転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★古事記の中に現れる秘数と神々
■世界最古の文字と日本の神々
◆謎の神 アラバハキ
『謎の神アラバハキ 川崎真治著』を読んで多くを納得しました。
その中で、非常に興味を引かれたのは、シュメルの日神ウツとエジプトの太陽神・ラーを古代日本人がきちんと分けて理解していたこと、
そして神代文字の一つとされる「アヒルクサ文字」がインドのアショカ王文字の一種であること、
さらにはアイヌ民族がインドのドラビタ族だと云うことを、日本に残る線刻文字を通じて主張しているところです。
◆アラハバキは天神・地母神の子の意味
アラハバキという神の名をまだ知らなかった昭和五十年の夏、私ほ遮光器土偶の謎にひかれて津軽を旅したことがある。
拙著『土偶の謎』(昭和五十年十二月、二見書房刊)の中で、その考察の結果を述べたが、要するに、縄文後期の作といわれる津軽の遮光器土偶は、その文化的系譜が紀元前三千年紀の古代オリエント、紀元前二千年紀の中国文化につながっていたのである。
アラバハキ神の本質は父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その両親のあいだに生まれたのがアラハバキ神(アラ・ハバ・キ=アラ・ハハ・キ=天神・母・地母神)。
この神統譜こそ『東日流外三郡誌』の真髄だったのである。
問題は、上古の日本に父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その子神がアラハバキ神という〝神〟が存在したか否かである。
存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的に なされれば、
『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が〝真の歴史〟といえるのである。
また、『古事記』『日本書紀』に登場する長髄彦と『記紀』には登場しない安日(あび)彦とが、東北地方に荒吐王国を樹立したと『東日流外三郡誌』にはあるが、では、その荒吐王国を『記紀』のほうでは、どういう国名で表現していたのか。
それが判明すれば、アラハバキの実存性が、古代文献の上でも、証明されたことになる。
さて、荒吐王国の中心地、ツガル、津軽、ツカリ、津刈、トカルだった。
七、八世紀の大和朝廷では、そのツガルの荒吐王国の国人を蝦夷(ゑみし)と呼んでいた。
七、八世紀のころ、荒蝦夷(アラ・ヱミシ)と和蝦夷(ニギ・ヱミシ)が東北にいた。
前者は大和朝廷に服しない蝦夷であり、後者は大和朝廷に服し、平和的に田夷(たゑみし・水田耕作民)となったものである。
ところが、舒明天皇、皇極女帝時代、天皇家をしのぐ勢いとなった蘇我の大臣の当主の名が蝦夷(ゑみし)であった。
本来なら、蝦夷は忌むべき名であったと思うのだが、それがそうではなくて蘇我蝦夷である。
これは、いったい、どういうわけなのか。
理由は、蝦夷の字音の「クハイ」と訓音の「ゑみし」、それに蘇我(ショガ、そが)という名にあった。
まず「クハイ」が日本で「ゑ」に転託する例を示そう。
絵画(クハイ・ガ)、絵(ゑ)、回(クハイ)、回向(ゑこう)。
この転訛ぐせによって、
「獅子と獅子(ウプ・ア・リー)」
「母・地(アマ・キ)」の
ウグ・ア・リー・アマ・キが、
ウガリー・エメ・キ
→ クハイ・メ・シ
→ 「ゑみし」と転じたのである。
そして、クハイに漢字の蝦夷が宛てられた。
つまり、「ゑみし」は、アラハバキと同義の日本古語だったのだ。
一方、蘇我蝦夷の蘇我の「蘇」は、阿蘇辺族の蘇とか、阿蘇山の蘇と同じで「獅子神アラ」からだった。
次に蘇我の「我」は、
ウガリー(獅子と獅子)のガ、
ツガル(男・獅子と獅子)のガ、
賀茂の賀と同じであった。
要するに氏名の蘇我は、中国の姓でいえば「?」と同じであり、「公孫」氏と同じであり、黄帝系の氏名であったのだ。
したがって、舒明天皇、皇極女帝時代の大臣であった蘇我氏の当主の名に蝦夷があっても当然なのである。
いうなれば蘇我氏の「通し名」としての「獅子と獅子」の一表現が蝦夷、そういうことだったのだ。
◆アヒルクサ文字はインド文字の一種
神奈川県座間市大山の阿夫利
(あふり=「父(アブ)・日(リーorラー)」)神社の線刻石は、
文字の書体の系統としては
(1)中国甲骨文字系、
(2)印度・阿育(アシヨカ)王文字系のアヒル草文字、
(3)エジプト象形文字系と三つの系統が混在していた。
が、この三系統混在はたいして気にかける必要ほない。
なぜかといえば、われわれ日本人が、今日でも中国の漢字と、平仮名、片仮名とローマ文字を平気で一つの文章の中で使っているからだ。
大山の阿夫利神社の神璽に印度阿育王文字系のアヒル草文字が印刷されていることは、昭和七年、宮崎小八郎氏の発見で、私も承知している。
そのアヒル草文字の「た」と「な」の二字が、大山の阿夫利神社へ登る女坂の石段の一つの石に彫られていた。
◆アイヌとドラビタ族
シュメル人とバビロニア人(バビロニアはマルドウクの都)の融合、混血民族が紀元前二千年以降のインドのドラヴィダ民族であり、
アイヌ人は、そのドラヴィタ民族のうち、バビロニア系の血の濃い人々の子孫だった。
なぜそういえるのかというと、バビロニア語の「男」「人」のアピール、アピール、アヰール、アイールの語尾ル(lu)がヌ(nu)に転じたのが「アイーヌ」「アイヌ」だったからである。
つまり、アイヌとは「人」、バビロニア語系の「人」。
だからこそ、バビロニア語の「新」「新鮮」のエッシュが、ほんの少しなまっただけのアッシン・・・それでもってアイヌ語の「新しい」になりえたのだ。
それにひきかえ、日本語の場合には、シューメル語とパピロア語の双方の「新」「新鮮」が、今でも使われている。
ニヒ(新)……語源はシュメル語のギ・ビル。英語のニュウと同源。
アラ(新)……語源はバビロニア語のエッシュの重畳語。
英語のフレッシュのエッシュと同源。
荒吐神、アラ・ハバキ・カムイのアラとのかかわりにおいて、日本語アラの語源の種々相を紹介してきたが、「新」のアラはシュメル語でなくパピロア語のエッシュが語源であった。
※ちなみに、アイヌ人には蒙古斑が無く、白人系です。
おまけに、よく見ると青い瞳をしています。
だから、出自がどこなのか分からずにいましたが、本書の説明で納得できるのではないでしょうか。
◆殯(もがり)の荒城(アラキ)
国語辞典をひくと、あら・き、荒城が、こう説明されている。
《上代、貴人を葬る前に、遺体を棺におさめて、仮に安置すること。》
一方、もがり、殯は、次のように説明されている。
《天皇崩御の直後、枢(ひつぎ)を安置しておくこと。荒城(あらき)。》
語源を先に示すと、「葬儀」「人の死」のシュメル語アドゥと、同じくバビロニア語のバグルである。
楔形文字から説明すると、先の文字が「男」「人」「羊」「四」「多数の」であり、後の文字が「死」である。
また、「死」の字音は、シュメル語が「バドゥ」「バ」「ビ」「べ」などであり、
「人」の字音は、シュメル語が「ル」、バビアニア語が「アメール」「アピール」等である。
そして、以上の「人」と「死」を合成した「葬儀」を、シュメル語ではアドゥといい、パピロニア語でほバグルといったのだが、そのバビロニア語のバグルは、バ(死)アメール(人)からm→g転託したバァグール、パゲル、バグルであった。
次に、日本語の場合には、語頭音bが鼻音代償でmにかわってマァゲール、モガール、モガル、モガリとなった。
シュメル語のアドゥの後に「人」を付したアドゥ・アメールから、d→l転により生まれた日本語が、アラケ→アラキであった。
◆族長・司祭について
古代中国の殷に、シュメルの司祭書記が住んでいたことを(夫)婦好墓から出土した青銅器や石牛の銘文によって証明した。
一方、古代の日本列島にも、じつは司祭者エン・シが沖縄から東北にいたるまでの各地に住んでいた。
そのことが、言語、地名から知れたのである。
まず、沖縄からいうと、エン・シがアン・シへ転靴し、漢字の『按司』が宛てられていた。
近年では按司をアジとよんでいるが、正しくはアン・シである。
もちろん、沖縄の按司は古代から近年にいたるまで、司祭者、為政者、首長、王という意味で使われていた。
では、日本本土では、司祭者のエン・シがどのように転靴し、どのような漢字に宛てられていたのか。
司祭長ということばがシュメル語にあった。
ウ・ムソアといったのだが、この「司祭長」が日本本土へ入ると、ウ・マ・シとちぢまり、漢字で宇摩志(『古事記』)と書かれていた。
また子音m→g→khの転でウマシがウカシになった。
『古事記』では宇迦斯、『日本書紀』では猾(ウカシ)と表記している。
またアイヌ語にもウカシがあり、首長とか酋長と訳されている。
一方、三世紀の韓の臣智(王にあたる)の別号とされていた優呼臣(ウカシソ)も、同様に「司祭長」という意味である。
このように紀元前三千年紀のシュメル語の司祭長ウ・ムソ・エソシは紀元前後に宇摩志、宇迦斯、優呼臣、ウカシとなって、倭・韓・アイヌの国々を統治する為政者、王をさす語になっていた。
さらにまた、神意を占なう司祭者というシュメール語を祖語とする中国語、韓語、日本語があった。
パドゥ(神意を占う)
エン・シ(司祭者)。
このシュメル語は、シュメル語内でパ・テ・シと変化し、そのパ・テ・シを単にエン・シと呼ぶ習慣があった。
四世紀末の百済では、元の語のパドゥ・エン・シからパテンシ、テンシと変化させ、漢字では腆支これが百済七支刀を持って倭王旨(神功皇后)のもとへ質子として来た、あの腆支太子(テンシ太子はのちの王)の腆支である。
◆神武天皇と日向(ひゅうが)
日向・ヒムカとヒナタ。
そもそも、九州でヒムカ、もしくはヒューガといっている日向を、なぜ、関東ではヒナタといっているのか。
それを説明しよう。
◇アヅマ(東)
紀元前三千年紀のシュメール人は、背を北に向け顔を南に向けて、すなわち南面して、左腕の方向を「東」と名づけた。
その左方、東というシュメール語はア・グプ・バといったが、楔形文字を見ると、アが「腕」、グブが「左」であった。
つまり南面して「腕・左」が「東」というわけなのだが、そのシュメール人の制定した「東」の定義が四千年も前の楔形文字から今のわれわれにも判るのである。
日本語のア・ヅマ、吾嬬、吾妻、東は、このア・グブ・バが祖語。
子音のgがdzにかわり、bが鼻音代償でmになった、それだけの転靴のアヅマ(東)だったのである。
一方、シュメール語の「右方」「西」は、ア・ジッダ(腕・右の)といったが、日本へ入ると西に転じた。
中国でも西という文字が死の意味を内包していた。
古代エジプトでもナイル川の西方が死の世界と認識されていた。
理由は何か。日没の方向が西だったからである。
◇ヒガシ(東)、ニシ(西)
紀元前二千年紀初頭のバビロニア人たちは、方向(イム)日の出(アスー)で東(イム・アスー)とし、方向(イム)反対(ヌ)日の出(アスー)で西(イム・ヌ・アスー)としていた。
日の出の方向が東、日没の方向が西という考え方である。
古代の日本人も、これとまったく同じ考え方で、しかもバビロニア人と同じ東西を使っていた。
ただし、それらの言葉は三千年、四千年という長い間に次のように変化した。
イム・アスー
→ ヒム・アスー
→ ヒソグ・アスー
→ ヒソガスー
→ ヒソガシ → ヒガシ、東
バビロニア語の東のイム・アスーは、このようにして日本語の「ヒンガシ」「ヒガシ」になったのである。そしてまた、東(ヒガシ)の反対の西(ニシ)もバビロニア語からだった。
◇ヒナタ(日向)
また、シュメール語の「日」のウツは、古代中国でイツに転じ、甲骨文字で「ミ」(漢字で乙)と書いた。
古代日本では、オツ、あるいはオトへと転じた。
乙姫(オトヒメ)のオトは「日・太陽」である。
なお、宇都宮の宇都も、当然「日」であり、宇都宮は「日神宮」である。
日光二荒山。
さらにまた、ウツの語頭に子音hをつけたフツもまた「日」で、そのフツを神名の場合、経津と書く。
香取神宮の祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)の経津(ふつ)である。
また、千葉県の富津、静岡県伊豆の富戸(ふと)も、同様に「日」であり、意味するところは、日神トーテム族の住む土地、港であった。
なお、東京の下町に、朝日新聞をアサヒ・シンブンと読まずにアサシ・シンブンと読む人がかなりいる。
いわゆる江戸方言、東京下町方言の「シ」であって、日比谷公園もシビヤコーエンである。
もちろん、日本標準語の「日」はヒなのだが、そのヒ、hiに転じる直前の日本語の「日」が、先に述べたようにシであった。
そのシが、つまり日より古い音の日が、今でも東京の下町に残っている、そういうわけなのである。
九州のヒューガ(日向)、関東のヒナタ(日向)のヒ(日)も、一見、ラー、リー、シー、シ、のヒと受けとられそうだ。
が、同一文字の日向でありながら、その読みにヒムカ、ヒューガ、ヒナタと三通りもあるのは、なぜなのか。
じつは日向(ひむかい)の日は、文字通りに「日」であった。
それは「父・日神(ラー)・の・母・地」、アブ・リー・ヌ・アマ・キの中の日神だったのである。
(※つまり、神武天皇一族は太陽神ラーを守護神としている。
尚、『記紀』による歴史の改竄があり、正しくは、神武天皇に相当するベリアが、ヨブ一族を従えて日本に向け出立した前1500年頃に相当する。
神武天皇は当時イスラエルの正当な末裔であるエフライム族である。
当時のイスラエル族は、第三代ヤハウエ・マルドウク・ラーに導かれていたので、この記述は正しい)
日向族といえば神武天皇四兄弟が、その代表だと思うが、長兄の五瀬(イツセ)命は、中国語の乙日と同じで、語源のウツ・リーから転じたイツ・シェー、イッセである。
つまり、「日神・日神」がイツ・セ、五瀬なのである。
また、五瀬命の弟の稲氷命のイナ・ヒは「母・地」である。
イナは、フィリピン、台湾、日本を通じての「母」であり、わが国ではそのイナに「伊那」、「稲」を宛てている。
また「地母神」の「地」は、キ、チ、シ、ヒと転じ、そのヒに「肥」「比」「氷」などが宛てられていた。
したがって、五瀬と稲氷は、「父・日神・の・母・地」を語源としたヒナカ、ヒムカ、日向と内容の面で一致する。
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』
★古事記の中に現れる秘数と神々
■世界最古の文字と日本の神々
◆謎の神 アラバハキ
『謎の神アラバハキ 川崎真治著』を読んで多くを納得しました。
その中で、非常に興味を引かれたのは、シュメルの日神ウツとエジプトの太陽神・ラーを古代日本人がきちんと分けて理解していたこと、
そして神代文字の一つとされる「アヒルクサ文字」がインドのアショカ王文字の一種であること、
さらにはアイヌ民族がインドのドラビタ族だと云うことを、日本に残る線刻文字を通じて主張しているところです。
◆アラハバキは天神・地母神の子の意味
アラハバキという神の名をまだ知らなかった昭和五十年の夏、私ほ遮光器土偶の謎にひかれて津軽を旅したことがある。
拙著『土偶の謎』(昭和五十年十二月、二見書房刊)の中で、その考察の結果を述べたが、要するに、縄文後期の作といわれる津軽の遮光器土偶は、その文化的系譜が紀元前三千年紀の古代オリエント、紀元前二千年紀の中国文化につながっていたのである。
アラバハキ神の本質は父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その両親のあいだに生まれたのがアラハバキ神(アラ・ハバ・キ=アラ・ハハ・キ=天神・母・地母神)。
この神統譜こそ『東日流外三郡誌』の真髄だったのである。
問題は、上古の日本に父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その子神がアラハバキ神という〝神〟が存在したか否かである。
存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的に なされれば、
『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が〝真の歴史〟といえるのである。
また、『古事記』『日本書紀』に登場する長髄彦と『記紀』には登場しない安日(あび)彦とが、東北地方に荒吐王国を樹立したと『東日流外三郡誌』にはあるが、では、その荒吐王国を『記紀』のほうでは、どういう国名で表現していたのか。
それが判明すれば、アラハバキの実存性が、古代文献の上でも、証明されたことになる。
さて、荒吐王国の中心地、ツガル、津軽、ツカリ、津刈、トカルだった。
七、八世紀の大和朝廷では、そのツガルの荒吐王国の国人を蝦夷(ゑみし)と呼んでいた。
七、八世紀のころ、荒蝦夷(アラ・ヱミシ)と和蝦夷(ニギ・ヱミシ)が東北にいた。
前者は大和朝廷に服しない蝦夷であり、後者は大和朝廷に服し、平和的に田夷(たゑみし・水田耕作民)となったものである。
ところが、舒明天皇、皇極女帝時代、天皇家をしのぐ勢いとなった蘇我の大臣の当主の名が蝦夷(ゑみし)であった。
本来なら、蝦夷は忌むべき名であったと思うのだが、それがそうではなくて蘇我蝦夷である。
これは、いったい、どういうわけなのか。
理由は、蝦夷の字音の「クハイ」と訓音の「ゑみし」、それに蘇我(ショガ、そが)という名にあった。
まず「クハイ」が日本で「ゑ」に転託する例を示そう。
絵画(クハイ・ガ)、絵(ゑ)、回(クハイ)、回向(ゑこう)。
この転訛ぐせによって、
「獅子と獅子(ウプ・ア・リー)」
「母・地(アマ・キ)」の
ウグ・ア・リー・アマ・キが、
ウガリー・エメ・キ
→ クハイ・メ・シ
→ 「ゑみし」と転じたのである。
そして、クハイに漢字の蝦夷が宛てられた。
つまり、「ゑみし」は、アラハバキと同義の日本古語だったのだ。
一方、蘇我蝦夷の蘇我の「蘇」は、阿蘇辺族の蘇とか、阿蘇山の蘇と同じで「獅子神アラ」からだった。
次に蘇我の「我」は、
ウガリー(獅子と獅子)のガ、
ツガル(男・獅子と獅子)のガ、
賀茂の賀と同じであった。
要するに氏名の蘇我は、中国の姓でいえば「?」と同じであり、「公孫」氏と同じであり、黄帝系の氏名であったのだ。
したがって、舒明天皇、皇極女帝時代の大臣であった蘇我氏の当主の名に蝦夷があっても当然なのである。
いうなれば蘇我氏の「通し名」としての「獅子と獅子」の一表現が蝦夷、そういうことだったのだ。
◆アヒルクサ文字はインド文字の一種
神奈川県座間市大山の阿夫利
(あふり=「父(アブ)・日(リーorラー)」)神社の線刻石は、
文字の書体の系統としては
(1)中国甲骨文字系、
(2)印度・阿育(アシヨカ)王文字系のアヒル草文字、
(3)エジプト象形文字系と三つの系統が混在していた。
が、この三系統混在はたいして気にかける必要ほない。
なぜかといえば、われわれ日本人が、今日でも中国の漢字と、平仮名、片仮名とローマ文字を平気で一つの文章の中で使っているからだ。
大山の阿夫利神社の神璽に印度阿育王文字系のアヒル草文字が印刷されていることは、昭和七年、宮崎小八郎氏の発見で、私も承知している。
そのアヒル草文字の「た」と「な」の二字が、大山の阿夫利神社へ登る女坂の石段の一つの石に彫られていた。
◆アイヌとドラビタ族
シュメル人とバビロニア人(バビロニアはマルドウクの都)の融合、混血民族が紀元前二千年以降のインドのドラヴィダ民族であり、
アイヌ人は、そのドラヴィタ民族のうち、バビロニア系の血の濃い人々の子孫だった。
なぜそういえるのかというと、バビロニア語の「男」「人」のアピール、アピール、アヰール、アイールの語尾ル(lu)がヌ(nu)に転じたのが「アイーヌ」「アイヌ」だったからである。
つまり、アイヌとは「人」、バビロニア語系の「人」。
だからこそ、バビロニア語の「新」「新鮮」のエッシュが、ほんの少しなまっただけのアッシン・・・それでもってアイヌ語の「新しい」になりえたのだ。
それにひきかえ、日本語の場合には、シューメル語とパピロア語の双方の「新」「新鮮」が、今でも使われている。
ニヒ(新)……語源はシュメル語のギ・ビル。英語のニュウと同源。
アラ(新)……語源はバビロニア語のエッシュの重畳語。
英語のフレッシュのエッシュと同源。
荒吐神、アラ・ハバキ・カムイのアラとのかかわりにおいて、日本語アラの語源の種々相を紹介してきたが、「新」のアラはシュメル語でなくパピロア語のエッシュが語源であった。
※ちなみに、アイヌ人には蒙古斑が無く、白人系です。
おまけに、よく見ると青い瞳をしています。
だから、出自がどこなのか分からずにいましたが、本書の説明で納得できるのではないでしょうか。
◆殯(もがり)の荒城(アラキ)
国語辞典をひくと、あら・き、荒城が、こう説明されている。
《上代、貴人を葬る前に、遺体を棺におさめて、仮に安置すること。》
一方、もがり、殯は、次のように説明されている。
《天皇崩御の直後、枢(ひつぎ)を安置しておくこと。荒城(あらき)。》
語源を先に示すと、「葬儀」「人の死」のシュメル語アドゥと、同じくバビロニア語のバグルである。
楔形文字から説明すると、先の文字が「男」「人」「羊」「四」「多数の」であり、後の文字が「死」である。
また、「死」の字音は、シュメル語が「バドゥ」「バ」「ビ」「べ」などであり、
「人」の字音は、シュメル語が「ル」、バビアニア語が「アメール」「アピール」等である。
そして、以上の「人」と「死」を合成した「葬儀」を、シュメル語ではアドゥといい、パピロニア語でほバグルといったのだが、そのバビロニア語のバグルは、バ(死)アメール(人)からm→g転託したバァグール、パゲル、バグルであった。
次に、日本語の場合には、語頭音bが鼻音代償でmにかわってマァゲール、モガール、モガル、モガリとなった。
シュメル語のアドゥの後に「人」を付したアドゥ・アメールから、d→l転により生まれた日本語が、アラケ→アラキであった。
◆族長・司祭について
古代中国の殷に、シュメルの司祭書記が住んでいたことを(夫)婦好墓から出土した青銅器や石牛の銘文によって証明した。
一方、古代の日本列島にも、じつは司祭者エン・シが沖縄から東北にいたるまでの各地に住んでいた。
そのことが、言語、地名から知れたのである。
まず、沖縄からいうと、エン・シがアン・シへ転靴し、漢字の『按司』が宛てられていた。
近年では按司をアジとよんでいるが、正しくはアン・シである。
もちろん、沖縄の按司は古代から近年にいたるまで、司祭者、為政者、首長、王という意味で使われていた。
では、日本本土では、司祭者のエン・シがどのように転靴し、どのような漢字に宛てられていたのか。
司祭長ということばがシュメル語にあった。
ウ・ムソアといったのだが、この「司祭長」が日本本土へ入ると、ウ・マ・シとちぢまり、漢字で宇摩志(『古事記』)と書かれていた。
また子音m→g→khの転でウマシがウカシになった。
『古事記』では宇迦斯、『日本書紀』では猾(ウカシ)と表記している。
またアイヌ語にもウカシがあり、首長とか酋長と訳されている。
一方、三世紀の韓の臣智(王にあたる)の別号とされていた優呼臣(ウカシソ)も、同様に「司祭長」という意味である。
このように紀元前三千年紀のシュメル語の司祭長ウ・ムソ・エソシは紀元前後に宇摩志、宇迦斯、優呼臣、ウカシとなって、倭・韓・アイヌの国々を統治する為政者、王をさす語になっていた。
さらにまた、神意を占なう司祭者というシュメール語を祖語とする中国語、韓語、日本語があった。
パドゥ(神意を占う)
エン・シ(司祭者)。
このシュメル語は、シュメル語内でパ・テ・シと変化し、そのパ・テ・シを単にエン・シと呼ぶ習慣があった。
四世紀末の百済では、元の語のパドゥ・エン・シからパテンシ、テンシと変化させ、漢字では腆支これが百済七支刀を持って倭王旨(神功皇后)のもとへ質子として来た、あの腆支太子(テンシ太子はのちの王)の腆支である。
◆神武天皇と日向(ひゅうが)
日向・ヒムカとヒナタ。
そもそも、九州でヒムカ、もしくはヒューガといっている日向を、なぜ、関東ではヒナタといっているのか。
それを説明しよう。
◇アヅマ(東)
紀元前三千年紀のシュメール人は、背を北に向け顔を南に向けて、すなわち南面して、左腕の方向を「東」と名づけた。
その左方、東というシュメール語はア・グプ・バといったが、楔形文字を見ると、アが「腕」、グブが「左」であった。
つまり南面して「腕・左」が「東」というわけなのだが、そのシュメール人の制定した「東」の定義が四千年も前の楔形文字から今のわれわれにも判るのである。
日本語のア・ヅマ、吾嬬、吾妻、東は、このア・グブ・バが祖語。
子音のgがdzにかわり、bが鼻音代償でmになった、それだけの転靴のアヅマ(東)だったのである。
一方、シュメール語の「右方」「西」は、ア・ジッダ(腕・右の)といったが、日本へ入ると西に転じた。
中国でも西という文字が死の意味を内包していた。
古代エジプトでもナイル川の西方が死の世界と認識されていた。
理由は何か。日没の方向が西だったからである。
◇ヒガシ(東)、ニシ(西)
紀元前二千年紀初頭のバビロニア人たちは、方向(イム)日の出(アスー)で東(イム・アスー)とし、方向(イム)反対(ヌ)日の出(アスー)で西(イム・ヌ・アスー)としていた。
日の出の方向が東、日没の方向が西という考え方である。
古代の日本人も、これとまったく同じ考え方で、しかもバビロニア人と同じ東西を使っていた。
ただし、それらの言葉は三千年、四千年という長い間に次のように変化した。
イム・アスー
→ ヒム・アスー
→ ヒソグ・アスー
→ ヒソガスー
→ ヒソガシ → ヒガシ、東
バビロニア語の東のイム・アスーは、このようにして日本語の「ヒンガシ」「ヒガシ」になったのである。そしてまた、東(ヒガシ)の反対の西(ニシ)もバビロニア語からだった。
◇ヒナタ(日向)
また、シュメール語の「日」のウツは、古代中国でイツに転じ、甲骨文字で「ミ」(漢字で乙)と書いた。
古代日本では、オツ、あるいはオトへと転じた。
乙姫(オトヒメ)のオトは「日・太陽」である。
なお、宇都宮の宇都も、当然「日」であり、宇都宮は「日神宮」である。
日光二荒山。
さらにまた、ウツの語頭に子音hをつけたフツもまた「日」で、そのフツを神名の場合、経津と書く。
香取神宮の祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)の経津(ふつ)である。
また、千葉県の富津、静岡県伊豆の富戸(ふと)も、同様に「日」であり、意味するところは、日神トーテム族の住む土地、港であった。
なお、東京の下町に、朝日新聞をアサヒ・シンブンと読まずにアサシ・シンブンと読む人がかなりいる。
いわゆる江戸方言、東京下町方言の「シ」であって、日比谷公園もシビヤコーエンである。
もちろん、日本標準語の「日」はヒなのだが、そのヒ、hiに転じる直前の日本語の「日」が、先に述べたようにシであった。
そのシが、つまり日より古い音の日が、今でも東京の下町に残っている、そういうわけなのである。
九州のヒューガ(日向)、関東のヒナタ(日向)のヒ(日)も、一見、ラー、リー、シー、シ、のヒと受けとられそうだ。
が、同一文字の日向でありながら、その読みにヒムカ、ヒューガ、ヒナタと三通りもあるのは、なぜなのか。
じつは日向(ひむかい)の日は、文字通りに「日」であった。
それは「父・日神(ラー)・の・母・地」、アブ・リー・ヌ・アマ・キの中の日神だったのである。
(※つまり、神武天皇一族は太陽神ラーを守護神としている。
尚、『記紀』による歴史の改竄があり、正しくは、神武天皇に相当するベリアが、ヨブ一族を従えて日本に向け出立した前1500年頃に相当する。
神武天皇は当時イスラエルの正当な末裔であるエフライム族である。
当時のイスラエル族は、第三代ヤハウエ・マルドウク・ラーに導かれていたので、この記述は正しい)
日向族といえば神武天皇四兄弟が、その代表だと思うが、長兄の五瀬(イツセ)命は、中国語の乙日と同じで、語源のウツ・リーから転じたイツ・シェー、イッセである。
つまり、「日神・日神」がイツ・セ、五瀬なのである。
また、五瀬命の弟の稲氷命のイナ・ヒは「母・地」である。
イナは、フィリピン、台湾、日本を通じての「母」であり、わが国ではそのイナに「伊那」、「稲」を宛てている。
また「地母神」の「地」は、キ、チ、シ、ヒと転じ、そのヒに「肥」「比」「氷」などが宛てられていた。
したがって、五瀬と稲氷は、「父・日神・の・母・地」を語源としたヒナカ、ヒムカ、日向と内容の面で一致する。