■「私は捏造記者ではありません。不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。」
~慰安婦問題で元朝日新聞記者の植村隆氏が会見
9日、元朝日新聞記者で北星学園大学非常勤講師の植村隆氏が外国特派員協会で記者会見を行った。
これに先立ち、植村氏は「週刊文春」誌上での記述で名誉毀損されたとして、同日、発行元の文藝春秋と記事内で発言を行った西岡力・東京基督教大教授に対し、計1650万円の損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを東京地裁に起こしている。
同氏をめぐっては、昨年の朝日新聞による慰安婦報道検証以後、勤務先の北星学園大学に脅迫状が送りつけられるなどしたことから、同大の学長が4月からの契約を更新しない意向を示していたが、大学教授や弁護士らが支援の動きを見せるなどした結果、昨年12月、契約の継続が発表された。
植村氏の取材の窓口は朝日新聞が担っており、これまで東京新聞のほか朝鮮日報やニューヨーク・タイムズなどの海外紙のインタビューを受けてきたほか、産経新聞が繰り返し取材を申し入れるなど、慰安婦問題の記事を執筆した本人による発言に注目が集まっていた。
◇
皆さまお忙しいところ、私の会見に来ていただき、ありがとうございます。
パリの新聞社の襲撃で、多数の記者たちが亡くなったことに本当にショックを受けています。
1987年5月に、私と同期の朝日新聞記者の小尻知博記者が襲撃されて殺された事件がありました。
改めてそのことを思い出して、衝撃を持って受け止めています。
同じジャーナリストとして、こうした暴力には絶対に屈してはいけないと、改めて思いました。
私が非常勤講師として務めております北星学園大学にも、昨日、また脅迫状が送られてきました。
匿名の名に隠れた、こうした卑劣な強迫行為は絶対に許すことができないと思います。
なぜ脅迫状がくるかと言いますと、私が勤務してるからであります。
去年、日本の週刊誌「週刊文春」の記事で、私は"捏造記者"というレッテル貼りをされました。
それで私の記事とは全く関係ない大学にまでこうした強迫行為が及んでいるわけです。
私は訴訟準備のため東京におり、大学には行ってなかったんですが、私のために大学が脅迫にさらされていることに怒りを覚えます。
本日、私は「週刊文春」を発行する文藝春秋社およびその週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏を、名誉毀損の被告として裁判を起こしました。
私は、私の人権、家族の人権、友人の安全、北星学園を守るために、訴訟を起こしました。
私は24年前の91年、朝日新聞大阪社会部時代に、韓国で名乗り出た朝鮮人慰安婦のおばあさんの辛い体験の記事を、署名入りで2本書きました。
この記事が原因で、23年間ずっとバッシングを受けています。
この記事で私が存在を報じた方は金学順さんと言う方で、韓国でカミングアウトした第一号の慰安婦でした。
彼女の勇気ある証言によって、慰安婦の生の証言が世界に伝わって、たくさんの被害者が名乗り出るようになりました。そういう意味では、慰安婦問題が世界に知られるようになった第一号のおばあさんでした。
1年前、「週刊文春」2月6日号の記事に、その91年の8月の記事が批判的に紹介されました。
「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」とあります。
西岡氏は私の記事に対して、
「強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではない」
とコメントされています。
女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳で騙されて慰安婦されたと書いてあります。
しかし西岡は私の記述には触れないで、強制連行があったかのように記事を書いており、"捏造"と言っております。
これはフェアではないと思います。
私の記事は、リードで「女子挺身隊」という言葉を使いました。
当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」あるいは「挺身隊」という言葉で表現しておりました。
しかし西岡氏は92年4月の「文藝春秋」で、これについて"重大な事実誤認"と批判しておりました。
その当時、西岡氏は記事では「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった」と書いておりますが、しかし、その後は私だけを狙い撃ちにしております。
98年ごろから"捏造"という言葉に変わりました。
同じ91年の記事に対して、評価を変えてしまっているんです。
フレーム・アップだと思います。
そして結局、その流れで2月6日号の「週間文春」は、私を"捏造記者"だとレッテル貼りをしました。
これはフレーム・アップの延長線上だと思います。
この記事が原因で、私の転職先の神戸松蔭女子学院大学にいやがらせ、抗議の電話が殺到しました。
そして私が勤務している北星学園大学には、更に多くの抗議のメールや電話がかかってきます。
そうした抗議の電話の一部はインターネット上に公開されて、さらに憎悪を煽り立てています。
標的は大学だけではありません。
私の家族、娘にまで及びました。
娘の写真がインターネット上に晒され、誹謗中傷が書き連ねられています。
たとえばこんなのがあります。
"こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。
親爺が超絶反日活動で…稼いだ金で、という意味でしょうか…贅沢三昧に育ったのだろう。
自殺するまで追い込むしか無い"
と書いてあります。
私のパートナーは韓国人です。
私の娘は父親は日本人で、母親は韓国人です。
ヘイトスピーチのような、コリアンを差別するような言葉まで出てきます。
私は「週刊文春」の捏造というレッテル貼り、そして西岡氏の言説がこうした状況を引き起こしたのではないかと考えています。
私は言論の場でも意見を発表しています。
法廷の場でも捏造記者でないことを認めてもらおうと思っています。
私は捏造記者ではありません、
不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。
◆神原元弁護士
「次々と裁判を起こし、名誉回復を図っていく」
弁護団の方より若干補足させていただきます。
植村さんの訴状は、本日東京地方裁判所に提出されました。
被告は株式会社文藝春秋および東京基督教大学の西岡力さん、ということになります。
裁判で植村さんは3つのことを求めていきます。
インターネットからの西岡さんの論文の削除です。
ふたつめは謝罪広告の掲載です、
そして、損害賠償として1650万円の請求です。
根拠は、捏造という記載が不法行為に該当します。
現在170人の弁護士が代理人として植村さんを支援しております。
他方、植村さんを攻撃している歴史修正主義者は他にもたくさんおります。
私たち弁護士はこれからも次々と裁判を起こし、植村さんの名誉回復を図っていきたいと思います。
◆上智大・中野教授
「人権は守らなければいけない」
上智大学教授の中野晃一です。
私は何百人かの学者、ジャーナリストの代表として、植村さんと一緒にこの攻撃に立ち向かいたいと思っています。
やはり人権は守らなければいけないと考えている、多くの学者や報道関係者がいます。
皆さんのご記憶にも新しいと思いますが、私はこちらで3ヶ月前に山口二郎先生と会見をしました。
(編集部注:「言論と学問の自由を守るため立ち上がるべき」元朝日記者脅迫問題で山口二郎・中野晃一両教授が会見)
当時、植村さんの雇用契約が更新されるかどうか微妙でしたが、北星学園大学が英断をされ、とりあえず1年の契約更新になりました。
皆さんの記事や発信力が、多くの人の考えを変えることに役立ったと思います。
ここでお礼を申し上げたいと思います。
ーー 妻が韓国人であるために、あなたが慰安婦などの問題に対して中立の立場ではないのではないかという指摘もあるが?
植村氏:
まず家内のことについてお話したいと思います。
私の記事は1991年の夏に書いた記事でございますが、前年、1990年の夏、2週間韓国に取材に行きました。
当時、日韓で注目を浴びていた慰安婦問題で、慰安婦のおばあさんがもしかしたら生存していて、取材ができるのではないかと思って行ったんです。
ところがもちろん当時はそういう戦時中の辛い体験を語る方には一人も会えませんでした。
私は慰安婦のおばあさんたちを調査している「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に行ったり、あるいは戦争の犠牲者たちの会「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の事務所などにもしょっちゅう行きました。
慰安婦のおばあさんたちにはその2週間で全く出会えませんでした。
でも一人の女性に出会いました。
先ほど言った遺族会で事務をしている若い女性でした。
韓国は母親と娘のファミリーネームが違うので後でわかったのですが、その女性は遺族会の幹部の娘でした。
その女性と恋に落ち入り、結婚しました。
91年の夏に、韓国の市民団体がこの慰安婦のおばあさんを調査しているという記事を書きました。
私を批判する人は、この記事が一番最初に、慰安婦のカミングアウトの前に、その存在を明らかにした記事だと、それで批判しているんです。
私の妻の母親の情報によって記事を書いたんだと、私を批判しているんです。
この団体は、私のパートナーの母親の団体と違う団体なんです。
そしてこの私の義母は、このおばあさんとは、私の記事の後に知ったというか出会ったわけです。
当時のソウル支局長の情報を使って書いたわけで、親族関係を利用して書いた記事ではありません。
朝日新聞の8月の検証記事でも、先日発表された第三者委員会の報告でも、縁戚関係を利用して記事を書いたとういう疑惑はまったく否定しております。
私は先ほども申し上げた通り、私のパートナーと出会う前に、慰安婦問題を取材しております。
これはfamily affair、家族の問題として取材しているわけではないんです。
女性の人権問題として取材しているわけです。
だから結婚しようが、結婚しまいが取材は続けたと思います。
ーー 慰安婦報道について謝罪した朝日新聞のスタンスについてどう考えるか
植村氏:
朝日新聞は、私の2本の記事とは別に、「吉田清治証言問題」というのを抱えていました。
この吉田清治というひとは、済州島で女性を慰安婦にするために人狩り、強制連行をしたということを証言して、それが朝日新聞だけでなくいろいろな新聞にも記事が出た人です。
8月の朝日新聞の特集紙面で、私の記事については"捏造がない"と明快に発表しました。
しかし、吉田さんの証言による記事については取り消しました。
その記事を取り消した時に、謝罪がなかったということで大きなバッシングを受けたわけです。
私もそう思います。
だけれども、謝罪はして取り消したわけです、遅くなったけれども。
ところが、朝日新聞は、私が非常にバッシングされて、家族までバッシングされている状態になっている。
それで非常に委縮していると思います。
私は捏造記者ではありません。
それはこれから証明していきますし、「文藝春秋」1月号でも記事を書いております。
私に対するバッシングの理由は、私が元朝日新聞記者であること、私が慰安婦のおばあさんに関する記事を最初に書いたこと、私の家内が韓国人であること。
そうしたことだと思います。
私を攻撃して委縮させ、私の出身母体である朝日新聞を委縮させたいと考えている人々がいるんだなと。
もう謝罪して取り消したわけですし、改めて朝日新聞には元気を出して、慰安婦問題に取り組んでいただきたいと思います。
慰安婦問題は解決したわけではないので。
ーー 首相はフランスの事件について「言論の自由、報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない。」とコメントした。
北星学園大学の件については、首相にはどのような対応を望むか。
植村氏:
これまでも北星学園に対する脅迫、いやがらせ問題について、文部科学大臣がそれを批判する発言をされたりしております。
皆さんそういう気持ちを持っておられると思いますので、ぜひ北星学園大学を首相にも支えていただければと思っております。
ーー 朝日新聞を辞めた背景は?
朝日に辞めさせられたのか、それとも辞めたのは自分の意思なのか。
植村氏:
言っておきますが、私は朝日を辞めさせられたわけではございません。
私は1958年4月生まれで、今56歳です。だから、後4年ぐらいは働ける権利はあるわけですよ。
ただ私は50歳を過ぎてから、勉強をするのが好きになりました。
大学の後期博士課程に飛び込んで、博士論文にも取り組んでおります。
2012年から北星学園大学では非常勤講師をやっています。
教えているのは国際交流講義と言いまして、アジアの留学生たちに日本の社会事情、文化を教えています。
学生時代は勉強嫌いだったのですが、年を取ってから勉強が好きなことに気が付きました。
そして、アジアの学生たちと交流するのがとても楽しかったです。
それは私がソウル特派員、北京特派員、中東特派員を経験して、アジアとの関わりの大切さというものを知ったからです。
それで大学教員に転身しようと思いまして、いくつかに応募して、神戸の大学に採用が決まったんです。
しかし、抗議のメール等で、神戸松蔭女子学院大学は非常にショックを受けて、事実上、私に辞退を求めたわけです。
それは示談という形で、合意で契約を解消しました。
もちろん、その時に朝日新聞に戻る方法もあったかもしれません。
だけれども、"捏造記者"というレッテルはもう貼られたままです。
そのレッテルを剥がすため、レッテルを貼った者と闘うためには朝日に戻らず、一人のジャーナリストとして闘おうと思いました。
何故なら、闘うためにはたくさんの時間が要るんです。
"捏造記者"という風に記事を書かれてから、私は捏造記者ではないという証拠を探すために、毎日とてもたくさんの時間を使ってきました。
そして、私を取材する色んなメディアがたくさんの質問状を送りつけてきます。
時間がたくさんかかるんです。
残念ですが、フリーになって時間があるので、それができるというのが現状です。
ーー 嫌がらせの中に身体的な攻撃はあるのか?
また、ネット上での中傷に対して、家族はどう感じているのか
植村氏:
私は今のところ言葉で脅されてるだけです。
パリの事件は本当に痛ましい事件です。
何らかの憎悪が原因で起きたと思います。
やはり寛容さが欠けている人々がこういうようなことをしたんじゃないかと思います。
私は、今物理的な攻撃を受けているわけではありません。
私の記事が捏造という風に言われますが、当時は同じようなスタイルの記事が他の新聞にもたくさんあったんです。
それが今こういう風な形でターゲットになって、個人が標的になってバッシングされている。
やはり寛容でない社会で起きている現象という点では共通点があるかもわかりません。
歴史の暗部、日本でいえば、戦争中の触れられたくない過去。
それに対して、目を向けようとする人たちに対して、それを怯ませようという動きが日本にあると思います。
それが誰なのかわかりません。
例えば、私の家に嫌がらせ電話がかかってきました。
私の家の電話は全く公開していません。
だけれども後で調べたら、インターネットに私の電話とか、家の場所、娘の学校の名前、そういったものが出ていました。
弁護士にお願いして、誰が書いたか発信先を突き止める作業を何日もかけてやりました。
しかし、わかりませんでした。
こういう風な匿名性に隠れて非難する人々がどんどん増えていると思います。
それが私の記事とは全く関係ない私の勤務先にもこれだけたくさんの攻撃がなされている。
日本は民主主義の社会です。
こういう風な卑劣な行為は絶対に許さない。
皆さんのお力を借りたいと思っています。
◆「私は自分で愛国者だと思っています」
ーー 植村さんへの批判には「反日」というレッテルも貼られていると思う。
こうした記事を書く際に、植村さんは日本についてどのように考えているのか。
また、最近台頭しているといわれているナショナリズムについて、どのように考えているのか。
植村氏:
今、ちょうど関連する資料をお見せします。
ここにですね、私宛のハガキが大学の住所に送られてきました。
読みましょう。
「出ていけ、この学校から。出ていけ、日本から売国奴」。
これは大学に送りつけられたハガキであります。
こういうのもあります。
「日本で稼ぐな。大好きな韓国に帰化して姑に食べさせてもらえ」。
しかし、私は反日ではないんです。
私は日本が他のアジアから尊敬される、本当の仲間だと思える国になってほしいんです。
そういう意味では、私は自分で愛国者だと思っています。
学生に言っています。
僕の学生は、韓国、台湾、中国から来る学生が多いです。
いつも言っているんですが、
「もちろん今日本で不愉快なことがたくさんあるかもわからないけれど、日本もいいところがあるし、日本と隣国は大切な関係なので、是非日本でいろいろなことを学んでほしい」と。
私は幸いなことにソウル特派員と北京特派員という二つのアジアの街の特派員をさせていただきました。
その時の政治状況で国と国との関係は良くなかったりというのはありますが、どの街も人間として同じように触れ合えて、本当に隣国の人たちと仲良くなりました。
そういう風な学生と接しているわけです。
僕はアジアの中で隣国との関係はとても大切だと思っています。
それをずっと記者としても、考えてきましたし、訴えてきました。
まったく知らなかったのですが、僕の学生が日本語スピーチコンテストでスピーチをしてくれました。
「植村先生をやめさせないでくれ」と。
日本に「言論の自由」とか「学問の自由」とかがなくなっていたら、それは隣国にも影響がある。
そんな学生を持って僕は幸せですので、絶対にこんな卑劣な脅迫で大学を去りたくないと思っております。
こういう卑劣な書き込みとか攻撃する人たちのことを、何故そういうことをするのかわかりません。
ただ一つだけ言えるのは、多分そういう人たちは、韓国や中国の友達がいないんじゃないか。
そういう人たちと触れ合ったことがないんじゃないか。
だから、心の中で排外主義が高まっているんじゃないかと思います。
ーー 昨年11月、脅迫電話をかけて逮捕された人間がいたが犯人は略式起訴でした。
処分が軽すぎると思うのだが、こうした処置や今回の事件に関する政府の姿勢をどのように考えるか。
植村氏:
確か新潟県の男性が逮捕されたと思います。
全く面識のない人です。
名前も私は存じ上げませんでした。
一つ私がジャーナリストとして残念なのは、何故この人がまったく見知らぬ私、大学を脅迫したのか。
その後のフォローの記事が日本のジャーナリズムにないことです。
逮捕された時は大きく出て、処分・略式起訴の段階になると小さくなりました。
事件で一番大事なのは動機であります。
この人がどういう動機でこのようなことをしたのか。
それを考えることこそがこうした行為を防止する方法ではないかと思っています。
この処分が重かったかどうかはわかりません。
ただ、抑止効果になったとは思います。
北星学園というのは学生数がたった4200人の小さな学校です。
しかし、明治時代にアメリカの宣教師がつくったミッションスクールであります。
1995年の戦後50年の時に「北星平和宣言」というのを発表した学園でもあります。
アジアの侵略戦争の反対と人権教育の大切さを訴えています。
こんな小さな大学が、この激しい攻撃に耐えて、私を雇い続ける、「学問の自由を守る」と言ったんです。
小さな大学が大きな勇気を示したんです。
北星学園のこうした平和宣言というのは、日本政府が歩む道でもあると思います。
必ずや政府も北星学園を支援して、こうした卑劣な行為を食い止める力になってくださると思います。
神原弁護士:
今の件について、一言だけ。札幌の現地の弁護士から、現地の警察はこの脅迫問題について、必ずしも熱心ではないという情報をもらっています。
そこで弁護士が300人以上、名前を並べて刑事告発をする。
そのような運動も行っております。
日本の警察はキチンとこのような卑劣な犯罪を取り締まるために戦うべきだということもここで訴えさせていただきたいと思います。
◆「吉田清治証言についての記事は一本も書いていない」
ーー 「吉田清治証言」については、何本記事を書いたのか?
虚偽であった吉田発言は結果的に反日を煽ったわけだが、これについて植村さんはどう考えるか?
植村氏:
先程も少し触れましたが、「吉田清治証言」の記事がありますね。
私は一本も書いておりません。
私は「吉田清治証言」の後に慰安婦問題の取材を始めた世代です。
「吉田清治証言」の取材はしておらず、その後に慰安婦のおばあさんに直接取材を始めた世代です。
本屋さんに売っている本に、「朝日バッシング」の本があるんですけれども、そういうのにも「吉田清治証言についてたくさん書いている植村記者」という表現がありました。
だいたいこういうのこそ捏造というのではないかと思います。
今月号、昨日発売された「世界」にその辺のことを書いています。
以下に、デマ情報が活字にまでなっているのか、ということを書いています。
私が書いた金学順さんの記事というのは、当時のことを調べましたら、8月11日の記事は、まったく韓国でも報道されていませんでした。
このため、私は「反日気分を煽った」と言われても煽ってません。
むしろ、日本がアジアの中で本当に信頼される仲間になるための作業をしていると思っています。
サルメラ:
「私は捏造してません」 ・・・?
ならば植村に聞きたい。
捏造記事を直接書かなかったにせよ、
捏造に未必の故意による関与をし、
増幅を仕掛けなかったと、果たして言うことができるのか?
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「強制連行」をでっち上げたのは植村隆ではない
池田信夫
2014年12月11日
きのう発売の『文藝春秋』に、
「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」
という朝日新聞の植村隆元記者の手記が掲載されている。
28ページにわたる記事のほとんどが「他社もやっていた」という言い訳と、彼が迫害されて職を失った話で、反省も謝罪もない。
特に大きな問題は「女子挺身隊」という日本政府による徴用を意味する言葉を、私的な慰安婦に使ったことだ。
問題の1991年8月11日の記事はこうなっている。
《日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。》
これについて植村は「意図的な捏造ではない」と主張し、「他社も挺身隊と書いていた」とか「朝日の記事でも過去にそうなっていた」などという。
この情報は当時のソウル支局長(小田川興)から教えてもらったと主張し、義母がその「挺身隊」を指弾する遺族会の幹部だったことは偶然だという。
慰安婦問題を取材しているうちに、同じ問題を調べている妻と出会って結婚し、あとから義母が遺族会の幹部であることを知ったという。
都合のいい偶然だ。
最大の疑惑は、金学順が「戦場に連行された」と言ったのかという点だ。
これについて1991年12月6日に提出された慰安婦訴訟の訴状では
「14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、養父に連れられて中国へ渡った」
と書いている。
ところが12月25日の植村の記事では、こうなっている。
《その後は子守をしたりして暮らしていました。
「そこへ行けば金もうけができる」。
こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。
仕事の中身はいいませんでした。
近くの友人と2人、誘いに乗りました。
17歳(数え)の春(1939年)でした。》
訴状には「14歳からキーセン学校に通った」と書かれているのに、17歳でいきなり「連行」されたように書いている。
しかも訴状ではキーセンに仲介したのは養父(おそらく朝鮮人の女衒)だが、植村の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。
訴訟が起こされたのは記事が出る前であり、彼は訴状を読んだことを認めている。
それなのに14歳から17歳の部分を落としたのはなぜか。
彼は「弁護団の聞き取り要旨にはキーセンのくだりがなかった」などと言い訳をしているが、そのすぐ後で「キーセンだから慰安婦にされても仕方がないというわけではない」と書いている。
つまり植村は、キーセンに売られた経歴を知りながら落として「連行」の話にしたのだ。
これは単なる誤報ではなく、芸者になる訓練をしてから慰安所に売られたという金学順の話を「女子挺身隊の名で連行」されたという(本人が言っていない)話に仕立てた捏造である。
植村は「だまされて慰安婦にされた」と書いているが、だました主語は誰なのか。
「挺身隊の名で連行」したなら朝鮮総督府か日本軍だが、人身売買なら女衒である。
これはまったく違う話だが、肝心の点をぼかしている。
しかし彼は一つ重要な告白をしている。
《私は[8月11日の記事の]本文では、この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書いた。
暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。
[…]
私自身は<女子挺身隊の名で>は、
決して<女子挺身勤労令によっての連行>ということを意味したものではなかった。
植村は記事では<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。》
なぜか最後の文だけ主語が「植村は」となっており、第三者が介入した形跡があるが、それはともかく、彼が金学順について書いた署名記事は2本だけで
「旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない」
という。
つまり強制連行をでっち上げて政治問題にしたのは、植村ではないのだ。
それが誰であるのかを彼は書いていないが、当時の彼の上司で慰安婦問題に熱心だった北畠清泰(故人)ではないか。
つまり慰安婦デマは植村の個人的な犯罪ではなく、大阪社会部の組織ぐるみの犯罪なのだ。
その部長だった渡辺雅隆社長が、問題を解明できるとは思えない。
植村は自分を言論弾圧や脅迫の被害者として描きたいようだが、その問題を解決するのは簡単だ。
逃げ回らないで記者会見を開いて、以上の疑問に答えることである。
それをしないで一方的に手記を載せても、誰も説得できない。
追記:1992年1月の「軍関与示す資料」の記事を書いたのは、辰濃哲郎記者(東京社会部)だと思われる。
本人がそう証言している。
ただし「挺身隊として強制連行」という囲み記事を書いたのは別人だろう。
サルメラ:
戦後70周年、植村裁判を煽って、左翼弁護士がうごめき出したという印象。
だが問題は『植村個人』にあらず、
もちろん、植村も含めてだが、『〝従軍〟慰安婦』捏造疑惑に、どこまで、誰が、どういうふうな経路で関与してきたのか、にある。
朝日新聞が一部で謝った。
これを蟻の一穴とし、せっかく流れはそっちに向かい始めたはずなのに、偏った右翼がそれを台なしにしてる感もあるなか、
この裁判を左翼の思惑通りにさせず、
ワンサイドでしか モノを見れない両ウィングに左右されることなく、
平坦な目で真実をつまびらかにするためのリスタートにしてほしいもんだ。
~慰安婦問題で元朝日新聞記者の植村隆氏が会見
9日、元朝日新聞記者で北星学園大学非常勤講師の植村隆氏が外国特派員協会で記者会見を行った。
これに先立ち、植村氏は「週刊文春」誌上での記述で名誉毀損されたとして、同日、発行元の文藝春秋と記事内で発言を行った西岡力・東京基督教大教授に対し、計1650万円の損害賠償と謝罪広告などを求める訴えを東京地裁に起こしている。
同氏をめぐっては、昨年の朝日新聞による慰安婦報道検証以後、勤務先の北星学園大学に脅迫状が送りつけられるなどしたことから、同大の学長が4月からの契約を更新しない意向を示していたが、大学教授や弁護士らが支援の動きを見せるなどした結果、昨年12月、契約の継続が発表された。
植村氏の取材の窓口は朝日新聞が担っており、これまで東京新聞のほか朝鮮日報やニューヨーク・タイムズなどの海外紙のインタビューを受けてきたほか、産経新聞が繰り返し取材を申し入れるなど、慰安婦問題の記事を執筆した本人による発言に注目が集まっていた。
◇
皆さまお忙しいところ、私の会見に来ていただき、ありがとうございます。
パリの新聞社の襲撃で、多数の記者たちが亡くなったことに本当にショックを受けています。
1987年5月に、私と同期の朝日新聞記者の小尻知博記者が襲撃されて殺された事件がありました。
改めてそのことを思い出して、衝撃を持って受け止めています。
同じジャーナリストとして、こうした暴力には絶対に屈してはいけないと、改めて思いました。
私が非常勤講師として務めております北星学園大学にも、昨日、また脅迫状が送られてきました。
匿名の名に隠れた、こうした卑劣な強迫行為は絶対に許すことができないと思います。
なぜ脅迫状がくるかと言いますと、私が勤務してるからであります。
去年、日本の週刊誌「週刊文春」の記事で、私は"捏造記者"というレッテル貼りをされました。
それで私の記事とは全く関係ない大学にまでこうした強迫行為が及んでいるわけです。
私は訴訟準備のため東京におり、大学には行ってなかったんですが、私のために大学が脅迫にさらされていることに怒りを覚えます。
本日、私は「週刊文春」を発行する文藝春秋社およびその週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏を、名誉毀損の被告として裁判を起こしました。
私は、私の人権、家族の人権、友人の安全、北星学園を守るために、訴訟を起こしました。
私は24年前の91年、朝日新聞大阪社会部時代に、韓国で名乗り出た朝鮮人慰安婦のおばあさんの辛い体験の記事を、署名入りで2本書きました。
この記事が原因で、23年間ずっとバッシングを受けています。
この記事で私が存在を報じた方は金学順さんと言う方で、韓国でカミングアウトした第一号の慰安婦でした。
彼女の勇気ある証言によって、慰安婦の生の証言が世界に伝わって、たくさんの被害者が名乗り出るようになりました。そういう意味では、慰安婦問題が世界に知られるようになった第一号のおばあさんでした。
1年前、「週刊文春」2月6日号の記事に、その91年の8月の記事が批判的に紹介されました。
「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」とあります。
西岡氏は私の記事に対して、
「強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではない」
とコメントされています。
女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳で騙されて慰安婦されたと書いてあります。
しかし西岡は私の記述には触れないで、強制連行があったかのように記事を書いており、"捏造"と言っております。
これはフェアではないと思います。
私の記事は、リードで「女子挺身隊」という言葉を使いました。
当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」あるいは「挺身隊」という言葉で表現しておりました。
しかし西岡氏は92年4月の「文藝春秋」で、これについて"重大な事実誤認"と批判しておりました。
その当時、西岡氏は記事では「朝日に限らず、日本のどの新聞も金さんが連行されたプロセスを詳しく報ぜず、大多数の日本人は当時の日本当局が権力を使って、金さんを暴力的に慰安婦にしてしまったと受けとめてしまった」と書いておりますが、しかし、その後は私だけを狙い撃ちにしております。
98年ごろから"捏造"という言葉に変わりました。
同じ91年の記事に対して、評価を変えてしまっているんです。
フレーム・アップだと思います。
そして結局、その流れで2月6日号の「週間文春」は、私を"捏造記者"だとレッテル貼りをしました。
これはフレーム・アップの延長線上だと思います。
この記事が原因で、私の転職先の神戸松蔭女子学院大学にいやがらせ、抗議の電話が殺到しました。
そして私が勤務している北星学園大学には、更に多くの抗議のメールや電話がかかってきます。
そうした抗議の電話の一部はインターネット上に公開されて、さらに憎悪を煽り立てています。
標的は大学だけではありません。
私の家族、娘にまで及びました。
娘の写真がインターネット上に晒され、誹謗中傷が書き連ねられています。
たとえばこんなのがあります。
"こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。
親爺が超絶反日活動で…稼いだ金で、という意味でしょうか…贅沢三昧に育ったのだろう。
自殺するまで追い込むしか無い"
と書いてあります。
私のパートナーは韓国人です。
私の娘は父親は日本人で、母親は韓国人です。
ヘイトスピーチのような、コリアンを差別するような言葉まで出てきます。
私は「週刊文春」の捏造というレッテル貼り、そして西岡氏の言説がこうした状況を引き起こしたのではないかと考えています。
私は言論の場でも意見を発表しています。
法廷の場でも捏造記者でないことを認めてもらおうと思っています。
私は捏造記者ではありません、
不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。
◆神原元弁護士
「次々と裁判を起こし、名誉回復を図っていく」
弁護団の方より若干補足させていただきます。
植村さんの訴状は、本日東京地方裁判所に提出されました。
被告は株式会社文藝春秋および東京基督教大学の西岡力さん、ということになります。
裁判で植村さんは3つのことを求めていきます。
インターネットからの西岡さんの論文の削除です。
ふたつめは謝罪広告の掲載です、
そして、損害賠償として1650万円の請求です。
根拠は、捏造という記載が不法行為に該当します。
現在170人の弁護士が代理人として植村さんを支援しております。
他方、植村さんを攻撃している歴史修正主義者は他にもたくさんおります。
私たち弁護士はこれからも次々と裁判を起こし、植村さんの名誉回復を図っていきたいと思います。
◆上智大・中野教授
「人権は守らなければいけない」
上智大学教授の中野晃一です。
私は何百人かの学者、ジャーナリストの代表として、植村さんと一緒にこの攻撃に立ち向かいたいと思っています。
やはり人権は守らなければいけないと考えている、多くの学者や報道関係者がいます。
皆さんのご記憶にも新しいと思いますが、私はこちらで3ヶ月前に山口二郎先生と会見をしました。
(編集部注:「言論と学問の自由を守るため立ち上がるべき」元朝日記者脅迫問題で山口二郎・中野晃一両教授が会見)
当時、植村さんの雇用契約が更新されるかどうか微妙でしたが、北星学園大学が英断をされ、とりあえず1年の契約更新になりました。
皆さんの記事や発信力が、多くの人の考えを変えることに役立ったと思います。
ここでお礼を申し上げたいと思います。
ーー 妻が韓国人であるために、あなたが慰安婦などの問題に対して中立の立場ではないのではないかという指摘もあるが?
植村氏:
まず家内のことについてお話したいと思います。
私の記事は1991年の夏に書いた記事でございますが、前年、1990年の夏、2週間韓国に取材に行きました。
当時、日韓で注目を浴びていた慰安婦問題で、慰安婦のおばあさんがもしかしたら生存していて、取材ができるのではないかと思って行ったんです。
ところがもちろん当時はそういう戦時中の辛い体験を語る方には一人も会えませんでした。
私は慰安婦のおばあさんたちを調査している「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)に行ったり、あるいは戦争の犠牲者たちの会「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の事務所などにもしょっちゅう行きました。
慰安婦のおばあさんたちにはその2週間で全く出会えませんでした。
でも一人の女性に出会いました。
先ほど言った遺族会で事務をしている若い女性でした。
韓国は母親と娘のファミリーネームが違うので後でわかったのですが、その女性は遺族会の幹部の娘でした。
その女性と恋に落ち入り、結婚しました。
91年の夏に、韓国の市民団体がこの慰安婦のおばあさんを調査しているという記事を書きました。
私を批判する人は、この記事が一番最初に、慰安婦のカミングアウトの前に、その存在を明らかにした記事だと、それで批判しているんです。
私の妻の母親の情報によって記事を書いたんだと、私を批判しているんです。
この団体は、私のパートナーの母親の団体と違う団体なんです。
そしてこの私の義母は、このおばあさんとは、私の記事の後に知ったというか出会ったわけです。
当時のソウル支局長の情報を使って書いたわけで、親族関係を利用して書いた記事ではありません。
朝日新聞の8月の検証記事でも、先日発表された第三者委員会の報告でも、縁戚関係を利用して記事を書いたとういう疑惑はまったく否定しております。
私は先ほども申し上げた通り、私のパートナーと出会う前に、慰安婦問題を取材しております。
これはfamily affair、家族の問題として取材しているわけではないんです。
女性の人権問題として取材しているわけです。
だから結婚しようが、結婚しまいが取材は続けたと思います。
ーー 慰安婦報道について謝罪した朝日新聞のスタンスについてどう考えるか
植村氏:
朝日新聞は、私の2本の記事とは別に、「吉田清治証言問題」というのを抱えていました。
この吉田清治というひとは、済州島で女性を慰安婦にするために人狩り、強制連行をしたということを証言して、それが朝日新聞だけでなくいろいろな新聞にも記事が出た人です。
8月の朝日新聞の特集紙面で、私の記事については"捏造がない"と明快に発表しました。
しかし、吉田さんの証言による記事については取り消しました。
その記事を取り消した時に、謝罪がなかったということで大きなバッシングを受けたわけです。
私もそう思います。
だけれども、謝罪はして取り消したわけです、遅くなったけれども。
ところが、朝日新聞は、私が非常にバッシングされて、家族までバッシングされている状態になっている。
それで非常に委縮していると思います。
私は捏造記者ではありません。
それはこれから証明していきますし、「文藝春秋」1月号でも記事を書いております。
私に対するバッシングの理由は、私が元朝日新聞記者であること、私が慰安婦のおばあさんに関する記事を最初に書いたこと、私の家内が韓国人であること。
そうしたことだと思います。
私を攻撃して委縮させ、私の出身母体である朝日新聞を委縮させたいと考えている人々がいるんだなと。
もう謝罪して取り消したわけですし、改めて朝日新聞には元気を出して、慰安婦問題に取り組んでいただきたいと思います。
慰安婦問題は解決したわけではないので。
ーー 首相はフランスの事件について「言論の自由、報道の自由に対するテロであり、断じて許すことはできない。」とコメントした。
北星学園大学の件については、首相にはどのような対応を望むか。
植村氏:
これまでも北星学園に対する脅迫、いやがらせ問題について、文部科学大臣がそれを批判する発言をされたりしております。
皆さんそういう気持ちを持っておられると思いますので、ぜひ北星学園大学を首相にも支えていただければと思っております。
ーー 朝日新聞を辞めた背景は?
朝日に辞めさせられたのか、それとも辞めたのは自分の意思なのか。
植村氏:
言っておきますが、私は朝日を辞めさせられたわけではございません。
私は1958年4月生まれで、今56歳です。だから、後4年ぐらいは働ける権利はあるわけですよ。
ただ私は50歳を過ぎてから、勉強をするのが好きになりました。
大学の後期博士課程に飛び込んで、博士論文にも取り組んでおります。
2012年から北星学園大学では非常勤講師をやっています。
教えているのは国際交流講義と言いまして、アジアの留学生たちに日本の社会事情、文化を教えています。
学生時代は勉強嫌いだったのですが、年を取ってから勉強が好きなことに気が付きました。
そして、アジアの学生たちと交流するのがとても楽しかったです。
それは私がソウル特派員、北京特派員、中東特派員を経験して、アジアとの関わりの大切さというものを知ったからです。
それで大学教員に転身しようと思いまして、いくつかに応募して、神戸の大学に採用が決まったんです。
しかし、抗議のメール等で、神戸松蔭女子学院大学は非常にショックを受けて、事実上、私に辞退を求めたわけです。
それは示談という形で、合意で契約を解消しました。
もちろん、その時に朝日新聞に戻る方法もあったかもしれません。
だけれども、"捏造記者"というレッテルはもう貼られたままです。
そのレッテルを剥がすため、レッテルを貼った者と闘うためには朝日に戻らず、一人のジャーナリストとして闘おうと思いました。
何故なら、闘うためにはたくさんの時間が要るんです。
"捏造記者"という風に記事を書かれてから、私は捏造記者ではないという証拠を探すために、毎日とてもたくさんの時間を使ってきました。
そして、私を取材する色んなメディアがたくさんの質問状を送りつけてきます。
時間がたくさんかかるんです。
残念ですが、フリーになって時間があるので、それができるというのが現状です。
ーー 嫌がらせの中に身体的な攻撃はあるのか?
また、ネット上での中傷に対して、家族はどう感じているのか
植村氏:
私は今のところ言葉で脅されてるだけです。
パリの事件は本当に痛ましい事件です。
何らかの憎悪が原因で起きたと思います。
やはり寛容さが欠けている人々がこういうようなことをしたんじゃないかと思います。
私は、今物理的な攻撃を受けているわけではありません。
私の記事が捏造という風に言われますが、当時は同じようなスタイルの記事が他の新聞にもたくさんあったんです。
それが今こういう風な形でターゲットになって、個人が標的になってバッシングされている。
やはり寛容でない社会で起きている現象という点では共通点があるかもわかりません。
歴史の暗部、日本でいえば、戦争中の触れられたくない過去。
それに対して、目を向けようとする人たちに対して、それを怯ませようという動きが日本にあると思います。
それが誰なのかわかりません。
例えば、私の家に嫌がらせ電話がかかってきました。
私の家の電話は全く公開していません。
だけれども後で調べたら、インターネットに私の電話とか、家の場所、娘の学校の名前、そういったものが出ていました。
弁護士にお願いして、誰が書いたか発信先を突き止める作業を何日もかけてやりました。
しかし、わかりませんでした。
こういう風な匿名性に隠れて非難する人々がどんどん増えていると思います。
それが私の記事とは全く関係ない私の勤務先にもこれだけたくさんの攻撃がなされている。
日本は民主主義の社会です。
こういう風な卑劣な行為は絶対に許さない。
皆さんのお力を借りたいと思っています。
◆「私は自分で愛国者だと思っています」
ーー 植村さんへの批判には「反日」というレッテルも貼られていると思う。
こうした記事を書く際に、植村さんは日本についてどのように考えているのか。
また、最近台頭しているといわれているナショナリズムについて、どのように考えているのか。
植村氏:
今、ちょうど関連する資料をお見せします。
ここにですね、私宛のハガキが大学の住所に送られてきました。
読みましょう。
「出ていけ、この学校から。出ていけ、日本から売国奴」。
これは大学に送りつけられたハガキであります。
こういうのもあります。
「日本で稼ぐな。大好きな韓国に帰化して姑に食べさせてもらえ」。
しかし、私は反日ではないんです。
私は日本が他のアジアから尊敬される、本当の仲間だと思える国になってほしいんです。
そういう意味では、私は自分で愛国者だと思っています。
学生に言っています。
僕の学生は、韓国、台湾、中国から来る学生が多いです。
いつも言っているんですが、
「もちろん今日本で不愉快なことがたくさんあるかもわからないけれど、日本もいいところがあるし、日本と隣国は大切な関係なので、是非日本でいろいろなことを学んでほしい」と。
私は幸いなことにソウル特派員と北京特派員という二つのアジアの街の特派員をさせていただきました。
その時の政治状況で国と国との関係は良くなかったりというのはありますが、どの街も人間として同じように触れ合えて、本当に隣国の人たちと仲良くなりました。
そういう風な学生と接しているわけです。
僕はアジアの中で隣国との関係はとても大切だと思っています。
それをずっと記者としても、考えてきましたし、訴えてきました。
まったく知らなかったのですが、僕の学生が日本語スピーチコンテストでスピーチをしてくれました。
「植村先生をやめさせないでくれ」と。
日本に「言論の自由」とか「学問の自由」とかがなくなっていたら、それは隣国にも影響がある。
そんな学生を持って僕は幸せですので、絶対にこんな卑劣な脅迫で大学を去りたくないと思っております。
こういう卑劣な書き込みとか攻撃する人たちのことを、何故そういうことをするのかわかりません。
ただ一つだけ言えるのは、多分そういう人たちは、韓国や中国の友達がいないんじゃないか。
そういう人たちと触れ合ったことがないんじゃないか。
だから、心の中で排外主義が高まっているんじゃないかと思います。
ーー 昨年11月、脅迫電話をかけて逮捕された人間がいたが犯人は略式起訴でした。
処分が軽すぎると思うのだが、こうした処置や今回の事件に関する政府の姿勢をどのように考えるか。
植村氏:
確か新潟県の男性が逮捕されたと思います。
全く面識のない人です。
名前も私は存じ上げませんでした。
一つ私がジャーナリストとして残念なのは、何故この人がまったく見知らぬ私、大学を脅迫したのか。
その後のフォローの記事が日本のジャーナリズムにないことです。
逮捕された時は大きく出て、処分・略式起訴の段階になると小さくなりました。
事件で一番大事なのは動機であります。
この人がどういう動機でこのようなことをしたのか。
それを考えることこそがこうした行為を防止する方法ではないかと思っています。
この処分が重かったかどうかはわかりません。
ただ、抑止効果になったとは思います。
北星学園というのは学生数がたった4200人の小さな学校です。
しかし、明治時代にアメリカの宣教師がつくったミッションスクールであります。
1995年の戦後50年の時に「北星平和宣言」というのを発表した学園でもあります。
アジアの侵略戦争の反対と人権教育の大切さを訴えています。
こんな小さな大学が、この激しい攻撃に耐えて、私を雇い続ける、「学問の自由を守る」と言ったんです。
小さな大学が大きな勇気を示したんです。
北星学園のこうした平和宣言というのは、日本政府が歩む道でもあると思います。
必ずや政府も北星学園を支援して、こうした卑劣な行為を食い止める力になってくださると思います。
神原弁護士:
今の件について、一言だけ。札幌の現地の弁護士から、現地の警察はこの脅迫問題について、必ずしも熱心ではないという情報をもらっています。
そこで弁護士が300人以上、名前を並べて刑事告発をする。
そのような運動も行っております。
日本の警察はキチンとこのような卑劣な犯罪を取り締まるために戦うべきだということもここで訴えさせていただきたいと思います。
◆「吉田清治証言についての記事は一本も書いていない」
ーー 「吉田清治証言」については、何本記事を書いたのか?
虚偽であった吉田発言は結果的に反日を煽ったわけだが、これについて植村さんはどう考えるか?
植村氏:
先程も少し触れましたが、「吉田清治証言」の記事がありますね。
私は一本も書いておりません。
私は「吉田清治証言」の後に慰安婦問題の取材を始めた世代です。
「吉田清治証言」の取材はしておらず、その後に慰安婦のおばあさんに直接取材を始めた世代です。
本屋さんに売っている本に、「朝日バッシング」の本があるんですけれども、そういうのにも「吉田清治証言についてたくさん書いている植村記者」という表現がありました。
だいたいこういうのこそ捏造というのではないかと思います。
今月号、昨日発売された「世界」にその辺のことを書いています。
以下に、デマ情報が活字にまでなっているのか、ということを書いています。
私が書いた金学順さんの記事というのは、当時のことを調べましたら、8月11日の記事は、まったく韓国でも報道されていませんでした。
このため、私は「反日気分を煽った」と言われても煽ってません。
むしろ、日本がアジアの中で本当に信頼される仲間になるための作業をしていると思っています。
サルメラ:
「私は捏造してません」 ・・・?
ならば植村に聞きたい。
捏造記事を直接書かなかったにせよ、
捏造に未必の故意による関与をし、
増幅を仕掛けなかったと、果たして言うことができるのか?
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「強制連行」をでっち上げたのは植村隆ではない
池田信夫
2014年12月11日
きのう発売の『文藝春秋』に、
「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」
という朝日新聞の植村隆元記者の手記が掲載されている。
28ページにわたる記事のほとんどが「他社もやっていた」という言い訳と、彼が迫害されて職を失った話で、反省も謝罪もない。
特に大きな問題は「女子挺身隊」という日本政府による徴用を意味する言葉を、私的な慰安婦に使ったことだ。
問題の1991年8月11日の記事はこうなっている。
《日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。》
これについて植村は「意図的な捏造ではない」と主張し、「他社も挺身隊と書いていた」とか「朝日の記事でも過去にそうなっていた」などという。
この情報は当時のソウル支局長(小田川興)から教えてもらったと主張し、義母がその「挺身隊」を指弾する遺族会の幹部だったことは偶然だという。
慰安婦問題を取材しているうちに、同じ問題を調べている妻と出会って結婚し、あとから義母が遺族会の幹部であることを知ったという。
都合のいい偶然だ。
最大の疑惑は、金学順が「戦場に連行された」と言ったのかという点だ。
これについて1991年12月6日に提出された慰安婦訴訟の訴状では
「14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、養父に連れられて中国へ渡った」
と書いている。
ところが12月25日の植村の記事では、こうなっている。
《その後は子守をしたりして暮らしていました。
「そこへ行けば金もうけができる」。
こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。
仕事の中身はいいませんでした。
近くの友人と2人、誘いに乗りました。
17歳(数え)の春(1939年)でした。》
訴状には「14歳からキーセン学校に通った」と書かれているのに、17歳でいきなり「連行」されたように書いている。
しかも訴状ではキーセンに仲介したのは養父(おそらく朝鮮人の女衒)だが、植村の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。
訴訟が起こされたのは記事が出る前であり、彼は訴状を読んだことを認めている。
それなのに14歳から17歳の部分を落としたのはなぜか。
彼は「弁護団の聞き取り要旨にはキーセンのくだりがなかった」などと言い訳をしているが、そのすぐ後で「キーセンだから慰安婦にされても仕方がないというわけではない」と書いている。
つまり植村は、キーセンに売られた経歴を知りながら落として「連行」の話にしたのだ。
これは単なる誤報ではなく、芸者になる訓練をしてから慰安所に売られたという金学順の話を「女子挺身隊の名で連行」されたという(本人が言っていない)話に仕立てた捏造である。
植村は「だまされて慰安婦にされた」と書いているが、だました主語は誰なのか。
「挺身隊の名で連行」したなら朝鮮総督府か日本軍だが、人身売買なら女衒である。
これはまったく違う話だが、肝心の点をぼかしている。
しかし彼は一つ重要な告白をしている。
《私は[8月11日の記事の]本文では、この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書いた。
暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。
[…]
私自身は<女子挺身隊の名で>は、
決して<女子挺身勤労令によっての連行>ということを意味したものではなかった。
植村は記事では<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。》
なぜか最後の文だけ主語が「植村は」となっており、第三者が介入した形跡があるが、それはともかく、彼が金学順について書いた署名記事は2本だけで
「旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない」
という。
つまり強制連行をでっち上げて政治問題にしたのは、植村ではないのだ。
それが誰であるのかを彼は書いていないが、当時の彼の上司で慰安婦問題に熱心だった北畠清泰(故人)ではないか。
つまり慰安婦デマは植村の個人的な犯罪ではなく、大阪社会部の組織ぐるみの犯罪なのだ。
その部長だった渡辺雅隆社長が、問題を解明できるとは思えない。
植村は自分を言論弾圧や脅迫の被害者として描きたいようだが、その問題を解決するのは簡単だ。
逃げ回らないで記者会見を開いて、以上の疑問に答えることである。
それをしないで一方的に手記を載せても、誰も説得できない。
追記:1992年1月の「軍関与示す資料」の記事を書いたのは、辰濃哲郎記者(東京社会部)だと思われる。
本人がそう証言している。
ただし「挺身隊として強制連行」という囲み記事を書いたのは別人だろう。
サルメラ:
戦後70周年、植村裁判を煽って、左翼弁護士がうごめき出したという印象。
だが問題は『植村個人』にあらず、
もちろん、植村も含めてだが、『〝従軍〟慰安婦』捏造疑惑に、どこまで、誰が、どういうふうな経路で関与してきたのか、にある。
朝日新聞が一部で謝った。
これを蟻の一穴とし、せっかく流れはそっちに向かい始めたはずなのに、偏った右翼がそれを台なしにしてる感もあるなか、
この裁判を左翼の思惑通りにさせず、
ワンサイドでしか モノを見れない両ウィングに左右されることなく、
平坦な目で真実をつまびらかにするためのリスタートにしてほしいもんだ。