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韓国併合

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草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
1910年 - 韓国併合: 閣議で、同年8月の併合後の韓国に対する施政方針を決定する。
■今日は何の日
2013/06/0221:06 0 0
今日は何の日 6月3日 1910年 - 韓国併合: 閣議で、同年8月の併合後の韓国に対する施政方針を決定する。

日本では併合反対派が多かったが、朝鮮が強く求めてきたこと知るべきです。

石原発言で有名ですね。「(日本は)決して武力で侵犯したんじゃない。むしろ朝鮮半島が分裂してまとまらないから、彼らの総意で、ロシアを選ぶか、シナを選ぶか、日本にするかということで、近代化の著しい同じ顔色をした日本人の手助けを得ようということで 世界中の国が合意した中で合併が行われた。 」

朴 元大統領『しかしあのとき、我々は自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。 もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。

もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。 そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。

http://youtu.be/5QZZZnPdaMM
日本を選んだということは、BESTとはいわないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、 Second Bestとして私は評価もしている』と述べて、反日言動に走る側近をたしなめたと言います。

このように日本統治時代を経験した人が日本を評価し、経験もしていないものが反日とはおかしな国です。

韓国皇帝、韓国政府(李完用首相)、一進会(自称100万人の最大政治団体)が併合を要請しました。

コリア人が待望していた「日韓併合」より・・・

朝鮮人の知識人というか、中国の属国から逃れロシアなどの大国に侵略されるのを恐れた先見性のある人達が、日本に助けてくれと要請してきたので、日本としては希まない選択であったが中国大陸の覇権が西洋列強から日本自体が侵略されないための生命線であると見てその要望を飲んだのです。

朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉が各民族に接してみると、朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンより劣り、その他メキシコ、インドなどの民族より劣っていることを知り、衝撃を受け、次のように述べています。

 「現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことはできない。亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。

 そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。

そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。
それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。

日韓併合が問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。」

朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」 
「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画(日本図書館連盟選定図書) 
>>崔基鎬著:日韓併合(韓民族を救った「日帝36年」の真実):序章より 

意外に思われるかも知れませんが、初代韓国統監となった伊藤博文も韓国併合反対派でした。 韓国ではテコンドーの技の名前に採用されてる(最後の両班)安重根が、伊藤を暗殺したことがきっかけで朝鮮と日本の併合推進派によって朝鮮は併合されます。なんとも皮肉な話です。

 ウォン・イルファン(H.B.アンダーウッド)教授は、日帝が韓国に及ぼした功労は鉄道や学校の建設ではなく両班階級(李氏朝鮮時代の支配階級)の破壊だとも言ってます。

 李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を摂取することだけしか考えなかった。

そのために社会道徳が乱れて、精神も文化も経済も疲弊した。売官売職は普通のことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。 政治は不正行為の別名しかなかった。民衆への収奪が極限に達していた。

いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけこき使われ、乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望をいだくことができない日々を送っていた。

社会が停滞しきっていた。火賊や山賊と呼ばれる盗賊が横行していた。火賊は村を襲うときは放火して、その混乱の中で略奪したためにそう呼ばれた。日本人は徳川幕府末期の日本について大いに誇ることができようが、情けないことだが、韓国人としては李朝末期については何一つ誇ることができない。 
                   
「醜い韓国人」光文社 著者 朴泰赫

朝鮮総督府は義務教育を施行し、それまで李朝によって禁止されていたハングルを学校で教えた。1924年に日本で6番めの帝国大学を京城(ソウル)に設立。これは大阪大学(1931年)や名古屋大学(1939年)よりも早い。


朝鮮人は、自分に固有のハングル文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな国民である。政府の公文書はもちろん、普通の手紙にも、会話の間にも努めて中国文を模倣して使用し国粋というべき語学上もっとも発達したハングルは婦人と子供と、下層階級が使用するものときめ込んでいる。

「朝鮮とその隣邦」 イザベラ・ビショップ 1897年

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。

もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。もっとも、昭和10年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。

「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社


両班時代は特権階級だけが文字を持ち使うことができた・・・と言っても(属国だったため)中国に跡継ぎを差しだし成人してから帰国させ跡目を継がせていたので当然支配階級内で使う言語は中国語で、いわゆる韓国語と言われる文字は存在しなかった勿論中世にハングルという文字が創設されていたが、当然のことながら身分のある者の間では蔑視され(中国文化を尊重、朝鮮独自のものは蔑視)使われることはなく、民の間には文字の存在すらなかった。

朝鮮人の間に技術や法を伝える文字が存在しないことに困惑した日本人がハングルの存在を見いだし文法的に整備し改良し、これを朝鮮文字として広く朝鮮人に教育し、初めて彼らは文字による学習を受ける機会を得ました。

ところが戦後もともと自分たちの文字であるハングルを日本人が奪ったとか、漢字は日本人も使っている敵言語だと言って漢字の使用を禁止したり、はあ?な文明を進化させてます。日本がハングルを普及させたという証拠資料はこうしてしっかり残っているのですが・・・

少なくとも彼らの祖先の歴史は漢文で描かれているのに、いまやその歴史書や伝記を読める人間は学者でもほとんど皆無というあっぱれな民族です。

福沢諭吉の弟子、井上角五郎が日本でハングルの活字を作り、それを朝鮮半島、ソウルに持っていって作った『漢城旬報』(朝鮮半島で一番最初の漢字混じりハングル新聞)が、近代ハングルの始まりです。  
旧制帝国大学を創立順にすると 以下になります。

1877年設立 現・東京大学 東京帝国大学
1897年設立 現・京都大学 京都帝国大学
1907年設立 現・東北大学 東北帝国大学
1911年設立 現・九州大学 九州帝国大学
1918年設立 現・北海道 北海道帝国大学
1924年設立 現・SEOUL大学 京城帝国大学
1928年設立 現・台湾大学 台北帝国大学
1931年設立 現・大阪大学 大阪帝国大学
1939年設立 現・名古屋大学 名古屋帝国大学

ソウル大学のHPにはこのことが記載されてないそうです。建前上、解散したことになっているそうです。NAVERの韓国人もこの事実に驚愕(火病)してました。

なお台湾国立大学は、設立母体を台北帝国大学としているが、ソウル大学は1946年に新設した大学として、設立母体を京城帝国大学とはしていない----『ウィキペディア (Wikipedia)』より

韓国人のソウル大の価値観(ステイタス)は日本で言うところの東京大学とは比べ物にならないほどらしいです。ちなみに、アジアの大学ランキングはコチラ

『大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。
私がそのいい例ですよ』

『私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやって来て義務教育の制度を敷いて、子供を学校に送らない親は処罰するといった。

日本人に叱られるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。

日本の市谷の士官学校に推薦するから行けと言って入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。

私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の教育政策をやったと思う』

朴元大統領と石原慎太郎の会談の中での発言




追記↓


草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
1904(明治37)年 - 大韓帝国で政治結社「維新会」(ほどなく一進会に改称)設立
■今日は何の日
2013/08/0806:24 1 0
今日は何の日 8月8日 1904(明治37)年 - 大韓帝国で政治結社「維新会」(ほどなく一進会に改称)設立。

一進会(イルチンフェ、いっしんかい)とは、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。韓国では一般に親日団体とみなされる。

宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。

中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。

日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。

宋秉畯は、日露戦争のさなか、日韓議定書が締結された約半年後の1904年8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、政治結社一進会を設立する(当初、名称は「維新会」。8月20日に「一進会」に改名)。

その後、もともと東学に参加していた宋秉畯は、東学の一部を引き継いだ進歩会を率いていた李容九と意見が合い、進歩会を吸収した。ちなみに同年8月22日には第一次日韓協約が締結されている。

当初、尹始炳が会長であったが、尹の要請によって李容九が会長に就任した。


日韓合邦を熱望した一進会の李容九
日韓合邦は李容九(イ・ヨング)らの一進会とよばれる政治結社が提唱していました。一進会は東学党の流れを汲んでいます。東学党は1894年の東学党の乱で知られていると思います。

 1824年、没落した両班(貴族)の家に生まれた崔済愚が、万人平等、人間尊重を説き、貧しかった農民の間に浸透していきました。しかし李朝政府は1864年に民衆を惑わす邪道として彼を処刑します。

しかし、二世教祖は隠れて教えの拡大を行い、三世教祖たちは首都で初代教祖の無実と不況の自由を訴えたため、李朝政府は弾圧に乗り出し、1894年に東学党の乱と呼ばれる武力闘争になっています。そして日清戦争勃発。

 日清戦争によって清国の敗北を見た東学の指導者たちは日本へ行って朝鮮開化党の志士たちと会合を重ね、清国やロシアと組むのではなく、

日本と組まなければ朝鮮開化の道はないと理解し、「進歩会」と名を変え、大同団結して「一進会」を結成し100万余を号するようになりました。(当時の朝鮮の人口は900万余)

 日露戦争のとき、一進会の指導者李容九(イ・ヨング)は日本が勝利しなければならないとの確信から日本支援に踏み切り、

全力をあげて鉄道建設を支援し、京城から以北の鉄道建設に協力した一進会は15万人といわれ、日本の物資を搬送した会員は10万人以上と言われています。

これは一進会の強制でも日本軍の強制でも何でもなく、自弁です。

 1905年日韓保護条約の方針が発表されると一進会は「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模デモを行い、伊藤博文が朝鮮統監として赴任してきた日には南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されます。

 ハーグ密使事件で高宗が退位し、韓国軍は皇宮護衛を残して解散すると京城で市街戦が始まり、各地で反日暴動が起こります。反日暴徒は日本軍とだけ戦ったのではありません。一進会とも戦ったのです。

 一進会は売国者ではありません。日韓合邦が韓国滅亡から逃れる唯一の道であったことを知っていたのです。

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