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日本精神を学ぶ/下克上でも崩れなかった国柄『もののふの道』

転載元
『細川一彦』のオピニオン・サイト

■応仁の乱と下克上でも崩れなかった国柄
2006.2.15
足利時代は、一言で言えば下剋上の時代です。
下剋上とは「下(しも)上(かみ)に剋(か)つ」という言葉です。

足利尊氏は、建武の新政を行っている後醍醐天皇に反乱を起こし、別の天皇を立てました。
これにより皇位が相対化されました。
さらに足利義満は、自ら太上天皇になろうとしたため、天皇の権威を引き下げました。
その結果、実力さえあれば下位の者が上位の者に剋ってよいという考えが、広がっていきます。

足利幕府では、政治力のない将軍が続いたため、8代将軍義政の時代には、幕府の運営は何人かの実力派大名の手に移りつつありました。
その実力者の中で、紀州の畠山家と越前の斯波家に、相続争いが起きました。
双方が大大名の細川と山名に支持を求めたため、対立がより根深くなりました。
さらにここで、本来彼らの調整役に回るべきであった、足利将軍家に後継者問題が起きます。
善政の弟・義視と、日野富子の子・義尚のどちらが将軍に就くかという争いです。
足利家自体まで分裂状態に陥ったのです。

やがて、
守護大名では細川勝元と山名宗全が、
畠山家では畠山政長と畠山義就(よしなり)が、
斯波家では斯波義敏と斯波義廉(よしかど)が、
将軍家では足利義視と義尚が、
東軍・西軍に分かれ、大戦争を引き起こすことになります。
これが、応仁の乱です。

応仁元年(1467)5月26日、
戦いの火ぶたが切られると、敵味方が入り乱れ、京都中が戦火に巻き込まれました。
大乱は以後、11年もの間続き、日本全国が動乱の淵に投げ込まれました。
その結果、わが国には歴史の大断層が生じました。
この大乱をきっかけにして、皇室や一部の公家などを除けば、古代からの多数の家が没落し、新たな家系が多く勃興したのです。

応仁の乱を機会に、下剋上の勢いが強まります。
将軍義政は戦乱が起きても反省することなく、風流に遊び、銀閣を建立し、現実逃避をしているような状態でした。
しかも、シナ(明)に対して窮乏を訴え、寄贈を依頼するなどの恥ずべき態度を取りました。
将軍がこんな風ですから、権力はその下に移るのが当然です。

応仁の乱の後、細川勝元の子・政元の時から、細川家は管領の地位を独占し、将軍は自分が選び出し、並ぶものなき権勢を得ました。
しかし、政元の後継者争いから内紛を生じます。
実権は執事の三好家に移る羽目になり、さらに権力がその家臣の松永久秀らに移りました。
そして、松永久秀は将軍義輝を殺害してしまいます。

下剋上とは、見方を変えると、天皇から将軍へ、将軍から管領・家老・家老の家来と、実権がどんどん下降していくこととも言えます。
こうした過程は、すべて相続争いと同族争いによって起こりました。

さらに新たな傾向が現れました。
応仁の乱の時、西軍に属していた朝倉孝景の戦績には、実に目覚しいものがありました。
朝倉氏は斯波氏に仕えていましたが、東軍の総帥 細川勝元は斯波氏との戦いを有利に進めるため、越前一国の守護を条件に、孝景東軍への寝返りを勧めてきました。
孝景は、忽ちこれに飛びつき、主家の斯波氏から守護職を奪い取りました。
これが下克上の始まりとも言われます。その後、各地に新たな実力者が登場し、群雄割拠の戦国時代が始まります。

わが国では、国の中心が揺らぐとき、国が分裂・混迷に陥ります。
12世紀の保元・平治の乱以後、戦国時代へと至る歴史を見ると、天皇が君徳を失い、皇統が乱れ、人臣が忠義を失ったとき、力と力、欲と欲がぶつかり合う乱世となりました。
そして、一旦、皇室の権威が雲に覆われると、実権は下方へ、下方へと下がっていき、とめどない分裂・対立の状態となっていきます。
将軍家はあるものの、権威と実力を失った戦国時代。
混迷の続く日本を再統一するには、新たな英雄の登場を待たねばなりません。
その英雄こそ織田信長です。
織田信長は、天下統一の要として、天皇を中心に立てることに思い至るのです。


■領民を思い、仁政を行う 北条早雲(1)
2006.3.1
足利時代の後期、京都が戦乱の巷(ちまた)と化した応仁の乱(1467-1478)を境に、古代からの名家の多くが没落し、新たな実力者が台頭しました。
足利将軍家の腐敗堕落により、家臣が主君を襲い、子が親を殺すというような、人倫にもとる下克上の風潮が広がります。
そして、地方に群雄が割拠し、覇を争う戦国時代となります。
そこに登場した最初の戦国大名が、北条早雲です。

早雲は諸国を流浪する一介の浪人でした。
そこから身を立て、歴史の表舞台に現れるのは、彼が40歳を過ぎてからのことです。
文明8年(1476)、今川義忠が戦死すると、今川家に内紛が発生しました。
この時、早雲は内紛を調停した功績により、興国寺城(現・沼津市)という小さな城の主となりました。

次に早雲は、関東に目を向けました。
延徳3年(1491)将軍代理の堀越公方・足利政知(まさとも)が死去すると、混乱に乗じて伊豆に攻め入り、一夜にして伊豆一国を奪い取りました。
これこそ、戦国時代の始まりとされる事件です。
時に早雲は、60歳を超えていました。

このように書くと、早雲は、老獪な大悪人という感じがするでしょう。
ところが早雲は常に領民のことを思う為政者でした。
興国城主となった早雲は、まず民の困苦の状態を調べました。
そして、農民の税を軽くし、困っている者には金銭を貸し与え、旱魃(かんばつ)の時には施しまでしました。
伊豆を奪った時は、自ら村落を巡視し、家ごとに病人がいることを知りました。
疫病のため10人のうち7、8人が死亡し、伝染を恐れた者は山奥に退避していたのです。
そこで、早雲は、村民に薬を与え、500人の兵を看病に当たらせました。
助けられた者たちは非常に喜び、山に逃れた親族を呼び寄せ、ともに感謝したといいます。

伊豆を平定した時、早雲は国中の主だった者を集めて、こう語ったと伝えられます。
「国主にとっては民はわが子であり、民から見れば国主は親である。
これが昔からの定めである。
世が末世になるに従って、武士は欲が深くなり、農民に重い税を課している。
国主どもは贅沢な暮らしをしているのに、民は暮らしに困っている。
自分はこのような民のありさまをはなはだ哀れに思う。
しかし、わしがこの国の主となったのも深い縁があっての事だろう。
自分はお前たちが豊かにくらせる事を願っている」

実際、早雲は年貢を五公五民から四公六民へと軽滅したので、農民たちは大いに喜びました。
また、政治を家臣任せにせずに、自ら進んで巡回し、裁きを求める時は直々に自分まで訴え出ることを推奨しました。
自らは粗食に麻の衣で質素な生活をし、家臣領民にも贅沢を抑え、土地を耕し、川を整備し、開墾をするよう奨励しました。
こうして、早雲は民生の向上に努めたのです。
そのため、家臣も領民も一同心から、早雲に信服しました。

その後、早雲は、明応4年(1495)、
相模の小田原城を攻め、大森藤頼を追ってこれを奪い、関東進出の第一歩を印しました。
この時にも領民に対しては寛大な処置をして、戦いを急ぐことなく、領国経営に力を注いでいます。

やがて相模の豪族はみな早雲のもとに下るようになりましたが、三浦義同(みうらよしあつ)・義意(よしおき)らだけは、早雲に従いませんでした。
毎年、攻め込んできて、容易に雌雄は決しませんでした。
しかし、永正9年(1512)、早雲は新井城に籠もる三浦氏に対して攻撃を開始しました。
そして、永正13年11月、これを滅ぼしました。
こうして、相模一帯を治めるようになりました。早雲は、この時、85歳を迎えていました。

早雲は着実に版図を広げては、城下の整備や検地の実施と新基準の貫高の採用など、領国経営に手腕を振るい、統治体制の礎を固めました。
永正15年(1518)早雲は家督を嫡子の氏綱に譲って隠居しました。
翌永正16年8月15日、伊豆韮山城で、88年にわたる生涯を閉じました。

その後、北条氏は五代百年にわたって関東を支配しました。
戦国の世にこれほど長く繁栄を続けたのは、珍しいことです。
それは、創業者の早雲が、力づくで国を奪うだけでなく、徳を養い、仁政を行って民を豊かにした、優れた為政者だったからなのです。

武士道には、
「尊皇」つまり天皇を尊ぶこと、
「尚武」つまり武を重んじること、
「仁政」つまり民を思う政治を行うこと、
という三つの要素が見られます。
下克上と戦国の世にあっても、単に武力だけでなく、民を思う政治を行った者が長く隆盛を得たのです。
そして、その仁政の源に皇室の存在があったところに、わが国の一大特徴があるのです。

■二十一箇条が家訓の原型に 北条早雲(2)
2006.3.16
徳川家康は、北条氏が滅亡した後、次のように語ったと伝えられます。

「武田信玄は近代の良将であったが、自分の父信虎を追い出した報いが、子に表れた。
勝頼は猛将であったが運が傾いて、譜代の恩顧ある者まで離れていき、はかなくも滅びてしまった。
これは、天道が、武田氏は親に対して当然持たねばならぬ恩義に欠ける点を、憎まれたためである。
これに対して小田原の北条氏は、百日ほどの長い包囲戦の際に、松田尾張のほかは、反逆した者は一人もいない。
またその時、一命を助けられた氏直が高野山に行った時も、命を捨ててお伴をしようと願い出た者が多かった。
これは早雲以来、代々受け継がれてきた方針が正しく、諸士もみな節義を守ったためである」と。

北条早雲は教訓を残し、北条家は代々それを守りました。
そこに五代百年の繁栄の秘訣がありました。
この『早雲寺殿廿一箇条』は、戦国時代・江戸時代につくられた武家の家訓の原型ともいえます。
そこには、当時の武士の生き方や価値観、つまり武士道が表現されています。

早雲の二十一箇条は、
「なによりも神仏を信じること」
で始まります。
この点は、やはり「神仏を大切にすべき」ということから始まる貞永式目に通じています。

続いて、第2条は“早起きをせよ”、
第3条は“夜更かしをせず、朝は身支度を整え、定時前に出仕せよ”、
第4条は“朝は手洗いの前に見回りをし、家人に掃除させよ”等々、
武士が日常生活で実行すべきことを、事細かく説いています。

また、第5条は“信仰は正直に勤めよ”、
第6条は“見栄を張るな”、
第11条は“まず、他人を立てよ”、
第17条は“良き友を求めよ”などと、
心の在り方についても具体的な教訓が並んでいます。

次に武士の心得として、特に興味深いものを挙げてみましょう。

第14条(嘘をつくな)
上下万人に対し、一言半句にても虚言を申べからず。
かりそめにも有のままたるべし。
そらごと言つくれば、くせになりてせらるる也。
人に頓てみかぎらるべし。
人に糺され申ては一期の恥心得べきなり。

(大意:身分の上下にかかわらず、万人に対して、一言半句もうそをついてはならない。
わずかなことも、ありのままに言うべきである。
うそを言っていると、それが癖になってしまう。
そしていつしか人から見放されることになる。
自分のうそを人から追求されることがあれば、一生の恥と思うべきである)

※古代から、嘘をつかず正直であることは、日本人が大切にしてきた徳ですが、武士の間においても重んじられたことがわかります。

第15条(歌道を学べ)
歌道なき人は無手に賤しき事也。学ぶべし。
常の出言に慎み有るべし。
一言にて人の胸中しらるる者也。

(大意:和歌のたしなみのない者は、ひどくいやしい感じがする。
是非学ぶようにせよ。
それによって普段の発言も慎み深くなるだろう。
たった一言の言葉によって、人の心の中がわかってしまうものである)
 
※武士にとって和歌を詠むことは、大切な教養でした。
古くは源平の武将、八幡太郎源義家、平忠度(ただのり)、鎌倉三代将軍源実朝らも、名歌を残しています。
皇室から分かれた貴族出身だった武士は、和歌を通じて、朝廷のみやびの文化とつながっていたのです。

第21条(文武は平常の心がけ)
文武弓馬の道は常なり。
記すにおよばず、文を左にして武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず。

(大意:文武・弓馬は当然のことであるから、特に記す必要はない。
文と武をともに身に付けることは古くからの掟である。
日ごろから心がけておかねば、できないことである)

※文武両道ということも、古くから言われていたことがわかります。

以上のように、北条早雲は、武士のなすべきことを、具体的また詳細に説いて、教訓としています。
北条家では、創業者の精神を受け継いで、これらの教訓を守り、実践しました。
徳川家康も謙虚に先人・早雲に学んだことが、徳川十五代の繁栄をもたらしたといえましょう。

■徳川家康が恐れ、学んだ武田信玄
2006.3.31
戦国時代の武将は、戦いに強くなければ、生き続けることができませんでした。
それとともに、政治の力量を求められました。
人心をつかみ、経済政策を実施し、領国経営に成功しないと、乱世に勝ち残ることができなかったからです。

この軍事と政治という両面において、最も優れた一人が、武田信玄でした。
信玄は単に勇壮な武将であっただけでなく、学問を愛し、その教養を実際に生かすことに長けていました。
彼が『孫子』などシナの古典を愛読し、その真髄を軍事や政治に活用したことはよく知られています。

軍事面では、信玄は、完璧なまでの組織力・統率力を持っていました。
信玄の指揮下、武田の騎馬軍団は勇猛・果敢を誇り、戦国最強とうたわれました。
なびく軍旗は、「風林火山」。
「疾(はや)きこと風のごとく、静かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし」。

『孫子』の一節です。
『孫子』は、必勝の条件はなかなか作り出せないが、不敗の態勢を築くことは可能だと説いています。
また、百回戦ってことごとく勝つよりも、戦わずして勝つことこそ最善としています。
信玄は「孫子」に従い、不敗の態勢を構築し、最小限の犠牲で勝利を得る方法で、領国を拡大していきました。

政治面でも、信玄は優れた手腕を発揮しています。
何より信玄は人材登用の名手でした。
人の技量をよく見極め、能力に合った仕事を与え、その技能を余すことなく活用しました。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」
という名句は、信玄の人材に対する考え方をよく表しています。
信玄に発掘され、登用されたさまざまな人材が知恵を出し合い、信玄の政治を支えたのです。

その政策で特筆されるのは、釜無川に「信玄堤」を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。
貨幣制度は信玄の甲州金が始まりといわれ、江戸時代の貨幣制度の母胎となっています。
そのほか、信玄は、甲州法度という法律の制定、金山の開発、軍用道路・棒道の普請、狼煙による情報伝達方式の構築等を推進し、優れた領国経営を行いました。
このことが、信玄の軍事力の裏づけとなっているのです。

さて、この信玄を模範と仰いだ武将に、徳川家康がいます。
家康は、若い頃から武田信玄を研究し、甲州金や甲州法度、思想・戦術から民政まで、多くのことを学び取りました。
それは信玄の凄さを誰よりもよく知っていたからです。

家康は一度、信玄と戦いを交えたことがあります。
元亀3年(1572)12月22日、三方ヶ原でのことでした。
家康は、京をめざす信玄と激突。
戦いは武田軍の勝利に終わりました。
家康も必死の奮戦を見せましたが、老獪な信玄の采配の前に、若い家康は為すすべもありませんでした。
負けを悟った家康は自刃しようとしますが、夏目次郎左右衛門が止め、家康を無理矢理、馬に乗せて、その馬の尻を槍でつついて逃したといわれています。

ところが、信玄は、折角勝利したにもかかわらず、病に倒れてしまいます。
信州の駒場城まで引き返し、療養に努めますが、病状思わしくなく、とうとう4月12日、息を引き取りました。
天下統一という一代の夢は、あえなく費えたのです。

一方、家康は、軽卒と慢心を反省し、惨敗した自分の姿を絵師に書かせて、己への教訓としました。
その後、家康は生涯、信玄を模範とし、徹底的に研究しました。
そして、信玄の政治、軍事、経済等、各方面における業績を、大いに摂取しました。
家康が、信玄の旧臣・大久保長安を登用して、各地の鉱山開発に当たらせたり、甲州流築堤法によって全国の水防工事を進めたりしたことなどが、よく知られています。
それゆえ、徳川260年の礎は、武田信玄にありと言っても過言ではないのです。

■武田流軍学の書、『甲陽軍鑑』
2006.4.16
武士道の本には、新渡戸稲造の『武士道』を元にするもの、
『葉隠』を中心とするもの、
武士個人を列記するものが多いようです。
私は、どうもそういうとらえ方では、見方が狭くなると思っています。

早雲・信玄・信長・秀吉・家康らは、戦国武将として描かれることが多いのですが、彼らを武士道の体現者・実践者として見ることによって、武士道のもつ深さ、豊かさを知ることが出来ます。

武士には一兵卒・一剣士としての侍もいれば、指導者・為政者としての大将や将軍もいました。
「もののふの道」とは、武士の倫理学でもあれば、軍事学でも政治経済学でもありました。
その辺もよく掘り起こしたうえで、今日に生かすべき武士道を考えたい、というのが私の観点です。

さて、徳川家康は、信玄を恐れ、また信玄に学びました。
幕府は信玄の軍学を取り入れたので、武田流軍学は江戸時代の武士道の一要素となりました。
武田流軍学を集大成した書が、『甲陽軍鑑』です。
著者は信玄の家臣・高坂昌信と伝えられますが、実際の編著者は小幡景憲(1573-1663)と見られます。

景憲は武田家滅亡の後、軍学を修め、徳川幕府に仕えて、軍学を講じました。
幕府は景憲が完成した武田流軍学を、官許の学として公認しました。
そして、『甲陽軍鑑』は「本邦第一の兵書」といわれ、武士の素養となっていたのです。
本書を中心に武田流軍学の主な特質を挙げてみます。

1.人材を尊重し活用せよ
武田流軍学は何より、人材を大切にしました。
大将には、三つの中心任務があるとし、その第一番に「人の目利(めきき)」をあげています。
人材を尊重し、人それぞれの個性を生かして使うことが、一番重要だというのです。
信玄は「渋柿も甘柿も、それぞれに役立たせるのが国持大名のつとめ」と言っています。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり」という名文句は、武田流軍学の特質をよく表わすものです。

2.戦争の目的を忘れるな
武田流軍学には、「後途の勝を肝要とする」ということがあります。
すなわち、個々の戦闘は、あくまで次の、より大きな目標に近づくための手段に過ぎない。
目先の現象に目を奪われず、将来の利害、大局の得失にもとづいて判断を下し、行動せよということです。
『孫子』の一節にも、
「明君名将は、つねに戦争の根本の目的を見失うことがない。
だからこそ、かれらは慎重なのだ。
有利、確実、かつやむを得ざる場合にのみ兵を動かして戦闘を交える」
とあります。

3.攻撃こそ最大の防御なり
『甲陽軍鑑』には、
「わが国ばかりが長久と思い、他国に攻撃をかけないでいると、他国から逆に攻め込まれてしまう」
とあります。
自分の国さえ安穏ならばよいと考えて、おとなしくしていれば、必ず他国の攻撃を受けて滅ぼされてしまう。
内に蓄えた力によって打って出て、他国の力を弱め、あるいはこちらの領国とする以外に、自らの安全を確保する道はないというのです。

4.組織を完全に統率せよ
「疾(はや)きこと風のごとく、
静かなること林のごとく、
侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、
動かざること山のごとし」

『孫子』軍争篇にあるこの言葉を、信玄は戦術の基本としました。
そして、事前の精密な作戦計画、首脳部の意志の統一、指揮命令系統の整備、全軍に対する訓練等を徹底的に行いました。
その結果、全軍が信玄の采配の下に一糸乱れずに行動できたのです。

5.内政を充実せよ
もともと甲斐の国(現在の山梨県)は山岳部の僻地です。
この甲州を基盤とした武田氏が勢力を振るったのは、信玄の精魂込めた富国強兵策によっているのです。

信玄は、領国内の統治体制を整備するという点でも、当時の諸大名の中では先頭を切っていました。
治山治水、鉱山の開発、商工業の保護育成など多面的な政策を進め、領国の経済力を強めるとともに、領民の心を引き付けました。
「国の仕置が悪ければ、たとえ合戦に勝っても国を失う」
というのが、信玄の警告でした。

以上、武田流軍学の特質を挙げてみました。
そして、その軍学を集大成した『甲陽軍鑑』は、自国の領土を治め、他国を従えるために必要な、政治・軍事・外交等の心得に満ちています。

武田流軍学を集大成した小幡景憲の門弟に、『武教全書』等の著者・山鹿素行がいます。
素行は赤穂浪士に武士の心得を説きました。
素行の開いた山鹿流兵学の師範だったのが、吉田松陰でした。
また、景憲・素行に師事した軍学者に、『武道初心集』の大道寺友山がいます。
信玄の英知は、このように江戸時代の武士道に生かされていったのです。

『甲陽軍鑑』や『武教全書』『武道初心集』を語らず、
『葉隠』や『五輪書』のみで武士道を語るのは、武士道の見方を狭くし、武士道のもつ深さ、豊かさを見失ってしまうと思います。


■天皇の権威で天下の統一を 織田信長
2006.6.14
応仁の乱より後、約百年の間、日本は戦国時代となり、国としての統一を失っていました。
その分裂状態から、再び統一を取り戻すためには、抜群の力を持つ英雄の出現が必要でした。
その英雄こそ、織田信長だったのです。

信長は、桶狭間の戦いで、自軍の数倍もの規模の今川義元軍に奇襲をかけ、見事、その首を挙げ、一躍戦国のニューリーダーとして名乗りを上げました。
また、徳川家康でも歯の立たなかった武田信玄の甲州騎馬軍団を一挙に滅ぼしました。
長篠の戦いでの鉄砲作戦が功を奏したのです。
馬防柵を作って敵の突撃を防ぎ、柵の後ろに数千丁の鉄砲隊を三列に並べ、代わる代わる一斉射撃させたのです。
こんな戦法は、それまで誰もが思いつかなかった戦法でした。
類似の戦法がヨーロッパで行われたのは、信長より55年も後のことだったのですから、彼の軍事的天才がわかります。

しかし、信長は武力によってのみ、天下布武を推し進めたのではありません。
信長は、統一には、統一の核となる中心が必要なことを知っていました。
そして、その中心はもはや足利将軍ではない、天皇でなければならないと看破していました。
ここに彼の政治的天才が見られます。

信長は最初、足利義昭を将軍に立てて京都に入り、室町幕府を再興しました。
しかし、幕府の再興は天下統一のための方法にすぎませんでした。
適当な時機がきたら、将軍をご用済みにするつもりでした。
中世的秩序を否定した新体制を構想していたからです。
そのために、彼が注目したのが、古代以来続く朝廷の権威だったのです。 

長い戦乱のうちに当時、朝廷は衰え、その権威はかすんでいました。
しかし、信長は、わが国特有の国家構造をはっきり見抜き、朝廷の権威の復興こそ、天下統一の道であると考えていました。
出兵して上洛に成功すると、信長は皇居の警衛に当たり、費用を献じて皇居を修理するなど、積極的に朝廷との関係を結ぶことに努めたのです。
朝廷も信長を抜擢して、天正2年には参議、3年には権大納言、4年には内大臣、5年に右大臣に任命するなどして官位を授けました。
足利幕府に抑え込まれた天皇の権威と権限は、信長によって不死鳥のようによみがえってきたのです。

明治のジャーナリスト・徳富蘇峰は、名著『近世日本国民史』で、次のように評しています。

「特筆すべきは、信長が、伝統的、因襲的ではなく、政治的に皇室の尊厳を認めたことである。
皇室をもって、天下統一の中枢と為したことである。
彼は天下を統一するには、力の大切な事を十二分に自覚した。
しかも日本人の心は、いかなる力にても、力でさえあれば、帰服するものとは思わなかった。
彼は皇室を中心とした力にあらざれば、日本を統一するあたわずと直覚した。
この直覚的見識が、彼の政治的天才たる所以である」。

こうした信長でしたが、権力に近づくに従い、生来の尊大な性格が増長し、それが災いをもたらすことになります。
信長に接したルイス・フロイスの『日本史』は、以下のように伝えています。

「彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に」陥っていた、
そして
「自らが、単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望」し、
「予自らが神体である」
と公言したというのです。

晩年の信長は、こうした恐るべき思い上がりにとらわれていました。
部下にとっては、彼の気紛れによって、いつ自分の身が危なくなるかわかりません。
疑心暗鬼に陥り、信長の一挙手一投足に神経を尖らせる状態でした。
そして、信長の不遜と専制は、痛烈な反撃を受けることになりました。
明智光秀の謀反です。
本能寺の変でした。

かくして、天皇を奉じて天下を統一しようとした信長は、志半ばで倒れ、天下統一という大事業は、家臣の秀吉に受け継がれることになりました。


■尊皇で統治し傲慢で滅亡 豊臣秀吉
2006.7.1
織田信長が本能寺で明智光秀に暗殺されると、羽柴秀吉は合戦中の毛利に和睦を申し出て引き返し、明智光秀を討ちました。
秀吉は百姓の子供でしたが、草履取りからスタートして出世街道を駆け上がり、信長家臣中で有数の実力者になっていました。
信長の葬儀では自分が後継者であることを天下にアピールし、続いて最大のライバルである柴田勝家を賎ケ岳の戦いで破りました。
その後、秀吉は、天下統一という信長の目標を受け継ぎ、それを目指して進んでいきます。

信長は、全国統一には武力だけでなく、統一の中心が必要であることを知っていました。
その権威を足利将軍ではなく、天皇に見出したところに彼の政治的天才がありました。
秀吉はこうした信長の意図を誰よりも良く理解していました。
全国統一には、武力の充実や農民支配の徹底もさることながら、なおその上に超越的な権威が必要であることを、秀吉は認識していました。
また、低い身分からのし上がってきた秀吉には、譜代の家臣を持っていないという弱点がありました。
そこで、自分の後ろ盾になる権威を、天皇から与えられる官位に求めたのです。
早くからじりじり朝廷社寺に近づいていったのは、それを考えたからでしょう。
そして、秀吉は、信長から一歩進んで、朝廷を徹底的に尊敬することを万人に示し、朝廷の権威の下で自分が出世することを目指したのです。

朝廷は秀吉に次々に官位を与えました。
天正13年(1585)には正二位内大臣、
次いで従一位関白に昇格、
また新たに豊臣の姓を賜りました。
そして天正14年12月、後陽成天皇が即位すると、秀吉は関白のまま太政大臣に任ぜられました。

関白太政大臣は、藤原氏全盛期の道長や頼道と並ぶ公家の最高位です。
この地位に比べれば、源氏や足利氏が得ていた征夷大将軍など、地方派遣軍の司令官にすぎません。
武家も朝廷の官位官職をもらうことにより、すべて秀吉より格下となることを意味します。
主君の信長の子・信雄(のぶかつ)といえども同様です。
秀吉は、天皇の権威を仰ぐことが天下統一の唯一無二の方策であることを見事に洞察していたのです。

翌15年、秀吉は京都・平安宮内裏の跡地に聚楽第を完成しました。
この大邸宅が出来上がると、秀吉はここに天皇の行幸を仰ぎました。
天正16年4月14日、後陽成天皇の出座の際、関白秀吉は自ら天皇のお供をしました。
多数の公卿のほか諸大名も行列に加わり、それぞれ装束に意匠を凝らしたので、見物人は感嘆しました。

天皇の滞在は初め3日間の予定でしたが、至極満足した天皇は滞在を5日に延ばしました。
秀吉はこれを深く喜び、宮中へ御料所を献上しました。
また、徳川家康、宇喜田秀家、前田利家ら数十人の大名に命じて、皇恩を感謝して忘れないようにすること、
皇室御料を永久に守るべきことを、堅く誓約させました。
こうして秀吉によって、長く凋落していた朝廷の権威が復権されたのです。

秀吉は天正18年(1590)、念願の天下統一の大事業を成し遂げました。
低い身分から天下人となった秀吉は、今日も庶民に親しまれ「太閤さん」と呼ばれます。
太閤とは摂政または太政大臣の敬称ですが、秀吉は関白の位を甥の秀次に譲ったので、前の関白ということから太閤と呼ばれるようになったのです。

関白になる前後から、秀吉には奢りが目立つようになってきました。
関白太政大臣であるのは自分の行いが「天道」にかなったからだ、と天皇より自分を押し出したり、自分は天皇の子であると落胤説(らくいんせつ)をほのめかし、朝鮮侵攻の頃には、自分は「日輪」(太陽神)が受胎して生まれた子だとまで言うようになりました。

増上慢になった秀吉は権力をほしいままにし、傍若無人の振る舞いが多くなりました。
そんな秀吉を病が襲いました。
実子の秀頼はまだ5歳。
秀吉は豊臣家に権力が受け継がれることに執着しつつ、慶長3年(1598)8月18日に、生涯を閉じました。

謀反に倒れた信長の遺志を受け継ぎ、天皇を奉じて日本の再統一を完成した太閤秀吉でしたが、最後は誇大妄想に陥って道から外れてしまいました。
その後、天下は徳川家康の掌中に帰することになるのです。

■家臣こそわが宝 徳川家康(1)
2006.7.14
徳川家康は戦乱が続く天文10年(1542)、三河の国は松平家に誕生しました。
家康の祖父、そして父も家臣に暗殺されました。
母は政略で離婚し他家に嫁いでいきました。
家康自身も幼くして織田信秀、次いで今川義元の人質となりました。
こうして家康の生涯は、艱難辛苦(かんなんしんく)の連続でした。
しかし、豊臣秀吉亡き後、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。
これは応仁の乱以来の130年の戦乱の世に終止符を打ち、以後260年におよぶ太平の世を開く快挙でした。
この偉業は古今東西に比類がありません。

家康を描いたもので最も有名なのは、山岡荘八の長編小説『徳川家康』です。
山岡の家康像の核心は、「元和偃武(げんなえんぶ)」にあります。
元和元年の大阪夏の陣を最後に戦国時代は終わり、日本国中から合戦がなくなりました。
家康の生涯を綾なす権謀術数や数々の合戦は、「元和」(平和が到来すること)「偃武」(武器を蔵にしまうこと)を目的に展開されたというのが、山岡氏の描いた家康像でした。

誰かが天下を統一しなければならない。
そういう時代に武将として生を受けた家康は、織田信長・豊臣秀吉が切り開いた道を歩み、忍耐強く日本の平定を成し遂げました。
戦争を終わらせるために合戦を行い、平和の実現のために策略を用いる、これは一見矛盾した行いですが、戦国の世を治めたのは、こうした現実的な努力でした。

家康の語録として、多くの人に知られるのが、次の言葉です。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。
怒りは敵と思え。
勝事ばかり知って負けることを知らざれば、害その身にいたる。
おのれを責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。
人はただ身の程を知れ。
草の葉の露も重きは落つるものかな」
(『東照宮御遺訓』)

これは家康が日々口にしていたことを書き記したものの一節です。
戦乱を治め太平の世を開くことを生涯の使命とし、我慢と忍耐、自戒と謙虚を自分に言い聞かせて、粘り強く努力した人が、家康だったのでしょう。

しかし、家康の偉業は彼一人でできたのではありません。
家康を支えていたのは、家臣たちでした。
家康はそのことを良く自覚し、家臣を宝として大事にしました。

『東照宮御實紀 附録巻七』に、次のような逸話が伝えられます。

あるとき関白・秀吉が、家康をはじめ毛利・宇喜多等の諸大名を集めた時のことです。
秀吉は自分が持っている宝物を自慢して、虚堂の墨蹟、栗田口の太刀などをはじめ、いろいろと数え上げました。
そして、秀吉は「さて、家康殿はどのようなお宝をお持ちですかな」と家康に尋ねました。
すると家康は

「御存知のように、それがしは三河の片田舎の生まれですので、書・画・調度など何も珍しいものは持っておりません。
しかしながら、それがしのためには、水の中、火の中へも飛び入り、命を惜しまない侍を五百騎ほど持っております。
これこそ、この家康にとって、第一の宝物と思っております」
と答えました。

秀吉は少し恥じらう様子で、
「そのような宝は自分も欲しいものだ」
と言ったという話です。

日本の武士道には、君臣一体といって、主君と家臣が親子のような情で結ばれ、互いに信頼し一体となって、家を守り立てていくという美風がありました。
世界史に輝く家康の偉業は、こうした日本精神の発露であったと言えるでしょう。


■皇威に依拠した天下泰平 徳川家康(2)
2006.8.1

織田がつき 豊臣がこねし 天下もち
骨も折らずに 食らう徳川

という俗謡があります。
信長は古い秩序を破壊する役割、
秀吉は新しい体制を建設する役割、
家康はそれを整備し継続・管理する役割をしました。
彼ら三人の連携によって、日本は分裂・対立の時代から抜け出て、統一・平和の時代を迎えることができました。

奇しくも三河の国(現在の愛知県)という小さな地域から、信長・秀吉・家康という三人の英傑が出ました。
もし彼らが時代を違えて現れていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

ここで注目したいのは、彼らが天皇の権威を再発見し、その権威の下に天下統一を成し遂げたということです。
信長は右大臣、秀吉は関白となり、
ともに朝廷の重臣として、天皇を奉じて日本を統一しようとしました。
家康もこれを受け継ぎました。
彼もまた朝廷を滅ぼしたり自ら皇位を狙ったりすることなく、国家社会の体制を整備しようとしました。

慶長5年(1600)、秀吉没後の主導権をめぐって、関が原の合戦が行われました。
これを制した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられました。
ここで家康が信長や秀吉と違うのは、この二人が京都を中心に物を考えたのに対し、遠く離れた関東に幕府を開いたことです。
また、征夷大将軍以上の官位を望みませんでした。
その点では鎌倉幕府に似ています。

事実、家康が手本としたのは、源頼朝だったのです。
家康は頼朝の事跡をよく研究しました。彼の言行を詳しく伝える『吾妻鏡(あづまかがみ)』を愛読しました。
幕府の開設の仕方、諸大名の統御の仕方など、頼朝を参考にする点が多かったのです。

家康は、さまざまな策謀をめぐらして豊臣家を追い詰め、ついに元和元年(1615)、大阪夏の陣において豊臣氏を滅ぼしました。
遂に戦国時代に終止符が打たれた瞬間でした。
その後、家康は秀忠と共に幕藩体制の基礎固めを進めます。
その一つが「武家諸法度」であり、
また「禁中公家諸法度」でした。
これらは武家と公家の権限を厳しく制限し、徳川政権を安定させるためのものでした。

先ほど家康は頼朝を参考にしたと言いましたが、皇室に対する態度は、頼朝よりはるかに厳しいものでした。
「禁中公家諸法度」は、天皇・親王・摂家などの行動の全般を規定したものです。
天皇は学問を第一に励めと定めて、天皇に行動規範を与えたのです。
当時の重大事件に紫衣事件があります。
天皇は旧来、僧侶に紫衣を着ることを許す権限を持っていました。
それに基づいて、後水尾天皇は、大徳寺・妙心寺などの僧正90余人に紫衣を賜りました。
ところが、秀忠は「禁中公家諸法度」違反を理由に、綸旨(天皇の命令)の撤回を要求しました。
やむなく天皇は一度出した命令を撤回することとなりました。
この事件は、天皇の権力が最低にまで引き下げられたことを示す出来事です。

こうして家康・秀忠によって、天皇の政治的な権力は幕府に移り、天皇は日本古来の文化を維持するための、文化的な象徴になりました。
しかし、見逃してはならないのは、天皇の統治権が失われたわけではないことです。
幕府の権力の正統性の根拠は、朝廷から統治を委任されていることによります。
朝廷の委任なしには、徳川家は権力を簒奪(さんだつ)した者ということになってしまい、幕府への反抗が正当化されることになります。
幕藩体制を安定させるために、朝廷の権威という裏づけが絶対不可欠だったのです。

家康はこのことを自覚していました。
彼は「忠」について 次のように子孫に訓(おし)え諭しています。

「凡そ所謂(いわゆる)忠とは、
豈(あに)独り徳川氏に忠なるのみならんや。
乃ち天に忠なるものなり。
我も亦天に忠なるものなり、
故に天これに授くるに大柄(たいへい=大権力)を以てす。
然れども自らその柄を有し驕奢怠惰、以て世民を虐せば、
即ち天将にこれを奪はんとす」と。

徳川幕府は家康以後、約260年続きますが、国内の秩序を維持し、世界の歴史にも希な平和の時代を保ちました。
この間、天皇の権力は実質的に失われていたものの、国民に尊皇の心は受け継がれ、皇室への憧れは高まりました。
そして、やがて尊皇倒幕という新たな思想が登場し、維新への潮流が湧き起こっていくことになります。

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