後頭部から血を流しているのに、誰も助けようとしなかった。
通りかかった白人女性が老人を助け、傍観している見物人に激怒して、罵倒したという事件も起こった。
こういう事件がニュースになるということは、中国においても、「子どもやお年寄りを助けるのが良い社会」という価値観は同じだからである。
それは世界共通の価値観なのだ。
しかし、問題はどれだけの一般市民がそういう気遣いを実践しているか、という事である。
欧米では、その価値観が相当に実践されているが、その欧米人が日本に来ると、日本人の気遣いに驚く。
逆に同じ欧米人が、中国では倒れている老人を誰も助けないので、激怒する。
価値観は同じでも、その実践度合いは国によって、かくも違いがある。
■社会とは"流れるプール"
この違いはどこから来るのか。
齋藤氏が「おわりに」に書いている内容が参考になる。
齋藤氏が小学校5年の頃、学校のプールに1学年6クラスの生徒全員が入って、同じ方向にグルグル円を描くようにして歩いたことがあるという。
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しばらく歩いていると水流が起こり、すごいスピードの"流れるプール"ができあがりました。
歩き続けているうちに水に勢いが出て、その勢いがどんどん強くなっていくのです。
そのうち水に背中を押されるようになり、歩くのが楽になります。
中には水流に体を預けてプカプカ浮いて、はしゃいでいる子もいましたが、真面目な子はずっと歩き続けていました。
私は最近、社会というのは、この"流れるプール"みたいなものなのではないかと考えるようになりました。
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社会の道徳力とは、この水流のようなものだと思えば、理解しやすい。
日本や欧米では、「子どもやお年寄りを助けるのが良い社会」という方向に水が流れているので、普通の人でも、その方向に背中を押されて、実践しやすくなる。
中国では、過去数千年の戦争、飢饉、疫病、歴代王朝・政府の搾取のために、逆方向の水流が起きており、普通の人でも他人を助けるのに、相当な抵抗がある社会になってしまっている。
見物人が、倒れている老人を助けようとしない理由の一つに、うかつに助けると、逆に加害者だと訴えられて、慰謝料をゆすりとられる事件が多発しているから、というのも、その一例だ。
筆者には中国人の友人知人も多く、個人的な道徳では立派な人も少なくない事を知っている。
それでも社会となると、これだけの違いが出てしまうのは、社会の道徳力という水流の方向が違うからだ、と考えると納得できる。
そして「子どもやお年寄りを助けるのが良い社会」という方向に、千年間も日本人の背中を押してきたのが実語教である。
■「孝」が"流れるプール"の原動力
「老いたるを敬うは父母の如し」という言葉は、その水流の原動力が、父母への「孝」であることを示している。
「人として孝なきものは、畜生に異ならず」という一節を、齋藤氏はこう解説する。
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「孝」という字は前にも説明しました。
これは「恩」という気持ち、感謝の気持ちといってもいいでしょう。
親に感謝して恩返しをしようとする気持ちです。
恩を感じて生きるという姿勢を持つと、それは自分自身の心の柱にもなります。
「ここまで育ててくれて、ありがとう」という気持ちを持っている人は、自分も強くなれます。
そう考えると、恩の気持ちは単に人に感謝するだけのものではなくて、自分自身が豊かになっていくためにも大事なものなのです。
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これは「孝」がなぜ昔から、道徳の最初の項目として説かれているか、という事に関する見事な説明である。
親の子どもに対する愛は無償の愛である。
それに気がついて、親の思いを推し量ることができるようになると、周囲の他人にも気遣いができるようになる。
したがって親の自分への無償の愛に気がつくことが、他人の心への思いやりを抱く出発点になる。
「孝」こそが、"流れるプール"の水流を起こす最初の原動力なのである。
■「山高きが故に貴(たっと)からず」
親の期待に応えて、立派な大人になるには、どうしたら良いのか。
実語教はその冒頭でこう説く。
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山高きが故に貴(たっと)からず
樹有るを以て貴しとす。
山は高いからと言って価値があるわけではありません。
そこに樹があるからこそ価値が出てくるのです。
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この一節を齋藤氏はこう解説する。
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なぜ樹があると貴いのでしょう?
樹を斬って材木にして、家を建てたり、箸(はし)を作ったり、社会のために役立てることができるからです。
「何かの役に立つ」ということがとても重要です。
そのときに初めて価値が生まれるのです。
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人も同じで、社会的地位の高い人が偉いのではなく、世のため人のために役立つ人が偉いのである。
■「智有るを以て貴しとす」
どうすれば、世のため人のために役立つ、立派な人になれるのか。
第2条は続けて説く。
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人肥えたるが故に貴からず
智有るを以て貴しとす。
人は太ってふくよかであるといって立派なのではありません。
知恵があるからこそ立派な人ということができるのです。
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昔は太っているとう事は金持ちのあかしだった。
だから、この節は財産を持つ事よりも、智を持つ方が貴い、ということである。
人は智を持つことによって、初めて世の中の役に立てるからである。
第4条では
「人学ばざれば智なし。
智なきを愚人(ぐにん)とす」
として、智のない人は世の中の役に立たない愚人であり、そのためには学ばなければならない、と説いている。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、冒頭の
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
という一節のみが有名になって、あたかも「人間はすべて平等だ」と言っているように思い込んでしまうが、それは誤解である。
諭吉はその後に続けて、世の中には賢い人も愚かな人も、金持ちも貧乏人も、貴人も下人もいるのは、どうしてか、と問うて、こう答える。
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『実語教』に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。
されば賢人と愚人の別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
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諭吉は、ここから『学問のすゝめ』を説いていく。
その説は
「人が世のため人のために役立つ人物になるには、智が必要であり、そのために学問が大切だ」
という事で、まさに実語教の教えを下敷きにしているのである。
江戸時代には、すでに日本人の基礎的教養になっていた実語教の教えが、新しい文明開化の時代にも通用する、と説いたからこそ、『学問のすゝめ』が大ベストセラーとなり、明治日本の急速な発展の後押しをしたのだろう。
■水流のエネルギーを取り戻すために
「子どもやお年寄りを助けるのが良い社会」という方向に水流が流れている欧米と日本が近代化にいち早く成功したのは、偶然ではない。
そのような水流に後押しされた国民は、世のため人のために役立つ人間になろうと努力し、学問に励む。
そのエネルギーが国を近代化し、発展させるのである。
個人主義教育やゆとり教育が蔓延して、いよいよその水流が弱まってきた過去20年間、我が国が発展のエネルギーを失って、長期停滞に落ち込んでしまったのも当然だろう。
現下の諸問題を解決し、より幸せな国を築いていくためにこそ、今まで持っていた水流のエネルギーを回復させなければならない。
「日本人の千年の教科書」と呼ばれる『実語教』が、いままた思い起こされてきたのも、その兆しであろう。
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『実語教』日本人千年の教科書
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