転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』聖徳太子の謎
■聖徳太子の出自と謎解き
太子は蘇我馬子と共に物部守谷を滅ぼす。
その後、太子は秦河勝と共に、天皇(この当時は天皇の称号はなく、大王と呼ばれていた)の元での中央集権的な政治改革を断行して、外国からの迫害を跳ね返すだけの強力な独立国家を目指した。
それには、各部族の出自と宗教を超えて、話し合いによる合議を大切にする和の精神が大切だった。
それ故、冠位十二階、十七条憲法を制定した。
一方、馬子は吉備王国、出雲王国を制圧し、大和朝廷の支配を拡大した。
大和朝廷への貢献大成る聖徳太子、母親は蘇我氏だというのに、蘇我氏はなぜ即位させなかったのか?
もし太子が即位すれば蘇我氏の権勢はさらに大きくなったはず。
さらに不可解なことに、一族までをも皆殺しにしてしまったのか?
この謎を解くきっかけとなったのは、天智・天武の両名は同母兄弟であると『記紀』に記載があるにもかかわらず、兄 天智よりも弟 天武の方が年上だという事実、
加えて天武が九州の倭国天皇の次男だったという事が『天武天皇と九州王朝』に明かされていたからです。
孝徳天皇元年の改革に、私有財産の廃止の他に、
“倭国の六県では戸籍を作成し” とあり、この表現は、倭国が大和朝廷の連合国であることを表している。
おそらく、磐井の乱以後から、有力豪族である倭国の長男、もしくは次男を大和朝廷に召し出していた。
だから、倭国王の御子・天武天皇は大和朝廷に仕えていたのだと推測できるのです。
聖徳太子の場合、日本書紀に “上宮太子” と記載され、法隆寺釈迦三尊像には “上宮法皇” と記載されている。
ちなみに、法隆寺釈迦三尊像には「元嘉暦」が使われているが、当時「元嘉暦」を使用していたのは倭国である。
大和朝廷では使用していない。
このことから、“上宮太子” =聖徳太子は、“上宮法皇” =倭国大王の皇太子だと言うことが分かる。
『聖徳太子の謎と出自』に関し、
概略のお話がありましたので、紹介致します。
《私達『弓月族』は、秦国とローマの迫害から逃れ、小国ではありますが希望の国へと、古代日本に大挙して渡来してきました。
この国の基盤を強固なものにすることを望み、それは亡国の憂き目を二度と見ないようにする為、大和国に中央集権的な国政を導入しようとしたのです。
私達一族は、もてる技術、財産、人材の全てで支援しました。
その課程で、要職を占めるようにもなりました。
(皇室の儀式の音楽や政権への参画他)
しかし、他の有力氏族たちは、大陸の事情も知らずに、この改革(天皇を中心とする理想の王国、当時の近代国家へと変貌を遂げる試み)を、妨害しようとしたのです。
メシア仏教の蘇我一族の力を借りて!
多くの血が流され、一時、聖徳太子の改革は廃れました。
聖徳太子とは、これら一連の改革のことを言うのです。
そのように改竄されてしまいました。
つまり、私達秦一族(原始キリスト教徒)の行った改革を、なきものとしようとしたのです。
聖徳太子とは、ユダヤ教と原始キリスト教の手による一連の政治改革のことを指しているのです。
その改革は、大友皇子=蘇我、大海人皇子=秦へと繋がってゆきます。
その過程で、皇室にとってかわろうとした蘇我氏を滅ぼそうと、藤原氏を私達は支援し、また一部はその一族の中に入り込み、改革を断行しようとしました。
その気持ちは、聖徳太子の随への “日出ずる国の天子云々” の気概そのままだったのです。
聖徳太子一族、山背王の一族の虐殺は、原始キリスト教徒として、理想の王国への改革、ローマ,随,唐などの諸外国の圧力を跳ね返すだけの国造りのための改革が、阻止されたことを意味しているのです。》◆ “日出ずる国の天子云々”
『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣(日本書紀に記述がない。九州王朝の記録だからだ)に関して、次のような記述がある。
《開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其の風俗を訪わしむ。
使者言う
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。
天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。
高祖曰く
「これ太いに義理無し」と。
是に於て訓して之を改めしむ。
王の妻、彌(きみ)と号す。
後宮に女六、七百人有り。
太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。
倭王が「天足彦大皇」であれば、
九州の数カ国を統治する大王である。
日本書紀の孝昭天皇の子に天足彦国押人命(ワニの臣らの祖先)、
日本足彦国押人尊(孝安天皇)とある。
九州王朝は海神であり、ワニ臣も海神であり合致する。
もしかして、九州王朝では「天足彦」の称号を代々踏襲していたのかもしれない。◆太子の本名!?
太子のことを厩戸の王子というのは、メシア景教徒が迫害を逃れ日本に渡来し、太子を偶像化してしまった結果の名前だと思います。
似たような話ですが、イエス・キリストも本名を知られていません。
神武天皇の場合、事実は九州王朝の次男です。
が、『記紀』には、近畿王朝において、天智天皇が長男、天武天皇は次男とされました。
次男という点に関しては、『記紀』は正確に記述しています。
だとすれば、「太子は名を(わかみたほり)」とあります。
これが本名ではないでしょうか。
皇統につながる御子という意味との説もあります。
ちなみに、次男の牛若丸を分解すると、牛=エフライム族、丸=王の意味ですから、若は長男と比べ次男という意味でしょう。
ですから、
「わかみたほり」は、次男の日継御子という意味ではないでしょうか。◆聖徳太子の字の由来
「聖徳太子」とは、死後に送られた諡おくりなですから、本名ではありません。
「聖」「徳」が付くのは、無実の罪で殺された人物の怨霊封じの為です。
また、「厩戸皇子」の物語は、キリストの意味を込めて付けられた。
メシア・キリスト教はローマ帝国を支配したが、聖徳太子信仰は日本の国教とはなり得ず、皇室の伝統は守られました。◆スサノオは代々渡来した
余談ですが、スサノオがスサ国の王であれば、代替わりする。
つまり、時代時代に応じて個性も人物伝も異なる。
おそらく、スサノオは数代にわたり日本に渡来してきたのだと思います。◆倭国人の近畿への移動
天智天皇(葛城皇子)は蘇我氏系、天武天皇(大海人皇子)は秦氏系です。
白村江の戦いに敗れ、唐に乗り込まれた九州の倭国を離れ、天武天皇を含む多くの倭国人が近畿に移動した。
その時、倭国の宝物や仏像他をも移動させた。
太子象とされている弥勒菩薩像も持ち出されたのでしょう。◆原始キリスト教の説明
原始キリスト教は、ユダヤ教の一種でイエスを人類の救世主とはみなしていません。
洗礼者ヨハネに洗礼を受けた弟子として、師匠の教えの多くを述べ伝えた者とみなしている。
ですから、現在の偶像化されたキリスト教について、何処偶像で、何処が誤りなのかを指摘し説明できるのです。
同じく、本当の太子を知り、どこが偶像なのか、どこが誤りなのかを指摘できる一族がいます。
そして彼らは、迫害され “とかなくしす” を残したのでしょう。■聖徳太子の偶像と古代日本の隠蔽工作
イエス同様、聖徳太子もまた、史実とは全く異なるように偶像化されてしまいました。
聖徳太子とその父 大王は、原始キリスト教徒の理想を掲げ政治改革の断行を進めた。
これを原始キリスト教徒である秦一族が全面的にバックアップしました。
ところが現在の聖徳太子はメシア仏教の教皇で、政治改革を行った天才として伝えられています。
このように太子がイエスやモーセと同じように偶像化されてしまったのは、白村江の戦いで大和朝廷が唐・新羅連合軍に敗れ、唐の植民地支配を受け入れたことによるものです。
その時、占領軍は大宰府に駐屯し、漢字化と中国化を強要され、国史『記紀』を漢字で書いて唐に提出した。
しかも、唐末期に至ると、これまで景教を擁護していたにもかかわらず、景教への厳しい弾圧と迫害が行われ、原始キリスト教徒、ユダヤ教徒、景教徒が日本に大挙して帰化した。
一度はメシア仏教派の蘇我氏を滅ぼしたものの、彼ら及びシナ留学組(遣隋使・遣唐使)により、再びメシア仏教が日本に持ち込まれ、強制的に入り込んできたのです。
皇室並びに秦氏が原始キリスト教でありヤハウエを祀っている事、ユダヤ教徒である事などが、唐側に明らかになれば、唐の属国としての大和朝廷は景教弾圧の余波を受け、亡ぼされてしまていたことでしょう。
そこで、今後のことも含め、外国からの干渉や迫害を極力避けるために、歴史の隠蔽を止むを得ず行ったのでしょう。
①.ヤハウエである天照大神を、日本土着の女神(大明神)とした。
②.皇室を万世一系とした。
歴史は改竄されたが、易姓革命、王朝並立による国内荒廃を避けることができた。
ただし、皇統が男子男系として引き継がれるのは、アヌンナキからの正式な仕切りであり、元に戻そうとしたとも言えるのです。
③.おそらく各氏族間の共用語としてアラム語が使われていたと思われますが、これを止めアラム語を漢字化して隠蔽した。
④.藤原氏が摂政として皇室に寄生する形に改竄した。
a.聖徳太子を唐が認めるメシア仏教の偉大な導入者として英雄視する。
シュメル王朝はアヌンナキの慣習を引き継ぎ、各王朝ごとに年号を定め、異母妹との長子を皇太子とした。
更に、シュメルの神々は、彼らの中心地としての都市があり、王・神官・部人・工人・農人・奴隷等の身分制度があった。
この中央集権制度を導入し、元号を定め、屯倉、田部、名籍などの制度を飛鳥時代に確立した最初の中心人物は、蘇我の馬子だった。
そして、「国記」「天皇記」を正史とすることで、王朝の基盤を確立したのです。
また、天皇が変わるごとに、首都が変わるのも、この都神の制度によるものでしょう。
尚、モーセの十二氏族に分かれた統治方式も根本は都市神の制度と同じです。
b.太子一族を滅ぼした蘇我氏を大悪党に仕立てる。
c.蘇我氏を滅ぼし天誅を下す藤原氏を、太子とメシア仏教保護者として、藤原政権を正当化する。
d.更に、聖徳太子を怨霊とみなし、偶像化して神に祭りあげる。
⑤.原始キリスト教、景教、ユダヤ教は迫害を受けていた。
ゆえに、隠れキリシタンのように、表面を仏教に見せかけて出自を隠蔽してしまった。
⑥.スサノオとオオクニヌシを敵対関係にし、正当な皇統の流れを隠蔽した。
日本固有の神と皇統に見せかけた。
それがゆえに、長い年月の経過と共に、
皇室の皇統は、エフライムの正統な末裔とアブラハムから始まる正統なユダの末裔の合体であることが、分からなくなってしまった。
イエスの十二使徒がサタンの霊言に従いイエスを偶像化したように、
①~⑥により英雄視された太子は、偶像化されてしまった。
太子メシア化の結果、様々な宗派が乱立し、ご利益宗教が巷で流行り、国情を不安定にしてしまった。◆補足:白村江後、占領軍は筑紫に居た!?
占領軍は筑紫に陣取り、そのGHQ司令官が郭務宗だったのだろう。
「四人が唐からやってきて、唐の使人郭務宗ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比地島に着きました。」
「朝廷は連を筑紫に遣わして、天王のお隠れになったことを郭務宗らに告げさせた。
・・・
郭務宗らは帰途についた。」■聖徳太子革命の凋落とサタンの跳梁
最初に、太子信仰の盛り上がりの大まかな経緯を紹介します。
鎌倉幕府の頼朝は、太子信仰のメッカ・法隆寺に寄進している。
鎌倉時代から、太子信仰が盛り上がり、法隆寺が再興され、様々な催し物が行われるようになった。
室町時代には、太子を大工の祖とする信仰が広まった。
(キリストが大工だったことと関係がありそうだ)
更に、尊氏は法隆寺に釈迦三尊像を修理し、他の仏像を寄進した。
織田信長は聖徳太子を物部一族に勝利したとして崇拝していた。
秀吉は法隆寺に千石の領地を保証し、四天王寺を再興した。
家康は信長同様、法隆寺に戦勝を祈願し、多額の寄付を行っている。
このようにして、太子信仰が華やかさをましていきました、
おそらく、戦国時代にキリスト教が日本国内で広まった。
同時に、聖徳太子を仏教の立役者、弥勒菩薩の化身とし、仏教徒に受け入れられるように偶像化した。
さらに、太子に馬宿王子・大工の祖とし、イエス・キリストの生まれ変わりとして聖人化した。
これにより、仏教徒とキリスト教の両教徒によるメシア・キリスト教革命(メシア仏教革命)を起こそうとしていた。
そのやり口は、原始キリスト教をローマ人に受け入れられるようにメシア・キリスト教を創作し、イエスを神として偶像化した手法と同じで、目的はローマにキリスト教革命を起こし、国教化することだった。
ついには、ギリシャ・ローマの神々はうち捨てられ、神官と教徒は迫害され弾圧されてしまった。
だから、メシア・キリスト教革命により、日本を乗っ取り、皇室を滅ぼしてしまう計略だったのだと推断するのです。
もし、日本が太子をイエスの再臨とし、メシア・キリスト教化されていた場合、キリスト教を楯に非道な植民地支配を行っていた西欧列強は日本をどのように見たことでしょう。
もしかしたら、日欧米がメシア・キリスト教化し、世界中が暗黒のキリスト教時代を迎えていたかも知れません。
しかし、日本の国情として狂信的なキリスト教は一般市民からも嫌われており、他の宗教を認めないキリスト教の独占性と排他性は、国内治安を不安にするとして、個人の宗教を禁じたのでは無く、政治的な理由から戦国武将・信長・秀吉・家康により国内から追放されました。
その後、信仰すれば悪人でも成仏するとした親鸞・法然の「念仏踊り革命」は、キリスト教革命の日本語版ともいうべきものでしたが、仏教は幕府の出先機関と化し、これも皇室を滅ぼすには至りませんでした。
一方、武士は朱子学を基本としたゆえ、水戸光圀による国学と神道を重んじる風潮が高まり、太子は馬子と共謀して崇峻天皇を暗殺したなどと非難されました。
幕府と法隆寺の関係は徐々に疎遠になり、太子信仰は薄れていったのです。◆太子から天武天皇までをまとめると
大和朝廷を部民制による有力氏族の連合として樹立させたのは蘇我氏の功績です。
これを、近代的な律令国家へと改革を断行したのは秦氏でした。
この部民制度は、シュメルの都市国家をモデルにしたものだったことを、これから説明します。
例えば、古代バビロニアは大神の一人である主神マルドウクの都でした。
各都市は各々の都市神が統治し、大神は各都市神を統治していました。
シュメル全体都市は、大神と都市神連合による国家群だったのです。
大和朝廷と形式は同じです。
バビロニアでは、マルドウクが王権を与え、王と貴族、神官を定める。
都を増築する工人、食料の農民、捉えた奴隷の階級制だった。
都市神の住民は、神の民で、神に衣食住を提供していた。
これは部民制度と同じです。
そして、アヌンナキの王権が都市神から都市神へ移るたびに都市が造営されたり、都市が改築され、年号が制定された。
そして、石碑には各王朝の行った実績が刻まれたのです。
その都市郡が、メソポタミアの雄大な川の側に点在する遺跡群です。
古バビロニア~新バビロニアにいた「月氏国」の民が、騎馬民族と融合して、曽我の地に上陸。
以後、蘇我氏と名乗った。
彼らは飛鳥時代に実権を握ると、部民制を完成させ、大和朝廷を有力豪族の連合体として樹立させた。
(この蘇我氏の功績もまた、太子だと偽装されている)
天皇個別王朝が樹立すると、元号を定め、都を造営します。
これは明らかに、シュメル王朝の伝統です。
しかも、天皇ごとに屯倉、公田を設けているのは、都市神制度と同じです。
つまり、シュメルの都市神制度が、部民制度そのものだったのです。
従って、シュメル時代と同じで、各天皇(王朝)ごとに都市神が任じられていた。
制度は同じでも、国が変わり、文字と呼び名が変わるだけで、まったく別のものとみなされてしまう。
だから、古代日本史の迷路から抜け出せなくなってしまうのです。
そして、太子・孝徳天皇・天武天皇が断行した大化の改新は、ユダヤ教・原始キリスト教への回帰であった。
それは都市神を統べる大神としての天照を祭ること、十七条憲法・モーセの律法の実施である。◆日本史に跳梁するサタン・ナブー
サタンは神道においても神を詐称し、ユダヤの民を支配した手法を皇室にも行った。
つまり、呪う神・嫉妬する神・復讐する神は、自己に服従すれば福を、反抗すれば死を与え、二者択一を迫り皇室に憑依していたのです。
その一部を下記に紹介します。◆垂仁天皇・伊勢の祭祀
先皇の崇神天皇は神祀をお祭りになったが、詳しくその根源を探らないで、律法・祭儀を一字一句間違えないよう忠実に行わせ、支配しようとした。
人の善意や思いやり、正義の心よりも、律法・祭儀をとり行うことを再優先とする人々により、日本を支配しようとした。◆ 仁徳天皇・池堤の構築
天皇が夢を見られ、神が現れて教えていわれるのに、
「武蔵の人 強頚と、河内の人 茨田連杉子の二人を、河伯(かわのかみ)に奉ればきっと防ぐことができるだろう」
と言われた。
そこで河伯に人身御供し、堤は完成した。
強頚は恨みながら死んでいくが、杉子は頓智を使って死なずにすんだ。
河の神信仰はシュメルの時からのものですが、誤った信仰=悪魔教を信じさせるものです。■ 顕宗天皇・任麗との通行
「月の神が人に憑いて、」「わが祖高皇産霊(たかみむすひのみこ)は、天地をお造りになった功がある。
田地をわが月の神に奉れ。
求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう」
といわれた。
・・・
日の神が人に憑かれて「倭の磐余の田を、わが祖高皇産霊に奉れ」と。
この月の神は「弓月国」ではなく、メシア仏教を信仰する「月氏国」の主神でしょう。
つまり、サタン・ナブーです。
これも、
神の言葉を忠実に実行すれば福、
だが、そうでなければ不幸、
の二者択一を迫まっている。
日の神については条件が示されていない。
しかも、月神、日神、共に同じ人物に霊言しているのですから、日神のメッセージは月神のメッセージを是正しようとするものでしょう。■隠蔽された天照大御神の謎を解く
以前に古代日本に関連して先生に質問したところ、
「キリスト教の神々と共に男神・天照大御神が日本に来られました」と。
つまり、原始キリスト教であるユダ族を率いて、日本に来られたことを意味しています。
更に「皇室は万世一系ではない。赤ちゃんの時に取り替えられたり、暗殺されたりして」と。
つまり『記紀』では皇室の血統に見えても、赤ちゃんのすり替えで他の有力氏族の子が天皇として即位していることをも暗示されました。
そこで、秦氏の出自を辿ってみましょう。
秦氏が最初に到着したのは赤穂浪士で有名な赤穂市。
赤穂市の「瀬戸内海の三大奇祭」である坂越の船祭りは、祇園祭と酷似している。
祭りは秦氏の氏神である八坂神社大避神社が主催で行われる。
神幸祭では、本社から秦河勝の神霊が神輿に移される。
船祭りでは、猿田彦を先頭に、獅子、頭人、神輿の行列が繰り出される。
猿田彦は、「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされている。
猿田彦は「天と地を照らす神」と紹介され、加えて “猿” は太陽神を意味し、
獅子はユダ族の事で、
天と地を照らす太陽神=猿田彦は天照大御神その人で、弓月君の出自である。
つまり、この船祭りは、
猿田彦=原始キリスト教の神=ヤハウエ=天照大御神がユダ族を引き連れ、
弓月君からシルクロードを超え日本に船で到着するまでの様子を再現したものだと思うのです。
猿田彦と天照大御神の関係を隠蔽し、しかも天照を女神としてしまったが故に、私達日本人はそのルーツを辿ることができなくなってしまった。
余談ですが、筑紫の水沼君は、応神天皇を即位させ、太子や天武天皇の出身地の豪族でした。
『日本書紀 熊襲討伐』に水沼県主猿大海という人物が登場します。
猿田彦の末裔なのでしょう。
神話では天照とスサノオが契約をします。
その結果、九州の宗像三神は天照の系統(秦氏系の原始キリスト教)だということ、スサノオは天孫族の祖先だということを、うまく伝えています。
神話は次のように続く。
《スサノオは、天照の居る高天原で、次々と乱暴をはたらきました。
天照が作っていた田の畔を踏みつぶし、溝を埋め、大嘗祭を行う神殿に「糞」を撒き散らした。
しかし、天照は「糞のような汚いものは、きっと酒に酔って戻してしまったのでしょう。
田圃の畔をこわし、溝を埋めたのは、その土地を再生させようとしたのでしょう」
と、むしろ弟をかばった。
しかし、スサノオの乱暴は止まりませんでした。
ある日、天照は、神聖な機織場で神様のお着物を織らせている時に、スサノオは、斑馬の皮をはいで、その死体を機織場の天井から投げ込んだ。
それに驚いた機織り娘は、機織り道具で女陰をついて死んでしまった。
これには、さすがの天照も恐ろしくなり、天の岩屋戸に隠れてしまわれました。》
さて、この神話はどのような事実を伝えようとしているのでしょうか。
猿田彦の猿は太陽神、田は稲作の神を意味している。
また秦氏一族はシルクロードで養蚕と絹織物(秦織物、西陣織、他)により莫大な利益と情報網を得ていました。
この神話にでてくる「田」「機織り」は、秦氏一族が「土木」「酒」等々と共に日本に持ち込んできたものです。
これをスサノオがめちゃくちゃに破壊し、織姫までも殺してしまいます。
秦氏一族の聖徳太子は「斑鳩」、
ここに出てくるスサノオは「斑馬」です。
縞のある鳩も馬も日本にはいません。
「斑馬」を投げ込んだスサノオは、渡来人・蘇我馬子のことでしょう。
そして女陰をついて死んだことから、一族子孫が絶えてしまったことを意味している。
だとすれば、聖徳太子父子、及び山背王一族を滅ぼしたこと、
即ち原始キリスト教の民を滅ぼしたのだと推測できます。
しかも、天照がお隠れ(死)になり、以前よりも光り輝く天照が出現するのは、猿田彦が死んでしまい女神天照へ、
かつ天皇が殺され代替わりすることを暗示している。
しかも、新しい天照が女性の裸踊りを好むといことは、女神天照は実は男神だということをも暗示している。
そして、ノアが裸を見られてカナンを呪ったように、裸を見られても良いのは、猿女君の夫だということです。
(仮に、天細女のウズが太秦のウズと同じであれば、天帝の妻という意味だろう)
以上から、この神話は、メシア仏教・蘇我氏と原始キリスト教・秦氏の日本国内での壮絶な宗教戦争・生き方の戦いの様子を伝えたものだということが明らかになったのだと思います。
ちなみに、日本書紀の一書(第一)から月読尊=月弓尊であり、明らかに弓月国の出自を表している。
また、日神はユダ族を現している。
従って、伊弉諾の三貴神は、日神の国(ユダ国)⇒弓月国⇒月氏国からの渡来ルートで古代日本に渡来した。
後ほど説明しますが、
預言者イザヤの子(姉と弟二人、姉がアマテラスの巫女=神妻)=三貴神が日本に渡来したという意味です。
アマテラスが女神とされた根拠はあいまいで、日本書紀には、日神が女神だと明確に示してはいない。
一書に曰くとして、日神のことを間接的に姉と表現しており、この偽書が正史として取り扱われるようになってしまった。
この姉は天照大神の巫女という意味だったのが、女神アマテラスとされてしまった。◆中臣鎌足と不比等について
中大兄皇子と中臣鎌足による政変で、孝徳天皇が即位。
同時に、孝徳天皇は、大化の改新を断行する。
これに従って、大兄大皇子は私有財産を朝廷に召しだした。
ところが、急激な改革だったのか、大和朝廷の有力氏族からの反発も多かった。
大兄大皇子は、孝徳天皇を残し、皇后を含む親族・貴族他を引き連れ都を移してしまった。
遺棄された孝徳天皇は失意のうちに、皇位を退く。
ところが、中臣鎌足は最後まで孝謙天皇に従い忠誠を尽くしている。
大化の改新をよく見ると、モーセの律法の復活である。
つまり、孝徳天皇と中臣鎌足は、原始キリスト教徒、もしくはユダヤ教を信じる者達だったと推測できるのです。
一方、天智天皇は蘇我氏系であり、改革には反対で、皇位を乗っ取ることは当然だった。
しかも、孝徳天皇と中臣鎌足は不運の中でも怨霊と化していない。
仲哀天皇もまた怨霊と化していない。
怨念・恨みを持つ霊体がいくら強力でも個人で天変地異を起こすことは不可能。
更に、怨念を持つほど自縛してしまい生前ほどの身体的な活動も脳神経の自由もない。
つまり、怨霊は故意に創りだされたもので、日本をメシア仏教国とするためのサタンの謀略である。
話を戻すと、欽明天皇の時に仏教導入に反対し、寺を焼き仏像を流してしまったのは、物部大連尾興・中臣連鎌子だった。
鎌足の出自は熱烈なユダヤ人だとして、政治的策士の藤原不比等との血縁関係は疑わしい。
というのも、不比等は、皇后を藤原家から出すことで皇室の権力に寄生し、囲い込み荘園制度により私有財産にて肥え太ったのであり、鎌足の意志とは全く異なっているからです。
おそらく、タルムード・ユダヤ人グループだったのでしょう。◆夫婦別姓は国の乱れの元
孝徳天皇・品部の廃止に、家族別姓が混乱を招き、国の乱れのもととなっていることが述べられている。
それ故、この乱れを正された。
民主党政権が行おうとしていた夫婦別姓法案は、国の乱れを招き、国民・家族をバラバラにし敵対させてしまう。
その隙に乗じて、左翼革命を虎視眈々と企んでいるのです。
すなわち、
「私有の民と品部とを同じ土地に雑居させている。
そのため父子、兄弟、夫婦でも姓が変わって、一家が四部五裂し、このための争いや訴えが充満している。
治まらず混乱すること甚だしい。
それ故、現在の天皇から臣・連に至るまで、持てる品部はすべてやめ、国家の民とする」
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ルーツ・ファンタジー/聖徳太子のファンタジー 2
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