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『平安神宮』を検索して、

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個人的には、右翼にも左翼にも与しない、そういうスタンスでいたいとは思うけれど、どうしても日本人だから、日本びいきになる。
だから、理不尽な生国の悪口雑言を聞けば頭にも来る。
それは当然の話で健全なことだと思う。
日本人なんだから。

だけど、日本人なのに、意図的に日本を卑下し、場面によっては国益さえ損なう輩がいる。
なぜか?
きっと、カネ貰ってるとか、おいしいことがあったり、そうでないなら、洗脳されてるんだろう。
そう思ってた…
いや、そういう人間もいるんだろう、きっと。

だけど、皆が皆そうでもない、ということがなんとなくわかってきた。

例えば、ウィキペディア『平安神宮』を検索して、思うことがあった。


【平安神宮】
1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。
ただし、外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている。
創建が比較的新しかったことから、当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が見込めなかった。
しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建された。
この火災は、後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明した


【加藤三郎 (新左翼)】
加藤 三郎(かとう さぶろう、1948年7月25日 - )は、日本の新左翼の元活動家で、神社本庁爆破事件など数多くの反日武装闘争という名の爆弾テロを実行した。
指名手配中にインドの神秘家のバグワン・シュリ・ラジニーシに弟子入りしたことから「スワミ・プレム・デパム」の宗教名もある。

1948年7月25日、岐阜県武儀郡神渕村(現・加茂郡七宗町)で天理教の教会を営む両親の三男として生まれる。
幼少時より天理教の陽気ぐらしの教義に親しみ、弱者のために生きていく価値観を育む一方、兄が成績優秀であったため、兄に対するある種の劣等感を持ちながら成長していった。
1964年、岐阜県立加茂高等学校に入学すると、「生きることの意義」を見い出すために文学に傾倒していった。

高校3年生の時、小田実のベ平連参加を呼びかける檄文に触れ、「名古屋ベ平連」に参加することになった。

高校卒業後は、土工のアルバイトをする中で、多くの在日韓国・朝鮮人と知り合い、日本の民族問題に関心を持つきっかけとなった。

1970年頃から、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』や、太田龍の『辺境最深部に向かって退却せよ』を読んだことで、「日本帝国主義の悪行」を知り、「犯罪民族・日本人」の「罪深さ」を痛感し、過激な反日思想を培っていった

1974年8月30日、三菱重工爆破事件(連続企業爆破事件の最初の事件)が起きると、加藤は事件を起こした東アジア反日武装戦線の刊行物『腹腹時計』を読み、彼らの反日闘争に強い影響を受けた。
やがて加藤は「武装闘争」という名のテロ行為に手を染めることになる。

手始めに、坂上田村麻呂の墓や明治天皇関連施設にペンキで落書き(加藤の表現によれば「ペンキゲリラ闘争」)をすることにした。
坂上田村麻呂は「桓武期の蝦夷侵略軍の総大将」、明治天皇は「アイヌモシリを侵略した天皇」というのが攻撃の理由であった。
1975年5月に決行し、新聞社にも犯行声明の電話をかけたが、報道されることはなかった。
続いて、1976年1月6日には平安神宮放火事件も起こしたが、この事件もほとんど報道されなかった。

加藤は「反天皇制闘争」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」と思い込み、ますます敵対意識を強めることになった。
そして爆弾テロを起こすに至った。

加藤が起こした爆弾テロ事件は以下の通りである。
様々な組織名があるが、全て加藤の単独犯行である。

1976年1月6日 - 平安神宮放火事件
1977年1月1日 - 梨木神社爆破事件(組織名:「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」)
1977年2月21日 - 東急観光爆破事件
1977年5月2日 - 東大法文1号館爆破事件(組織名:「世界革命戦線・大地の豚」)
1977年6月30日 - 三井アルミ社長宅爆破事件(組織名:「世界革命反日戦線・タスマニア1876」)
1977年10月27日 - 神社本庁爆破事件(組織名:「世界革命反日戦線・大地の豚」)
1977年11月2日 - 東本願寺爆破事件(組織名:「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」)

1978年の正月三箇日に明治神宮で糞尿を飛び散らせる「黄金爆弾」の製造に取り掛かっていたが、1978年1月1日に潜伏先のアパートで誤爆してしまった。
糞尿を飛び散らせることを目的とした爆弾であったため威力が小さく、軽傷ですんだが、自身は糞尿まみれとなってしまい、彼の心の方は深い傷を負った。

この誤爆事件以降、爆弾闘争は止め、ひたすら各地を転々とする逃亡生活をおくった。
逃亡生活中、以前愛読していたライヒの著書を再読していくうちに、「反日思想」からの離脱を自覚するに至った。

そして、ある書店で『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』という本が目に入った。
この本はインドの神秘家ラジニーシが弟子や訪問者の質問に回答していく宗教書であった。
加藤はラジニーシ思想に感化され、遂にラジニーシのサニヤシン(弟子)になることを決意し、「スワミ・プレム・デパム」の宗教名をもらうことになった。

1983年5月、加藤は逮捕された。
逮捕時はラジニーシのペンダントを身に付け合掌するなど、「修行僧」のような身振りをしていたことが話題となった。
加藤は現住建造物等放火罪等の罪状で起訴された。
加藤と弁護人は、平安神宮の放火箇所は「非現住建造物」であり、殺人罪並の量刑である現住建造物等放火罪の適用は不当と主張したが、裁判所はこれを認めず、一・二審とも懲役18年の判決が下った。
1989年7月、最高裁は上告を棄却し刑が確定した。
2002年12月に釈放され、現在は岐阜県内で自給自足の生活を送っている。




この加藤なんか、過激左翼だけど、典型的な日本人。
何が、というと、自分のことより、かわいそうな人に感情移入しすぎる癖。
悪いことをして、素直に悪かったと思う心を持ってる。
これ、白人至上主義では、絶対こういう左翼は現れない、って気がする。

厄介な隣国を利しようと意図する連中はともかく、
『美味しんぼ』の作者とか、『TVタックル』で名をあげた田島女史とか、
本気で日本が悪いことしたと思ってる。
いや、思ってるっていうか、実際そうだったんだろう。
そら、戦争だったんだから、どんなことだってある。

それでも、
こういうことを比較するのは卑しいとは思うが、
白人が有色人種にしてきたことに比べたとき、「どうなんだ?」 と、
つい言いたくなる。

実際、日本から被害を受けた中国や韓国が、(まあかの国たちも、チベットやベトナムで似たことしてるとは言え、)日本に噛み付くのはやむを得ないと思う。
それが、当時の常識だったと当事国に開き直るのは傲慢というものだ。

だが、原爆落としたりとか、黒人奴隷の代表国・アメリカに、慰安婦像が建つというのは、どういう了見だ(笑)。

ともかく、
右とか左とかで くくるのは、いまや虚しい。
この国の場合、左の人の主張にだって、どこまでも日本人を感じる。
「アイム・ソーリー・ルール」に過激に傾きすぎた、という話だ。
同じ日本人として、恥ずかしい過去をなんとか償いたいという気持ちが強いんだろう。
だが、その愚直な優しいさを持ち得れたのも、
結局、行き着くところ、天皇陛下の国で生まれたからこそ。
(他のどの国で生まれれば、そこまで自分の国を卑下できる?)

だが、
その優しさも度をこせば、
日本の常識など通じない、卑しく貪婪な隣国に蝕まれる元になることを、
一考してほしい。

勉強不足で、加藤某のこと、偶然見つけただけでそんなに知ってるわけでないし、誰かの命を奪ってるなら、論外だけど…
動機において、
個人的には、先述(ウィキペディア)の加藤の方が、ヘイトスピーチする連中より、よほど日本人だと感じる。

安直に言えば、
加藤某は止むにやまれぬ正義感、
ヘイトスピーチは、反吐が出るよな弱い者いじめ。

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