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「美味しんぼ」的シリアスの斜断面 (5)

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転載元 雁屋哲の今日もまた

2009-05-22
■中江兆民の「一年有半・続一年有半」

今日、久しぶりに、中江兆民の「一年有半」と「続一年有半」を読み返した。

中江兆民については、若い人は知らないかも知れないが、百科事典など引いてその人となりを調べて欲しい。
明治年間において、自由民権運動に挺身した、かなり先進的で、先鋭な思想を持った人間で私の好きな人間の一人だ。

「一年有半」というのは、1901年4月に喉頭ガンが発見され、余命1年半と医者に言われ、それなら残り1年半思い切り生きようと、社会評論、人物評、人形浄瑠璃観劇の感想、文学上の感想など、思っていることを徹底的に書き込んだ物である。

私が持っているのは、岩波文庫で、井田進也氏の解説註釈付きのものである。
井田進也氏については、福沢諭吉についての評価などで、色々問題があると思っているが、もともと中江兆民が専門家だから、この本の註釈などは間違いないものと信じることにする。

とにかく、明治時代の知識人の学識たるや、すさまじいもので、中江兆民はフランス語と漢文学の両方を自由に扱う。
当然、古今東西の思想に通じている。
したがって、井田進也氏が註釈を付けておいてくれなかったら、正直に言って私などは、手も足も出ない。

「一年有半」も凄いが、それからさらに書いた「続一年有半」がもっと凄い。
その内容は
「霊魂の不滅はない」
「精神は肉体が死ぬと同時に死滅する」
「神は一切存在しない。
多神教の神も、一神教の神も存在しない」
「造物主なども存在しない」
「時間も空間も、始めもなければ終わりもない」
などである。
1901年4月に寿命後1年半と言われて「一年有半」を書き、まだ死なないからと言って、「続一年有半」を書くその根性もすさまじいが、その内容も徹底している。
110年前の水準の物理学では最先端の知識を有し、透徹した理論で、全てをしっかり認識し、納得し、自分の死を平然と迎えていのだ。

1901年の12月13日になくなったのだが、11月29日にどこかの坊主がちん入して、病気克服の加持祈祷をしようとしたら、兆民は、喉頭ガンで口がきけないので会話の際に使っていた石版を坊主に投げつける仕草をしたという。
実際に投げる力は失われていたのだろう。

死のぎりぎりまで、ここまで明確に自分の意志を保ち続けた兆民という人間は並の人間ではない。
おうおうにして、有名な作家などが、死ぬ直前になって、キリスト教の洗礼を受けた、などと聞いて鼻白む事が多いが、中江兆民はそのような弱い心の持ち主ではなかった。
日頃どんな強がりを言っていても、死が迫ってくると、宗教にすがってしまう人が少なくない。
それまでの、言説や生き方から外れてしまうので、作家の場合など、それまでの読者はだまされたような感じがするものだ。

人間は誰でも死ぬのはいやだ。怖い。
何が怖いと言って、この自分という存在が、消え果て、自分自身が今持っている自分という意識が消えてしまうということが怖い。

中江兆民のように、喉頭ガンを宣告され、しかもそのガンが日に日に大きくなり、ついには、気管切開をしなければ呼吸が出来なくなるまで追いつめられたら、私のような人間はめそめそ嘆いたり、あるいは霊魂不滅を信じて自分を慰めたり、さらには、今は宗教は信じられない、などと言っているが、その時になったら心弱り何か宗教にすがったりするかもしれない。

中江兆民は次のように言っている。
(以後、引用する兆民の言葉は、原文は明治の文語体なので、若い読者のことを考えて私が現代語で要約している。)

「精神は本体ではない。本体は、この肉体である。
精神は肉体の働き、すなわち作用である。
肉体が滅びれば精神は即時に滅びるのである。
それは実に情けない説ではないか。
情けなくても、真理ならば仕方がないではないか。
哲学の目的は人の心を慰めるための物ではない。
たとえ、殺風景なことであっても、自己の推理力が満足しないことは言えないではないか」

「精神と肉体は、炎と薪のような物で、薪が燃え尽きれば炎が消えるように、肉体が滅びれば精神も消え果てる」

「世界は神が作ったと言う説があるが、それではその神というのは世界のどこにいるのか。
人間は神の形に似て作られたと言う説があるが、それでは、その顔の大きさ、体の大きさはどれだけなのか。
宗教家は神が色々なところに現れたと言っているが、それは、その宗教の仲間内だけの話で、信じるに足らない」

「ナポレオン、豊臣秀吉も死ねばその体を構成していた元素は、あちこちに散って、虫の体や、鳥や獣の体を構成する物になるか、地中に吸収されて人参大根の栄養になって、誰か他の人に食べられるかも知れない。

人は死ねば、その体はバラバラになるが、その体を作っていた元素は不滅である。

しかし、体の作用である精神は消え去る。
だから、天国を望むこともなく、地獄を恐れることもない。

また、二度と再び人体を受けてこの世に生まれ出るはずもない。
この世で自分の命を継ぐ物は自分の子供だけである」

死を目の前にして、これだけのことを言える精神は強靱である。
余命1年半と言われたが、4月に喉頭ガンの宣告を受けて、12月には亡くなってしまったので、実際は8カ月しか、生きられなかった。
しかし、その8ヶ月の間に、浄瑠璃を楽しみ、美味しい物を楽しみ、妻と冗談を言って笑い合い、実に、堂々たる最後だった。

兆民はこうも言っている。

「70、80まで生きると、人は長寿だという。
しかし、人の死後は無限に続くのだ。50年生きても、80年生きても、その後の無限の時とは比較にはならない」

まさにその通りだ。
人は如何に深く生きるかだ。
脳髄が死んで精神が消滅するまで、
いかに、全力で楽しみ、勉強をし、楽しむかだ。
そこに、虚無ではない、本当に豊かな人間の生き方がある。
ぜひ、一度「一年有半・続一年有半」を読んで頂きたい。

中江兆民は、自分自身の死を目の前にして、一神教についてこう書いている。

「一神教の説は、超然として俗世間を出て俗臭を脱した様に見えるが、実は死を恐れ、生を恋い、死後においてもなお自分自身の存在を保ちたいという都合良き想像であり、すなわち生命という物を自分自身、あるいは人類だけに限る見地から起こった物である。
その卑しく陋劣なことは霊魂不滅の説と同じである。」

(兆民は人間の命も他の動物の命も同じだと、その前に書いている)

こうも、言っている。

「バラモン教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など唯一神説を主張するものは、推理を本とする哲学ではなく、
人をうっとりとさせる妄信である」

中江兆民が亡くなったのは、
1901年、55歳。



2009-06-27
■ますます募る、反捕鯨カルトの狂気

シー・シェパードの責任者ワトソン氏は、次に予定されている日本の調査捕鯨妨害作戦を「ワルツィング・マチルダ」と称することにしたと言っている。

昔の海賊のように片眼の眼帯をかけたカンガルーをシンボルマークに使うのだそうだ。
「ワルツィング・マチルダ」は、オーストラリアの国歌にしようという話があったのだが、作曲者がアメリカ人だったので、取りやめになったというくらいオーストラリア人の大好きな歌で、この作戦に「ワルツィング・マチルダ」と付けるのを許し、片眼の眼帯のカンガルーをシンボルに使うのを許すといからには、オーストラリア人もシー・シェパードの行為を全面的に応援していると見える。

オーストラリアの国の紋章には、カンガルーとエミューというダチョウのような大きな鳥が使われている。
カンガルーはオーストラリアを象徴する動物なのだ。
それをシンボルにした上に、「ワルツィング・マチルダ作戦」と名付けるからには、シー・シェパードはオーストラリア全体に応援されているのだろう。

シー・シェパードはオーストラリアのシンボルと考えて良いのだろうか。
国際的にそれはまずいと思うのだが。

この宇宙船のような恐ろしい高速船に調査捕鯨船が襲われたらどうなるのだろう。
時速74キロの高速で周囲を走り回られたら、捕鯨の妨害どころか、調査船自体も危険な状態になる。
そこに持って来て、今度のシー・シェパードの船は、強力なウォーター・キャノンを備えている。
これは、もうただごとではない。
このような、凶悪な船を二艘用意して、日本の船を襲うと公言している。
今の世界でこのような、テロ行為を公言することが許されるのか。

日本国民である、調査捕鯨船の乗組員の命がこのように公然と脅かされているのに、日本政府は何をしているのか。
憲法の規定上、日本は外国で武力を行使するわけにはいかないが、自衛艦が護衛してこの二艘の凶悪な船と、調査捕鯨船の間に入って、盾のようになって守ることは許されないのか。
自衛艦の派遣自体が憲法違反なのであれば、水産庁の艦船を派遣して、調査捕鯨船を守るべきだ。

この件で一番責任があるのがオーストラリア政府である。
日本の調査船に体当たりをしてあわや大事故を招きかけたテロリスト、シー・シェパードがオーストラリアの港を基地にすることを許し、Water Cannonと言う兇器を据え付けるのを許し、オーストラリアのシンボルである、カンガルーと、ワルツィング・マチルダを、シー・シェパードが自分自身のシンボルとして使うことを許す。
公海上で他の船に危害を加えることは純然たるテロ行為である。
そのテロ行為をオーストラリア政府は支援することになる。

この恐ろしいSpaceshipを日本の調査捕鯨の妨害に繰出すと言っているオーナー兼船長はニュージーランド人である。
ニュージーランド政府は、「南氷洋で捕鯨を続ければ、反捕鯨の抗議船を引きつける」などと、他人ごとのように言っているが、
このSpaceship Earthraceを調査捕鯨の妨害に送り出すのを許すからには、ニュージーランドも、テロを支援することになる。

こういうことを書くと、必ず、反捕鯨カルトで脳みそがすっかり腐りきっておられる皆様が、醜悪な罵倒記事を沢山送って下さる。
中には、外国から、英文で送って下さる方もおられるが、日本人の書いているブログには、日本語で書き込むくらいの礼儀をわきまえて下さいね。
といっても、反捕鯨カルトに頭がいかれてしまっている人間には通用しないだろうなあ。

どうして私が捕鯨を支持するか、もう一度きちんと書いておくから、反捕鯨カルトの諸君たちも、たまには頭が澄んでいることがあったら、その時にでも読み返してくれたまえ。

人間は、命有る物を食べなければ生きて行けない、罪深い存在である。
ベジタリアンは無罪のように思っているが、それは錯覚である。
植物も命がある。コンクリートの隙間からでも生えてくる雑草のあの「生きたい」という生命力を見れば、よく分かることだ。
したがって、人間は自分の命を支えるためには、どんなものでも食べることを許される。
食べていけないのは、人間だけだが、それも、特別の場合には許されることがある。

以前、アンデス山脈に旅客機が墜落したことがある。
運良く生き残った乗客たちもいたが、雪が深くて動けない。
食べるものも尽きた。
そこで、仕方なく、事故の際に亡くなった他の乗客を食べた。
春になって雪が解け、生き残りの乗客たちは、山から下りてきて救出された。
彼らは正直に、亡くなった乗客を食べたと言った。
だが、世界中で彼らを非難する人間はいなかった。
自分たちが殺したわけではない。
事故で亡くなった人間の体は、ただの物体だ。
このような非常の場合には、自分たちが生き残るためには食べることも許されるのだ。
この話は、人間が生きるということ、人間がものを食べるということ、その本質を厳しく物語っている。

人間は命有るものを食べなければ一日も生きて行けない。
それが、人間の背負った「原罪」であると私は思う。
私は、犬を食べないから無罪だ、私は馬を食べないから無罪だ。
そんなことを主張する人間は、人間の本質を知らない。
その無知は恥ずべきものだ。

人間は、自分の命を支えるために、農耕をする。
漁をする、狩猟をする。
牧畜をする。
どんな植物を食べるか、どんな動物を食べるか、それは、その人間の住む環境とその人間の趣向によって決まることであり、一切の禁忌はない。
鯨も、マグロ、鮭、鱈、鰯、などと変わりはない。
鱈を解体するところを見て残酷と思わず、
鯨を解体するところを見て残酷と思うのは、偏見である。

宗教によっては、ある動物を崇拝する。
へび、うし、とら、などを崇拝する宗教がある。
旧約聖書にも、モーゼの時代に、パレスティナ一帯に牛を神として崇める宗教があったことが書かれている。

宗教によっては、この動物は食べてはいけないという禁忌を設ける。
イスラム教徒は豚を食べてはいけない。
ユダヤ教徒もひずめの無い動物(豚など)、鱗のない魚(うなぎ、イカ、など)を食べてはいけない。

日本では長い間、仏教の影響か四本脚の動物は食べてはいけないとされていた。
(明治以降、許可されるようになったが)

鯨を食べてはいけないというのは、反捕鯨カルト、あるい、鯨カルトという宗教の定めた禁忌である。

だが、ヒンズー教徒は、キリスト教徒に牛を食べるなと強要しない。
イスラム教徒も、キリスト教徒に豚を食べるなと強要しない。
自分たちの宗教の禁忌は、自分たちの宗教の信者の間でだけで守ればよいことで、他者に強要するべきではない、というのは世界の常識である。

であれば、反捕鯨カルト、鯨カルトの信者達も、自分たちの禁忌を反捕鯨カルト、鯨カルト、に属していない人間に強要するべきではない。
鯨は、一時、各国の捕鯨競争の結果、著しく頭数が減った。
そのように一つの種が、絶滅しかけたときには保護する必要がある。
しかし、充分に数が増えたら、再び漁の対象にすることに何の問題もない。
日本が計画している捕鯨は、科学的に鯨の生態を調べた上で行うから、鯨の数を減らしたり、ましてや絶滅に追い込んだりすることはない。
持続的に継続可能な漁業の一つとして行うのである。
これがいけないというのなら、全ての漁業は禁止すべきである。

もう一つ問題がある。
鯨の数は最近増えすぎて世界の漁業に打撃を与えている。
増えすぎた鯨が多くの魚介類を食べてしまうのである。
自分たちが獲ろうとしている鰯の群れの中に鯨が突っ込んできて、漁が出来なかったと、漁師が嘆くのを私はあちこちで聞いた。
何しろ鯨の食べる量はすさまじいので、イワシの一群れなどあっという間に食べられてしまって、漁師の取り分が無くなる。
日本だけでなく、東南アジア各地で同じようなことが起こっているだろう。

魚を余り食べない国の人間には何でもないことだろうが、魚を食事の柱としている我々アジアの国の人間にとっては死活問題である。

人と鯨のどちらが大事か、よく考えて貰いたい。

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