転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』『日韓がタブーにする半島の歴史』
より抜粋■新羅の王族とは近親婚集団
新羅の王族とは近親婚集団であり、近親婚集団であることを根拠にして、排他的身分階層としての「王族」(王家ではない)を構成していたのだ。
こうしたことは「新羅本紀」を読めば、誰にでも分かる。
何よりも解りやすいのは、金富拭が「論日」(史書の中で編者の個人的意見を述べる欄)で、
〝新羅の王族が近親婚を続けていたことの、どこが悪いのか〟
と開き直っている部分だ。
そうした歴史があったのに、韓国人はいま、日本人に向かって「お前たちは淫猥だ」と罵り、その証拠として、
①兄が死ぬと、弟と捜が結婚する(捜婚制)
②近親婚(いとこ婚)が許されている
ことを挙げる。
①②とも、日本では法的問題は何もない。
ただ、①は、最近は殆んど聞いたことがないし、
②も滅多にあるケースではない。
ところが韓国人の多くは、
①は「そうしなければならないことになっている」、
②は「よくあること」
と信じているようだ。
①も②も、
「現代韓国的儒教精神」(本来の儒教とは、様々な点で異なる)からすると「絶対にあってはならないこと」であり、現に韓国では民法が改正されようが、「同姓不婚」の教えは、ほとんど揺るがないようだ。
そうした状況を
〝儒教精神上での対日優位〟
と捉えているから、
「日本人=近親婚集団=淫猥」の悪罵になる。■物作り劣等の歴史は長い
新羅は唐に通じるや、国中から美女を選び、唐の皇帝に貢ぎ物として贈ったのだ。
「新羅本紀」に最初に出てくるのは、631年だ。
「大唐に使いを出し、唐の太宗に美女二人を差し上げた」とある。
ところが、太宗の側近に賢臣がいた。
その言に従い、太宗は
「村から献ぜられてきたオウムですら、寒さに苦しみ、泣きながら国に帰りたがっている。
二人の女は遠くから親族と別れてきたのでは、なおさらだろう」
と言い、二人を送り返してきた。
高句麗も646年、唐に使者を出して謝罪するとともに、美女二人を太宗に献じた。
この時も太宗は、新羅に対するのと同様の理由を付けて、美女二人を送り返した。
南も北も、《献女外交》をしていたのだ。
倭国も魂に「生口」、即ち奴隷を貢いでいた。
『魂志倭人伝』が伝えている。
しかし、三世紀の「貢物としての生口」(倭国の「生口」については、「何らかの技術者だったのだろう」との説もある)と、八世紀末になっても続いていた献女とは、同質とは思いがたい。
新羅には、依然として「美女」の他に目玉となる輸出品がなかった事情もあったのだろう。
そうした状況だったのであればこそ、新羅、百済が、倭国を「多珍物」として「敬仰」していたことも理解できるのではないか。
列島から半島には、古くは鉄に用いる黒曜石や、玉が大量に流れた。
とりわけ珍重されたのはヒスイの勾玉だった。
しかし、『隋書』が描く時代ともなれば、ヒスイも枯渇状態に近かったのだろう。
奈良時代には産出が完全に止まったとされる。
もとよりヒスイの勾玉だけでは「多珍物」にはならない。
しかし当時の列島に、半島の人民を喜ばせるような自然資源が豊富にあったとは思えない。
それなのに、半島の人民から見ると「多珍物」だったのは、手工業製品の質的レベルが全く違っていたからだろう。
日本は当時から〝モノづくり列島〟だったのだ。
いや、五千年前の三内丸山遺跡から出土した精巧きわまる漆器を見れば、その遥かに以前から。
『日本書紀』には、任那の使節に赤吊(あかぎぬ)を贈ったところ、新羅がそれを途中で奪ったことが、新羅、任那の長い対立の発端になったとある。
「養蚕の先進地から来た使節に、絹織物を贈ったとは……」
ということで、この話は『日本書紀』の記述内容がデタラメであることの証拠の一つとして扱われてきた。
しかし、そうではないのだろう。
鉄鉱石の原産地は半島なのに、列島では早々と鍛造品が出回っていたのと同じように、半島の方が養蚕の先進地だったとしても、製品となると雲泥の差があったのだろう。
新羅が思わず奪い取りたくなるほどの……。
昔からの〝モノづくり列島〟と、
額に拝して働くことを蔑む儒教文化に染まりきった半島、
その差をいま最も分りやすく示してくれるのは、自動車の質だろう。……
今日の韓国の状況を、韓国人自身が《経歴詐称大国》と自嘲して語るのは、こうした歴史事実と無縁であるまい。
およそ韓国人は今日でも「私は両班(貴族)の家系に育った」と言う。
大学卒業の偽証明善が簡単に入手できる国情だ。
『記紀』や『新撰姓氏録』に出てくる
〝新羅の王子〟〝百済の王族〟
にしても怪しいと見るべきだ。
『隋書・百済伝』はじめ様々な史料があるのに、韓国の『高等学校国定国史』は
「わが民族は五千年以上の悠久の歴史を持ち、世界史上まれな単一民族国家としての伝統が続いている」
と、冒頭から凄じい虚偽を書き連ねて、民族精神を煽っている。
こうした教科書を持つ国の為政者としては、『三国史記』も中国の正史も国民には読ませたくないだろう。
韓国の歴代政権が、国民を漢字から遠ざける政策を採ってきているのは、そのためではあるまいか。■卑怯者を祀るOINK(Only IN Corea)
◆国際社会よ、決して油断することなかれ
薩水の戦いの翌622年も、隋は高句麗に出兵する。
そして、614年にも出兵の準備を始める。
この時は高句麗も疲弊が著しく、高句麗の嬰陽王は隋に使臣を遣わし謝罪し、降伏を申し入れる。
「高句麗本紀」には、煬帝が大いに喜び兵を退かせたとある。
しかし『三国遺事』の「興法篇」には驚博すべき話が載っている。
「王は国書を送って降伏を願い出た。
その際、
〝ある者〟は小さな石弓を隠していき、
船中で煬帝が国書を読んでいる時に、石弓で煬帝の胸を撃った」
その後の話は載っていないから、煬帝に大きなケガはなかったのだろう。
しかし、ここに出てくる〝ある者〟とは正使ではなくとも、正式の外交団の随員だ。
たとえるならば、降伏文書への署名のため米国大統領に謁見した某国外交団の随員の一人が小型ピストルを隠し持っていて……ということなのだ。
ともかく、隋の楊帝は国書を受け取り、出兵を取りやめた。
すると高句麗は、もう隋の命令(王自身が隋に出向き朝見すること)には従わない。
広い国で改めて兵を集め、戦争の準備を整えるまでには、長い時間がかかる。
その間に高句麗も態勢を立て直せる。
(結果としては、そうするうちに、隋は内乱が広がり滅んでしまった)
乙支文徳の「降伏」は、いわば出先司令官による口頭の申し入れだった。
しかし、614年のそれは、国家として国書をもってする正式な降伏申し入れだ。
それすらも、時間稼ぎのための方便に過ぎなかったのだ。
核問題に関する北朝鮮の対応を見よう。
国家として発した声明も、公式の場で署名した国際協定も守らない。
「守らない」というよりは、初めから「時間稼ぎ」や「揺さぶり」のための戦術であり、挙げ句の果ては屈理屈を並べて平気で居直る。
「故事は今を知る所以」とは、やはり名言だ。
北朝鮮の前身、ここにありだ。
核問題に関する北朝鮮の受諾声明や、六者会談での〝合意〟の度に、日本のマスコミは「問題解決」とばかり大騒ぎしたが、ようやく解ってきたようだ。
北朝鮮がある日、「全面降伏する。国を全面開放する」と申し出てきても、国際社会は決して油断してはならないのだ。
※北朝鮮は高句麗の時代から瀬戸際外交で、国際社会を騙してきた。
高句麗王は隋に謝罪し、降伏を申し入れる。
煬帝が公式の場で国書を読んでいる時に、高句麗は暗殺を謀るが失敗する。
韓国人が併合反対派の伊藤博文を暗殺し、韓国ではテロリストを英雄としている。
常識が通じないのだ。■歴史を捏造する民族…
約束破りと約束捏造の国戦後の「反日」は、マスコミの扇動によるところが大きい。
記録映画の中に、何の字幕告示もないまま、フィクションのフィルムを挿入する手法は、かつてテレビの反日キャンペーン番組でよく使われた。
最近でも二〇〇五年八月十五日に韓国MBCテレビは、夜九時からのニュース番組で「七三一部隊の生体実験の記録画像だ」として、香港映画を放映した。
MBCは映画関係者からの指摘を受けると、「手違いだった」といったコメントを発した。
しかし、わざわざカラーを白黒に焼き直して当時のフイルムであったように装い放映したのだ。
〝国民を騙してでも反日を扇動する〟意図だったことは明白だ。
乙支文徳に関する今日の様々な英雄渾も、マスコミ(映画、テレビ、大衆小説)が伝えるフィクションだ。
つまり、乙支文徳に関しては、「高句麗本紀」をはみ出した話は全て史料なき創作なのだ。
国際金融専門家の間では二〇〇七年頃からか、「0INK(オインク)」という隠語が使われ始めた。
「only IN Corea」の略で「韓国でしか、あり得ないこと」という嘲笑的な意味を持つ。
これを馬鹿にしてはいけない。
なぜなら、韓国の国定歴史教科書は今、明らかにこの史観の強い影響を受けている。
中高教師も捏造された歴史しか知らず、それを絶対に正しい史実と思い込んで、確信を持って子供に教える。
さらに、韓国軍の新兵向け歴史教育は、この史観に基づき実施されている。
徴兵制だから、男子は原則として全員が、この史観を学ぶわけで、軍事政権の時代には、偽降伏戦術を「知っている人」も押し黙るほどの状況になっていったのだろう。
バングラデシュ、インド、モンゴル、韓国の四カ国の中高校生を対象にアンケート調査をして腐敗認識水準を比較したところ、韓国が最低だったというのだ。
社説は書いている。
「子どもは大人を映す鏡にすぎない」と。
•「正直に生きるよりも、金持ちになることが重要か」との質問に、韓国の中高校生の2.6%が「そうだ」と答え、バングラデシュより7倍も高かった。
・韓国の中高校生の6人に1人が「監獄で十年過ごすとしても十億ウォン稼げるなら腐敗に手を染められる」、
5人に1人が「問題を解決できるなら、快く賄賂を使う」と答えた、
というのが、この社説が紹介している調査内容だ。
関連して思い出したのは、韓国系米国人と思われる全恵星博士(エール大学比較文化研究所の名誉研究部長)へのインタビュー記事だ。
(『中央日報』二〇〇七年九月九日)
韓国は留学熱が異様に高い国であり、米国の有名大学を卒業することが「エリートにとって、人生の最初の勝利」であるかのように位置付けられている。
博士は米国留学中の韓国人高校生について、こう語っている。
・進学を希望する大学がハーバード、エールなどいくつかの名門大学に集中する。
・生徒に進学推薦書を書いてあげたら、気に入らないとして破ってしまった。ビックリした。
・カンニングなど不正行為が目立つ。
・「韓国人の生徒は不正行為をしても、誤った行動であることに気付けないモラル・ハザードに陥っている」
…生を懸けた戦争に勝つためなのに、カンニングぐらいどこが悪いのかということなのだろう。
・かつて、暑い国から来たボクシングの世界チャンピオンが、真冬のソウルでリングに立った時、主催者は暖房を止め、観衆はドア、窓を開け放ったという。
例えば、日本側の技術提供により生産した製品は「韓国内の販売に限る」という「契約」なのに、生産が軌道に乗るや東南アジアに輸出を始め、しかも日本製品と酷似した商標まで付けている。
輸出を取りやめるよう申し入れると、
「提供された技術による製品は国内販売に限っている。
東南アジア向けは、我々が独自に改良した技術による製品だから、問題はない筈だ」。
他にも「韓国の金融・経済の本質的危うさ」が改めて語られる昨今だから、
「通貨安定債」と称する「約束違反」にも触れておこう。
一九九七年のアジア通貨危機に伴う韓国経済破綻の際、国際通貨基金(IMF)は多額の救済融資を実施するとともに、国債の発行枠を定めた。
ところが、韓国は「国債とは政府が発行する債券であるから、これは違うものだ」という方便で、中央銀行が「通貨安定債」と称する事実上の国債発行に踏み切り、IMFの目を白黒させた。
通貨安定債の発行残高は二〇〇八年九月末、「政府発行の国債残高」の七割ほどに達していた。
その利払いのため、韓国銀行は世界で唯一の「赤字決算の中央銀行」になっている。
まさに0INKだ。
安重根は一九〇九年、中国ハルビン駅で、日本の枢密院議長だった伊藤博文(初代の韓国統監府統監)を狙撃し、暗殺した。
(その後、絞首刑)
安重根は、伊藤博文が日韓併合に反対していたことを知っていたのか、どうか。
伊藤の死により、併合論が勢い付いて、ついに併合がなった。
が、韓国の世論構造は「安重根=愛国者」という絶対不可侵の概念を上位に据えている。
だから日本人から「伊藤は併合反対派だった」と聞かされても、聞く耳を持たない。
韓国では潜水艦を「海の刺客」と言う。韓国海軍は二〇〇八年六月に進水させた潜水艦を「安重根」と命名した。
「テロリスト=悪」の価値観は、ここに存在しないのだ。
尹奉書は一九三二年、中国・上海の日本人居住地域にあった虹口公園で開催されていた天長節(天皇誕生日)の祝賀行事に爆弾を投げ込み、官民、軍人多数を殺傷した。
(その後、銃殺刑)
宗主国の正規軍と戟ったゲリラの指導者が独立後、「民族の英雄」として顕彰されることは多々ある。
独立後の大統領になった例も世界には少なくない。
しかし、安重根と尹奉書はテロリストに他ならない。
特に尹奉書の場合は、民間人も巻き添えにした無差別爆弾テロ犯だ。
ところが韓国では、尹奉書もまた「殉国の義士」として、顕彰事業が続けられてきている。
そんな国は、非イスラム世界では韓国を除いてあるまい。
(いや、日本や韓国で「拉致」を実行した人間を、「民族の英雄」として待遇している国家はあるが……)
二〇〇七年十二月十九日、ソウルで尹奉書没後七十五周年の追悼式が行われた。
これを主催した「尹奉書義士記念事業会」の会長は、何と李明博ソウル市長(〇八年から大統領)だった。
この追悼式で光復会(反日・愛国団体)の会長は
「韓国男児の気概を見せ付けた快挙だった。
尹義士の高貴な心は、百年経とうと千年経とうと、われわれの心の中に残り続けるだろう」
と述べている。
(『朝鮮日報』二〇〇七年十二月十九日)
卑怯な無差別テロを「韓国男児の気概を見せ付けた快挙」「高貴な心」だと言うのだから、呆れるほかない。
「これも0INK」と、片付けるべきではない。
李明博大統領の記者会見に臨む機会のある日本人記者は何故、「あなたがテロとの戦いを述べていることと、あなたが尹奉書義士記念事業会の会長であることとの関係」を質さないのだろうか。■「類似神話」論が秘める大虚構
「天神の孫が三種の神器を持って降臨してくる朝鮮の神話」とは、
「檀君神話」のことを指しているとしか思えない。
その「そっくり論議」をよく耳にするのだが、不思議なことに、私は未だに「檀君神話の全文を読んだ」という日本人に会ったことがない。
この際、檀君神話の全文(金思燥訳の『完訳・三国遺事』)を示そう。
全文といっても、それは分註を含めても漢字で四百字弱しかない。
「たった、これだけ。嘘だろ」
と言われかねないほど短い。
私なりの訳文を示そう。
(金思偉の訳とは、細部で異なる)
《『親書』によると、今から二千年前に檀君王倹が現れて、阿斯達 (『経』によると無葉山、または自岳といい、白州の地にある。あるいは開城の東という。今の自岳宮のことだ) を都とし、国を開いて朝鮮と呼んだという。
(※李朝が明王朝に名付けて貰ったのが事実)
高(中国の古代伝説に出てくる五帝の一人である「尭」のこと。東洋の近世までの文筆習慣で、自国の王の諒=没後の誼号=にある字を避けて別の字で表記した)と同じ時代だ。
「古記」によると、むかし桓因 (帝釈=天帝ともいう) の庶子である桓雄はしばしば天下に思いをめぐらしては、人間社会を非常に欲しがっていた。
(※ニニギ命は庶子では無い。
人間社会を欲しがってもいない)
父は子の心を知り、三つの高い山の一つである太伯を見下ろし、人間に益を広めるべしと結論した。
そこで桓雄に天符印三個を授け、人間社会を治めに行かせた。
(※三種の神器と、印鑑三つの天符印三個は明らかに異なっている)
桓雄は歩兵三千を率いて、山頂 (即ち太伯山、今の妙香山) の神檀樹の下に降りた。
ここを神市と言い、これが桓雄天王だ。
風の神、雨の神、雲の神を将いて、穀、命、病、刑、善、悪など、およそ人間の三百六十余事を司り、人間を教化した。
時に、一頭の熊と、一頭の虎が同じ穴に住んでいて、人になることを願い、桓雄に向かって常に祈った。
ある時、桓雄は霊験あらたかな艾一束と蒜(ニンニク)二十個を与え、
「お前たちがこれを食べ、日光を百日見なければ、人の形になれるだろう」
と言った。
熊と虎はこれを食べ、忌むこと二十一日(訳註=三×七の意)で、熊は女身になった。
虎は忌むことができず、人身に変われなかった。
しかし、熊女と結婚する者はなく、熊女は檀樹の下に来ては季むことを願った。
そこで桓雄が人に化けて熊女と結婚し、子を産んだ。
それが檀君王倹だ。
檀君は唐高(尭)の即位から五十年の庚寅 (唐高の即位元年は戊辰であり、五十年なら丁巳であり、庚寅ではない。本当のところは解らない) 、平壌城を都とし、初めて朝鮮と称した。
やがて都を自岳山の阿斯連、弓 (方) 忽山、今禰達へと移した。
その国は一千五百年続いたという。
周の虎王(武王のこと)が即位した己卯、箕子(殷王の親族に当たる賢者)を朝鮮の支配者に任ずると、檀君は蔵唐京に移り、後には阿斯連に隠れ戻り山神になった。
没した時は千九百八歳だった。》◆「新羅」と「倭」を入れ替えると……
雀南善が言う倭に関する部分を要約すれば、まさに《対日OINK 史観》だ。
《倭王あるいは天皇の出自に直結するわけではないが、今日の韓国には、列島に対する独特の偏見に満ちた史観がある。
それらを体系化したのは、韓国の歴史家、雀南善(1890~1957年)だと思う。
彼が終戦直後の1945年12月に上梓した『物語朝鮮の歴史』(山田昌治訳、三一書房、1988年。原題は『国民朝鮮歴史』)には、”倭” について次のようにある。
「新羅の海を越えて向こう側に大小のいろんな島があり、昔から海にさまよう種族が棲みついた。
また一方、半島と大陸に大きな変動があるときはいつも、避難民が渡っていって住んだ。
ここを倭といって、その人を倭奴と呼んだ」
「倭はおそくまで文化が開けず、四方の流萬民が群れをなすように住んだので、我が国から渡った人が、農耕・灌漑・紡績・織組・蚕桑・土器製造・醸造・造餅・碾磑・建築・造瓦・架橋・鑿池・裁縫・画家・彩色・彫刻・製皮・連金・器具製造・鷹猟等のあらゆる技術を伝授し、だんだん開明していった」
この一節だけ読んだら、文化・芸術の領域には、もう何も残ってないように思えてしまう。
しかし、改めて見れば、造船、漁業、林業、木地加工などは入っていない。
「倭はこのように、あらゆるものをわが国からとりいれていった。
とくに、鉄・銅・金・銀等をわが国から得ていったので、彼らはふつうわが国のことを『金銀宝国』といったし、また欲を張って盗んでいく話が、日本の神話の頭にすでに出てくる」
はて、『記紀』の頭の部分に「盗んでいく話」などあっただろうか。
「倭の民は、自分たちの種族が朝鮮から渡ってきたと考えて、われわれをまた妣国(ハハノクニ)と呼ぶことがあった。
また、太古からわが国の人が多く流入して住み、とくに東海(日本海)の向こう側の、いわゆる山陰地方には新羅の植民地が多く生まれ、その時の遺跡や古物をいたるところで探すことができる」
北朝鮮の ”戦略的歴史学者” である金?亨が1963年に発表した論文「三韓三国の日本列島内の分国について」(以下、「分国論」とする)は、
戦後の《左翼反動》の動きに苛まれていた日本の古代史学界に、大きな影響を与えたとされている。
「分国論」とは、簡単に言えば、
半島の古代三国(新羅、百済、高句麗)は列島内にたくさんの分国や植民地を持っていた。
神功皇后の新羅遠征も、倭の五王が宋の皇帝に対して軍事支配圏の認定を要求した百済、新羅なども、実は列島内部にあった分国や植民地のことだった、
とするものだ。
これが当時の日本の史学会から「目から鱗が何枚も落ちる学説として評価されたらしいが、金?亨より18年も前に、崔南善は「分国論」の骨格とも言える説を提起していたのだ。》
①半島や大陸からの逃亡民が倭国を造った。
②倭奴は蒙昧で、半島から行った民があらゆる文化文明を教えてやった。
③新羅は列島に多数の植民地を持っていた。
今日の韓国人の多くは、この〝対日OINK 史観〟に染まっている。
しかし、この①~③をよく見れば、すべて『三国史記』や中国の正史が記していることを、逆さまにした内容であることが解る。
「新羅本紀」は冒頭で、
初期新羅の中核国民が「朝鮮遺民」(『三国史記』が編纂された時代の「朝鮮」は、楽浪郡や中国東部を指す)だったこと、
つまり、中国や楽浪郡からの逃亡者だったことを述べている。
その後、新羅の国づくりを指導したのは脱解や弧公だ。
脱解は明らかに多婆那国から追放された人間(卵)として描かれている。■韓国の偽造史プロパガンダ
正論 2013年5月号当時の朝鮮では迷信・流言の類が非常に多く、医療分野でも劣悪な治療がなされていた。
例えば朝鮮王室では、子供の小便を万病の妙薬と考え、子供を宮中で「便童」と称して養い、国王が危篤になると、その小便を飲ませていた。
スウェーデン人ジャーナリストのアーソン・グレブストがこの頃の半島をルポした『悲劇の朝鮮』(白帝社)によれば、他にも婦人病の治療として牛の糞を塗るとか、腹痛の薬として生きたカエルを三匹丸呑みする、焼いた犬の足を四本食べる、湯に通した海藻を腹の周りに巻きつける、などもあったという。
一九二二年に仏教朝鮮教会が編纂した『朝鮮文化の研究』によれば、病気の治療と称して
「人肉を食うもの、獣をすするもの、男児の陰部を切って食べるもの、生きた子を酒に浸して飲む、女の陰部、男の畢丸などは得難いからといって珍重する。
子供が生まれるときは重病人は外に出す。
すなわち死魔が子供を殺すというのである。
女が死ぬと不作だからと外へ捨てる」
との惨状を伝えている。
日本では韓流ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」がブームになったが、元来の朝鮮医学とはこのようなものであったことを考えれば、“本物のチャングム” が朝鮮国王中宗にどのような治療をしたかは、たいへん興味深いところではある。◆対馬仏像窃盗の裏側
二〇一二年二月二十六日、韓国の大田地裁は、韓国人が対馬の観音寺から盗んだ観世音菩薩坐像の返還を差し止める仮処分決定を出した。
この仏像が、日本が十四世紀に韓国から略奪したものではないという「批拠」を示せという内容であった。
観世音菩薩坐像は結縁文から一三三〇年に造られ、韓国の浮石寺に安置されたものだと考えられるが、浮石寺は李氏朝鮮における仏教弾圧(一四〇七年)下で存続を許された八十八寺院の中にはない。
浮石寺は遅くとも十五世紀初頭には廃寺となつていたのである。
対馬は朝鮮と長く交易を結んでいることから、この仏像は交易か、朝鮮が廃棄したものを得たかということが推察されるが、日本側にそれを証明せよなどというのは、まさに盗人猛々しいというより他はない。
三月には仏像は自分たちのものだと主張する浮石寺の僧侶が来日し、所有権を主張したが、日本が略奪した根拠を求められると「根拠を示す鑑定書は、仏像を失ったときに、思い出すのが悲しいので捨てた」などとのたまう始末である。
挙げ句には、仏像を返せない代わりにと、境内で売られている八百七十円のマスコットを持参してきたのだから、笑いを取りにきたのかと疑ってしまうほどだ。
仏教には窃盗を禁じる「不倫盗」という教えがあるが、この僧侶らは修行によって煩悩を極めたようだ。……
靖国神社に放火した中国人を日本へ引き渡すことを拒否したように、韓国の司法は政治の顔色をうかがっている。
三権分立という近代国家に当然あるべき精神はなく、司法権は独立されていないと考えるべきだ。
『韓国窃盗ビジネスを追え 狙われる日本の「国宝」』(新潮社)の著者である菅野朋子女史によれば、日本からの窃盗品であれば文化財を捜査すべき警察や鑑定する古美術商もわざと問題としないうえ、韓国によって盗まれた日本の重要文化財は五百八十点にも及ぶという。
麻生太郎副総理は、朴大統領と会談した際に「日本と韓国は共通の価値観を有する大変重要な隣国同士」だと発言しているが、このような価値観を擁する国とどこが共有しているのか教えていただきたいものだ。◆秀吉軍による略奪行為のウソ
韓国側がことあるごとに言い立てる「文化略奪」の代表的な話が、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(明国征伐)である。
だが実際には多くの朝鮮人が秀吉軍の支援をしたほか、ソウルでの略奪行為を率先して行ったのは、朝鮮王朝に不満を抱く朝鮮の民衆であった。
奴隷であった子音同らは、日本軍の先導役となり「本府に引き入れ、軍器・倉穀などの物を略奪し、利を分つ」と積極的に協力したほか、
朝鮮側の史料である『国朝宝鑑』には、「賊初めて入場するや、宮殿焼尽きて、宗廟独り存す」と、秀吉軍が入場する前に朝鮮民衆によって放火・略奪が行われていたことが書き残されている。
南山の北麓、旧朝鮮総督府があった丘を、朝鮮人は倭場基と呼んでいた。
一見、形勝の地であることから、日本軍が城柵を築いたところだと言われているが、実際は市場のあった場所である。
秀吉軍の兵站を担当する武将、増田長盛が駐屯していたため人々が集まって市場を開き、秀吉軍と交易をしたのである。
秀吉軍が朝鮮に来たことで、彼らにキムチなどには欠かせない唐辛子が伝来したほか、キリスト教や田植えの技術が伝来した。
じつは当時の朝鮮では籾種を直接、水田に落としただけで、秋まで収穫をただ待つという田植えが一般的であり、正しく稲宙を植え替えるという方法は、秀吉軍から伝来した方法である。
朝鮮における稲作で日本が果たした功績は大きいと言わざるを得ない。
さらに文禄・慶長の役での略奪行為は、日本軍よりも朝鮮を助けにきたはずの明軍による被害のほうが大きかった。
その最たるものが
「天兵(明軍)、各々我が国(朝鮮)女人を繁る
(中略)
是の如き者、幾んど数万に至る」
(『乱中雑録』)
との記載である。
朝鮮の人々は明軍の略奪を避けて山へ逃げ込み、城中は無人となつてしまった。
また明軍は日本軍のクビを持っていけば出世できるが、日本軍が強いため、日本軍が残した朝鮮人の首をかき集めただけでなく、捕虜までも殺し、日本軍が送り返した朝鮮人の人質さえも首をはねて手柄に組み入れている。
当時と今の日本人の倫理観を同様であるとは言わないが、すべての罪過を秀吉軍に押し付け「日本に破壊された」「日本に略奪された」と根拠もなく主張する言い分には、私たちの先人の名誉にかけて、毅然とノーを突きつけなければならないことは言うまでもない。◆「朝鮮通信使が文化を伝えた」という控造
二〇一一年四月、韓国釜山に「朝鮮通信使歴史館」なるものが開館した。
「朝鮮通信使が日本に文化を伝えた」と宣伝するためにつくられた施設であるが、朝鮮通信使たちの目に日本はどう映ったのであろうか?
第十一次朝鮮通信使(一七六四年)として来日した金仁謙が書いた『日東壮遊歌』の記録を見てみよう。
《一月二十二日 大阪
(前略)
富貴な宰相らでも、百聞をもつ邸を建てることはご法度、屋根をすべて瓦葺きにしていることに、感心しているのに大したものよ倭人らは。
千間もある邸を建て中でも富豪の輩は 銅をもって屋根を葺き、黄金をもって家を飾りたてている。
その奢侈は異常なほどだ。
(中略)
天下広しといえ、このような眺め、また いずこの地で見られようか。
北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中国の壮麗さも この地には及ばないという。
二月十六日 品川と江戸
(前略)
楼閣屋敷の賛沢な造り、人の賑わい、男女の華やかさ。
城壁の整然たる棟、橋や舟にいたるまで、
大阪城、京都より三倍は勝って見える。
左右にひしめく見物人の数の多さにも日を見張る。
拙い我が筆先では とても書き表せない。》
通信使たちが日本文化の発展ぶりに驚く様子が鮮明に記載されている。
この有様で、一体、日本に何の文化を教えたというのだろうか。
その他にも通信使であった曹蘭谷の『奉使日本時間見録』には、
名古屋人が通信使のために、布団や蚊帳などを揃えようとしたところ、対馬の通訳が
「朝鮮人はよく盗んで行くので知り置くように」
と止めたことが記載されている。
(一七四八年六月二十四日)
彼らが先進文化を日本に伝えたというのであれば、日本文化に嫉妬し、窃盗までしている様をどのように解釈しろというのだろうか。
逆に彼らは日本からサツマイモなどを輸入し、飢饉での飢えをしのぐことができた。
日本との交流で文化の恩恵を受けたのは朝鮮の方である。◆「韓国が日本の古代国家を成立させた」という捏造
朝鮮半島からの文化流入という捏造は、朝鮮通信使に始まったことではない。
古代史の時代から日本は朝鮮の文化を一方的に受容してきたかのような “演出” がなされている。
一九八一年の韓国高校歴史教科書『韓国2』(邦訳版・ほるぷ出版)には面白いことが書かれている。
「我が国の人々は早くから日本へ渡っていき、各地で彼らを教化するばかりでなく、高句麗系・百済系・新羅系の人々が持っていった新しい文化がその地の土着社会を刺激して、日本の古代国家を成立させた」
あたかも古代日本をつくったのは韓国であるかのような書きぶりに失笑してしまうが、このような認識を抱いている韓国人(日本人も)は少なくはない。
だが百済の武寧王の王墓からは、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキでつくられていることが判明したほか、日本の青銅器や銅鏡などが朝鮮半島から大量に見つかっている。
青銅器はこれまで、朝鮮半島から青銅器が伝来したのは弥生時代前期末から中期初頭にかけてであり、明らかに半島のものと異なる青銅器についても、朝鮮半島から渡来した工人がつくつたものと理解されてきた。
だが、慶尚南道金海で一九一七年、日本製の青銅器である中広銅矛が発見されたほか、現在、釜山市の東亜大学校博物館が所蔵する多くの銅矛が、日本でつくられたものであることが明らかになっている。
また韓国から伝来した小銅鏡が北九州などで出土しているが、朝鮮半島でも日本の銅鏡が出土し、釜山大学校や韓国国立慶州博物館などで所有されている。
挙句には一九八三年以降、韓国において前方後円墳が十三基発見されている。
前方後円墳とは言うまでもなく日本古墳の特色である。
前方後円墳は、古墳時代前期には南九州から東北南部へと迅速に拡大した。
辻秀人東北学院大学教授は、その理由として地方首長にとって大和政権と組むことは、自らの支配の後ろ盾として大和王権の力を使えることを意味し、大陸との交流においても有効に利用できるものであったからに他ならない。
その代償として大和政権は前方後円墳とそれに関する葬祭儀礼を受け入れさせたと述べているが、韓国の前方後円墳も同様の意味だと解釈できる。
韓国では日本が古代韓国を統治していた決定的証拠となることを恐れ、掘削機で古墳を破壊するなどの暴挙に出た。
(『朝鮮日報』二〇〇八年五月一日)
埋葬者については韓国の豪族や日本人など諸説があり定かではない部分もあるが、日本の影響が韓国にまで及んでいた重要な証拠であることは間違いない。
全羅南道では、日本の勾玉や直弧文をつけた鹿角製刀装具、珠文鏡などが出土している。
発見場所はいずれも韓国南部で、日本にしかない原石からつくられている。
日本の石を原石とした硬玉製勾玉は新羅国王だけが戴冠できる金冠にもつけられており、それ以外の人物がつける金銅冠には硬玉製勾玉が付けられていない。
これは新羅王が当時、日本の後ろ盾を得て権威を示威したいという思いから得たものであり、日本自体が権威の象徴であったことを示している。
鉄器にしても韓国から日本に伝来したというが、日本では紀元前三世紀~四世紀には福岡県糸島市の石崎・曲り田遺跡から鉄斧が見つかっている。
韓国での鉄器の始まりも紀元前三世紀頃とされており、時期はほぼ同じであり、決して日本が韓国より大幅に遅れていたわけではない。
韓国が鉄を伝えたという説は、四世紀後半、応神天皇の御世に百済から韓鍛冶 卓素が来朝し、敏達天皇十二(五八三)年に新羅から優れた鍛冶工を招いて技術を受けたという記録が根拠となっているのだが、これは日本において技術革新が行われたことを指していると私は解釈している。
実際に大量の鉄器が日本から見つかるのは六世紀以降であり、おそらくそれまでは製鉄が行われていても、小規模な仕組みであったと考えられる。
そこで渡来人の技術を用いて技術革新をしたのだと考えれば、『古事記』や出土史料などと照らし合わせても納得がいく結果になる。
韓国は日本に文化を伝えたと一方的にほくそ笑むのは勝手だが、最低限、自国の歴史くらいは理解しておかないと恥をかくだけだ。◇国内に出土例ない銅剣の「鋳型」
1組がほぼ完全な形で出土産経新聞 2013/08/09
弥生中期-古墳時代初め(紀元前4世紀~紀元3世紀)の短剣の鋳型が、滋賀県高島市安曇川町の上御殿遺跡で見つかった。
柄の先に円形の装飾が並ぶ「双環柄頭短剣」の鋳型で、中国・華北や内モンゴルに分布するオルドス式短剣に酷似し、この形式では国内初の出土という。
銅剣は、朝鮮半島から九州北部に伝わったとされるが、オルドス式は朝鮮半島に出土例がなく、中国大陸から日本海を経て直接もたらされた新たなルートが浮上。
青銅器文化のルーツを探る貴重な資料になりそうだ。
鋳型は泥岩製で、2枚1組がほぼ完全な状態で出土。
いずれも長さ30センチ、幅9センチで、柄頭から剣先まで全長28センチの銅剣を一体的に鋳造する構造だった。
ただし、鋳造に伴って高温の熱を受けた痕跡がなく、河川跡の斜面に置かれた状態で見つかったことなどから、実際に銅剣を製造せず、祭祀に使われた可能性もあるという。
弥生時代の銅剣は、九州北部のほか、国内最多の358本が見つかった荒神谷遺跡(島根県出雲市)など中四国地方で多い一方、近畿は出土例が少ない。
上御殿遺跡は、福井・若狭湾まで約30キロと比較的近いことから、日本海を通して中国と交流した可能性が浮かび上がった。
琵琶湖北西に位置する上御殿遺跡は、奈良や大阪と北陸を結ぶ古代の幹線道路沿いで、琵琶湖の港も近く、陸と海の交通の要衝だったとみられる。◆竹島は韓国領土という捏造
先日、訪日した朴模恵韓国大統領と近い人物と酒を酌み交わす機会があった。彼は「日本は、独島(竹島)は日本の領土だと主張するが、我々は対馬を譲ってあげているのだから、そんなに独島が欲しいなら、対馬は私たちが貰って当然だ」などと主張しため、「対馬が韓国の領土など片腹いたい。仮に韓国の領土であるならば、元寇のとき、韓国は対馬で虐殺行為を行い、女子供の手に穴を開け数珠つなぎにし、船の盾にして攻めてきた。日本を攻めるのに、自国民を虐殺したうえに数珠つなぎにするとは、韓国は随分と奇天烈なことをなされる民族なのですな」と言ったところ、閉口してしまった。■韓国の犯罪者の扱いと拷問の写真
『真面目に韓国考察Net』よりこれは、日本統治前まで行われていた。上の写真を見た後に韓国が作成した「日本軍による韓国人拷問」を見ると、明らかに朝鮮半島伝来の拷問方法であったことが解る。つまり、日本は韓国人に拷問をしていないし、やったとしたらそれは朝鮮人自身である。日本にはこのような習慣は無いからだ。
サルメラ:
日本軍が悪逆非道な行為をしなかった、と言いたいから、コピペしているのではない。
戦争は人を悪鬼にさせる。
日本軍もまたしかり だろう。
考証としたいのは、
かの国の、かの国自身のスタンダードまでをも日本人の所業にすり替えるという、
これまでもたびたび見聞きしている かの国の〝捏造癖〟のありようについて。