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ルーツ・ファンタジー/すべての宗教は一つだった 2

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転載元 be with gods
『人類創成から始まる善と悪の闘いを検証する』

■聖母と邪馬台国・卑弥呼

日本には天照大を最高神とする女神信仰が、今も息づいています。
ところが、女神信仰は案外、世界の神話でも珍しい信仰形態です。



『魏志倭人伝』によれば、当時、魏は帯方郡を通じて韓・倭を支配していたのだが、帯方郡⇔対馬⇔壱岐⇔松浦(佐賀県の唐津)⇔伊都国⇔奴国(福岡県の博多)⇔投馬国(福岡県・三潴郡)⇔不弥国(福岡県の宇美町、胎中天皇・誉田別命の生誕地と言われる)のルートが確立していた。

ちなみに、磐井の乱の筑紫野君は福岡県の八女付近大豪族だった。
この北九州地域一帯を統治していた女王を奉ずる女王国と、女王国の大豪族・奴国、男王を封じる狗奴国が争うような状況だった。

※ 狗奴国(肥後、熊襲の祖といわれる 肥=日、火の国=日の国)

これを仲裁しようと魏から郡司・張政が使わされた。

張政は女王卑弥呼ではなく、奴国を支持し、結果、卑弥呼は自決している。

つまり、女神信仰として、霊能力を失った女王は死ぬことで、龍の女神と一体化し、新たに霊能者を誕生させるという祭政一致の儀式が執り行われたと推測される。

さて、女王国の卑弥呼(日巫女 or 火巫女)に対して、狗奴国の男王を「卑弥弓呼」という。
つまり日巫女に対し、男性霊能者のことを意味している。

この争いは、張政により、次の日巫女・台与(トヨ)により収拾が図られ、北九州地方が統一され邪馬台国として確立された。
これが九州王朝の始まりと考えられる。

つまり、ポリネシア系では無く、マルドウク・月神系氏族が政権を奪取し、国名を倭から邪馬台国に変更した。
だから、倭・邪馬台国はユダヤ人純粋の民族では無く、神武系・崇神天皇系の大和朝廷が純粋のユダヤ人の王朝だったと云うことでしょう。

だからこそ、出雲・吉備王国が大和朝廷と統合したように、九州王朝も統合したのだと思います。
そして、九州王朝の聖徳太子、天武天皇は、大和朝廷に養子の様な立場で政権に参加したのでしょう。

・金印「漢倭奴国王」
漢の時代に、南西や南東の異民族の王に与えた金印。

・景初三年(239年)、
倭王卑弥呼が隋へ大使を派遣する。
倭の内乱を契機に、
帯方郡使・張政が17年間滞在し、
女王・台与が実権を握る。
台与は大使団を編成して、張政を送還した。

・当時の奴国は、韓国から鉱物を輸入し、
青銅器や鉄器などを生産する大工業国だった。
その後、鉱物資源の流れは出雲・吉備へと移動し、
政権の中心もまた移動していくことになる。

◆結論として
近畿の大和と邪馬台国とは、同じ日神を祀るのですが、渡来ルートも人種も異なっていたと結論できる。

そして、日本が、蛇女神=ニンフルサグを最高神とする国へ移行しなかったのは、神の恵みだと思います。

その後、サタンは、男神・天照大神を女神だと改竄、聖母マリア=天照大神として形骸化させ、メシア・キリスト教を日本に定着させたあと、天上界と皇室を殲滅する計略を画策した。
しかし、日本には太陽神信仰・君臣共治の天皇制が定着しており、大東亜戦争前までは、メシア・キリスト教も共産主義をも排除していた。
メシア・キリスト教においては、敗戦後においても日本に根付かなかった。
しかし、GHQによる占領政策により、ついには左翼・民主党政権の樹立に至り、シナを中心とした共産主義思想革命の脅威が目前に迫っている。
この脅威については、サタンの親玉・ニンフルサグが、中国を陰で支配している可能性があるのではないかと思います。結局、人類創成以来の「善と悪の闘い」の決着の時なのかもしれません。


■冥界の支配者、君臨する女王
シュメルの時代、魔術に関するもめ事、男女間のもめ事などについては、通常の裁判では決着が付かないので、訴えられた者を河に投げ込み生還すれば無罪とする「黄泉の神による神名神判」が、法の下で行われていた。
この「河の神」に神判を求める風習は、日本を含め世界中に存在していました。

シュメル時代の冥界のイメージは、亡くなった者達が行くところで、活動の無い面白みの無い世界とされていました。
黄泉とか冥界という響きは、現代の私達にとって、天国とか地獄のイメージと重なってしまい、古代の人々の描いていたイメージとは大きく異なってしまっています。

例えば、古代日本において、永遠の生命を持つ “根の国” 、海の底にある “竜宮城” などは、当時の人々にとってあこがれの世界でした。
ケルト神話においても、地下世界や海の底にある世界は、長命と健康を保証するあこがれの世界だったのです。
ところが、メシア・キリスト教が広まるに従い、異教の神々をサタンや悪魔とし、異教の神々の住む地下世界や海の世界を地獄と見なすようになった。
そして、神々の住まう世界・天上界を、非科学的ですが大気中にあるとしたのです。
このメシア・キリスト教的な天国と地獄の発想は、仏教に取り込まれ独自に発達を遂げて、密教として日本に伝えられ、メシア・キリスト教や密教の黄泉・地獄のイメージが定着してしまいました。
この天国と地獄のイメージは、サタンが人類を精神的に支配するため人類に与えられたバーチャルなプロパガンダだったのです。


■魔族:支那人と韓国人

支那人は興奮すると失神してしまう。
韓国人は興奮すると自傷したり、自分の家に火を付けてしまう。
以下、これを支那病と火病と呼ぶ。

失神と自傷癖で思い出すのは、障害児に多いと云うことだ。
言葉や身体が不便だったりして、相手に自分の気持ちを伝えられない精神的ストレスが嵩じて、起こる病気だ。
自傷と癇癪、
私にはこれが支那病と火病の原因だと思えて仕方が無いのです。
つまり、支那・韓国人はその抑圧された歴史から、自分の気持ちを表現できない、自分の内面を見つめられない、他人と妥協できない、という特徴が形成されてしまった。
だから、彼らは、暴力的・自傷的になり、他人に責任を全て転嫁し、もっとくれ、もっとくれと要求するばかりで、自らの科学的な発展と人格的な深みは期待できないのだ。

例えば、対馬の寺から韓国人が盗んだ仏像を、韓国の僧侶は歴史的事実を無視し、倭寇により盗まれたものだと主張して返還しない。
彼ら韓国僧侶には八正道は通じないのだ。
ほかにも、慰安婦事件、南京事件、尖閣問題、陛下侮辱事件、官製ヤラセデモ事件、などの現実の被害を忘れてはならない。
日本人は支那式漢字文化と支那式儒教を素晴らしいと思い込んでいますが、それは大間違いです。
ここでは何故、このような気質(遺伝形質)を持つに至ったのかを、検討してみました。

◆古代漢字では、自分の気持ちを伝えることはできない。

前2072年頃、バベルの塔を神が破壊した。
その時、民族ごとに言葉と文字が別々になった。
それは、風土や民族の特徴に応じた言語体系をもたらすことにより、人類の精神的な発達を促すための神々の知恵だった。
日本語は動詞が後に来るので、自分のことを表現し、相手の気持ちを察するのに都合が良かった。
英語は動詞が前に来るので、他人の動きを観察するのに都合が良く、自分のことに対しは一呼吸置くことで、白人の色素不足を補うように強力に知性の発達を促した。
ところが、神の意志に反して、民族共通の漢字という絵文字が登場する。

前2000年頃だろうか、夏の時代に漢字が発明され、それが殷の甲骨文字へとつながり、現代の漢字へと徐々に進化した。
黄河流域は、陸と海のシルクロードの交差点(中原)で、巨大な商業地帯だった。
中原には周囲からたくさんの民族が集まり、種族ごとの言葉を話していた。
そこで、商売に便利なように、言葉の代わりに、並べ方に決まりは無いが、漢字という絵文字をいくつか並べて、交易を行うようになった。
だから、漢字には文法は無く、
“てにおは” も無く、
抽象的な概念や気持ちを表す絵文字も無く、
民族ごとに発音はバラバラだった。
民族ごとに発音と絵文字が異なり、
絵文字の並べ方も異なるので、
本を書いたとしても、文字を書いた人物やその学派にしか意味が通じないのが実情だった。
師匠が述べたことを思い出すための絵文字が並んでいるに過ぎなかった。

書物があっても、それを書いた人で無ければ意味が分からない。
もしくは、個々人が独断で読んでしまい、文法が無いので、誰が本当に正しい解釈なのか判断できない。
だから、周囲の人に自分はこう思うと大声で述べ伝え、人気の在る人が正統と見なされてしまう。
支那人は夫婦喧嘩が始まると、どちらの言い分が正しいのかについて、お互いに話し合い悪い点を相互に改めると云うことはしない。
つまり、漢字に文法が無いので、自己批判ができないのだ。
そこで、大声で周囲の人に自分の正しさを吹聴し、周囲の人からの人気でどちらが悪いのかを決めてしまうので、自己批判したり妥協して納得することは無い。
それは、人間関係だけでは無く、政治でも、交易でも同じなのです。
例えば、現在の皇帝の威信を民に示す最高の方法としては、皇帝と民の信頼関係を確認するのでは無く、外国の大国が支那を訪問し、皇帝に朝貢する。
国内の皇帝の威信を高める親しい国に対して、最高のサービスを施し、国内外に大々的に宣伝し、最高の名誉である金印(「倭奴国王」「親魏倭王」)を授与するのです。
現在の支那のド派手な外交と贈り物は、人民に対し威信を保とうとする卑屈な姿勢なのです。

前200年頃、秦の始皇帝が支那を統一した。
ちなみに、支那流の皇帝とは、王をまとめたナポレオンのような皇帝という意味合いだけではない。
「皇」はキラキラ輝く、
「帝」は「大地母神」の伴侶という意味で、天から雨が降り大地を潤して、そこから生命が発生するという意味を持つ。

やっかいなことに、司馬遷により、皇帝は唯一絶対の専制者に仕立て上げられてしまった。
そして、権力の継承は男子男系ではなく、皇帝から移譲されるという形式を取りながらも、実質は力のある者が奪い取る覇道が主流となった。

始皇帝は漢字を統一しようとした。
有名な焚書だ。
医学や農学を除外して、彼の定めた学派の書物以外を燃やしてしまおうとしたが、失敗した。
というのも、漢字には文法が無いので、漢字を文書化するのは、庶民では不可能で、学派ごとに文字の意味も発音も異なるから、一子相伝の伝承に頼るしかない。
だから、漢字の意味を解釈する手がかりは、書いた当人か、古典を継承している学派の中にしか無い。
同じ漢字がどう使われているのか、古典の中から探し出し、文脈を探るしかないのだ。
つまり、個人の自由な発想や抽象的な概念や気持ちを伝えるようなものではなかった。

◆皇帝と儒教による暗黒時代
漢の時代になると、それまでの宮廷にあった法学・兵学等々に加え、儒教が認知される。
当時の儒教は、一種の科学として、将来を見通すものとされていた。
そして、中間管理職を育成するための道具として、つまり皇帝にのみ仕え奉仕する官僚を作り出すことで、皇帝の権威を高めたのです。
そして、儒教を国教として実践したところ、漢の時代に人口は三分の一に激減し、三国時代から随の直前までに、人口は十分の一までに激減したのです。
これは共産主義者・毛沢東による支那人民の大虐殺に相当している。
専制皇帝・儒教時代と、共産主義・毛沢東時代は、両者共に支那の大暗黒時代なのです。

西洋では皇帝の権威を護るためにキリスト教が利用され、暗黒のキリスト教時代を迎える。
教会の腐敗と残忍な魔女狩りが横行した。
その後、人間性の復興を歌うルネサンス(古代ローマに戻ろう)を迎え、国王とキリスト教のバランスする時代に至ります。
このようにして、神の前の平等を唱える民主主義が芽生えました。

しかし、支那においては、複数の皇帝が名乗りを上げても、唯一無二の皇帝思想と、自分の仕える皇帝のみを支える儒教精神により、互いに妥協することなく、滅ぼすか、滅ぼされるまで戦いあったのだと思います。
絶対専制と儒教により、官僚は自由な心を失い、暴力的になり、村全体を保存食としたり、妻子を食事として差し出すなど、民と下級兵士がその犠牲になったのでしょう。

キリスト教は神イエスの直下に、罪深き人間が、直接つながり、神を守天する使い達が人類を裁くのです。
そして、このキリスト教の黙示録から、共産主義が生まれました。
ところが、キリスト教や共産主義は、それよりも古い「皇帝と官僚と人民という唯一無二の専制政治」と生き写しなのです。
しかも、支那人は十分の一に減少するまで殺されているのですから、ヨハネの黙示録そのままです。

◆原始仏教と儒教について
仏陀の活躍した当時のインドでは、カースト制度でガンジガラメに縛られていた。
だから仏陀は、人の生まれでは無く、人の行いにより、その人の価値が決まると説いたのです。
原始仏教は、人々に、精神の自由を与えるために、八正道という形を伴い神々により与えられた教えでした。
仏教はあくまでも個人の道徳の問題で有り、政治システムを支える教えではありませんでした。

一方、儒教は唯一無二の皇帝制に縛られていた当時、忠よりも孝を優先することで、皇帝制に風穴を開けようとしたのです。
しかし、儒教が皇帝制を維持する道具として定着し、官僚の自由な精神を縛るものと化してしまった。

■唐の時代~宋の時代
十分の一に人口が減少し、元は異民族だったのだが、数代住み着いた者達=漢人の盗賊団が、隋朝と唐朝廷を建国する。
少なくなった人口については、周囲の異民族が流入してきた。
そして、唐の時代に、科挙の試験が実施されるようになり、官僚のみ成らず、一般市民にまで不自由な漢字化が進んでいく。

ところが、不自由な漢字に縛られない異民族の中から、李白と杜甫が登場し、私情豊かに自然を歌い、これを表現できるように漢字が改善された。
それでも、抽象的な語彙や心の内面を表現する語彙はほとんど無かったが、科挙の試験に詩が追加された。
戦乱に明け暮れる支那の歴史においてはこの時期、僅かに平安の時代であった。

漢字には文法が無く、自己反省が不得手なので、科挙の試験に科学は無かった。かつ、過去の文献を記憶することが中心なので、オリジナリティーや個性に乏しくなるから、人のアイデアや特許を盗むことが得意になったのだろう。

唐の時代が終わり、再び戦乱の時代となった。
不安定な宋の時代に移行した。
宋の時代に、道教を中心に、道教・儒教・仏教の三教が再編された。
やがて、この三教が、儒教の用語を用い、古い儒教の教典に置き換えられ、「新儒教」=朱子学が誕生するのだが、周囲のより高度な文明と強力な軍事力を持つ異民族の圧迫を受け、宋は滅ぼされてしまう。

中原は、世界帝国であるチンギスハンの支配する一地方にまで、落ちぶれ、唯一無二の皇帝がチンギスハンの元に複数並立する時代に移行する。
その屈辱の時が、如何に相手の軍事力が強くとも、中華の正統性はこちらにあるとして自尊心を慰め、周囲の異民族を野蛮人とした弱者の論理を振りかざす「中華思想」の始まりとなる。

この朱子学は、李氏朝鮮では唯一無二の学問となり、大陸の思想・文化に大きく縛り付けられることになる。

日本では武家が朱子学を学んでいるが、
同じ学問でも、支那・韓国式と、日本式では大きな違いが出てくる。
ひとえに、
日本神話・和歌などに育まれた人格と伝統の違いからでしょう。

■日清戦争と漢文の日本語化
元・明・清は、異民族の王朝であり、唐までの文化を引き継ぐことなく、異民族の文化と軍事力で中原を支配した。
清の時代、漢民族は二等市民とされ、政治と国家経済に関与できず、便蒙を強制され、チャイナ服を禁止されていた。
科挙の試験に合格すれば、国政には関与できたものの、国家経営には関与できなかった。
つまり、漢民族は、自由な表現を漢文により奪われ、新儒教により精神を束縛され、国政と国家経営に関与できない二等市民として、生き続けていたのである。

ところが、日清戦争に負け、近代化の気運が高まると、科挙の制度は廃止され、清国から日本への留学生が支那国政に関与するようになる。
そして、西洋文化に関しては、日本語を通じて漢文に翻訳しようとしたが、これまでの漢文では日本語をそのまま翻訳することはできなかった。
また、清から西欧に留学した者達も西洋文化を漢文に翻訳することは不可能だった。
そこで、漢字の日本語化が行われた。

1918年、魯迅が日本語で考えた文章を、漢文に移す方式を生み出した。
これにより、日本文学のテーマなら何でも漢語で表現できるように漢文が日本語化された。
つまり、支那文明が日本文明の一部に組み込まれたのだ。

やっと、支那人が心を縛る科挙の制度と、硬直した漢文から解放され、支那人が支那病から脱出する精神革命が起ころうとしていた。

■支那系魔族:中華人民共和国の暗黒時代
大東亜戦争で日本が敗戦すると、蒋介石や共産党により、支那人伝統の虐殺が始まった。
毛沢東が政権を握り文化大革命が終わるまでに、五人に一人が殺されたと云われている。
毛沢東思想を楯にした一般人が、医者・学者・教育者・社会的地位のある人々ばかりを惨殺した。
支那病の形質を持つ者達であれば、毛沢東思想を利用して、抑圧された精神からヒステリックに、人々を殺すことでしょう。
この精神構造こそが、欧米系サイコパスと異なる支那系サイコパスとも云うべき、支那系魔族の特徴なのだと思います。

このように毛沢東革命により、支那病の形質を持つ者ばかりが生き残り、支那人は原始時代にまで逆行し、日本語化された漢文をも失ってしまった。

一方、資源が無く、食料も乏しい朝鮮は、高句麗の時代から、北朝鮮に似た状況にあり、しかも随~清の圧政により、美女を献上し、奪われないように食物を糞尿に隠した、それ自体が、抵抗できない圧制者に対する自傷行為と同じで、しかも、朝鮮戦争により、国民の四割が亡くなったのである。

■支那人・朝鮮人の悲劇
シュメルやバビロニアの時代、オリエントから亡命したイスラエル人、ユダヤ人、原始キリスト教、シュメル人などなどは、シルクロードを通じて東へ移動し、月氏国などの様々な高度な律令国家を建国し、たくさんの発明を残した。
そうした中には、数度のバビロン捕囚時に、神武東征、イザヤの末裔などが、次々に陸と海のシルクロードを通じて日本に渡来する。
(⇒『古代ユダヤ人と流浪の民』参照)

夏人は最初、長江に居た。
三星堆遺跡近辺だろう。
おそらく、夏人は迫害を受け、技術者集団は朝鮮半島を経由せず、直接に海を越えて、九州や関東や島根や北陸に移動したとした場合、
彼らは縄文人だったかも知れない。

縄文人は高度な土器と狩猟採取と稲作と栗などの果樹園を設け、都市国家を営んでいた。
その後、長江でジャポニカ米が創造され、彼ら稲人が海を越えて日本に定住型稲作を伝えた。
一方、青銅技術者は殷に連れ去られたのでしょう。

夏・殷・周・秦・漢・魏までは、金印(「親魏倭王」「漢倭奴王」)が示すように倭国とは同盟国で同族だったが、
隋・唐・清は高度な文明と軍事力を持つ騎馬民族(チベット、モンゴル、契丹)の王国となって後、日本との交易はがらりと変わってしまう。
白村江の戦いで日本に勝利した支那は、日本文明を漢字化・偶像仏教化し、大陸に飲み込もうとしたが、唐の滅亡もあり中断。

騎馬民族は、それまでの支那の暗黒の時代から、中原に新風をもたらした。
専制皇帝を廃し、不自由な漢文や儒教から脱出し、多民族と多宗教と文芸にも優れた世界国家へと飛躍し、暗黒の支那から脱出したのだ。

しかし、秦は秦一族を、唐はユダヤ教や原始キリスト教を弾圧迫害し、天照大は七福神を伴い、彼らと共に日本に渡来する。
日本は旧約の正当な末裔であり、神の民として日本を発展させていく。
つまり、ダビデは、大陸から神の民を日本へと追放したのだ。


◆漢と魏は九州王朝を最重要の同等な同盟国とした
九州王朝は、二個の金印を漢と魏から貰っている。
漢の時代前57年の「漢倭奴国王」、
魏の時代239年の「親魏倭王」である。
当時の金印は、漢・魏にとって、九州王朝は彼らと同等の同盟国という意味であった。
ちなみに、新羅の地位は銅印で、九州王朝の植民地もしくは支配地と見なされていた。

西方から来た秦氏一族(ユダヤ人)が、秦王朝を建国し、秦氏一族の技術者集団・除福が日本に渡来した。
秦が滅んで、中原に土着した秦氏一族の残党から漢王朝が建国される。
そして、魏は漢王朝の正統な後継者と自認する。
つまり、漢・魏が九州王朝を同盟国とした秦の末裔だと考えれば、何故彼らが日本に金印をもたらしたのか、その理由が明らかになる。
そして、天照大(ヤハウエ)と七福神(七大天使)の日本渡来により、大和国=日本が正統なユダヤの末裔となる。



新教皇・聖フランシスコはザビエルを崇敬している。
サビエルは日本を植民地化しようとするスペインを思いとどまらせた。
彼の意志を継ぐシドッチは、和服を着て刀を持ち、単身日本に上陸する。
白石とシドッチの討論から『西洋紀聞』が生まれ、その精神は福沢諭吉につながる。
非常に日本に関係深い教皇の誕生なのだ。


■神代文字の真実と二度の出エジプト

卑弥呼の時代、北九州はシルクロードの終着点だった。

当時から、日本は貿易の決済を砂金で行っていた。

日本には銅や鉄が産出しないので、縄文人は海を越え、稲作と青銅器技術を携え、越を建国した。

越人は、大陸のシルクロードの終点である黄河流域へ移住し、夏人として夏帝国を建国し、稲作と青銅と甲骨文字を殷帝国にもたらしたと思われる。

この甲骨文字は、縄文人が使用していた神代文字を元にしたものだった。

◆シルクロードの終点
卑弥呼の時代から、日本の貿易決済は砂金だった。
というのは、江戸時代には大量の金が有り、金と銀の価格差が貿易として成り立っていた。
また、マルコポーロの時代は銀で、その後は銅の国だった。
(⇒『古代日本の有力氏族は渡来人だった』)

縄文時代には、豊富な砂金が有り、都市生活を営む縄文人が、砂金を収拾していたと思われる。
中南米のマヤなどの巨大宮殿は、水の力を利用して、鉱石を分離して、貴金属他を採集していたことが分かっている。
しかし、ノアの大洪水後の日本の場合、山々が持ち上がり、豊富な流水が有り、自然に砂金として採集できるのだから、沖縄の海底神殿や琵琶湖の湖底にある巨大神殿は必要なかった。

◆縄文人は日本語(神代文字)を話していた
さて、問題は、何故日本に日本語が定着したかです。
縄文人は日本語をしゃべっていたとしても、勝者である大和朝廷(エフライムとユダの正当な末裔)は、ヘブライ語を話していたと想定すると、どうしても納得できないのです。

ノアの大洪水以前、沖縄の海底神殿、大鏡にある琵琶湖の湖底の大神殿などから、日本にはアヌンナキの大神殿があった。
おそらく金採掘のためでしょう。

人類の時代に移行するにつけ、戦争や農業のために、青銅器や鉄器が権力の象徴として重宝されたので、縄文人が海路で越に移動し、越人が黄河流域に移動して夏殷を建国し、青銅器と稲作と漢字をもたらした。
つまり、彼ら縄文人は大洪水後も、日本語を話していた。

彼らの文字が神代文字で、海経由でシナ大陸に移動し、神代文字を基盤にして甲骨文字を発明した。
だから、文明は大陸からと云うのは間違いです。

英語は24文字で、日本語は母音を含む15文字で、会話を全て表現できる。
両者共に、とても知的な人工言語だと思います。
だから、日本語はアルファベット同様に、自然発生的な言語だとは到底思えないのです。

◆白村江の戦い
日本書紀によれば、敗戦後、唐の使節団が当初は254人だったが、次の年には二千人にふくれあがる。
同時に、唐が常駐した九州の太宰府が「筑都督府」に呼び名が変わった。
これは唐が占領した都を「××都督府」と称したことからも、唐軍はGHQと同じ占領軍だった。
唐の支配により、漢字化が強制され、日本語の書物が焚書された。
だから、『記紀』は漢字で記述したのだ。

聖徳太子が唐の支配前に完成させた、「帝紀」「旧辞」は、神代文字で書かれたと思われ、この内容を神代文字を知る稗田が読み上げ、漢字を知る太安万侶が漢字化した。
尚、「帝紀」「旧辞」は焼失したとされ、稗田阿礼も殺されたのは、有名である。

天智天皇の時、「白村江の会戦」で、日本・百済軍が、唐・新羅軍に敗北した後、おそらく唐からの侵略を恐れ築城した後、都を近江に移し、そこで即位された。
その間に、唐から全部で二百五四人が日本に到着し、約三ヶ月滞在したが、目的及び何を行ったか全く不明です。

例えば、神よりも仏教を信仰した慈悲のある天皇として紹介されている孝徳天皇の時、
「明神として天下の治める日本天皇は…」
(日本書記 下P169)
とあり、この記述の後段には古代中国の皇帝の功績の紹介とともに、彼らの徳政にならったとの記述があります。

この「明神」という神は、日本古来の由緒正しき崇敬の神々という意味です。
また、「日本天皇」という響きには、天地を創造した皇祖神ではなく、日本に閉じられた天皇であり、この天皇をまとめる大天皇が、別途存在しているように受けとられます。

おそらく、「白村江の会戦」で敗北した日本は、唐の植民地化政策を受け入れさせられた。
この米軍のGHQに相当する者達が、天武天皇の時代に来日したのだと推測されます。
このため、『明神として天下の治める日本天皇は…』の下りは、日本の独立と、中国の植民地としてのバランスを勘案した記述のように思われます。

この唐の植民地化政策により、日本における、神代文字が廃れ漢字化へ、神道が廃れ仏教国化へと向かわざる得なかった。
その後、日本語に漢字を取り込むのだが、非常に不便なので、神代文字から平仮名が発生し、ヘブライ文字からカタカナが発生して、神代の歴史やヘブライの歴史やヤハウエの預言を日本歌謡などに暗号化して隠蔽したと推測されます。
(⇒[日本歌謡と七大天使])


◆抜粋:
『中国・戦国時代の斉は出雲の国のことだった!?』

私は不思議に思って、改めて日本神話と斉の国の神話を読み直してみることにした。
すると、日本神話と斉の国の記録のなかにみられる「国譲り」の話が驚くほどよく似ていることがわかる。
かいつまんで話すと、こうなる。

斉の最後の王である王建は、秦の始皇帝に国譲りをしている。
一方、出雲神話の中にもオオクニヌシがニニギノミコトに国譲りをしたという話がある。
そこに登場するオオクニヌシの祖父はサシクニヲホといい、母はサシクニワカヒメという。
この二人の名前を北海道異体文字で表わしてみると、
「きょう」「君王后」という字になる。

もうお気づきだろう。
斉の最後の王、王建の祖父と母は、オオクニヌシの祖父および母と、ピッタリー致してしまうのだ。
日本神話のイナサノヲバマが斉の「荊」に、
タギシノヲバマが「松柏」という字になるのである。

このことは何を意味しているのだろうか。
これは、中国大陸を舞台とした出雲のかつての真実の歴史が、のちに漢字に書き改められ、中国の歴史にすり替えられてしまった、ということを意味していないか。

さらに、この頃(戦国時代)の貨幣を調べてみると、戦国諸国が現在の中国大陸にあったなら、当然、それぞれ独自の貨幣をもっていたはずなのに、どれも斉貨幣と同じものを使用していたことが判明している。
しかも奇妙なことに、その貨幣にはすべて、たとえば「アマフユキヌ」のように、当時の出雲の王の名が神代文字で刻まれているのだ。

この事実からも、戦国時代の斉の正体は、日本神話でいままでその実在性が疑問視されてきた出雲の国だったことがよくわかるのである。
が、決定的なのは次の事実だ。
     
出雲を神代文字で表わし、それを組み合わせてみると、なんと〝斉〟という字になる。
これをみれば、中国の歴史がすり替えられたことは一目瞭然である。
どうやら中国においても、『史記』以前の記録のすり替えが行なわれたことは間違いないようだ。

いってしまえば、漢の武帝が紀元前108年頃、司馬遷に書かせた『史記』とは、とんでもないクワセモノということになる。

司馬遷は『史記』の執筆中、獄につながれていた。
完成後には解放される約束であったにもかかわらず、まもなく殺されてしまった。

これはちょうど、『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり『古事記』完成後に殺されたという事情とよく似ている。
両者は偶然の一致とは思えない。
日本の太古史と中国の古い歴史を抹殺しようとした勢力が、それぞれの背後にあったことは間違いない。


◆抜粋
『仮名文字の発生は紀元前七世紀ではない』
日本の古代文字は、今から二千年以上も前にすでに日本以外の土地では使われなくなった古代オリエント文字とよく似ていることを知った。

さらに、それらの古代文字の中には、
のちの時代に仮名を生み出すもとになったと考えられる表音文字がすでにあり、
しかもそれらが古代エジプトの象形文字や古代イスラエルのアルファベット(ヘブライ文字)と多くの共通点を持っている。

これまで日本人の多くは、漢字の伝来以前に日本に文字はなく、日本固有の文字である平仮名や片仮名は、中国が生み出した漢字を借りて八~九世紀につくりあげられたと考えてきた。
しかし、実際に調べてみると、日本には、遙か以前から仮名によく似た文字を、仮名と同じように音をあらわす符号として使う伝統があった。
下記は、
『大和民族はユダヤ人だった』より。
 
日本古来の〝ひふみ歌〟をヘブライ語で解いたヨセフ・アイデルバーグは、この数え歌が太陽神アマテラスの復活を願う美しいヘブライ語の祈祷文に由来することを明らかにしている。

日本の仮名は、吉備真備が漢字の一部をとって片仮名をつくり、
弘法大師が漢字の草書体をさらに崩して平仮名をつくつたと考えられているが、
これでは仮名が成立する十二世紀前、
あるいは王仁による漢字の将来より九世紀以上も前に、すでに仮名に近い文字が日本にあったことをうまく説明できない。

縄文時代の日本に文字があったと著者・アイデルバーグ は主張している。
日本に伝わる象形神文字がエジプトの象形文字やモアブ石のヘブライ文字ときわめて近い関係にあることは、この文字を日本へもたらしたのが神武天皇に率いられたイスラエルであることを物語ってはいないだろうか。
◇註:仮名の成立を八〇〇年前後、
漢字の伝来を四〇〇年前後とみれば、
日本の古代文字がすでに紀元前四〇〇年か五〇〇年ころにはあったと考えられる。

◇註:記録用文字として知られるヨクニ文字は、象形文字をカタカナと呼んでいる。
この文字には古体と新体はエジプトの象形文字、新体はヘブライ文字とよく似ている。
奈良時代の片促名の半数近くがトヨクニ新体文字と一致することは、日本の片仮名成立の背景に、漢字だけではなくトヨクニ文字やヘブライ文字の影響があったことを示している。

日本の縄文遺跡から、甲骨文字とみられる異物が次々に発見されている。
だから、アヒルクサ文字も少なくとも、殷の時代まで遡るのは、当然だ。
  
江戸時代の国文学者・平田篤胤の『神字日文伝』にあるトヨクニ文字が、一番古いと考えている。
また、イズモ文字とインドのブラーフミー文字は兄弟である。


◆日本語に似たタルク語を話す
〝使主の都〟からの渡来人

インドの学者は、ダウリのアショーカ王碑文に記されたトーサリーが、シシュパールの地にあったと考えているが、
もしもそうだとすれば、トーサリーは『新撰姓氏録』の「大和国諸蕃」の項に日置造の同族として記されている高麗国人、鳥井宿禰の〝鳥井〟と対応している。

◇『謎の新選姓氏録』から抜粋。

トーサリーTosaliがトリイ(鳥井)だといえば乱暴な話だと思われるかもしれないが、インドのアショーカ王Asokaが中国や日本でアイク、阿育王と記されていることに比べれば、別にオカシイことではない。
インドの人名や地名が漢字で表わされるときには、r だけでなく、S の音が省略される傾向がある。

しかも、この鳥井宿禰と同じ日置造の同族、栄井宿禰は、
「伊利須の使主の男、麻て位の後」
だと書かれている。
麻て位とは何か。
そのマテヰ(麻テ位)のヰを
Ya、Yi、Yu、Ye、YoのYiとみなせば、マテヰは何と、オリッサ州の西どなりにあるデカン高原の大州、マディヤ・プラデシユのマディヤMadhyaを意味する。彼はどうやらマディヤの地を支配する長だったらしい。

『新撰姓氏録』の記事でわれわれが無視できないのは、右にみた八坂造や日置造、大狛連、鳥井宿禰、螢井宿禰のいずれもが〝オリッサのシシュ〟(伊利須使主)の子孫とされていることである。
使主はふつう、なぜかオミと読まれているが、これを文字どおり読めば、シンュである。
シシュといえば、シシュパールのシシュになるのではないか。
パールは、古代のインドや朝鮮、日本でプル、プラ、弗流、布留、原などとよばれた〝邑〟や〝町〟〝都〟を表わす言葉だから、シシュバールは 〝使主の都〟だったといえる。

しかも、伊利須使主がいたオリッサのシシュパールはインド史上のカリンガの都として知られている。
そのカリンガKalingaが訛ったコリングKolingのアナグラム、
コルグニKolgniに高(kO)、麗(l)、国(guni)の漢字をあてはめたものが高麗国になるのは、明らかに日本や朝鮮、中国にいた高麗人のふるさとがインドのカリンガにあったことを示している。
現に、オリッサで今も使われているタルク語(ドラヴィダ語のひとつ)は日本語とそっくりである。

タルク語をふくむドラヴィダ語がどれほど日本語によく似ているかは、名詞や動詞のサンプルを見ていただけば、一目瞭然だと思う。
ドラヴィダ語と日本語はひとつひとつの言葉がよく似ているだけでなく、語順も同じだ。
クルク語には日本語の疑問助詞〝か〟と同じkaを疑問文の最後につける用法もあれば、受身の助動詞〝る〟〝らる〟に対応する語尾もある。
発音のしかたも、日本語と同じ子音+母音の組み合わせが基本になっている。

オリッサの北東にあるアッサム州のkuクルク族は、つい最近まで、日本の〝サク〟とよばれた入れ墨と同じ習慣を〝サック〟という言葉とともに保存していたし、オリッサの祭りは日本の祭りと同じだ。
ブバネシュワルに行かれた方なら、この地方の祭りで〝ラタ〟とよばれている神輿(神の乗り物)が、日本各地の祇園祭りでみられる〝山車〟とそっくりだということをごぞんじのはずだ。
タイにもオリッサや日本の祭りと同じ神輿祭りがある。

このようなことを考えてみると、インドのクル族がオリッサからアッサムを経てタイのチェンマイに、
中国の呉に(江西省清江県県城のあたりに)、
朝鮮の弗流に(朝鮮と中国の国境地帯を流れる鴨緑江の流域に)、
そして日本の淀川や木津川、大和川の流域にやってきたことはまちがいないのである。

◇世界中の氏族が日本を目指した!
例えば秦一族(ユダとレビ、エフライム)がローマ付近を出発し、陸のシルクロード経由で日本へ、同時にインドから海のシルクロードで日本へ移住した証拠だ。
おそらく、流浪のユダヤ人だけではなく、世界中に散在しているイスラエルの十二氏族が迫害を受け始めたので、神々の導きを受け、至る所から日本に向けて移住してきたことの証明だ。

◆神代文字は本物
神宮皇学館の元学長・山田孝雄博士(故人)は、様々な研究者がこの問題に立ち入るとを封じるために、1953年の『芸林』誌上で「いわゆる神代文字の論」を発表した。
彼はまず、これらの奉納文を調査した結果、
「その紙質、墨色を見るに明治の初年頃を下るものであろうが、それを上ることのないのは明らかである」
として、それらは書写年代が新しいから偽作物だと断定している。
(※大東亜戦争敗戦後、ロスチャイルドからモーセの三種の神器を返せとの依頼があった。
他にも日本をイスラエルの末裔だと信じる欧米諸国の要求から、皇室と日本の歴史を守るために、神代文字は存在せずと主張したのです)

彼の論法に従えば、江戸時代の初めに名古屋の其福寺で見つかった『言事記』の写本も、奈良時代の原本そのものではないからニセモノだということになる。
奉納文の紙質や墨色がたとえ明治初年のものだとしても、そこに書かれた内容が原本と同じであれば、千古不易の価値をもつ。
だから、日本の古代文字は「見つかっていない」のではなく、「見つけようとしない」から、これまで存在しないことになっていたのだ。

本著者は世界各地の遺跡や異物の未解読文字を、神代文字で解読できることを発見している。

◆神代文字は古代オリエントと似ている

対馬の阿比留家(アヒル家)に伝わるアヒルクサ文字をさす。
同文字は出雲大社や三輪神社、鹿島神社、伊夜比古神社などの由緒ある神社の神璽に用いられているほか、長野県美女森神社の神宝や筑波のヤタ鏡、紀州熊野神社の宝剣などに刻まれている。
アヒルクサ文字はニギハヤヒを祖神とする物部一族の文字と考えられ、フィリピンやマレー、アラビアの古宇と同系であることが北里博士によって論証されている。
中国の岐山文字とも関係が深い。

古代アッシリヤの都ニネヴュやバビロンで使われた楔形文字と同じものである。
私はこの楔形文字のいくつかが長州(山口)や薩摩(鹿児島)の古い神社の石に刻まれているのを発見した。
同書にはその読み方が片仮名で記されている。

(註:この楔形文字は、竹内古文書に六種ほど載せられている。
その中でキネクサビ文字と称されたものは、前七世紀ころまで今のトルコのヴアン湖周辺に住んでいたフルリ・ミタンニ系のウラルトウ人の文字や、アッシュルバニパルのエジプト遠征を記すアッシリヤ語碑文の文字とよく似ている。
本書にしばしば登場する十七世紀の日本研究者E・ケンペルは、日本の漢字カナまじり文と同じ構造をもつシュメール語の碑文にいち早く注目し、初めて楔形文字という言葉を使った。
このケンペルの影響で、著者もまた日本の古代文字に大きな関心をもつたとみられる)。

日本とオリエントの古代文字が、予想以上に大きな共通点を発見した。

◆サーンチ文字が神代文字で読めた

印度美術を代表するサーンチーの仏塔の一部に、インダス文字とかなりよく似た文字が刻まれているのを発見した。
しかもその文字は、日本の片仮名にもいくらか似ていた。
片仮名は平安初期に漢字の一部から派生したものといわれているが、日本に古くから伝わるトヨタニ文字にもその原型がみられる。

さて、サーンチーの仏塔で発見したこの文字は、どうやらその下に彫られている動物の名を表わしているらしい。
この動物は額に角をはやした馬のような動物で、どことなくギリシア神話に登場するユニコーンという一角獣に似ている。
いや、もしかしたらユニコーンそのものではないかと思われた。

◆『姓氏録』
そして、『姓氏録』は神別(神から分かれた家系)・皇別(天皇家から分かれた家系)・諸事(渡来人の家系)に類別した千百八十二氏を扱っているが、追い進めていくとどうやら、すべてがインドのデカン高原に関連してくる。

◆古代日本の三代民族
日本人に最も近い血液分布を示すのは、A型40%、O型30%、B型20%の比率を持ったパレスチナの人々であるという。

◆アイヌはヤペテの子孫である
もともとは、縄文人が越を経由して、黄河流域に青銅文明の殷をもたらした。
その頃、セム族のエフライム一族が殷帝国を経由し、殷帝国に居たヤペテを引き連れて、出雲に渡来した。
このヤペテがアイヌである。

アイヌの酋長はイスラエルの神官が身につけるエフォドに似た服を着ている。
それ以外にも、アイヌが白人と同じ習慣を持つ代表例としては、ハンモックを挙げることができる。
(アイヌ語のハンモックは、「木の葉の下」という意味で、ヨーロッパのハンモックhammockの語源をなしている)

彼らは四角い丈夫な布の両端に棒をとりつけて長い綱で天井から下げ、この中に赤ん坊を寝かせる。
ハンモックが必要に応じて上げ下げできるようになっているのは、昔のヨーロッパと同じである。
彼らは白人と同じように木で皿やお椀をつくり、食事に使う。

またアイヌの死者の埋葬法もヨーロッパと同じである。
遺体は黒と自の布に包まれて棺の中に横たえられ、土の中に埋められる。
墓には、ヨーロッパの通常の墓地と同じように、木片が立てられる。
そして親族は三十日間の喪に服し、髪の毛は一部しか切らない。
しかも男は二年、女は三年間やもめでいなければならない。

私の見るところ、アイヌ社会に犯罪といえるものはほとんどなく、彼らは正直で屈託のない民族という印象を受けた。
北海道にいる人々は、どちらかと言えば本州に住む文明化したアイヌより毛深い。

アイヌの言い伝えによれば、アイヌはかつて義経に征服されたとき、多くのものを奪われたという。
その中には金・銀でできた道具類や古い時代の記録がふくまれていたといわれる。
私には昔のアイヌが文字をもっていたとは信じられないが、いずれにせよ現在のアイヌにその文字は伝わっていない。

(註:坪井正五郎博士が東京人類学会ま二八号に寄せた論文によれば、北海道異体文字と名づけられた古い文字が北海道の各地で見つかっている。
これをただちにアイヌ文字とみなすわけにはいかないが、中には今から二千年以前のものと考えられる六角柱の石片に刻み込まれた文字も有り、今後の研究が期待されている。
北海道遺体文字がインダス文字やイースター島文字と共通の要素をもっていることは注目される。

◆龍神
ワニは龍神の使いで有り、移動手段のこと。
温暖だった縄文時代には、日本にワニが多数いたことが遺物から分かっている。

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