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ルーツ・ファンタジー/類似する神話 4

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

古事記の中に現れる秘数と神々


■世界最古の文字と日本の神々

古代日本には、まずシュメル・バビロニアからの移民が渡来し、旧約の民と原始キリスト教の民により、部族制の元に統一されて大和国が樹立されました。

その後、『記紀』の編纂により、日本は「天照大」を日本の主神とし、皇室がこれを祀る神権国家として誕生しました。

また、イスラエルの父であるテラはシュメル・ウルの神官で有り、シュメルの神、エンリルを祀っていた。
知的階級の神官を中心に、楔形文字、官僚制国家、諸々の文明と一緒にエンリルの守護の元、旅立ったのです。
ですから、旧約の民と云ってもヤハウエが出現するのは、紀元前一千年頃なので、それ以前に日本に渡来した旧約の民はヤハウエという神を知らず、文字は楔形文字を使用し、シュメルの神々を主神としていました。

つまり、

「日本の地名の大半は、BC三千年紀のシュメル語、バビロニア語に由来するといっても過言ではない。
中国においてもしかりである。」

さらに、日本の神々をシュメル語で解読することにより、天皇の和風号とは、天皇=大和の大王を支える複数部族の主神名を並べたものだったということが、明らかになります。

また、イスラエル人はウルの言葉を話し、楔形文字を使っており、これが発展して、独自のヘブライ語とヘブライ文字が誕生しました。
しかし、出エジプト時代後には、エジプト文明化されており、ヘブライ語とヘブライ文字もかなり忘れ去られていたようです。

その後、二度の捕囚期間に旧約聖書の多くが完成し、ヤハウエを主神とするユダヤ教、即ち旧約の民が誕生することになります。

ですから、3世紀以前の古代日本に渡来したシュメルの神々を主神とする部族の言葉は、旧約の民の言葉と酷似していたことが推測されるのです。

今回、『世界最古の文字と日本の神々』を基本資料として、上記の内容を確信致しました。

例えば、「神風」の由来について説明しましょう。

通常は、二度の元寇を打ち破った台風を称して「神風」と云うのだと思っていました。
しかし本書によれば、

《 紀元前2千年頃、越の国に文明が起こりました。
ウルの神官をトップにした移民がこの地に移住し、シュメルの絵文字と青銅器文明と官僚制と稲作を持ち込みました。

古代の越では、二本の柱を立て、しめ縄を張り、その内側を聖域としていました。 》

まさに日本の神社の原型です。
そして、日本ではこれが「鳥居」となりました。
私は「鳥」=「天使」だろうと思っていたんですが、間違いで、実は風神のシンボルです。
つまり、神社は風神=神風を祀る聖域でした。

さて、シュメル語で「エン」=「神」、「リル」=「風」です。
日本語では「神風」で、風神です。
この風神部族は、佐賀の吉野ヶ里遺跡他にも渡来しており、風を吹き出すように口をとがらせている「ひょっとこ」がその印でした。
同時に、越人(エンリルの略)は、夏人として北上し、夏・殷帝国を建国し、シュメルの絵文字から、甲骨文字が発達します。

そして、越でジャポニカ米ができる頃になると、シュメルの神官テラの子アブラハムの正当な末裔がこの地に渡来し、弥生人として日本に移住します。

テラはシュメル語の読み書きができるので、ここからヘブライ語も派生したと考えると、エンリルを祀る縄文人とヘブライ語は、非常に近かったと考えられます。

さて、古代シュメルの地はウルクです。
ギルガメッシュ王の活躍した王国でした。
神社拝殿の入り口に建てられている二頭の狛犬は、二頭のライオンのことで、ギルガメッシュ王のシンボルです。
それが、日本にエフライム族、後にユダ族が渡来し、大和を建国する頃になると、狛犬の一方が一角獣に変わった。
つまり、ライオンを家紋とするユダ族、一角獣を家紋とするエフライム族の正当な末裔が皇室である。

以上のように、日本はノアの大洪水後から、役職名「エンリル=神風」に守護された地域でした。

BC1000年以上前には、ヤハウエという言葉は存在せず、イスラエル人の間でも、アン、エンリル、エンキ、等のシュメルの神々が実名で使われていました。

ちなみに、シュメルの神々の呼び名は役職名で、本名ではありません。

天照=アマ・テル・アスと分解でき、アマ=神、テル=輝く、アス=50の意味です。

天王=アヌは、天と地の王ですから、日本語で当てるには「天照地照大神」でしょう。

◇まとめ
アブラハムの父テラはウルの神官でした。
エンキの記憶を書き取ったのも神官です。

王テラはエンリルを主神とし、農民・工人・牧人・官僚を引き連れて、出立しました。
これがヘブル人ですから、彼等の言葉はシュメル語=ウル語です。
アブラハムに代替わりした頃には、ウル語から少し変形したヘブライ語に変わったかも知れませんが、ほぼ同じでしょう。

そして、ヤコブの時代になると、エジプトに長期逗留してしまい、エジプトの風俗と言葉を使うようになり、ヘブライ語を忘れてしまいます。
この時代より前に日本に向けて出発した一族はウル語を覚えており、シルクロードの「海の道」を経由して、日本に到着することには変形して倭語に成っていたことでしょう。

出エジプト当時、ヤハウエは存在しません。
ヤハウエが旧約聖書に出現するのは、捕囚時代だと思われます。
ですから、捕囚を逃れて日本に出発したユダヤ人(イザヤの民)の主神は、太陽神・マルドウクでした。
彼等はシルクロードの「オアシスの道」を経由して日本に渡来します(前660年頃)。

ローマの支配下にあったユダヤでは、ヘブライ語は失われ、アラム語とギリシャ語が使われています。
ローマの迫害を逃れた原始キリスト教徒は秦一族として、日本に渡来し、南伝のエフライム族、北伝のユダ族の王権を統一し大和朝廷をうち立てます。
原始キリスト教の主神はヤハウエです。

次に、秦一族の除福が日本に渡来し、北極星である天王を先頭に、北極星を周回する北斗七星(七大天使=七福神)と共に、日本に渡来し、天照大=ヤハウエを日本の主神とするのです。

ですから、全ての地上の文字と文明と宗教は、シュメル文明とシュメル絵文字と古代シュメルの神々が始まりである。

◆漢字の使い方はアルファベット代わり
現代日本語では解読できない古事記の不可思議な当て字漢字の呼び名は、シュメル語や甲骨文字で読解できると云うことを意味しています。
日本の神話時代は、トーテミズム制度社会だったので、神名は、即、部族名になりえたし、事実そうだった。
日本の神名は、当時、アルファベットも、カタカナもなかったので、すべて漢字をアルファベット代わりにして表記していた。
その資料として、下記本書から重要と思われる箇所の抜粋です。
尚、神代文字はシュメルの絵文字が日本に渡来する間に、各部族で独自に派生した文字(ヘブライ語の成立過程に似た)だったのではないかと推測されます。
そしてキーとなるのがウルクで祀られていた「七枝樹二神」なのですが、この「七枝樹」を生命の木とも呼ばれ、人類を創造した女神になぞらえ遺伝子という説もありますが、個人的にはそれは間違いだと思います。

「七枝樹二神」の夫妻神は、北極星として祀られている天王=ヤハウエ夫妻を表し、七枝樹は天王に従う七大天使だと思われます。

◇赤い麦が米の語源
現在は赤米と呼ばれる陸稲。
ジャポニカ米とは異なり、玄米の河の部分にアントシアニンが含まれています。
縄文時代の米は、陸稲を中心として、水田の両方だったようです。

やがて中国の越でジャポニカ米に改良されると、これが日本に渡来し弥生文化となる。
部族が移動すると地名・文化も移動する。
赤米稲作耕法は、エンリル、トーテム部族と共に、沖縄から種子島、そして日本に船で運ばれた。

赤米信仰は種子島と対馬に残されており、南方経由のエンリル部族と、北方経由のエンリル部族によりもたらされている。

◇神武系は海のシルクロードを経由して日本に渡来
神武系=エフライム族(当時はイスラエルの正当な末裔)はエンリルを主神とし、エジプトの宰相であるヨセフの死の直後頃に、エジプトからインド経由で、海のシルクロードを伝って日本に渡来している。
そして、出雲王国を建国した。

◇豊満神社の主神・玉より姫
豊満神社は種子島に多く、九州にもある。
主神・玉より姫は神武天皇の妃でもある。
更に「豊満」はエンリルの暗喩であり、つまり、神武天皇は海路で、日本に渡来した。

◇シュメル語の草原(エディン)
バビロニアに入るとエディヌ、ヘブライ語に入るとエデン、即ち「エデンの園」となった。
古代印度や中国では、エディンが縮まりディンになり、これが「デン=田」である。

◇中国の越人(南方からのエンリル信仰)
越人は鳥をトーテムとし、鳥霊信仰が盛んだった。
鳥は風神エンリルのシンボルで、鳥トーテム民族はエンリル信仰族で、卵生神話を伝承している。

越には、エンリル(バビロニアではエンリラ)の名を持つ「エンリラ城跡」がある。
BC500年頃、越はクハルルと読み、その意味は「風」であった。
現代中国では、越を「ベト」と読み、「越南」をベトナムと云うようになった。
この系統のエンリル信仰を南方からのエンリル信仰と呼ぶ。

尚、日本の越国を建国したのは、除福一族の技術集団で、旧約の民・秦氏一族(ローマ方面から移動してきた部族で、風神・エンリルを主神とする)です。
ということで、日本と中国の類似は、韓国よりも濃い。

尚、欧米列強は朝鮮半島を植民地にすることを嫌がり、逃げ出した。
それは、朝鮮半島に資源はなく、朝鮮人は土人同様だったからです。
大日本帝国が朝鮮半島に文明をもたらしました。
加えて、古代日本から古代朝鮮半島へ文明は移動しています。

◇アイヌは倭人を「シャモ」と呼ぶ
「シャモ」は「アッシャム」→「シャム」から転じた「倭人」の呼称である。
要するに倭人は「天神族」だと云うことだ。

◇弾琴巫女術 仲哀天皇記で神功皇后も行っているが、古代日本の独創ではなく、古代中国から渡来した「神降ろしの巫女術」であった。
そしてその源流は。BC四千年紀のシュメルにあった。

◇司祭記(エンシドゥブザル)
BC3千年頃から用いられたシュメル文字の祈願は、アッカド、バビロン、アッシリアを経て、紀元前6百年頃までの粘土板に書かれている。
中国へは、司祭記がトーテム族を束ねて移動してきて陶器や亀甲や牛骨や石や青銅器に文字を書き込んでいる。

殷では司祭記をエンシドゥブシンと読み、後には簡略化されて「司徒」となった。
文部大臣の高官である三司「司馬、司徒、司空」の内の「司徒」である。
尚、「エンキの失われた記憶」も司祭記が記録している。

◇世界最古の文字から各民族独特の文字が派生した
シュメルの絵文字(象形文字)が最初に誕生した。
シュメルの神を中心とする部族が、司祭を頭として各地に移動していった。
そしてその土地に定住する種族は、シュメルの絵文字から独特の象形文字を派生させていった。
例えば、シュメルではシュメル絵文字から楔形文字を作りウルやウルクから日本へ渡来した。

エジプトではシュメル絵文字からエジプト象形文字を作り、後にアルファベットへと変形していった。

中国では越に移住した風神種族が、シュメル絵文字から甲骨文字を作り、甲骨文字と青銅器文明を黄河地域に持ち込み夏王朝を建国した。

イスラエル人はシュメル絵文字からヘブライ文字を派生させた。

インドではシュメル絵文字からドラビタ文字や梵字が派生した。
ドラビタ文字に最も影響を与えたのは、シュメル語であり、次にアッカド・バビロニア語であり、次にエジプト語であった。
ドラビタ語に近い日本語にも当てはまると思われる。

◇伊弉諾・伊弉冉の語源
「三と四の男」がイザナキ、
「三と四の女」がイザナミの祖語である。
(1) 三と四の男
エシユ・ア・ラム・ギシュ

(2) 七枝樹の男
エシユ・ア・ナン・ギ
→ イシャ・・・ナ・・ギ
→ イザ・・・・ナ・・キ

「男」というシュメル語のギシュは、
「木」のギシュと同一文字である。
したがって、そのギシュは、日本において、ギ、キ、コと転じる。

伊邪那岐の岐は、その「木」
「男」のキ(岐)なのだ。

一方、「女」(女陰)のシュメル語「ミ」は、日本において、ミのままの場合と、メに転靴した場合の双方があり、
前者のミは「美」、
後者のメは「賣or売」に宛てるのが一般だった。

で、「三と四の女」は、イシヤナミからイザナミへ転じ、伊邪那美と漢字表記されたのである。

このように、ウヌグ・キ(ウルク市)の創生神であり守護神でもあった七枝樹二神は、
紀元前二〇〇〇年の中国の丁公村陶片文字群の中にあっても「祈る」文字のすぐ近くにあり、
『楚辞』天問篇では蛇女神の女岐が〝子生み〟の創生神の位置にあり、
殷では「夫婦子」の画像銘文が青銅器に鋳込まれており、
そして当時の日本列島内に「祈る・七枝樹二神」の石碑が祭壇に立っていた。

このような歴史的事実を踏まえて、
『記・紀』神話の〝国生み・神生み、のイザナキ・イザナミ男女二神の出自が七枝樹二神を祀るウルク、もしくはウルだと断定したのである。

中国には中国なりの中国化があり、
日本には日本なりの日本化があった。
しかし、だからといって、表現法の基本であるウヌグ・キ(ウルグ市)の円筒印章印影図とシュメル語の規範から、大きく逸脱してはいない。
伝続の守るべきものは、日中ともにきちっと守っていたのである。

※「七枝樹」については、石上神社の宝剣として納められている「七支(枝)刀」が有名です。
この宝剣に刻まれた「泰」の文字は漢字ではなく「七個の文字から成る」とし、
意味は
「霊験あらたかな七枝樹に向かい合い牡牛神ハルと蛇女神キ」
と解読しています。

※尚、日本の皇統を旧約聖書の皇統と比較すると、「天の御中主」が「ノア」に、「伊弉諾と伊弉冉」が「テラ夫妻」に相当する。


◇八咫烏
古代のシュメル人やバビロニア人は、太陽の中にある黒点を観察し、その黒点を「黒い鳥・鴉(カラス)」と解釈していた。
更に、七枝樹二神の男神側に三枝があるのは、男性性器の表現で有り、太陽神の使い八咫烏の三本足は天照大が男神であることを表現している。

◇一対の狛犬とギルガメッシュ王
シュメル語の「獅子と戦う王 メ(戦う)・ウル(獅子)・マフ・ギシュ(王)・ク」が、mがgに、gがmに転じる当時の音韻変化により、ギルガメッシュになった。
両腕に獅子を抱えるギルガメッシュ王の暗喩として「獅子神」「獅子と獅子」とされ、古代中国にも古代日本の線文字にも残されている。
(尚、シュメル語で、ウル=犬、ウル・ク=家犬、ウル・マフ=獅子)

ユダ族のシンボル「獅子」はギルガメッシュ王の皇統だと云うことでしょう。
そして、ギルガメッシュ王を主神とする種族が古代日本に渡来し、二頭のスフィンクスを真似て、神社の入り口に二頭の狛犬(高麗犬=獅子、双獅子)を置いた。
(これが南伝に対し、北伝のエンリル族である)

そして、一角獣をシンボルとするエフライム族とユダ族が日本に渡来し、旧約聖書の預言通り、ユダ族とエフライム族の皇統が合体し、大和が建国された。
その結果、片方の狛犬の頭に一本角が付加された。
     
◇銅鐸(どうたく)
銅鐸は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。
紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
銅矛は主に北九州から出雲周辺、
銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で、主神はエンリルで同じだが、南伝エンリルと北伝エンリルの違いがあった。やがて出雲(エフライム族)は大和(ユダ族)に王権を禅譲したのです。

◇大天使ウリエルは、ギルガメッシュ王か!
インドの梵語、ヒンディ語、バーリ語においても、ギルガメッシュ王の暗喩は「獅子と獅子」であった。
この「獅子と獅子」が転じて、ヤマからエンマとなった。
この閻魔王はインド最古の神で、死者・死に神の統治者とされている。

一方で、閻魔大王は冥府の王であり、罪ある者を裁く。
嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれるといった説話は、大天使ウリエルの仏教版です。
また、大天使ウリエルは七福神では、布袋(弥勒の化身)に対応している。

◇中国の風神「インインアウ」が、ひょっとこ面の祖型だった
BC千年紀の中国の風神を「因因呼(インインアウorイインクァウ)」と云う。
インインはシュメル語の「イムイム(風・風)」の中国訛りである。
クァウは「越」のことで、越から来た風神を意味する。

風神の面は「秦僮(シンドウ)」と云われ、秦一族も「越の風神」を主神とし、日本に渡来したときにこの面を持ち込んだのでしょう。

古代中国の文献等に登場する風神の種々相を示しておこう。
日本語「風」のかぜ「加是」「志那(しな)」も同じである。

風神・因因乎 … 『山海経』

風神・飛廉(ヒレン)… 『楚辞』
※蛮廉とも書く。

風神・淹里羅(エンリラ)… 殷のの金石文。城名。

風神・風乍天子 … 周の甲骨文。
風神は天神の子という意味。

風神・五十 … 周の金文。
風神の神々のランクは50という意味。

尚、淹里羅城は、佐賀県吉野ヶ里の祖型とも言われている都城なのだが、淹城遺跡に入る門に『里羅城』と書いてあった。
そもそも、淹国は越の一国で、越は風神を主神としていた。
つまり、吉野ヶ里遺跡は風神を主神としていた。

◇南伝と北伝の皇統
伊弉諾・伊弉冉の神統系は、ウルク系の「七枝樹二神」・「女十五神・父日神」に属する、即ち崇神天皇系(ユダ族)である。
アキツ男神と女神は、ウル系(海路の海系)の「天父アンと地母神キ」・「越の淹里羅」系に属している、即ち神武天皇系(エフライム族)である。
つまり、大和は南朝と北朝が合体して建国された。

シルクロードは、「オアシスの道」「草原の道」「海の道」の三通りがあり、これを経由して古代日本にシュメルの神々が渡来した。
つまり、シュメル文化やアッカド文化を持った「農民」「工人」「牧民」「官僚」などが、王・司祭者の統一の元に、主神の守護を信じて、西から東へ移動していったという民族移動の歴史があった。

主神としては「双子獅子」「七枝樹二神」「女十五・父日神」「天地風」諸々をトーテムとする民族が居たのである。

ちなみに、風神アネモスは、ウル市から中央アジア、アルタイ、モンゴル、扶余(満州)を経て、日本へ伝わったものである(つまり、草原の道=北伝)。

◇「越族」の信仰
越族のトーテム(主神)の一つは「蛇」で、並んで「鳥」が崇拝されていた。
「鳥」「白い鳥(ハト、鷲…など)」が風神の使者、あるいは風神の権化とされていた。
シュメルでは“神鳥”、それも“旋風の神鳥”という文字があり、それは風神エンリルの侍大将・長子ニヌルタである。
剣神である“旋風の神鳥”の眷属は、しばしば「梟」で表現されていた。
また、「黒い鳥」の鴉が日神の権化とされていた。

◇カッパの由来
九州・八代市に『オレ・オレ・デーラータまつり』があり、球磨川川口の堤上に、祭りの由来を書いた碑が建っている。碑文には「河童三千匹上陸」とあり、河童たちが口々に「オレ、オレ、デーラータ」と叫びながら上陸したとある。
まさか、想像上の生物である河童が人間に近いことばを発するとは思えないが、多分、この河童は、お河童頭をした異国の水人(海人)だったのではないか。
とすれば、「オレ・オレ・デーラータ」は、「ワレ・ワレ・ディラ・イダン」に近いことばであったろう。
意味は、「我、我、風の共同体」、
つまり「我々は風神族だ」である。

※「かつ」はシュメル語の「風」なので、カッパの「カツ」=風神です。
更に、風神の面は「秦僮(シンドウ)」と云われているので、「河童」は「風神」の一族と考えられる。

◇風神・天の子・アネモス(ギリシア)崇神天皇名、垂仁天皇名に入っている「五十」を根本的かつ綜合的に説明する時が来た。
 
 
●垂神天皇(紀)…
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
 
●垂仁天皇(紀)…
活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
 
●垂仁天皇の皇子(紀)…
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
 
●垂仁天皇の皇子(記)…
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)

問題の「五十」は、風神アネモスの暗喩でもある。
シュメル、バビロン、バクトリア、西域北道、西域南道、中国、蒙古、満洲、韓国、日本の全てで通用した風神アネモスの暗喩。
そして、パクトリア以東は、風神像がギリシア・スタイルになって、日本列島にまで及んだ。

紀元前三〇〇〇年紀のウル入社会に一つのコンセンサスがあった。
人間界の王の王権は風神エン・リルから授かる。
神名のエン・リルは、神・風というウル語であり、そのエン・リルの父を天神アン、母を地神キ(またはク)といった。
当時のウル語では、
この天地風の三神を『バ・アン・ク・リル』(神・天・地・風)のようにいうこともできた。

紀元前十世紀後半、中央アジアのアラル海付近では、バ・アン・ク・リルからパクトリアという国名が生まれた。
首都の名はパクトラ。
しかし、パクトリアは、ギリシアのアレクサンダー大王軍によって征服され以後、固有の文化がギリシア化された。

ついで、グレコ・パクトリア朝の文化を継承したクシャン朝のカニシュカ一世の時代になると、風神アネモスの神像と、ギリシャ文字でアネモスと銘打たれた金貨が発行された。
いわゆる風神アネモス金貨であり、BC二世紀半ばとされる。

では、ウル語でエン・リル、パクトリア語でバ・リル(またはバ・エン・リル)と呼ばれていた風神の名が、何故、ギリシア語でアネモスと変わったのか。
その答えはいたって簡単で、風神エン・リルが天神アンの子、息子だったからである。

古代ギリシアにはウル語、シュメル語、アッカド語、バビロニア語、フェニキア語等が洪水の如くに流入していた。
ギリシアの自由都市テーパイの建国王はフェニキアの王子でカド・モスといったが、そのカド・モスというフェニキア語はウル語のメス・バッダ(神の申し子)の逆順語、すなわちバッダ・メスから、「p→t→k」の法則通りに転靴したところのカド・モスだった。

同じように、ウル語の風神エン・リルの暗喩としてのアン(天神)ネ(の)メス(子)も、ギリシアへ入って、アネモスと変化した。
グレコ・パクトリア語で「風神」の名が、バ・エン・リルからアネモスへと変化した背景には、上述のような言語史があった。

クシャン王カニシュカ一世の金貨に天駆ける風神アネモスの像、その足下にギリシア文字で「Anemos」とあったことは、ウル文化東漸のあかし、まさに歴史が浮き彫りになった金貨といえよう。

ここで尾形光琳描くところの江戸期の風神図を見ていただきたい。
ギリシア人が紀元前十世紀後半に措いた風神アネモスの像が、中央アジアからシルクロードを東漸してはるかなる日本にまで到達していたことが如実にわかるであろう。

風神は白鳥を権化とし、口から風を吐いていたが、風神アネモスの場合、風のシンボルとして両手に布を持っているのが特徴。
尾形光琳の風神もまさに、両手に風神のシンボルである布を持っている。
つまり、尾形光琳の風神がシュメルのエンリルである。


■記紀を理解するのに重要な語彙集

『記・紀』を読むのに重要と思われる語彙を集めてみました。


◇ウラ(浦)
シュメル語の「父・60」

◇オソフ(襲)
シュメル語の「50・吹く風」で、熊襲もエンリルが主神である

◇ネコ(根子、泥古)
シュメル語からの派生で、水田、稲の意味

◇タカンラ(宝、高良、財) シュメル語の「父60・父・天神アン」…エンリルのこと。

◇ム・イツ(美津、満) シュメル語の「吹く・風」…エンリルのこと

◇いかが
シュメル語の「イル・ガ・ガ」=シュメル語で祈る

◇うらなふ(宇良奈布)
シュメル語で「神に祈願・ウル・巫術」

◇おがむ(拝む)
シュメル語の腰シをかがめて礼拝する「ガム」が、日本語の「おがむ」の語源

◇きがん(祈願)
シュメル語の「祈・礼拝」

◇ほ(火、菩)
ウルクの七樹二神の牡牛神ホルのこと。
スサノウの命の子孫名に「ほ」がある

◇なめ(新嘗祭、神嘗祭のなめ)
七樹二神の四枝側に座る地母神キの倭人語

◇天の沼矛
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された

◇塩コヲロ
七枝樹二神の神名「キ・ハル・キ・ハル」から創作された

◇女神イナンナの和語
古代日本ではイナンナを略して「イナ」と読んだ。
イナ(伊那)、伊那目、稲田、稲城、稲葉、因幡の白ウサギ、稲水命(神武天皇の兄)

◇たける(武、建、タキル)
シュメル語の「強い獅子を退治する」が転じ、タキル、タケル(建)、タケ(武)になった。
つまり将軍という意味で、例えば「建速須佐之男命」は「牡牛神の海軍大将」である。
他にも、竹内、竹田、武田、建部、武部などの苗字は、将軍号か、ギルガメッシュ系の部族名のどちらかだろう

◇インドラ
インダス文明における風神エン・リラから派生したイン・ディラが、雷神イン・ドラである。
このイン・ドラからインドの国名となった。
尚、バクトリア南方の遊牧民のアーリアンは、印度に侵入してインド・アーリアンとなった。
彼等は、イン・ドラ神(雷神)とアグニ神(火神)を崇拝していた

◇あきつ(安芸津、秋津、秋)
風神・エンリルを「天地の子」「天子」という意味で「秋津根別」という風神名も記紀にある。
秋津は「天父神・地母神」である。

◇はや(速、早)
「海員」の意味。
建速スサノウ命、ニギ速日命などの「ハヤ」は「海員」なのである

◇ひこ(比古、彦、日子、毘)
男王の意味

◇ひめ(比売、姫、媛)
女性の王の意味

◇やつしろ(八代)
八代では “やっちろ” と発音し、バビロンの風神エン・リラの訛りである

◇ちの(茅野、千野、千乃)
風神エン・リラが、「や・っしろ」となり、「やっ」が抜けて「しろ」が「ちの」と簡略化された

◇モンゴル
モンゴルとは、ブリヤートや匈奴(自称フンヌ)と同じ意味で、「吹く・天空・風」が訛ったものだ。
つまり、モンゴル人はエンリルを主神とする。

◇北九州の伊都国
筑紫の伊都県主の祖を五十迹手(いとて)と言う。
国名の「イト」「イツ」は、すべて風神の暗喩「50」、イ・シュからの転訛語だった。
つまり、魏志倭人伝にある倭国は30の国々から成るとしているが、各国は主神を持つトーテム族であった。

◇あすか(明日香、飛鳥)
明日香は
「50(イ・シュア)・風(カバラン)」
→「(アス)・(カ)」に転じた。
蘇我馬子の石舞台には、巨大な石に2m大の剣を持つ風神アネモス像が刻まれている。
つまり、蘇我氏は北伝風神系である。
風神アネモス(=風神エンリル)はクトリアからの伝来で有り、巨大な石を使うのはペルシャ人の技術でなので、拝火教の影響もあると思われる。
尚、拝火教はヤハウエと七大天使が出現している

◇エンヤラヤ
「エイクーリ」は、ロシア語だと「エイコーラ」、
日本語だと「エンヤコーラ」となる。
「エイクーリ」は、「風神エンリル・天神アン・地母神キ・ウル」から転じたもの

◇ウマシ(宇摩志)
シュメル語「ウムン」が転じたもので、意味は「主」

◇芦辺(あしべ)、芦原(あしはら)、芦川(あしかわ)
アシベは「50・吹く・天空」から転じた「風神」である。
「葦原」「芦川」「芦川原」と同祖語である。
「芦原」はエンリルの都である「ウル」のこと

◇原初 「げんしょ」と読めば始まりのことだが、「ウルク」のことである

◇卑弥呼、卑弥弓
ヒミコは「王(ビリグ)・王(ギシュク)・天神アン(アン)」が「ヒ・ミ・ク・ア」となり転じた女王名である、という見方がある。
しかし、女性であれば伊弉冉や姫の様に女性を示す単語がついているはずだと思う。
だから、卑弥呼=日巫女の方が正しいのだろう。
ちなみに、卑弥弓は男王のことである

◇天の香具山
「天の60(アッシャム)・山」が転じたもの

◇かぐや姫
香具が「天の60」で、ヤが家だから、カグヤは「天の60・神殿」である。
天王の基地の管理者という意味だろう

◇邪馬(やま)
ヤマは「獅子(ウル)・獅子(マフ)」から転じたもの

◇三ノ輪山
「獅子と闘う」山の意味。
御諸山も同じ意味

◇まほろば(麻本呂婆)
強大な共同体国家という意味。
聖徳太子の時代、部族長制の国だった

◇みかど(帝)、みこと(命、尊)
ミカドもミコトも、シュメル語のメス・バッタから転じたもの。
メス・バッタは神の申し子という意味で、ウル王族の尊称である。
ミカドは天皇のこと、ミコトは神の申し子の意味で、王族(皇室)の尊称である

◇農神のニン・ギジツダ
農神のニン・ギジツダとギジツダは蛇の雌雄であらわされ、時にはからみ合った姿、時には柱にまきついた姿で表わされていた。

日本の尻久米縄(シリ・クメ縄、略してシメ縄)は、雌雄の大蛇のからみ合いだが、雌雄のニンギジツダとは別神である。

神社や仏閣によく見かける、左右の柱、あるいは鳥居の柱にまきついた二頭の竜は、いうまでもなく、天宮の門衛神であり、農神でもあったギジツダ両神の日本的表現である。

◇おししろ(忍代)
景行天皇の名にある「忍代」は、オソ・シロと読むが、「50・風」という意味である。

◇崇神天皇の和風号ミマキ(御間城、御真木)
ミマキは「天神・地母神の子」という意味。

◇崇神王朝の天皇名や皇子名のたらし(足、帯、多羅斯)
タラシは、隋書では多利思(タラシ)、三国史記では太良洲(タラシュ)となっている。
「父(アズ)・60(アッシャム)・50(イシュ)」が転じたもの。

つまり隋書で有名な
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の
「タリシヒコ」は、天神・風神を主神とする男王だった。
従って、崇神天皇の和風号ミマキ・イリ・ヒコと、
隋書の倭王の字タリシヒコと、記紀に出てくるタリシヒコは、全て同一の内容だった。

◇景行天皇の和風号
大足彦忍代別天皇(オホタラシ・ヒコ・オシロ・ワケ)と表記されている。
以上から、「父60・50」「男王」「風50」「父60」である。

つまり、景行天皇の和風号の意味する所は、部族の大王という意味である。
天皇の和風号とは、天皇=大和の大王を支える複数部族の主神名を並べたものだった。

◇油(あぶら)
「父・日(ラー)」=アブ・ラーのこと。
ラーはエジプトの太陽神で、シュメルではマルドウク。
また、ラーは冤罪のためにエジプトから追放され、彷徨していた時代があり、アメン・ラー(隠れた太陽神)とも呼ばれている。
このアメンが聖書の民が神に祈るときの言葉 “アーメン” 。

◇素戔嗚尊(スサノオ命)
司馬貞は『史記』の冒頭「三皇本紀。炎帝神農。」にこう書き加えている。

《炎帝神農は人身牛首である(中略)。
木を切って鋤をつくり、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤の使用法を万人にしめして、初めて耕作を教えた。
それゆえに号を神農氏という(後略)。

この牛首の炎帝神農を高句麗語ではスサといった。
今も北朝鮮語でスサという。
が、よく考えるとこのスサは、シュメール語の牡牛神シュウシュハルから転じたスサ、そして日本の牛頭天王といわれるスサノヲ命のスサ(須佐)、スサン(素箋)とも同系語であった。》

◇乙姫(おとひめ)
シュメール語の「日」のウツは、古代中国でイツに転じ、甲骨文字で「ミ」(漢字で乙)と書いた。
古代日本では、オツ、あるいはオトへと転じた。乙姫(オトヒメ)のオトは「日・太陽」である。
なお、宇都宮の宇都も、当然「日」であり、宇都宮は「日神宮」である。
 

◆しめ縄に見るシュメル語・倭語から日本語へ
『数の文化史を歩く』によれば、
「しめなわ」の語源とその意味を過去に遡ることで、現代語の「しめなわ」が、古事記の天の岩戸神話「シリクメ縄」に由来していること。
更に時代を遡ると、シュメル語の蛇(シル)と蛇(ムシュグビ)を重層させたのが、日本語の「シリクメ」のシリ・タメだということが明らかになる。
つまり、このようにして、シュメル語彙から倭語へと移行し、そして日本語が誕生したのです。

下記資料はすべて『数の文化史を歩く』より抜粋しました。

「しめなわ」は江戸時代からのもので、漢字で「標縄」「注連縄」「七五三縄」と書く。
その意味は下記の通りですが、天皇の和風号と同じで「しめなわ」の意味を、それぞれ三種類の漢字に当て字して説明しているとしか思われないのです。

◇「標縄」
“標の内” “標の外” という言葉があり、
神社の境内の内また境内の外を指す。
つまり、神域の内と外ということである。
こうした用法から「標縄」の語釈は「神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄」(広辞苑)ということになる。

◇「注連縄」
“注”は水を注ぐことで、「注連」とは、漢和辞典によれば
「水をそそいで清め、連ねて張る縄。
出棺後、死者の魂が家に帰ってこないように家の出入口に張る」
とあり、
これは中国の用語の類似的な意味を借りたものであろう。

◇「七五三縄」
「七五三縄」と書くのは縄の形状からきている。
「しめなわ」というのは、わらを左縒りにな綯ってゆき、その途中、わらの茎を三筋・五筋・七筋と順次に細い放して垂らし、さらに、その間々に紙弊(もとは木綿を用いた)を垂らすわけで、このように三筋・五筋・七筋と垂らす形状から「七五三縄」という表記が当てられたものと思われる。

さて「しめなわ」はいつ頃から日本に登場したのだろうか。

古事記の「天の岩屋戸」の場面に「しりくめなは」という言葉が出てくる。
表記は「尻久米縄」である。
「しめなは」は「しりくめなは」と同じであり、また「しめなは」は「しりくめなは」の略であると解されている。

アマテラスがスサノヲの乱暴な振舞を見て恐れ、岩屋戸に身を隠してこもってしまったため、「八百万の神」が集まって、いろいろ工夫をし、ふたたびアマテラスが岩屋戸から姿を現わしたさいに、アマテラスの後ろに「尻久米縄」を引き渡して、
「これより内にな還り入りそ」
(ここから内にはお戻りなさいますな)
と申し上げた、というあの神話である。

古事記の「しりくめなは」には、その形状の記述が見られないが、日本書紀を読むと、同じ「天石窟」の場面に「しりくめなは」が出てきて、その表記は「端出之縄」となっており、それには注記が付いていて、その縄の形状と語の訓みが記されている。

「端出之縄」という表記が縄の形状からきていることが分かる。
縄の形状として分かるのは、「左縄」であるというのと、「端出す」という作りだという二点だけである。

「左縄」というのは、ふつうは右搓りに綯うのを、それとは逆に左搓りに細った縄ということで特記されているわけだろう。
その意味は、神域への立ち入りを禁止する神聖な縄だからということだろう。

「端出す」というのは、縄の端を切らずに細い放しにするということで、その意味も「左縄」の場合と同じようなことであろう。

では、「しりくめなは」の語源をシュメル語から見てみよう。

「巳」の中国語音シはシュメル語の蛇「シル」に由来していた。
一方、日本語の蛇(巳)の語源はシュメル語のもう一つの蛇のムシュグビである。

・シル:蛇(シュメル語)
バビロニア語でシール。中国語ではシ。

・ムシュグビ:蛇(シュメル語)
バビロニア語ではクップー。
日本古語ではクビ。

このムシュグビが、日本ではムシ(虫)とクビ(蛇)に二分された。

ムシュ:虫。這う虫(シュメル語)
ムシ :虫。這う虫。飛ぶ虫(日本語)

このように、シュメル語の「虫」は、ほとんどもとの音のままで、日本語になっていた。
グビ(蛇)も日本でクビ(蛇)になり、ついで音転で、
クミ(宛て字は酌)、クメ(宛て字は“久米”)になり、
最後には後尾の「ミ」だけでも「蛇」「巳」として通用するようになった。

なお、シュメル語の蛇(シル)と蛇(ムシュグビ)を重層させたのが、倭語の尻久米縄のシリ・タメ→シリ・クメである。

注連縄、尻久米縄は、蛇と蛇のからみ合った形態である。
つまり、DNAの二重螺旋構造を意味している。
だから左搓りであり、生命にとって神聖な叡智だ。
だが、そのシリ・クメは言語の面からいえばシュメル語の蛇(シル)と蛇(グビ)を重ね合わせたものだった。

(註)
注連縄(シメナワ)は尻久米縄の省略語

それでは、誰が「シリクメ縄」の作り方を教えたのだろうか。
それは、シュメルの神であった。
だから、「七五三縄(=しめ縄)」の「七五三」については、七は七枝樹二神を、五は「50:風神エンリル」、「30:エンリルの長子・正義を照らす・月神」を意味しているから、357ではなく、貴い順から「七五三」と云うのだと思われるのです。

また、日本でこの「七五三」を尊ぶのは、北極星を天皇天帝とする道教から伝来したと云われている。

つまり、天の岩戸神話を伝えた種族の主神(天照大)は、雌雄の蛇が絡み合う姿で、人類を創造した神々への崇敬を込めて、DNAの二重螺旋構造を神聖な知識を、人類の未来への希望として伝授していたのでしょう。

大和民族は神々から「しめ縄」を伝授され、心と精神の浄化された場所を聖域とし、そこに「しめ縄」を張り、穢れを嫌ったのです。
その聖域では、貧富の差や社会的地位の違いとは無関係に、良心の前に平等が存在していた。
この皇室の伝統を武士道が受け継ぎ、庶民は暖簾の内側を聖域と見なし、損得を抜きにした「もてなし」を行ってきた。

だから、日本人は職場では威儀を正し、何も買わない客に対しても礼を言うのです。

従って、神聖な神宮の入り口である「鳥居」は「風神・エンリル」を意味し、
本殿入り口の「対の狛犬」は「ギルガメッシュ王」「ユダ族とエフライム族」を意味し、
本殿の「しめ縄」は「七枝樹二神=初代もしくは二代目の天神夫妻」を意味している。

つまり、本殿の奥に四代目の天神=天照大が祀られていると云うわけです。

◆古事記と日本書紀の著者は南朝と北朝
古事記と日本書紀の「神代七世」の独身神と夫婦神の数を比較して貰いたい。

古事記の場合には、7=2+5で、「七枝樹二神」の数え方からウルク系である。
日本書紀の場合、7=3+4で、「七枝樹二神」の数え方から非ウルク系である。

だから、倭語の使い方も異なっていると思われる。
ちなみに、第四代ヤハウエ=シュメルの月神=天照大の神殿はウルにある。

また、ウルクの都市神は月神の娘イナンナ女神である。
だから、同じ天照大を主神とする種族であっても、
古事記を編纂した太安万侶と稗田阿礼は海路で渡来したウル・ウルク系(南伝)で、
日本書紀は中国大陸経由の除福や秦氏一族(オアシス経由)だと区別できるのです。

だから、日本書紀には陰陽説や五行説が神代編にふんだんに取り入れられて、古事記は当て字の漢文だったのに対し、堂々とした漢文で書かれていたのでしょう。

それは、白村江の戦いに敗れた日本は当時唐軍の植民地政策を受け入れ、文字を漢字化、歴史の唐化を強制されていた事にも関連しています。

ですから、皇室が一度、南北朝に別れる以前から、天皇には南北朝が交互に即位していたし、顔つきも異なっていたのだと思います。
逆に、南北朝が統一された現在の皇室は、正当なウル・ウルク系だと思われます。

(注)
日本書紀・巻第一の冒頭が「古に天地未だ剖れず、陰陽分れざりしとき」で始まるこが、この文が『准南子』「真訓」の中の
「天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず」
と同文であることは研究者の指摘するところであり、また易に関しても例を挙げて
「日本書紀の編者は易学に深い人であったことがうかがわれる」
と指摘する研究者もいる。


◆道教について
天皇という言葉を使う以前は、“院” と呼ばれていた。
死後は尊称として諡に天皇を付されていた(後醍醐天皇だけは例外)。
つまり、死後に天上の一員になるという意味です。
日本では、天上の政府を地上に反映させた形で、地上に諡として天皇の称号を持つ支配者が居る。
つまり、天上界の形態を、地上に反映させたものとも捉えられていたようです。
この天上の神々は、天照大をはじめとする皇祖皇宗ということになります。

天皇という言葉は最初に道教に出てきます。
宇宙の最高神は天皇大帝で、
高級官僚が “真人”、
低級官僚が “仙人” でした。
天皇大帝がヤハウエ=天照大、真人が大天使、仙人が天使に当たるのでしょうか。

天皇大帝は官僚達に命じて地上を善導しているとされていた。
この天皇という意味は、天の支配する者の意味で、生きている人間に対する言葉ではなかったのですが、後々尊称として拝借したようです。

古来シナでは天皇大帝は元々北極星を指していた。それが東方世界の最高支配者を指すようになる。
そして、天皇は、太陽が昇る「日の下」「扶桑」「方丈」を治めていると云われていた。
つまり、新羅系の天武天皇(和号に真人を含む)が始めて天皇を名乗り、
道教に詳しかった天武天皇は、
「日の下」→「日本」としたのだ。
つまり、日本国初代天皇です。
そして、毎年五ヶ月間肉食を禁じただけではなく、古代日本独特のヘアースタイルから、髷に改めさせたことからも、明らかにこれまでと王朝が異なる。

◇神道は呉越の巫術を受け継いでいる 
福永説によれば「伊勢神宮を筆頭とする日本の神社・神宮、はその殆どが中国土着の呪術信仰、宗教思想を集大成する道教と密接な関連を持つ」ということである。
古来、中国の江南(呉)の道教が日本文化にいろいろ影響を与えていることが考証されているが、七・五・三の数に関連して次のようなことにも言及されている。

江南の道教のいちばんの基盤をなすものは、西暦前一世紀に善かれた司馬遷の『史記』などに記述されています。
呉巫ないし呉越の巫術です。

呉越の巫術というのは、神に仕えて祭事・神事を掌り、降神、祝祷、禁呪、治病などの道術を行いますが、
巫女は朱色の袴をはき、
「帯に十余の小鈴をかけ」、
もしくは「鈴を手に握り」、
「鈴を振る」などと記述されています。
このような呉越の巫女の流れを汲むと見られるものは現在の日本にもたくさんあります。

たとえば、奈良の大神神社や京都大阪の古くて由緒ある神社にお参りすると、巫女さんは朱の袴をはいて、金属製の鈴を持っていますが、その鈴は上中下の三段になっていて、いちばん下は七個、真ん中は五個、いちばん上は三個といったように七・五・三の構成です。

◆天皇は道教用語
日本の古代文化と道教との関連性について福永光司『道教と古代日本』においては、

《日本の古代文化が中国の土着思想である道教の思想信仰と明確な関連性を持ち始めるのは、それまで「きみ」とか「おほきみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」概念を用いて、おごそかに、またすがすがしく呼び改めた時期からである》

と述べられており、
その時期については、
「道教との文献実証的に確実な関係ということになると」七世紀後半の「天武・持続の頃」としている。
そして文献実証的な例証を挙げて次のように記している。

《持統天皇を生母として天武の皇太子であった草壁皇子の西暦689年4月の若き死を悼んで、当時の宮廷歌人・柿本人麻呂の作った挽歌(『万葉集一巻二)に、
「清御原の宮に神ながら太敷(ふとしき)まして天皇の敷きます国」
とあるのがそれであり、
この挽歌に用いられている「天皇」の語はその五年前、天武十三年(六八四)に制定された「八色(やくさ)の姓」が、中国の道教の神学で神仙世界の高級官僚を意味し、最高神の「天皇」とセットにされている「真人」の称号を、日本の天皇家の一族にのみ賜わる「姓」として採用していることと緊密に対応する。》

「八色の姓」というのは
「真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)」
の人種の姓のことである。

「八色」の「八」は実数であるが、同時に聖数的性格も帯び、道教と関連づけられていると思われる。
天武天皇は道教と深い関係をもっていたようで、その諡として用いられた「おきの真人」という称号も道教に由来するもので、「えい州」と呼ばれる海中の神山に住む世界の高級者という意味である。

ちなみに、「えい州」に関しては『史記』にも
「海中に三神山あり、名づけて蓬来・方丈・えい州といふ。仙人これに居る」
とあり、中国の伝説的三神山の一つで仙人が住んでいると伝えられている。

『記紀』に見られるこうした「八角形」宇宙観・世界観とでも呼ぶべき表現が何を意味するのかといえば、
「道教の神学における宇宙の最高神・天皇(天皇大帝)の、
八紘(八荒と同義で、世界の全体を意味する)、
すなわち無限大の八角形の中心に高御座を置いて全宇宙(世界)を一宇(一家)として統治する神聖な政治理想を意味するものにほかならない」
と捉えられている。
 
 
 

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