2011-12-13
オノ・ヨーコ氏の従弟が書いた本を読みました。
『ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか』加瀬英明著(祥伝社新書)です。
著者は1936年、東京生まれです。慶應義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学びました。
『ブリタニカ国際大百科事典』の初代編集長を務めています。
また、外交評論家として内外に豊富な人脈を築き、77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問として対米交渉を担当しました。
日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任しており、『イギリス 衰亡しない伝統国家』(講談社)、『天皇家の戦い』(新潮社)、『富の幸福論』(自由社)などの著書があります。
そんな著者が、神道をこの上なく愛する人物であるとは、まったく知りませんでした。
「ジョン・レノン」と「神道」の組み合わせに興味を引かれ、本書を購入しました。
冒頭で、著者は東日本大震災について次のように述べています。
「3月に東日本を襲った大震災は、日本国民の精神性がきわめて高いことを、世界へ向かって示した。
未曾有の天災だった。それにもかかわらず、日本国民が、規律も礼節もいささかも失うこともなく行動したことに、中国や韓国まで含めて、全世界が称賛している。
日本人の礼節が、世界から絶賛された。先の第2次大戦に敗れてから、日本が世界にわたって、これほど高く評価されたのは、はじめてのことである。
他の国々であれば、人々が平常心を失って、略奪が頻発するなど、治安が大きく乱れるものである。日本が世界の手本になったと、いってよい」
世界中が被災国である日本を応援しました。
著者は次のように述べます。
「3年前の中国の四川大地震では、8万人以上の死者と、多数の行方不明者が発生したのにもかかわらず、被災民を励まし、援けようという輪が世界にひろまることがなかった。
ふだん、貨幣価値によって計れるものが、いっさい流されて失われてしまうと、人の真価が試される。
あのような巨大な天災に遭遇した時には、人は自分しか頼ることができない。
津波によってすべてが押し流されてしまった時には、心しか残らない」
著者は、世界中の人々は日本人の「心」をリスペクトしており、その心とは「和の心」であると指摘します。
そして、
「日本人の和の心は、日本の2000年以上にわたって民族信仰であってきた神道に発している。神道が日本人をつくり、日本人が神道をつくった」
と述べ、
さらに「ジョン・レノンは、私の従姉の夫だった。ジョンは日本人の心と、神道に魅せられた」と書いています。
ちなみに、オノ・ヨーコ氏のルーツは九州・柳川で、小野家は柳川藩の家格の高い武家でした。
ジョン・レノンは本名にオノ・ヨーコさんの「オノ」を取り込んでいます。
それは、彼が武士道をリスペクトしており、自分が武家に連なる身であることに誇りを持っていたからだとされています。
ジョン・レノンといえば、誰でも永遠の名曲「イマジン」を連想するでしょう。
1971年に発表されたこの歌には、
「天国なんてありゃしないと、想像してごらん。地獄もありゃしない」
「そして、宗教もない。そうしたら、みんな平和に生きられるってさ」というメッセージ性の強い歌詞が登場します。
著者は、「イマジン」について次のように述べています。
「『イマジン』は世界の若者のあいだで、大ヒットした。ところが、アメリカや、ヨーロッパのキリスト教保守派層から、神を否定して、冒瀆する歌だとして、強く反撥された。
日本人は宗教に対しておおらかで寛容だが、キリスト教徒のなかには、病的としか思えない、癇性な人が珍しくない。
私は『イマジン』は、神道の世界を歌っているにちがいないと、思った。
そして、そうジョンにいった。
私はジョンに、神道には、空のどこか高いところに天国があって、大地の深い底のほうに地獄があるという、突飛な発想がないし、私たちにとっては、山や、森や、川や、海という現世のすべてが天国であって、人もその一部だから、自然は崇めるものであって、自然を汚したり壊してはならないのだと、説明した」
その後、ジョンとヨーコは靖国神社、さらに足を延ばして、伊勢神宮を参拝しました。
ヨーコがジョンを説いて、連れていったのだそうです。
ジョンは日本を愛していました。
そして、日本語を毎日、勉強していたそうです。
日本語の中で一番好きな言葉は、「おかげさまで」でした。
著者は、次のように述べています。
「ジョンは口癖のように、『okagesamade(オカゲサマデ)』という言葉が、『世界のなかで、もっとも美しい』と、いっていた。
日本では、人が自分1人の力によらずに、神仏や、祖先や、自然や、あらゆる人々である世間のお蔭を蒙って生きていると、考えられた。
ついこのあいだまで、日本では世間体が人にとって、何よりも大事だった。
日本人にとって世間というと、天と同じような存在だった。
世間をまるで神であるように畏れて、敬ったのだった。
ユダヤ・キリスト・イスラム教のように、神が人のうえに存在することを想定するのではなく、社会が天だった。
私はジョンに、日本では同じ人である隣人たちを神としているといった。
ジョンは目を輝かせて、聞いてくれた。
世間体は、『世間態』とも書いた。世間体は世間に対する面目で、世間の人々に対する体面であり、社会の規範に合わせて生きることが期待された。
そのように努めることによって、自分をよいものに見せようと努めた。
日本ではこのように人間関係が、徳目を支えていた。
もし、社会規範に背くことがあったら、『世間体が悪い』といって、自分だけではなく、一族ぐるみで恥じた。
『世間を狭くする』とか、『肩身が狭い』というと、世間の信頼を失うことを意味したから、そうなったら、胸を張って生きることができなかった。
このような規範が、人々の背筋が通った生きざまをつくっていた。
世間を神様のように、『世間様』といって崇めた。いまでも、そう意識することなく、『世間様』という言葉がごく普通に使われている」
わたしも、著者のいう「世間様」という発想は非常に重要だと思っています。
「ご先祖様」、「ご近所様」、そして「世間様」という視点がなくなってから、日本人のモラルは低下しました。つまり、共同体というものが弱体化してしまったのです。
著者も、次のように述べています。
「いまの日本では、共同体の意識が弱まってしまったために、人間関係が駆け引きであるとみられるようになって、世間体という言葉がなくなった。
社会が神でなくなってしまった。
まだ、半世紀にならないというのに、日本は何と大きく変わったことだろうか。
そういえば、『個人』『個性』という言葉も、明治以前には、日本語になかった」
さらに、著者は「世間」を敬う心こそが日本人の特色だとして、次のように述べます。
「私たちは、神や仏だけでなく、親や、上司や、特定の人々による引き立てだけでなく、世間のお蔭をこうむって、生きているのだ。
だから、日本人はあたかも神のように、世間を畏れて敬った。
いまでも、改まった席では、若者まで含めて、
『・・・・・・紹介させていただきます』とか、
『参加させていただきました』『つくらせていただきました』『過ごさせていただきました』と、
『・・・・・・させていただきます』を連発する。
これは、外国語にはない表現である。
自分の力だけではなく、そのように世間に『させていただいた』ことに、胸のなかで感謝しているのだ。世間を天としている文化は、日本だけである」
また、六章「世界宗教と神道はどこが違うか」に興味深いことが書かれていました。
著者は、日本の特色の1つとして、食人習慣が存在しなかったことを挙げています。
食人習慣はヨーロッパから、中国にいたるまで、罪悪感をともなうことなく、広く行われてきました。
しかし、日本だけは行われなかったというのです。
著者は、次のように述べています。
「中国では日本と違って、古代から食人が行なわれてきた。
中国の記録によれば、儒教の始祖となった孔子は、毎日、醬に漬けた人肉を楽しんでいた。
醬は、今日の味噌、醬油の原形となった発酵調味料である。
孔子がもっとも愛していた弟子であった子路は、論争で負けてしまって、相手に食べられている」
いやあ、驚きました! 孔子が人肉を食べていたなんて、初めて知りました。
これは、ちょっと自分で調べてみなければなりません。
また、あらゆる宗教は他宗教の影響を受けており、いわば「ハイブリッド」なわけですが、著者は次のように述べています。
「いま、すべての宗教がハイブリッドであることを、認識することが求められていると思う。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、奴隷を容認してきた。
中国においても、同じことだった。
ところが、日本には古代から奴隷が存在しなかった。
中国から進んだ文物を取り入れたのに、宦官や、纏足や、奴隷制度を模倣することがなかった。
纏足は幼女のころから足を縛って、小さく、奇形にする習慣である。
中国では近代に入るまで、行なわれていた。
宗教も文化も、すべてがハイブリッドだが、日本は取捨選択して、好ましくないものは取り入れないという判断が、はたらいたのだ」
また、共産主義の正体がキリスト教の一派であるという指摘も面白かったです。
著者は、次のように述べています。
「共産主義も、キリスト教の一派だった。全体主義は新・新教である。
ヒトラーや、スターリンや、毛沢東は唯一神になぞらえて、擬神化された専制者だった。
旧約聖書は、主なる神が「怒りの神」「妬みの神」であると、述べている。
キリスト教の分派であるから、独裁者をつねに讃美して崇めなければならず、異端を許さない。人は絶対者の召使にしか、すぎない。
20世紀は、戦争による大量殺戮の世紀だったといわれる。
しかし、2回にわたった世界大戦は、2000万人ほどの人命しか奪っていない。
20世紀は革命がつぎつぎと起こって、2度の世界大戦をはるかに大きく上回る人命を奪った世紀だった」
特に感銘を受けたのは、天皇についての次の一文でした。
「今日、日本は125代目の天皇を戴いている。そして、古代から『天皇に私なし』といわれてきた。125人のなかで、1人として贅に耽った天皇は、おいでにならない。中国でも、朝鮮半島でも、西洋、インド、中東をはじめとして、世界のどこであっても、皇帝や、王は、贅のかぎりを尽くした」
これは、まったくその通りだと思います。
最近、大王製紙の井川意高・元会長が逮捕されましたが、カジノで負け続け、会社からなんと106億円のカネを借りていたそうです。
オーナー企業の御曹司として育てられた彼は、「幼少の頃から帝王学を授けられた」などと報道されていましたが、「笑止千万」とはまさにこのこと! なにが帝王学か!
本当の帝王学とは、けっして贅沢や散財を肯定しません。
その最大の証明となっているのが、歴代の天皇の暮らしぶりだと思います。
八章「神道の宇宙観、キリスト教の宇宙観」では、「エコロジー」について述べています。
「いま、エコロジーが世界を律する、新しいスーパー・レリジョン(超宗教)となりつつある。神道は、エコロジーの教えである。
そのために、このところ神道が海外において、評価されるようになっている。
近代世界に、日本ほど大きな文化的影響を与えた国はない。隣邦の中国が、このところ大国に列するようになったが、古代に火薬、紙、機械時計、羅針盤などを先駆けて発明したものの、近代に入ってから、世界文化に貢献したものは何もない」
最近、ブータンの国王夫妻が新婚旅行で日本を訪れ、話題になりました。
「世界一幸福な国」として知られるブータンですが、著者は次のように述べています。
『ヒマラヤの人口68万人の国ブータンで、GDPに代えて「国民総幸福度』――グロス・ナショナル・ハッピネス(GNH)が、導入された。
ところが、人々が幸福を求めるようになったために、かえって自殺者や、鬱病患者が、増えているという。このことは、現状に感謝することなく、意識して幸福を追求すると、不満が増えて、不幸になることを教えている。
幸せという言葉を、軽々しく使ってはなるまい。
かえって、不幸せになる。
江戸時代の日本は、石田心学で知られる石田梅岩や、二宮尊徳をはじめとする、優れた経済学者を生んだ。
2人とも、農民だった。あのころの経済学は、道徳学だった。
西洋に目を転じれば、『国富論』のアダム・スミスは、グラスゴー大学の倫理学教授だった。西洋でも、物質的な豊かさが増大した結果、経済学が、飽くことのない欲望の学問となった。いま、経済学を心学と呼ぶだろうか」
著者は、現代の日本文化にいくつかの警鐘を発していますが、漢字を簡略化することもその1つで、次のように述べています。
「簡略字も、おぞましい。『礼』の本字である『禮』は、心の立心偏と、豊かさが組み合わされていた。それを略して『礼』になったのだから、餌がついていない疑似餌の釣り針を表わすようになった。人が言葉をつくり、言葉が人をつくる。先人から贈られた言葉を粗末にしないで、大切にしたい」
なるほど、たしかに『禮』は心の立心偏と、豊かさが組み合わされています。
「礼」とは「心の豊かさ」ということ、すなわち「ハートフル」ということだったのです!
これは、本書を読んで最大の収穫でした。
孔子が人肉を食っていたという箇所には驚きましたが、「礼=ハートフル」という真実を知ることができて嬉しいです。
十章「いまこそ心の復興を」の最後に、著者は述べています。
「神道は、人と、山や、森や、川や、あらゆる生物と国土をいのちとしている。
すべての宗教に『教』がついているが、古道とも呼ばれた神道は、いのちの尊さを説くものだから、『道』なのだ」
また、本書の最後に記された次の一文は心に沁みました。
「日本の青年たちに、日本を好きになってほしい」
日本を好きになるカギは、神道を理解することにあります。
そして、その第一歩は、神社を訪れることにあるでしょう。
初詣にはぜひ近くの神社に行かれてみて下さい。
きっと心が癒され、元気になれるはず。
そう、神社は、日本人の心のバッテリーなのです。