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『日本精神』を学ぶ/日本精神の精華『武士道』

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転載元 
『細川一彦』のオピニオン・サイト

■現代に求められる武士道の精神
2001.6.20
武士道は、かつて日本精神の精華と称えられました。
しかし、明治以降、徐々にその伝統は衰え、今日ではほとんど消え去ったかに見えます。

こうした現代において、日本には武士道の復活が必要だという意見が、根強く存在します。

俳優で武道家としても名高い藤岡弘氏は、あるインタビューで、若者に向けて、次のように語っています。

「いまの日本人、とりわけ若者たちになにが欠けているのかと考えると、先達が残してくれた偉大なる精神文化・武士道こそが欠けているのではないかと思います。
『武士道』とは、己を自己管理するための精神的・肉体的修行です。
自己を管理するためにはまず、自己発見の旅に出る必要があります。
それは、自分の目の前にあるどんな些細な出来事にも、ひとつひとつ真摯に取り組んでいく姿勢です。
マニュアルなど存在しません。
他力本願。そんな逃げ道も皆無です。

やがてその修行は、自己分析の旅ヘとひろがっていきます。
己の足りないところ、弱いところが見えてきます。
『武士道』は、己の心身を強化し、我慢を重ね、調和をはかり、そして弱いものを守るための修行なのです」

経済ジャーナリストで「第二海援隊構想」を推進している浅井隆氏は、次のように書いています。

「武士道とは何か。
私なりに解釈すると、それは自分を律するための『道』である。
そのために死生観とか美学があった。
そのような精神性が、いまの日本人にはいちばん欠けている」

「現在に、まったく武士道が残っていないかというと、
……阪神大震災などを見ても明らかなように、感情的にはならず、冷静に整然と秩序を守ってことにあたる精神がある。
公徳心もまだ大分残っている。
あれがアメリカだったら、大変な暴動に発展し、さまざまな事件が起きていたはずだ。
やはり武士道は細々とではあるがまだ日本に生きているのである」

「本当の意味の精神性の高揚がいまほど求められている時期はない。
それこそ、武士道の復活に他ならない」

東日本ハウス会長の中村功氏は、次のように述べています。

「(新渡戸稲造の)『武士道』に書いてあることは、大きく分けて二つあります。
一つは克己を教えています。
…欲望を抑え、辛いこと、苦しいことに耐え、自分を磨くこと
…名誉を重んじ
…勇気をもって悪と戦うこと…。

二つ目は『公』のために生きることは立派なことだと教えています。
…第3者のために役立つということ
…明治の公は国家に尽くすということでした。

こう考えてみますと、なぜ明治時代に世界が日本を尊敬したのか、当然のごとく分かります。
この二つを持っている人は世界中の人から尊敬されるのです。
『克己』『公』のために尽くす人は、世界の人の目から見ても、立派な人なのです。
この二つを日本人が完全に失ってしまったために、世界が今の日本を尊敬しなくなったのです。
明治の人のように立派な人間、立派な日本人になろうということが今の時代に求められています…」

最後に、作家で現・東京都知事の石原慎太郎氏は、世の父親や男性に向けて、次のように訴えています。

「日本固有の文化があるようでなくなってしまった本質的混乱が到来しようとしている今の日本で、家庭を立て直し社会を立て直し、国家を立て直していこうという時にわれわれは、宗教などを超えて、われわれのごく近い先祖が尊崇し、評価し、憧れた武士道というものの本髄がなんであったということをもう一度考え直してみるべきではないだろうか。

武士というのはやはり何よりも男だったわけですから、その武士の末裔の男として、自分の家庭の繁栄なり確立のために、武士道をいま改めて自分にどう取り込むかということをそれぞれの父親たちは素直に考えてみるべき時期に来ているのではないか」

かつての日本人は高い精神をもっていました。
その精神のよき表れが武士道でした。
武士道を見直すことを通して、現代の日本人が忘れている、日本の精神文化を取り戻すことができるでしょう。

■武士とは、武士道とは
2003.1.31
武士という階級が現れたのは、平安時代の後期、10~11世紀頃です。

12世紀末には、源頼朝が鎌倉に幕府を開きました。
この時から約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続きました。
戦士の階級が国を治めるという歴史は、シナや朝鮮には見られない、わが国独特のものです。
それゆえに、この数世紀の間に武士が創りあげた生き方や価値観は、日本独自の思想といえます。
それが、武士道です。

世界にもユニークな日本の武士の特徴を考えると、まず源氏が清和天皇を、平氏が桓武天皇を祖とするように、由緒ある武士は、皇室を祖先にもっています。
皇室から分かれた貴族が、京の都を離れて地方の役職をもらい、そこで専門戦士として働くようになったのが、武士の由来です。
それゆえ、源平の時代から徳川慶喜まで、武士は天皇に権威を感じ、それを侵すことなく、逆に自分の権力の拠り所として仰いできました。
本来、皇室から分かれた貴族の出身であるところに、武士の第一の特徴があります。

第二の特徴は、戦闘のプロフェッショナルであることです。
武士は古くは「もののふ」といわれました。
「もの」とは武器を意味します。
「兵(つわもの)」「弓矢取る者」とも呼ばれました。
弓矢や刀など武器を扱う軍事の専門家が、武士でした。
「侍(さむらい)」という名も、主君のそばで警護に当たる「さぶらふ」という言葉から来ています。
戦闘者としての自覚は、長く平和の続いた江戸時代においても、武士の精神から失われることがありませんでした。
ただし、「武」の究極は、その文字が表すように「矛を止める」ことであり、戦わずして勝つことでした。

第三の特徴は、土地に密着した為政者であることです。
平安時代後期、辺境の防衛に当たった武士たちは、年月を経るうちに、その土地に定着し、自ら土地を開墾して、私営の田畑を営むようになりました。
こうして開墾領主となった武士は、「一所懸命」に領地を守り、広げ、受け継ぎ、競合しながら、巨大な集団へと成長していきました。
やがて、武士は、土地と領民を所有する為政者となりました。
そして、皇室の伝統と、儒教の政治道徳に学んで、領地・領国の経営に努めたのです。

これら三つの特徴、皇室から分かれた貴族の出身、戦闘のプロフェッショナル、土地に密着した為政者は、
それぞれ尊皇・尚武・仁政という徳目に対応します。

こうした特徴と徳目をもつ武士たちは、平安後期から鎌倉・室町・戦国の時代を通じて、独自の倫理と美意識を生み出しました。
江戸時代に入って、それが一層、自覚的に表現されることになりました。
これが、今日いうところの武士道です。

わが国は江戸時代に、徳川家康が朱子学を幕府の教学としました。
武士達は、外来の儒教を単に摂取するだけでなく、これを孔孟に戻って掘り下げて研究し、同時にこれに日本独自の解釈を加えました。
武士道は、この日本化した儒教を中心に、理論化・体系化がなされました。
江戸時代には幕藩体制の下、平和な秩序が確立され、戦闘者としての武士の役割は、無用のものとなりました。

それゆえ、武士たちは、自己の存在意義を問い、武士のあるべき姿を強く意識するようになりました。
武士道が思想として錬成されたのは、そうした背景があったからです。

冒頭に書いたように、武士道は、日本固有の思想であり、日本人の精神的特徴がよく表れています。
わが国は古来、敬神崇祖、忠孝一本の国柄です。
そこに形成されたのが、親子一体、夫婦一体、国家と国民が一体の日本精神です。
日本精神の特徴は、武士道において、皇室への尊崇、主君への忠誠、親や先祖への孝養、家族的団結などとして表れています。

そして、勇気、仁愛、礼節、誠実、克己等の徳性は、武士という階級を通じて、見事に開花・向上しました。
日本精神は、約700年の武士の時代に、武士道の発展を通じて、豊かに成長・成熟したのです。

明治維新は、武士道の発揮によって成し遂げられました。
近代国家の建設の中で、身分としての武士は消滅しました。
しかし、国民国家の形成を通じて、武士道は国民全体の道徳となりました。
大東亜戦争の敗戦後、武士道は、失われつつありますが、今なお日本精神の精華として、日本人の精神的指針たるべきものであり続けているのです。

■武士道の復活を願う 新渡戸稲造
2001.5.25
武士道が廃れ始めた時代、それは明治維新によって近代化が進められていた時代でした。
その時代に、武士道について、書物をまとめ、世界に紹介した人物がいます。
それが、五千円札の肖像ともなっている新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)です。

新渡戸は、ある時、ベルギーの学者に日本のことを質問されました。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがないというのですか」。
新渡戸は答えました。
「ありません」。
教授は驚いて聞きました。

「宗教がないとは! いったいあなたがたは、どのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」。

キリスト教が文明の基礎となっている欧州では、道徳は宗教を元にしたものであり、宗教なしに道徳教育など考えられないのでしょう。
しかし、日本にはそれに代わるものがある、それは武士道だと新渡戸は思い至りました。
そして明治32年(1899)、英文で『武士道』を書きました。
原題は、“Bushido, the Soul of Japan”、
つまり『武士道 日本の魂』でした。
新渡戸は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだということを、欧米人に知らしめようとしたのです。

新渡戸は武士の子でした。
幕末の文久2年(1862)盛岡(現岩手県盛岡市)に生まれた彼は、武家の家庭教育を受けました。
そして新渡戸は、明治の大改革の時代に成長しました。
クラーク博士の下で西洋の科学を学び、海外に出て活躍した国際的日本人でした。

名著『武士道』で新渡戸は、武士道を詳細に論じています。
まず新渡戸は、
「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である」
と説き起こします。
そして、武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。

新渡戸によると、武士道とは、もろもろの徳から成っているものです。

以下、各項目から、内容の一部を抜粋し、概観して見ましょう。

●「武士道の渕源」より
「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」

●「義」より
「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。
武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」

●「勇、敢爲堅忍の精神」より
「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。
孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」

●「仁、即惻隠(そくいん)の心」より
「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」

●「礼」より
「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。
それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」

●「誠」より
「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。
『武士に二言はなし』
二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」

●「名誉」より
「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。
… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。
『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」

●「忠義」より
「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」

●「武士の教育及び訓練」より
「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。
思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。
武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」

●「克己」より
「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」

以上のように、武士道は多くの徳によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことを、新渡戸は解き明かしています。

武士道は本来、武士階級に発達したものでした。
「だが」と新渡戸は書いています。
武士道は
「やがて国民全体の憧れとなり、その精神となった。
庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、大和魂、すなわち日本人の魂は、究めるところ島国の民族精神を表すにいたった」。

そしてそれが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸は述べています。

また、新渡戸は、欧米人にとっては日本には宗教がないと見られがちだが、武士道には、神道・仏教・儒教の顕著な影響が見られることを説き、日本精神には、独自の深い宗教性があることを明らかにしています。
そして、この精神は世界に通じる精神であると唱えています。

新渡戸稲造が、著書『武士道』を発表し、世界に向けて、武士道を伝えたのは、明治32年(1899)のことでした。
日本が明治維新を成し遂げ、アジアで初めての近代国家として、国際社会で注目されていたころです。
当時、欧米では日本人の精神面・道徳性についてはほとんど知られていませんでした。
そうした欧米の知識人に向けて、新渡戸は、
武士道こそが「日本の活動精神、推進力」であり、
「新しい日本を形成する力」であることを伝えようとしました。
そして、次のように書いています。

「維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人であった。
近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみるとよい。
伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ。
彼が考え、築き上げてきたことは、一に武士道が原動力となっていることがわかるだろう」と。

しかし、新渡戸は、同時にこの明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことを記しています。
西洋文明や科学技術の導入によって、日本は新しい国に大きく生まれ変わりつつありました。
しかし、新渡戸は、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。

確かに明治以降の日本のリーダーたち、経済人やジャーナリストや教育者などには、武士道から理想や信念を学んだ人たちが、多くいます。
武士道は姿形を変えて、日本人の生き方のなかに受け継がれてきたのです。
また今なお、武士道は、日本人の道徳心や規範意識を支えていることを、見逃すべきではありません。

新渡戸は書いていました。
「武士道は一つの独立した道徳の掟としては消滅するかもしれない。
しかしその力はこの地上から消え去ることはない。
その武勇と文徳の教訓は解体されるかもしれない。
しかしその光と栄誉はその廃虚を超えて蘇生するにちがいない。
あの象徴たる桜の花のように、四方の風に吹かれたあと、人生を豊かにする芳香を運んで人間を祝福し続けるだろう。
何世代か後に、武士道の習慣が葬り去られ、その名が忘れ去られるときが来るとしても、『路辺に立ちて眺めやれば』、その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう」と。

新渡戸稲造の『武士道』が発刊されて、はや百年が過ぎました。
彼の言葉は、予言のようにも祈りのようにも響きます。

現代の日本では、武士道に現れたような道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、消えうせたかに思われます。

武士道は、
「日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華」
と新渡戸は述べました。
そうした武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、日本人は精神的に劣化していくばかりでしょう。

この21世紀において、日本が大転換の時を迎えている今、私たちは、新渡戸の言葉に耳を傾け、武士道に現れた精神的伝統を取り戻すべき時に立っていると思います。

明治維新後、身分としての武士は消滅しました。
四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。
しかし、近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになりました。
国民皆兵によって、それまでは武士だけのものだった「武」の役割が、国民に広く共有されたからです。
ちょんまげや帯刀は廃りましたが、国を守る、主君を守るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。
封建的な武士道は形を変えて、近代的な道徳として再生されたわけです。
具体的には、教育勅語や軍人勅諭によく表れています。

新渡戸稲造の『武士道』は武士道の道徳的な側面を強調し、武士の本質の一つである「武」の部分を軽視しています。
「武」の部分を補ったうえで、明治中期から昭和戦前期における、近代国民的な武士道の展開をとらえる必要があるのです。

ところが、大東亜戦争の敗戦後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的にも武装解除がされました。
GHQは武士道に関する書籍や映画等を禁じ、西郷隆盛に関する本すら出版できなかったのです。
国民には国防の義務がなくなり、国防の意識すら奪われました。
私は、こうして占領期から本格的に武士道の精神が失われ出し、戦後の憲法と教育の下で、ますます失われてきていると思います。

その結果、日本や日本的なものを守るという意識そのものが低下し、日本人は、自国の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっていると思います。

武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、自己を保つことすらできないで、右往左往しています。
こうした状態が続けば、日本は亡国に陥り、日本人は苦海を漂流することになるでしょう。

それゆえ、日本の再生のために、「武士道のリバイバル」は重要なポイントとなっているのです。 

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