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池田信夫/ティラミスの鍵

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転載元 池田信夫のブログ
 

「江戸時代化」する世界

ギリシャが大統領の選出に失敗して年明けに議会選挙をやり直すことになりましたが、急進左派の候補が有力になり、ユーロは大きく下がっています。
ギリシャの問題はユーロ危機の原点ですが、根本的な問題はゼロ金利と不況から抜け出せない状況です。
これは日本の「失われた20年」と同じで、低金利・低インフレは世界的な傾向です。
その原因は労働人口の減少と投資機会の減少で、この背景には新興国との競争激化があります。
日本のデフレは、大収斂による長期停滞のトップランナーだったわけです。
 
もう一つの共通点は、決められない政治です。
ギリシャをユーロからたたき出せば、問題が片づくことはわかっているのですが、そうすると危機がポルトガルやスペインなどに波及するので、EU議会で合意できない。
国家を中途半端に統合した幕藩体制に似たしくみには、主権者がいないからです。
 
與那覇潤さんと書いた『「日本史」の終わり』では「グローバル化する世界で日本は江戸時代から抜け出せない」と書きましたが、同じ病気が世界にも広がっているようです。
江戸時代型システムで400年以上やってきた日本は、世界のモデルになるかもしれません。
 
 

獣と主権者

参考文献: 獣と主権者I (ジャック・デリダ講義録)
 
安倍首相のめざす憲法改正の意味を考えてみる。
彼を含めて右派の人々が意識しているのは、日本の主権(sovereignty)を実質的にはアメリカがもっている現状だ。
これを是正して一人前の主権国家になるという目標は悪くないが、それは自明の概念ではない。
ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国を300の領邦に分割したが、「至高の存在」という意味でsovereignな国家が300もあること自体が矛盾していた。
その後も、戦争や併合は続いた。
本書のタイトルは奇抜にみえるが、実はそうでもない。
カール・シュミットがいったように、主権者とは例外的な事態について決定する法の上に立つ存在だが、獣(人間ではない者)は法の下にある。
 
前者の権力は、後者を国家から排除することで成り立っているのだ。
逆にいうと主権は、「人間」以外を排除する暴力で支えられている。
アガンベンは、主権をになう市民からなるビオス(社会的な生)と、それ以外の難民などのゾーエー(むき出しの生)の差別を近代の「生政治」の基礎だとしたが、デリダはこれを執拗に批判する。
 
アリストテレスが人間を「政治的動物」と規定したように、ギリシャの昔から政治はゾーエーを含んでいた。
それどころか動物的な恐怖――特に肉体的な死の恐怖――に訴えることで政治権力は維持されてきた、というのがホッブズ以来の近代政治学の認識だ。
この意味で、フーコーのいう「死の政治」と「生政治」は切れていない。
 
主権とは、国家の中のこうした動物的な部分を抑圧して「ロゴスによる統治」をよそおい、被支配者である国民が選挙によって「主権者」になると思わせる組織された偽善(Krasner)である。
ロゴスとは何よりも、人間と獣の閾を画し、暴力の対象を獣(とみなされる者)に限定するための概念装置なのだ。
 
主権国家は、その内なる獣を抑圧し、他国を排除する閾によって成り立っているので、みずからその閾を壊す連邦国家が成り立つことはむずかしい。
それは近代国家の依拠している偽善を白日のもとにさらしてしまうからだ。
そして今、EUは神聖ローマ帝国の主権なき混沌に戻ろうとしているようにみえる。
 
日本は古来、主権を徹底的に拒否してきた。
形式的な主権者である天皇は、受動的に「まつられる」存在であり、何も決めないことで1000年以上続き、国家の同一性を維持してきた。
この世界にもまれに見る伝統は、ポストモダン国家の最先端なのかもしれない。
 
このような曖昧さを安倍氏がきらうのはわかるが、憲法改正で主権を「取り戻す」ことはできない。
それはデリダも丸山眞男も指摘するように、近代国家の本質的な欺瞞だからである。
 
 

世界政府という見果てぬ夢

参考文献: 政治的なものの概念
 
デリダが主権の批判者として評価するのはシュミットだが、彼はその先駆者としてマルクスをあげている。
カントの「世界政府」は主権国家の集合体であり、国家を統治する国家をもたない、と嘲笑したのはヘーゲルだが、彼の『法哲学』でもすべての特殊性を止揚した普遍が、なぜかプロイセン国家だった。
これを御用哲学と批判したマルクスはインターナショナルを創設し、完全な自由貿易を提唱した。
 
シュミットは本書で、このインターナショナルこそ近代国家を乗り超える形態だという。
国際連盟は中途半端な主権国家の寄せ集めにすぎないが、
「第三インターナショナルのように国家の境界を超え、その壁を突き破って国家の領土的閉鎖性を否定する運動こそ、戦争を最終的に終わらせる可能性をもつ」
と彼は評価した。
これが(国際化と区別される)グローバル化の本質である。
 
国際機関は政治家や官僚機構の妥協の産物であり、国際法は「主権国家の自己制限」でしかない。
それは本源的に国家主権に依存しているので、国家に不利な改革はできない。
もともと経済活動はグローバルであり、16世紀まで世界に国境はなかった。
労働運動はそういう資本主義以前の普遍的な連帯を求めている。
 
現代でインターネットが驚異的な成長を遂げたのも、国際機関の官僚機構をバイパスしたからだ。
しかしシュミットのいうように、政治が友と敵を区別することだとすれば、外のどこにも敵をもたない国家は、すべての内なる敵を弾圧することによってしか維持できない。
その根拠になるのは、みずからの理念の絶対的な普遍性である。
レーニンやルカーチがプロレタリアートの不可謬性をとなえたことは、この意味で一貫している。
 
もちろんそんな絶対的真理はないので、プロレタリア階級が全人類を解放するというレーニンの理想は、恐るべき逆ユートピアをもたらした。
シュミットはここから、主権国家がいかに欺瞞的であろうとも、それ以外の実在はないのだという。
だがデリダは、あえて21世紀に「新しいインターナショナル」の可能性をマルクスの中に見出そうとする。
それは主権国家を超えて連帯する人々のアソシエーションだ。
世界の不平等は、移民を無制限に受け入れる歓待で(論理的には)解決できる。
資本が国境を超えて自由に移動できるのに、どうして人々は国籍にしばられるのだろうか。
 
向こう数十年はシュミットのシニシズムが正しいだろうが、100年ぐらい先を考えると、マルクスやデリダの理想が実現する可能性もゼロではない。
ただしそれができるとすれば、人々の善意によってではなく兵器の均衡によってだろう。
 
暴力革命が先進国で不可能になったのは、政治が改善されたからではなく、国家の軍事・警察力と市民の武力の不均衡がきわめて大きくなったからだ。
中東で戦争が続くのは武力が多いからではなく、テロリストを鎮圧する国家の武力が不十分だからである。
 
マルクスは主権国家の矛盾を「市民社会」への回帰で乗り超えようとしたが、彼は市民社会(societas civitas)の本質が暴力にあることに気づかなかった。
暴力装置としての主権国家を乗り超えるには、暴力を完全にコントロールする世界政府をつくるしかないが、それは見果てぬ夢だろう。
 
 

ピケティと主権国家

ピケティは、レジオン・ドヌール勲章を拒否した。
「名誉ある人を決めることが政府の役割だとは思わないからだ」という。
ここには彼の国家観がよくあらわれている。『21世紀の資本』の冒頭に掲げられているのは、フランス人権宣言の第1条である。
 
人は自由かつ権利において平等(egaux en droits)なものとして生まれ、生存する。
社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ設けられない。
 
ここにいう平等は、日本人のイメージする結果の平等ではなく、すべての人が等しく同じ人権をもっているという同等性である。
これは今では自明にみえるかもしれないが、1789年にはそうではなかった。
特定の国にも身分にも依存しない人権という概念は、それまでヨーロッパにはなかった。
 
バークは、このような普遍的な人権という思想を批判した。
すべての人間が「同じ人権をもって生まれた」などという迷信にもとづいて革命を起こすと、その政権は人権の名のもとに他の国民を「解放」する戦争を起こすだろう、
という彼の予言は正しかった。
 
他方、マグナ・カルタで定められたのはイギリス人の権利なので、他国には適用されず、他国がイギリスの革命に干渉することもなかった。
抽象的な人権ではなく慣習を尊重し、政治も経済もあるがままにする英米的な自由主義が、その後もずっと資本主義の主流である。
 
それでいいのか、というのがピケティの問題提起だ。
資本の論理にまかせると、富は大企業や資本家に集中し、タックス・ヘイブンに逃避する。
今や世界の富の1割近くが地下経済になり、税率は逆進的になりつつある。
節税技術に多額の金をかけることのできる大富豪の税率が最低になるからだ。
 
マルクスが1848年に発見したグローバル資本主義は、主権国家と闘いながら成長してきたが、つねに国家にまさっていたわけではない。
戦後のブレトン=ウッズ体制では、国家が資本主義をおさえこんできた。
しかし今、この闘いは資本主義の勝利に終わろうとしている。
それを可能にしたのは、情報ネットワークである。
 
保守主義者はそれでいいというだろうが、資本が国家から自由になってオフショアに集まると、可処分所得の不平等はますます拡大し、財政をおびやかす。
主要国で対外純資産を計上しているのは日本とドイツだけだが、日本の企業も合理的に行動するようになると、連結の経常利益は上がるが、納税額は減る。
 
ここでわれわれは、資本主義か主権国家かという問いに直面する。
ピケティは経済システムとしての資本主義は守るべきだとしつつ、国家を守るために「グローバルな資本課税」を提案する。
それは今はユートピアだが、人権を守るために必要なユートピアかもしれない。
 
国家は巨大な資本の力の前には無力にみえるが、軍事力を発動すれば、資本主義をコントロールすることは不可能ではない。
ブッシュ政権は「マネーロンダリング防止」と称してケイマン諸島に介入し、EU各国の警察はリヒテンシュタインの銀行を差し押さえた。
これが保守と左翼の本質的な対立である。
 
私はピケティの意見には賛成しないが、富のグローバルな分配が21世紀の最大の問題になるという彼の見通しは正しいと思う。
派遣法反対などというお涙ちょうだいの政策しか出せない日本の左翼は、ピケティを読んだほうがいい。
 
 
 

ピケティは「現代のマルクス」か

きょうのアゴラ経済塾では、『日本人のためのピケティ入門』をテキストにして『21世紀の資本』の内容を解説する。
 
メディアがよくピケティのことを「現代のマルクス」と紹介するが、彼は「マルクスはよく知らない」と言っている。
『21世紀の資本』で「マルクスは資本が無限に蓄積されると予言した」と書いているのは、『資本論』第1巻の最後の部分の「資本が集中して労働者は窮乏化する」という話だと思われるが、これは理論的に説明されていない。
 
未刊の第3巻では「資本の有機的構成の高度化によって利潤率は傾向的に低下する」と書いており、一般にはこちらがマルクスの理論的な予言と考えられている。
これは独創的な見解ではなく、リカードの収穫逓減の法則だが、先ほどの労働者が窮乏化するという予言と矛盾する。
 
両方を矛盾なく理解するには、一定の規模までは収穫逓増するが、それを超えると収穫逓減すると解釈するしかない。
これは経済学でおなじみのU字型の費用曲線である。
固定費が大きい場合は、一定の規模までは大量生産のメリットがあって限界費用MCは低下(収穫が逓増)する。
これは市場には取引費用があるので、個人で生産するより工場でまとめて生産したほうがいいためだ。
 
これを進めると、全世界の企業が合併して一つの「世界株式会社」のようなものになり、それを労働者が乗っ取ってコントロールする、
という姿をマルクスは考えていたと思われる。
 
しかし実際には企業規模が無限に拡大することはなかった。
20世紀後半には多角化したコングロマリットが解体され、専門化したベンチャー企業が有利になった。
 
 
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A点を超えて規模が大きくなるとMCが上昇(収穫が逓減)し、資本蓄積によってMCが限界収入(MR)と等しくなる点Bに到達し、ピケティの言葉でいえば資本/所得比率βが安定する。
 
最近では、アップルやグーグルのように特定の分野でグローバルに水平分業して大規模化する企業が増えている。
これはインターネットなどの通信手段の発達で取引費用が下がり、最適なβが大きくなった(費用曲線が右にシフトした)と考えることができる。
 
ピケティは、この図の左側の部分をみているが、いうまでもなく資本が無限に蓄積されることはありえない。
これは彼も認めており、現代の成長理論の黄金律では、資本収益率rが成長率gと等しくなる点でβが決まることになっている。
 
だから問題は均衡状態Bでβの値がどうなるかという実証的な問題に帰着し、理論的には決着がつかない。
ピケティは最適なβの値を10~15と考えているが、今の先進国のβは5~7ぐらいだという。
この推定が正しいとするとr>gになり、資本蓄積が進む。
 
そういう資本過小の状態は発展途上国では考えられるが、現代の成熟した資本主義でそれほど大きな資本蓄積の余地があるとは考えられない。
10を超える極端に大きなβは動学的に効率ではない、とAcemoglu-Robinsonは批判している。
 
マルクスは『資本論』の第1巻では資本が蓄積されて企業が集中する図の左側の状況を想定したが、第3巻では資本が過剰に蓄積され、Bを超えると過剰生産が発生し、恐慌が起こって資本が破壊されると考えた。
この過少消費の理論は、ローザ・ルクセンブルクやカレツキからケインズに受け継がれた。
 
このようにピケティの資本蓄積論はマルクスとはまったく違い、世界で一律に資本蓄積が増大して格差が拡大するという彼の予言は疑わしい。
どちらかといえば、収穫逓増と逓減の両方を視野に入れていたマルクスのほうが21世紀の現実に近い。
 
 

タックスヘイブンという「新しい植民地」

参考文献: タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!
 
ピケティの本の前半は日本とほとんど関係ない。
ここで注意が必要なのは、彼のデータが税引き後の国民所得であることだ。
資本家にとっては税もコストの一つなので、それが最低の場所で納税することが合理的だ。
 
アメリカの不平等化の一つの原因が、タックスヘイブンを利用した租税回避である。
アップルの海外法人は、所得の1.8%しか税金を払っていない。
経済学者はタックスヘイブンは単なる税制の抜け穴だと思っているが、その規模は大きい。
ピケティはその規模を世界の総資産の1割と推定しているが、本書は1/4と推定している。
おおむねアメリカのGDPと同じだ。
2008年の金融危機を起こしたのはアメリカの金融資本だが、それをかつてない規模に拡大したのは、オフショアの「影の銀行」だった。
 
本書はその歴史を戦前までさかのぼり、植民地支配や金融システムとの関連で論じる。
ケイマン諸島や香港などの古くからあるタックスヘイブンの特徴は、その多くがイギリス領だったことだ。
これは偶然ではない。
大英帝国の植民地は世界の表舞台からは姿を消したが、それを支える金融資本の力は衰えていないのだ。
イギリスが旧植民地を経済的に支配するには政府を統治する必要はなく、シティを中心とする金融ネットワークに組み込めばいい。
その舞台に選ばれたのがカリブ海や香港・マカオ・シンガポールだが、それを運営しているのはシティの出身者である。
スイスやルクセンブルクなどのヨーロッパの小国も有力なタックスヘイブンだが、今や世界最大のタックスヘイブンはアメリカだ、と本書はいう。
世界の「地下資金」の多くは、ニューヨークでコントロールされている。
それは米国内でやったら脱税で、ネットワークを経由してカリブ海でやれば「金融技術」だが、どっちも実際に金を動かしているのはNYのファンドマネジャーである。
 
ケインズは第2次大戦後に、このような資本逃避が経済を混乱させることを懸念して資本移動を規制しようとしたが、アメリカの金融資本が反対し、その妥協としてブレトン=ウッズ体制ができた。
それも1970年代には崩壊し、変動相場制や「ビッグバン」で資本は自由になったが、それは人々を幸福にしたのだろうか。
多国籍企業の経営者の最大の関心事は「海外法人の最適配置」による租税回避だ。
その収益率は実業よりはるかに高いが、生産性はゼロだ。
80年代から法人税率も所得税率も下がり、各国の財政を悪化させている。
タックスヘイブンを利用できるのは大富豪だけなので、税は逆進的になった。ウォーレン・バフェットの実効税率は、彼の会社の受付係より低い。
 
著者は「金融資本が国家を脅かしている」と批判するが、法人税の租税競争は法人税(二重課税)を廃止すれば解決する。
しかし個人の所得税を廃止することは困難であり、ピケティのいう「グローバルな資本課税」は不可能だ。
OECDが規制を強化すると、途上国に新たなタックスヘイブンができる。
このようにグローバル資本主義は主権国家のフリーライダーになりつつあるが、それを根底で支えているのは国家による安全保障や財産権の保護である。
地下経済の規模がここまで大きくなると、それは国家の財政基盤を浸食するだけでなく、資本主義そのものを滅ぼすかもしれない。
 
 

ろくでなしのロシア

参考文献: ろくでなしのロシア─プーチンとロシア正教
 
今年の世界経済の震源地は、おそらくロシアだろう。
プーチンを理解するには、ロシア正教を理解することが不可欠だ。
彼はロシアの伝統的なツァーリであるとともに、ロシア正教会を支配するカリスマにもなりつつあるからだ。
ロシア正教は、キリスト教から出ているが特殊ロシア的に土着化したスラブ系信仰である。
聖書はほとんど読まないで、教会は信徒を叱る。
民衆は教会の権威に従うことで「人生の意味」を教えてもらう。
ドストエフスキーの「大審問官」の世界である。
キリスト教の特徴は教権と俗権の分離だが、ロシア正教ではツァーリが教会を支配する神権政治になった。
これは「タタールの軛」と呼ばれるモンゴル人による征服のあと、16世紀にイワン4世がロシアを統一したときできた伝統である。
これは皇帝が「天子」だった中国と似ているが、ロシアでは正教会の精神的権威が強く、宗教的な正統性をめぐる争いが絶えなかった。
東方教会の教義はマリア信仰が重要な地位を占めるなど異教的だが、ローマ帝国が没落した後は正教会(Orthodox Church)を名乗った。
こうしたロシア正教の権威を利用したのがレーニンだった。
彼はロシア社会民主党の主流だったメンシェヴィキを「異端」として罵倒し、自分こそ「マルクス=レーニン主義」の正統だと主張した。
西欧的な社民主義は、スラブ的な家父長主義に慣れた民衆には根づかなかった。
 
プーチンは、こうしたツァーリズムの伝統を典型的に継承している。
彼は事実上の終身大統領となり、政府がロシア正教を支援して実質的な「国教」にしようとしている。
彼に対抗できる政治的勢力は、国内にはない。
それをくつがえす力があるとすれば、経済危機だろう。
 
日本やEUの問題が主権の不在による「決められない政治」だとすれば、ロシアの問題は主権の過剰である。
これは中国と共通の「ユーラシア中央型専制国家」で、日本とは対角線上にある。
ロシアとつきあうには、まず相互理解は不可能だということを理解したほうがいい。
 

総力戦体制の亡霊

参考文献: 総力戦体制 (ちくま学芸文庫)
「戦争が資本主義を生んだ」というのが『資本主義の正体』のテーマだが、この問題はようやく日本でも論じられ始めた。
本書は私とは違う角度から、戦時中の総力戦体制が戦後の高度成長を生んだ、という議論を検証している。
これは野口悠紀雄氏の「1940年体制論」としておなじみだが、その起源はなんと丸山眞男の学生時代の論文「政治学に於ける国家の概念」(1936)にさかのぼる。
 
個人主義と天皇制国家を止揚する「弁証法的な全体主義」を展望した丸山の思想は、当時の社民勢力に呼応するものだったが、彼らが大政翼賛会に真っ先に合流して戦時体制に協力した。
これは大河内一男などの社会政策の伝統にもつながる。
 
大河内は戦前の論文で、労働者を疎外して部品化する資本主義を批判し、「戦争は経済体制の戦時体制への編成を通じて社会政策を強度に押し進める」として、産業報国会を高く評価した。
これらの論文は戦後はすべて絶版になったが、彼の理念は丸山や大塚久雄にも共有されていた。
そして戦後の占領統治でも、こうした左翼が占領軍のニューディーラーに協力し、戦後復興の総動員体制ができた。
それは不在地主や財閥を解体することによって、資本主義の中心を株式会社から銀行に移す国家資本主義だった。
これは結果的に大成功し、通産省のターゲティング政策も効果を発揮した。
 
しかし総力戦体制は「一国資本主義」であり、グローバル化とともに行き詰まる。
金利を規制して資本コストを抑え、貯蓄を奨励して高い資本蓄積を実現した日本型の産業政策と産業金融は、目的関数がはっきりして資本不足の時代には機能したが、資本過剰になるとその効率的な配分ができない。
 
本書はマルクス主義の側からこの問題をみているので議論が混乱しているが、
1930年代以降の日本の政治・経済体制がほぼ一貫して国家社会主義だったという指摘は正しい。
それが複数均衡状態でのビッグ・プッシュとして機能したことも、最近の経済史で再評価されている。
その伝統を受け継ぐ(岸信介のつくった)通産省の産業政策は「均衡選択」の局面では きいたが、経済が成熟するとじゃまになる。
官民ファンドが乱立している状況は、総力戦体制の末期症状である。
 
こうした霞ヶ関の家父長主義の源流は、社会政策の流れをくむ戦後リベラルと同じなのだ。
 
 

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