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『トッツァー沖縄離間計画』の誤算

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■沖縄集団自決の真実

【引用】
『沖縄集団自決 虚構の「軍事命令」』(明成社 勝岡寛次著)


◆沖縄集団自決訴訟では軍命令は証明されていない!
正論 2006年6月号

沖縄集団自決訴訟
(梅沢氏と渡嘉敷島の守護隊長、故・赤松嘉次氏の親族が、大江健三郎著の「沖縄ノート」(1970年発刊)について、出版元の岩波書店と大江氏を名誉毀損で訴えた裁判)
では、梅沢、赤松両氏側の請求を退ける判決がH23年に最高裁で確定したものの、大阪地裁も高裁も「隊長命令は証明できない」としている。

つまり集団自決の軍命令の存在など証明されていないのだ。

大江氏は関係者の直接取材どころか現地にも行かず、赤松氏を “罪の巨魁” と誹謗し、梅沢氏に至っては、「梅沢隊長のごときは慰安婦らしきものと不明死を遂げた」とまで書き捨てていた。

◆沖縄戦が始まる前に、日本軍は老人婦女子二十万人を疎開させていた
沖縄戦は、大東亜戦争の最終局面で戦われた戦争です。
昭和十九年には既に日本軍の敗色は濃厚となっていましたが、昭和二十年二月十五日、米軍は遂に日本領土の最南端だった硫黄島に上陸します。
栗林忠道 中将率いる日本軍守備隊は全島を要塞化し、持久戦法に徹することで、五週間にもわたって米軍をこの島に釘づけにしましたが、三月二十六日、遂に玉砕、硫黄島の戦いは終結します。

その同じ三月二十六日、米軍は沖縄の慶良間(ケイラマ)諸島に上陸。
この時、座間味島や渡嘉敷島で集団自決が起きています。
この日から三ケ月にわたり、日米両軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられました。

沖縄戦で最も悲惨だったのは、多くの民間人(沖縄県民)を戦闘に巻き込んでしまったことです。
沖縄戦における日本側の死者約二十万人の内の半数、十万人が沖縄県の住民でした。
実に住民の三人に一人が戦死するという、大変な犠牲を出しています。

しかし、それは決して日本軍が沖縄県民に、戦いを強いたという性格のものではありません。
「本土決戦」「一億玉砕」が呼号され、米軍が本土にも上陸することは確実視されていましたから、そうなれば本土でも沖縄と同じ戦いが、当然のように繰り広
げられていたことでしょう。
つまり、沖縄戦は「本土決戦」の前哨戦だったのであり、沖縄県民の尊い犠牲によって本土決戦が食い止められた、という事実があることを忘れてはなりません。

当時の日本は、沖縄県民の犠牲を最小限に食い止めるために、打つべき手は打っていました。
即ち、昭和十九年七月、サイパン玉砕と同時に老幼婦女子・学童計十万人を県外(本土へ八万人、台湾へ二万人)に疎開させることが閣議決定され、沖縄守備軍司令官 牛島満 中将も
「老若婦女子を戦火の渦にまきこんではいけない」
との考えから、県民の疎開に協力的でした。
実際、昭和二十年三月までに約八万人が県外に疎開しています。
(他に本島北部への県内疎開十五万人)

疎開するよりも日本軍と一緒に戦いたい島民の十七~四十五歳までの男子約三万人が「防衛隊」に組織され、男子中学生一六八五名(内戦死 七三一名)は「鉄血勤皇隊」として伝令・偵察等に活躍し、女学生五四三名(内戦死 二四九名)も「ひめゆり部隊」や「白梅部隊」として日夜従軍・看護に勤しみました。

その鬼神をも突かしめる協力ぶりについては、海軍司令官 大田実 少将が六月六日付で発した最後の電報によく表現し尽されています。

「県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集二捧ゲ
(中略)
シカモ若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ゲ 看護婦烹水婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
(中略)
陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ…
ヒタスラ日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ砲キツツ 遂ニ(以下判読不能)一木一草焦土卜化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリトイフ 沖縄県民カク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

最後の訣別電で、軍司令官自らがこのように打電しているのです。
正に沖縄県民の必死の戦いあってこそ、「本土決戦」は回避されたのでした。

◆沖縄県民の多くは日本軍を信頼しており、共に玉砕するつもりだった
当時の沖縄県民に、日本軍はどのような存在として映っていたのでしょうか。
沖縄県民の手記から、幾つか紹介してみたいと思います。

当時、座間味島女子青年団員の一人で、同島駐留の日本軍と行動を共にしていた宮城初枝氏は、手記「血ぬられた座間味島」の中で次のように書いています。

《昭和一九年九月一〇日
日本軍が上陸してきました。
(中略)
「私たちは村を挙げて軍に協力しましょう。
そして勝ち抜くまで軍と行動をともにしましょうね」
と、お互いに誓い合ったものでした。

九月二八日
薪取りやトイレの汲み取りを小学校の子供たちに分担してもらい、私たち青年は、軍に供出するための食料増産に従事しました。
以後、これが日課となり、重労働も、必勝を信じている島民にとっては労苦を苦労と感じることもなく、かえってほのほのとした快感さえ覚えるのでした。

一〇月末
予想どおり、食料不足は日一日と深刻になり、各家庭の家畜、主に牛、豚などは、村当局の命令によって、軍に提供することになりましたが、部落の人たち誰一人として文句をいう者はありませんでした。

ここには日本軍と一緒になって、最後まで米軍と戦い抜こうとする沖縄県民の姿があります。
一方、米軍についてはどうだったでしょうか。
昭和二十年三月二十六日、米軍が最初に上陸した阿嘉島の青年義勇隊員であった中村仁勇氏は、次のように証言しています。

…友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちをひと思いに殺してくれるんだと、安心していました。
みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。
当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。》

防衛隊員として日本軍と一緒に戦った渡嘉敷島の小嶺源次氏も、こう書いています。

《集団自決は必然的に起ったことだと思います。
その頃、アメリカ兵に捕われたら、女ははずかしめられ、男は男根を切られると、言い含められて、ほんとにそうされると信じていましたから。》

慶留間島で集団自決に失敗し、心ならずも米軍の捕虜となった大城昌子氏は、その時の気持を次のように証言しています。

《私は父と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、
…捕虜になってしまいました。
これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未すいのため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し訳なさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばってしまった米軍がにくらしくて、力があるのなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。》

これが日本軍と一緒になって戦った、当時の沖縄県民の偽らざる心情だったのです。
即ち、米軍は憎むべき敵であり、日本軍に対しては、
「いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだ」
というほどの信頼感を抱き、そういう思いで県民は米軍の上陸を迎えたのです。


◆「軍命令」とは無関係な座間味島集団自決

昭和二十年三月二十六日、米軍上陸と同時に座間味島と慶留間島で最初の集団自決が起きます。
前述の宮城初枝氏の手記は、集団自決を決意したときの様子を次のように書いています。

《三月二十五日
(中略)
島の周囲は十重、二十重に米軍の艦艇に包囲され、夜になって空襲は止みましたが、艦砲射撃は間断なく続いています。
部落民は島を取り囲んでいる艦艇を見て錯乱状態となり、それぞれの壕を出て村当局へと出かけて行きました。

私とてじっとしてはおれません。
(中略)
宮平つる子さんとばったり出くわしました。
つる子さんは覚悟を決めているらしく
「初枝さん、私と一緒に死にましょうよ。どうせ助からないのよ」
と言ったのです。
私も同じことを考えていましたので、
「一緒に死にましょうね」
と、語気を強めて応えました。
(宮城晴美『母の遺したもの』)

集団自決を日本軍による「命令」だったとする説が、巷間では流布していますが、ここには「命令」という言葉は一切出てきません。
それどころか、住民側から日本軍守備隊長に自決を申し出たこと、隊長はそれを断ったことが、次のように記されています。

助役(宮里盛秀氏)は(梅沢)隊長に、
「もはや最期の時が来ました。
私たちも精根をつくして軍に協力します。
それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」
と申し出ました。
(中略)
隊長は沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と、私たちの申出を断ったのです。》

その翌日、手榴弾の不発で集団自決に失敗した彼女たちは、守備隊とまた合流します。
そのときに日本軍の梅沢隊長が発している言葉・・・

《梅沢部隊長、内藤中尉が心から私たちの労をねぎらい、その無事を喜んでくださいました。
「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」》
は、もしも彼が自決を「命令」していたのだとすれば、全く道理に合わないことになります。

さらに、
同じ座間味村(阿嘉島)の青年義勇隊員だった中村仁勇氏は、次のように証言しています。

《二十六日の斬込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、
「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」
ときいたわけです。

野田隊長は、
「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」
と指示したそうです。
杉山というのは、…どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。
…部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。》

慶留間島で集団自決に失敗し、米軍の捕虜になった大城昌子氏も、次のように証言しています。

《前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。
ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と、死ぬ手段だけでした。
命令なんてものは問題ではなかったわけです。》

このように、座間味島・慶留間島での集団自決は、日本軍の「命令」とは関係なく、米軍に追いつめられた結果として起ったものでした。

◆日本軍の「自決命令」を直接聞いた人は誰一人いない 渡嘉敷島集団自決

渡嘉敷島での集団自決は、座間味島の翌日、昭和二十年三月二十七日に起っています。

当時の渡嘉敷郵便局長・徳平秀雄氏は、次のように証言しています。

《ここは危ない、と私たちは、かねて準備してあった西山陣地の後方、恩納川原の避難小屋めざして出発した。
誰の命令だったか知りません。

その時村民も、私たち同様、恩納川原に向かってぞろぞろ歩いていました。
(中略)

敵はA高地に迫っていました。
後方に下がろうにも、そこはもう海です。
自決する他ないのです。
(中略)

防衛隊員は、持って来た手榴弾を、配り始めていました。
(中略)

そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。》
(『沖縄県史』第10巻・各論編9)

証言の中には、日本軍の「命令」があったと明記しているものもあります。
当時の渡嘉敷村長・古波蔵(現姓米田)惟好氏の証言です。

《私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。
(中略)
安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松(日本軍守備隊長)の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。
…命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。

まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで迫っていた。
赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。
(中略)
盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。

集団自決はその時始まった。
防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。》

しかし、右証言をよく読むと、
「赤松の命令」というのは安里喜順巡査からそう聞いたという伝聞の形です。
しかも「村民を救う何か得策かも知らない」と思ったというのですから、この命令は「盆地に集合するように」という命令で、「自決命令」ではなかったことが判ります。

実際、このことを裏書きするように、安里喜順氏は曽野綾子氏に対して、次のように証言しています。

《(赤松)隊長さんの言われるには、
…あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。
只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。》
(曽野綾子『ある神話の背景』)

赤松隊長は「自決命令」どころか、村民に対して「生きられる限り生きてくれ」と、と指示していたのです。
このことは、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏もはっきり証言しています。

《赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。》

このように、実際には渡嘉敷島でも、日本軍が集団自決を「命令」した事実はないのです。

Q.
集団自決に使われた手稲弾を配ったのは日本軍ではなく、地元民からなる防衛隊だと聞きましたが、防衛隊というのは正規の日本軍とどこが違うのでしょうか。

A.
防衛隊というのは、こうした正規の日本軍とは別に防衛召集された、地元民のことを言います。
昭和十九年十月の防衛召集規則改正により、十七歳から四十五歳までの男子を召集して飛行場建設や陣地構築、弾薬運搬などの補助作業に当らせたものです。

慶良問諸島の防衛隊は第三戦隊に配属されていますが、赤松嘉次隊長は手榴弾を彼らに渡したことについて次のように語っています。

「防衛召集兵には、これは正規軍ですから一人一、二発渡しておりました。
艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。
今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」
(曽野綾子『ある神話の背景』)

住民の様々な手記を読むと、集団自決は実際には日本軍の関知していないところで、防衛隊の音頭によって始まったことが解ります。


◆日本軍と沖縄県民の離間を狙った米軍の「心理作戦」
米軍の沖縄侵攻作戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれましたが、一九四四年十月から沖縄戦を有利に進めるための「心理作戦」の検討を開始しています。

ハーバード大学のトッツァー教授がまとめた対沖縄心理作戦計画案「琉球列島の沖縄人 日本の少数民族」は、沖縄の歴史について詳しく考察した後、結論として次のように述べています。

《亀裂の利用
沖縄人と日本人の間のひびを現在の戦争に利用する事はできるだろうか。
(中略)
沖縄人は踏みつけにされてきた、という考えを増大させ、そして日本人全体と対比させて沖縄人としての自覚を持たせるように方向づけをする宣伝活動、即ち懐柔策は、実を結ぶ可能性がある。
…彼等の領土や国に侵入しようとする敵の計画を黙認するという状態になる可能性はある。》
(『沖縄県史』資料編2(和訳編))

この心理作戦は、「沖縄人」は日本人ではないと強調することで、日本軍と沖縄県民の間に楔を打ち込み、あわよくば沖縄県民を、沖縄に侵攻する米軍の味方につけようというものでした。

一九四五年一月六日付で成案がまとまり、二月九日付で発令された実際のアイスバーグ作戦計画書にも、次のような心理戦計画の方針が規定されています。

《上陸日七日前から十日後までの期間、この作戦の目的は敵軍の士気を落とし、兵士間に離反をもたらすことである。
民間人に対しては米軍部隊から遠ざかるよう警告する。
以前作成したビラを使用する。
上陸日十一日後以降は、主に地元の状況に照らし合わせてこれを継続する。
目標地にて作成した音声放送及びビラを使用する。》
(『沖縄県史』資料編12アイスバーグ作戦)

米軍はこうした心理作戦に基づいて、一九四五年三月末の沖縄上陸と同時に、二十五種類・八百万枚もの宣伝ビラを投下しています。
ビラの一つには、例えば次のように書かれていました。

《この戦争は皆さん達は関係ないではありませんか。
皆さん達は戦いたくない。
しかし思い掛けもない苦労や損害を受けています。
(中略)
内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。
…日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。
この戦争は、皆さん達の戦争ではありません。
唯、貴方達は、内地人の手先に使われているのです。》
(四月四、五日投下ビラ、『沖縄県史』資料編2)

このビラの狙いは、明らかに日本兵(内地人)と沖縄住民の心理的離間にあります。
沖縄県民を被害者に仕立て上げることで、両者が対立するようにわざと仕向けているのです。

また米軍は、捕虜になった沖縄住民には食料や衣服をふんだんに与えて厚遇しましたから、こうした「心理作戦」は功を奏し、捕虜の中には “敵は米軍ではなかった、日本軍だった” と思う人々も現れるようになります。
その典型的な例が、昭和二十年七月二十五日に沖縄人捕虜世話人から米軍司令官宛に出された、次のような嘆願文でしょう。

《米軍沖縄上陸作戦に移りますと、日本軍将校は全く赤鬼と化し、下士官は赤鬼の先鋒とし、か弱き押紙の老若男女を銃剣を以って戦線に狩り出し、ある者は急造爆雷を担がされ、ある者は女故、彼等将校、下士官兵の憎らしい慰め者の犠牲とされ、ある者は極大事な程食を奪われて飢餓に苦しみ、ある者は壕より追い出されて銃撃、爆撃、砲撃の犠牲となり、ある者は「スパイ」視され残酷な銃殺を受け、親を亡くす者、可愛い子を失う者、全くこの世の大地獄を現出し、何等罪無き沖縄人が、見るも無残な死骸を野山にさらしました情景は何と考えましょう。》
(『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』)

ここには、後に『鉄の暴風』で詳細に描かれることになる日本軍の非道ぶりが、既に告発されているのが見て取れます。
つまり、昨日まで一緒になって戦ってきた日本軍を罵り、昨日まで敵であった筈の米軍はどこかに消えてしまっているのです。

軍民離間を狙った米軍の心理作戦は、沖縄県民の心を捉え、憎むべき敵を日本軍に置き換えさせることに見事に成功したと言えるでしょう。

◆米国の「宣伝をする」ためにつくられた沖縄の新聞社

一九四五年(昭和二十)四月一日、沖縄本土に上陸した米軍は直ちに琉球列島米国軍政府を設置し、沖縄占領統治を開始します。

米軍の沖縄統治は、日本政府を通じて間接統治した本土とは異なり、軍政府による直接統治でした。
また、占領期間も本土が四月までの六年半だったのに対し、沖縄の場合は復帰するまで、二十七年間にわたって米軍の統治下にありました。

本土に比べ、沖縄の場合は米国の意思が、よりストレートに占領統治に反映され、住民の意思が顧みられることは全くなかったと言ってよいでしょう。
勿論、沖縄にも一九四五年には沖縄住民からなる会が設置され、やがてこれが沖縄民政府(一九四六)、沖縄民政議会(一九四九)へと発展しますが、それらはいずれも米軍の意思を沖縄住民に周知徹底させるために米軍が設けた、上意下達の伝達機関に過ぎませんでした。

軍政府の行った検閲政策も、本土以上に徹底したものでした。
本土では占領軍はプレス・コードやラジオ・コードを発表し(一九四五年九月)、既存の新聞やラジオを検閲の篩にかけますが、沖縄ではそうしたことすらせずに、最初から米軍 “御用達” の新聞を作ってしまいました。
それが占領下最初の新聞『ウルマ新報』(現在の『琉球新報』)です。

創刊は沖縄戦終結直後の一九四五年七月二十五日。
事実上「米軍の広報宣伝紙」で、現地ニュースは全て軍政府の検閲を受けました。
当時の関係者は、

「米軍によって軍政府の情報課へ引っぱられ、新聞をやれといわれた。
しかし、米国の宣をする新聞をつくるとスパイ扱いされるからご免だとは思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」
(辻村・大田『沖縄の言論』)

と回想しています。

というのは、後に集団自決の「日本軍命令」説を初めて記事にすることになる『沖縄タイムス』(一九四八年七月一日創刊)の創刊者の一人は、次のように述べているからです。

「沖縄タイムスの特色は創立スタッフが戦前の新聞記者経験者だったことです。
戦時中、大衆を戦争に駆り立てたという、新聞の持つ最も悪い面が出た痛恨事だった。
この大きな罪を背負いつつ『立ち直って、反戦の立場からもう一度、新聞を作ってみよう』との意気込みがあった。
それは一方で、新聞人としての贖罪の意味ともなり『真の平和を目指す新聞を作る』という心があったんです」

『沖縄タイムス』創刊号で社長の高嶺朝光氏は、

「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」

と述べていますが、このように軍政府に「誠実」に「協力」する以外に新聞人に生きる術はなく、彼らは最初から戦争への「贖罪」意識に基づいた、新たな新聞作りを余儀なくされたのです。

◆米軍の検閲を絶えず意識して書かれた『鉄の暴風』
それでは沖縄タイムス『鉄の暴風』は、何故、集団自決を日本軍の「命令」ということにしたのでしょうか。
渡嘉敷島の集団自決について、『鉄の暴風』は次のように記述しています。

《 …恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松(嘉次、渡嘉敷島守備隊長)からもたらされた。
「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。
軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」
というのである。
(中略)

日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は
「持久戦は必至である。
軍としては最後の一兵まで戦いたい。
まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食程を確保して、自給態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。
事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」
ということを主張した。

これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。》

『鉄の暴風』は米軍の検閲を絶えず意識して、「一種の自己検閲の心理」状態で書かれたことを、沖縄タイムス社自身が認めています。

《 …印刷物は米軍の許可を受けなければならず、米軍を意識してペンの動きはにぶくなり、一種の自己検閲の心理が働いた。
「鉄の暴風」は、そういう環境で書かれた。》(『沖縄の証言』上巻)

それでは、彼らが「自己検閲」をする際の検閲基準とは何だったのか。
鉄の暴風を執筆した同時期(一九四九年五月)に日本側(情報統計課長 川平氏)から軍政府に提出された、次のような「検閲規定草案」が残っています。

《•天皇現人神主義、封建主義、軍国主義、財閥、武士道、大東亜、自殺あるいは、自由人の本然の権利を否定するすべての思想、又は信仰(仇討を美徳とする思想)を賛美すべからず。
非民主的封建思想に対する盲従的伝統に従い、民衆の利益をジュウリンすべからず。
(中略)

•連合軍ならびに連合国を悪批判する演劇、出版なるものを禁ずる。 》


この検閲規定草案は、米軍が具体的な検閲方針を示さないので日本側から “自主規制” したものですが、集団自決は、米軍に追い詰められて起ったと書くことも連合軍「批判」になるので書けません。
そこで「米軍を意識して…自己検閲の心理」から、日本軍の「命令」ということにしたのだと思われます。


Q.
沖縄戦では日本軍のことばかりが悪く言われ過ぎているように思います。
他方、これとは対照的に米軍については好意的なことしか語られていないように思うのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

A.
平成十九年十一月、全日本学生文化会議に所属する学生が沖縄でアンケート調査を実施したところ(有効回答数七二三名)、
沖縄戦で悪いイメージを持っているのは「日本軍」だと答えた人が48%、
県民の二人に一人の割合だったのに対して、
「米軍」と答えた県民は13%、
八人に一人しかいませんでした。

実際には、米軍も相当ひどいことをしているのですが、日本軍の悪事だけがこれでもか、これでもかと強調されるのは、一体何が原因なのでしょうか。

例えば、次のような指摘があります。

「沖縄戦の諸相のうち、まだ一冊の記録、一篇のレポートにも書かれたことのない秘話がある。
戦時強姦、すなわち米兵による婦女暴行の実態である。
(中略)

米軍支配下の心理的圧力が沈黙を強いたのかもしれない。
戦場で強姦事件が多発したことは住民のあいだでは公然の秘密になっているのである。
本部半島のある部落では、米海兵隊が上陸した直後に、部落じゅうの婦人が手あたりしだいに米兵の毒牙にかかっている」
(大城将保『改訂版沖縄戦』)

米国のジャーナリスト、ジョージ・ファイファーも

「強姦は…多くの事例があった。
(中略)
全部で、おそらく数千件の事件があったと思われる」
(『天王山 沖縄戦と原子爆弾』)

と指摘していますが、一方では日本軍を悪く言い、他方では米軍の犯罪に目をつむるこうした心的傾向は、やはり米軍の心理作戦に由来するものと言わざるを得ないように思います。

◆渡嘉敷島集団自決の真相 

◇『鉄の暴風』に疑問を呈した曽野綾子氏
渡嘉敷島の集団自決について、最初に疑問を提起したのは、曽野綾子『ある神話の背景』(文芸春秋、昭和四十八年)です。

曽野氏は昭和四十六年七月、数日間、渡嘉敷島に滞在し、関係者への徹底した個別インタビューを行っています。
その結果、『鉄の暴風』の記述は全く信憑性に欠けることが明らかになりました。

『鉄の暴風』に赤松隊長の副官として登場する知念少尉は、未だ健在でした。
ところが知念氏は、隊長の「自決命令」をきっぱりと否定します。
赤松氏が自決命令を下したという地下壕での会議についても、曽野氏の質問に対して次のように答えています。

《「地下壕はございましたか?」
私は質問した。
「ないですよ、ありません」
知念氏はきっばりと否定した。
「この本の中に出て来るような将校会議というのはありませんか」
「いやあ、ぜんぜんしていません。
(中略)」

つけ加えれば、知念氏は少くとも昭和四十五年までには沖縄の報道関係者から一切のインタビューを受けたことがないという。》
(曽野綾子『ある神話の背景』)

『鉄の暴風』には、赤松隊長が地下壕で自決命令を下した後、
「これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、働失し、軍籍にある身を痛嘆した」
というくだりがありますが、これを書いた『沖縄タイムス』の記者は、知念氏本人に確かめてみることすらせず、憶測と想像だけでデタラメを書いていたのでした。

当時、赤松の傍にいて、自決命令の有無を証言できる人物はもう一人いました。
安里喜順巡査です。
当時の古波蔵村長が、安里巡査を通じて赤松氏の「命令」を聞いたと証言していました。
曽野氏は、その安里氏にも自決命令の有無を尋ねています。
安里氏の答はこうでした。

《 …隊長さんの言われるには、
…あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。
只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。
(中略)

(住民を)集めたら、こういう結果になってしまって。
村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい、その時、私は生かすために、ここ迄苦労して、避難して来たのにね。
…生かすためにつれて来た、隊長もそういうお考えで
…しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になつていますからね。
恐怖に駆られて… 》

赤松隊長は「自決命令」どころか、「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と、実際には正反対のことを言っていたのでした。

それでは何故「軍命令」説は、こんなにも広まってしまったのでしょうか。
『鉄の暴風』だけが原因だったのでしょうか。
曽野氏は、この本の中で「一つの意見」と断った上で、
「軍命令であったということにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が下りなかったのだ、という説」もある、
と紹介しています。

◇赤松隊長は村を救うため十字架を背負った
集団自決を「軍命令」にしたのは、遺族年金を貰えるようにするためではなかったかとの説は、その後、受給業務を担当した職員の証言によって、その通りだったことが判明しました。

証言をした人物は、元琉球政府社会援護課職員の照屋昇雄氏です。
戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二十七年)を沖縄県に適用するため、照屋氏は昭和三十年から三十一年にかけて遺族を調査、その際に渡嘉敷島にも入り、島民に聞き取り調査をしています。

『産経新聞』平成十人年八月二十七日付に掲載された、照屋氏との一間一答は次の通りです。

《・当時の立場は?

「私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」

・渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか?

「一週間ほど滞在し、一〇〇人以上から話を聞いた」

・その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか?

「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
(中略)

・集団自決を軍命令とした経緯は?

「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。
…でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。
『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、
厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」

・赤松元大尉の反応は?

「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。
喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら
『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』
と言ってくれたそうだ。
赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」

「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。
…しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。
私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」

・住民は、このことを知っていたか?

「住民は分かっていた。
だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」

集団自決が「軍命令」とされた背景には、こういう事実が隠されていたのです。

照屋氏は、調査から間もない昭和三十五年の時点で、「渡嘉敷島集団自決真実」と題したメモを残していますが、そこにも次のように書かれている由です。

《赤松隊長の同意を得て援護金を得るため、玉井村長と二人で極秘で当時、
…赤松隊長の身になって自決命令状を書いた。
玉井村長はこの嘘の命令書を持って、隊長宅に行き押印して厚生省援護課に提出、島民を戦傷病者戦没者遺族等援護法の恩恵に浴せしめ極貧から救ったのである。
(中略)

ところが新聞人の耳に真実のことを入れると大変なことになる。
文書偽造、援護金横領等大きく悪口を報道される時代であったので村民官民あげて秘密主義を徹底致しました。》
(『世界日報』平成十九年六月十三日付)

こうして、渡嘉敷島における集団自決「軍命令」説は、完全に瓦解したのです。

◇「軍命令」証言を撤回した元女子青年団員
それでは、座間味島の場合はどうだったのでしょうか。

座間味島では、梅沢裕隊長から集団自決の「命令」を直接聞いたとされる当事者は五人いましたが、宮城初枝氏(女子青年団員)以外の四名は全員、集団自決で亡くなってしまい、梅沢隊長の自決「命令」があったか否かを証言できるのは、宮城氏だけでした。
その宮城氏は、こう証言していました。

《梅沢部隊長(少佐)から、
…老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった。》
(宮城初枝「沖縄戦最後の日」、『家の光』 昭和三十八年四月号)

集団自決の三十三回忌の日に宮城氏は初めてこの証言を覆す証言を、娘の宮城晴美氏に対していたのでした。

《母が私に、
「『悲劇の座間味島』で書いた『集団自決』の命令は、梅沢隊長ではなかった。
でもどうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」
と語りだしたのは、一九七七(昭和五二)年三月二十六日のことだった。

その日は、座間味島で「集団自決」をした人たちの三三回忌であった。
(中略)

慰霊祭が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話しだした。
梅沢戦隊長のもとに「玉砕」の弾薬をもらいに行ったが帰されたこと、
戦後の「援護法」の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。
そして「梅沢さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。
(宮城晴美『母の遺したもの』)

実際に宮城初枝氏はそれから三年後の昭和五十五年(一九八〇)、梅沢隊長に会い、謝罪しています。
そこにも立ち会った娘の晴美氏は、その再会の場面を次のように描写しています。

《母は、三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し、
…「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅沢隊長にそのまま帰されました。
命令したのは梅沢さんではありません」と言うと、
…彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず
「ありがとう」「ありがとう」
と涙声で言いつづけ、やがて鳴咽した。
(中略)

…母も、戦争で働き手やすべての財産を失った住民が貧しい生活を乗り越えるためには、「緩護法」を適用してもらうほかなかったことや、(集団自決を実際に命令した)助役の家族を苦しめたくなかったことなど、当時の島の状況を詳しく話した。

結局、座間味島の場合も渡嘉敷島と同じく、援護法の適用を受けるために「軍命令」があったという口裏合せがなされていたのでした。

一九五七(昭和三二)年、厚生省引揚援護局の職員が
…座間味島を訪れたときのこと。
母は島の長老から呼び出され、
「梅沢戦隊長から自決の命令があったことを証言するように」
と言われたそうである。
(中略)

「援護法」は、軍人・軍属を対象に一九五二(昭二七)年に施行された法律で、
…一般の民間人には適用されなかった。
(中略)

非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなければならなかった。》

このように、座間味島の場合も、集団自決が「軍命令」にされた背景事情は、渡嘉敷島の場合と全く同じだったのです。

◇補償を得るためやむなく「隊長命令」と申請

そしてここでも渡嘉敷島同様、実際の援護業務に携わった役場の担当者から、「軍命令」はなかったことを裏づける証言がなされたのでした。

これを最初に報じたのは『神戸新聞』で、証言したのは昭和二十八年から十三年間、自決者・戦没者遺族の補償業務に当った座間味村役場元援護係の宮村幸延氏です。
彼は『神戸新聞』の取材に匿名で応じ、次のように証言しています。

《米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。
戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を “拡大解釈” することにした。
戦後、初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった。》
(『神戸新聞』昭和六十二年四月十八日付)

宮村氏は、集団自決で亡くなった座間味村助役・宮里盛秀氏の弟で、当時座間味村遺族会長の地位にありましたが、同年三月二十八日、座間味島を訪問した梅沢氏に対しても、次のような証言を文書で認めています。

【証言】
座間味村遺族会長 宮村幸延

昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。
之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります

右 当時 援護係 宮村幸延

梅沢紘殿昭和六二年三月二八日
(本書が出版されたのはH20年1月)

現在大阪で争われている集団自決の裁判で、被告側はこの「証言」は宮村幸延民本人が書いたものではなく、梅沢氏が自分で書いたものだと主張しているようですが、宛名の「梅沢絃殿」の「紘」は、実名(裕)とは異なっており、梅沢氏が書いたものではないことは明らかです。

このように、渡嘉敷島でも座間味島でも「軍命令」はなかったとする証言者が続出し、しかもそれは遺族年金の受給を可能にするための方便であったという、第三者である役場の担当者の証言も得られたことから、沖縄戦集団自決の「軍命令」説はここに至って完全に破綻したと言っていいでしょう。

文科省はこうした事実経過を踏まえ、昭和五十七年の教科書事件以降、集団自決の「軍命令」説が一人歩きしていた教科書記述の現状に対して、初めて “ノー” を突きつけたのです。 

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