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『細川一彦』のオピニオン・サイト■天下は天下の天下なり 武士道の政治
2006.8.15
戦国時代の武士は、なによりも戦闘者でした。
しかし、徳川家康によって戦国時代に終止符が打たれると、武士には天下を統治する為政者という役割が課せられるようになりました。
ここで武士道は、天下公共のために尽くす道として発展していきます。
家康は江戸に幕府を開くと、朱子学を公認教学としました。
朱子学によって幕府権力の正統性を理論化しようとしたのです。
林家の祖・林羅山は、家康に対し
「天下は一人の天下にあらず、
天下は天下の天下なり」
という思想を伝えました。
為政者は国家を私物とし、ほしいままにしてはならない、天意に従って天下万民の安寧のために努めねばならないというのです。
この「天下は……」の語句は、常に家康の胸中にあったものであり、江戸時代の政治思想の要となったものです。
江戸前期の儒学者・中江藤樹(1608-48)は、武士のあるべき姿を「士道」として説きました。
藤樹の「士道」とは、戦国時代の侍の道を儒教によって発展させたものであり、
「君子道」とも言えます。
「士」とは為政者を意味し、
仁義という道徳を行う人間です。
こうして、武士は天下国家を治めて人倫の道を実現すべきものとされました。
藤樹の弟子・熊沢蕃山(1619-91)は、その思想を継承し、岡山藩主・池田光政の下で実践しました。
蕃山によると、臣下の人馬や道具は主君から賜った知行でまかなうのだから、
「我物ながら主君の物」であり、
主君の領国統治の手助けをなすための手段です。
主君の領国は将軍から預かっているものであり、
将軍はまた天下を天より預かっているのです。
したがって忠孝も、単に私的な主従関係の道徳ではなく、天下統治のための道徳となります。
忠孝とは、主君の個人的な意思に従うのではなく、
「道理にしたがうを以て忠とも言い孝とも言う」
とされます。
そして主君の天職は「仁政を行ふ」ことであり、
臣下の天職は「君を助て仁政を行はしむる」ことに求められました。
蕃山と同時代、山鹿素行(1622-85)は、次のように述べています。
「人君というものは、天下万民のためにその頂点を立てたものであって、
人君はその地位を自分自身のためのものと考えてはならない。
(略)
それ故に、民が集まって君主が立てられ、君主が立って国が成立するのだから、
民は国の本と言うべきである」
(『山鹿語録』)と。
「人君」つまり君主は、天の意思によって天下万民のために立てられたものだ。
民が集まって君主が立てられ、君主が立って国が成立するのだから、民は「国の本」と言うべきであるという思想は、日本的デモクラシーとも言うべきものです。
素行において、「忠」とは、家臣が主君に利益をもたらすことではなく、国家天下のために心を尽くすことであるとされました。
これが、天下公共の理念にかなった忠義であると素行は考えたのです。
蕃山・素行に続いて、荻生徂徠(1667-1728)は彼らの説いた武士道を、さらに発展させました。
徂徠は言います。
「御政務の筋は上の私事ではない、天より仰せ付けられた御職分である。
(略)
下たる人にても御政務の筋に関わることを申すは、暫(しばらく)の内、上と御同役である。
(略)
下たる者も遠慮すべき事に非ず」
(『政談』)
徂徠によれば、君主も家臣も領国の統治を、天から命じられた公職にあります。
政治の目的は、君主の私的利益の実現ではなく、「治国安民」という公共の利益の実現に向けられなければなりません。
家臣の主君に対する忠義も、単に個人としての主君を利することではなく、天意に応えるために主君が実践する「治国安民」の仕事を補佐することに他ならないのです。
林羅山・中江藤樹・熊沢蕃山・山鹿素行・荻生徂徠と続く系譜は、武士道における天下公共の精神の発達過程と見られます。
この精神は、各藩の藩政に生かされていきます。
なかでもそれを最も徹底したのが細井平洲であり、平洲に学んだ米沢藩主・上杉鷹山でした。
松代藩家老・恩田杢もまた、同じ精神を持って、藩政改革を成功させました。
社会道徳が非常に低下している今日、私たちは、かつてわが国に厳然と存在した公共の精神を、武士道の中から学ぶべきだと思います。■武士に人倫の道を示す『明君家訓』
戦国時代には、大名家において、家訓が作られました。
北条家の『早雲寺殿廿一箇条』、
武田家の『甲州法度之次第』などが知られます。
江戸時代になると、多くの藩で家訓が作られました。
その中で特に有名なものに、『明君家訓』があります。
著者は八代将軍徳川吉宗の侍講にもなった朱子学者・室鳩巣(むろ・きゅうそう)。
成立は元禄5年(1692)頃とされます。
本書は徳川光圀の著として流布され、また、多くの藩の家訓にも採り入れられたといわれます。
戦国期の武士は、常時、戦闘の中にありました。
武士道は初め、そうした武士の戦場における勇気や美学として形成されました。
しかし、徳川家康が天下を治めると、各大名家は幕藩体制の中に組み込まれ、また島原の乱を最後に戦争はなくなりました。
こうした平和な時代において、武士はどうあるべきかを明らかにすることが求められるようになりました。
また、大名は一領国の宰相として、家中に規範を立て、よりよい治世を確立する必要に迫られもしました。
その具体的な姿が、家訓の形をとって現れたのです。
戦国期までは、『論語』や『大学』などの書を読む武士は、ごく少数でした。
そのような教養は、武人には無用のものだったのです。
しかし、幕府が朱子学を官学に採り入れると、儒教の道徳観が武士階層に行きわたるにいたりました。
そうした中で書かれたのが、『明君家訓』です。
本書は、儒教に基づき、武士とは人倫の道の実践者であるべきだと説きます。
「百姓町人が武士を畏敬するのは、武士の職分の高さゆえ」と述べ、
畏敬の理由は武士という身分にあるではなく、武士の職分にあるとします。
武士は義理を職分とするものだからこそ、人倫の道を踏み外してはならないと強く訴えるのです。
そのために、『明君家訓』は儒教的な意味での学問の必要性を強調します。
「およそ家中の武士は、貴賎を問わず学問に励むべきである」
「学問とは人としての正しい道(=人倫の道)をいうのであって、人として生まれ、これを知らず、行わないのでは、ひとえに牛馬のごとき獣同然といえよう。
したがって、学問は朝夕の衣、食よりも大切であることを心得るべきである。
さて、その修行の道は、心の正と邪、己のおこなうところの善悪すべてをよく吟味し、心を正しく身を治めて、修行することによって古の賢人君子のようにもなる。
または、その人の心がけ次第で、聖人にもいたる道なのである」
そして、武士のあるべき姿を、次のように説いています。
「家中の武士は、つねに怠らず、人としての道を固くまもらねばならない。
一言一行も武士として不明瞭なものであってはいけない。
人としての正しい道とは、口先で嘘や偽りをいわず、私利私欲をもたず、心を素直にして飾らず、起居動作を乱さず、礼儀正しく、上位者に媚びて意をむかえようとなどしてはならない。
また、下の者を侮るなどはもってもほかで、己のなした約束は違えず、他人の苦難を援け、律気に頼もしく、間違っても賤しい話や、他人の悪口などは口にしてはならない。
さらにまた、恥を知って、かりに首を刎(は)ねられようとも、己の信じる道を行い、死すべき場所では一歩も退かずに、いつも理を重んじる鉄のごとく固い心と、温和で慈愛に富む心、つまりものの哀れを知り、人情を心得る者を、人の正しい道を知る武士というのである」
『明君家訓』に見られるように、日本の武士道は、シナの儒教を摂取することによって、人倫の道として発展しました。
以来、武士道はわが国の活動の精神的推進力となり、維新以降も、近代日本を築くうえで、大きな精神的支柱となったのです。■大石・松陰・乃木の師、山鹿素行とは
2001.7.18
武士道というと、多くの人は『葉隠』を語ります。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
という一句はあまりにも有名です。
しかし『葉隠』は佐賀鍋島の地方武士の作であり、書かれた当時、それほど社会的影響を与えた書ではありませんでした。
これに比し、江戸時代の武士たちに教科書として広く読まれたものに、『甲陽軍鑑』『武道初心集』等と並び、山鹿素行の『武教全書』等の著書があります。
江戸時代最大の事件は、元禄太平の世を驚かした赤穂浪士の討ち入りでした。
以来、「忠臣蔵」は日本人に最も人気のある物語です。
忠臣内蔵助こと大石良雄は、吉良邸討ち入りの際に、山鹿流の陣太鼓を打ったといわれます。
実は、素行は幕府によって赤穂に流され、その地で8年9ヶ月余の月日を過ごしたことがあるのです。
その際、素行は、国家老の大石良重のはからいにより、大石家の隣屋敷に住んでいました。
良重とは、後に赤穂浪士を率いる大石良雄の大叔父です。
その縁で、良雄は8歳の時から17歳まで素行に接して感化を受けました。
少年期に、その兵学者に学んだことは、良雄の人格形成に重大な影響を与えたことでしょう。
素行は、
「自分は侯の諸臣に儒学と兵法を教えたが、みな見事に会得してくれた。
従って、もし人倫の道にはずれた異変がおこれば、必ずや君の命に従い、命がけで事に当たるだろう」
と語ったと伝えられます。
『山鹿語録』には、
「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」
という言葉があります。
大石らの赤穂浪士は、素行の教えを実践し、武士のなんたるかを世に知らしめたと言えるのです。
『中朝事実』は、素行が赤穂滞在中に完成した名著です。
この書で素行は、中華思想・シナ崇拝を斥け、日本こそ「中国」だと主張しました。
その理由は、皇室が連綿と続いているわが国は、智仁勇の三徳においてシナよりはるかに優れている、だから日本こそ世界の中央にある国だというのです。
また、素行は、天皇に対する忠義こそ、真の忠だと説きました。
これは、『葉隠』の説く封建領主への忠義を超えたものです。
そうした素行の思想を最もよく理解して実行・徹底したのが、吉田松陰です。
松陰は、代々山鹿流の兵学師範だった吉田家を継いでおり、素行を「先師」と呼んでいます。
「吾(われ)も人も貴き皇国に生まれ、
なかでもわれわれは武門であり武士である上は、その職分である武道をつとめ、
皇国の大恩に報じなければならぬは、
いうまでもないことである。
しかるに、誰も職分と国恩に報いた者は、
古今にわたって極めてまれなのである。
それは、何故かというとその道を知らぬ者が多いからである。
もしその道をよく知っていさえすれば、誰が職分をつとめまいとし、
又、国恩に報じまいとするだろうか。
道を知りたいと云うのなら山鹿素行の教戒を受入れなさい」
と松陰は記しています。
(『武教全書講録』)
尊皇倒幕を説き維新の道を指し示した松陰に、素行は大きな影響を与えたのです。
素行の影響は、明治時代にも及びました。
陸軍大将・乃木希典も、素行を尊敬してやまない一人でした。
乃木は、松陰の叔父であり師匠であった玉木文之進の内弟子でした。
日露戦争の激戦、旅順陥落後、乃木は敗将ステッセルに礼をもって接しました。
各国特派員が二人の撮影の許可を求めたとき、
「敵将にとって後々まで恥が残るような写真を撮らせることは日本の武士道が許さない。
しかし、会見後、我々が既に友人となって同列に並んだ所を一枚だけ許そう」
といい、ステッセルに帯剣を許し、肩を並べて写真に収まりました。
その態度は、外国人記者たちを感動させ、各国に日本武士道の表れとして報じられました。
乃木こそ、明治の世にあってなお武士道に生きた最後の武士でした。
乃木は、主君と仰ぐ明治天皇の大葬に際して、鎌倉以来の古武士の伝統にならって殉死しました。
乃木は自費で素行の『中朝事実』を刊行し、死の前日にこれを皇太子に献上しました。
元禄の大石、幕末の松陰、そして明治の乃木。
これらの日本人に武士道の真骨頂を教えたのが、山鹿素行だったのです。■世界に知られる武士の物語『忠臣蔵』
2001.8.1
「忠臣蔵」は、なぜこんなに人気があるのでしょうか。
赤穂浪士による吉良邸討ち入りは、元禄時代の江戸庶民を熱狂させました。
この事件をもとに「仮名手本忠臣蔵」という芝居が作られ、江戸や大坂で大ヒットしました。
事件から約300年たった現代においても、「忠臣蔵」の人気は衰えません。
歌舞伎や講談・浪曲にはじまり、映画やテレビ番組が数え切れないほど多く作られています。
歌謡曲でも、三波春夫の傑作「俵星玄蕃」が紅白歌合戦で歌われたことがあります。
根強い人気のわけを考えてみると、
「忠臣蔵」には、日本人に感動を与える要素がたくさん詰まっているのです。
たとえば、浅野長矩と家臣たちのきずな、
大石内蔵助と主税の親子の情、
岡野金右衛門と吉良邸女中の恋とかけひき、
内蔵助と妻・りくとの夫婦愛、
早野勘平と同志の連判など、
枚挙にいとまがありません。
日本人が古くから大事にしてきた君臣の義、親子の孝、夫婦の和、兄弟・同志の友愛などを考えさせられる物語なのです。
また、大石に見る指導者像、
集団の中の個人のあり方、
「公と私」などのテーマが、そこに重なり合っています。
それゆえ、赤穂浪士の姿に、日本人は自分の生き方を照らしてみるわけです。
赤穂浪士の討ち入りについて、事件当時は賛否こもごもでした。
手放しで称賛する意見、
犯罪だと決め付ける意見、
一面は認めるが半面では批判する意見など、
評価は多岐に分かれています。
しかし、大衆的な人気は増す一方でした。
そして維新後、明治天皇が彼らをたたえたことにより、「忠臣蔵」は国民道徳の鑑(かがみ)とされるまでになったのです。
明治元年(1868)、御年わずか16歳であった明治天皇は、初めて京都から江戸に入られました。
そして最初に、勅使を泉岳寺につかわし、こう述べられました。
「汝良雄等固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。
百世の下、人をして感奮興起せしむ。
朕、深く嘉賞す」。
すなわち、
「大石内蔵助ならびにその配下の諸君は、固く君臣の義を行い、主君の仇を討ち、法に従って死んだ。
諸君の振る舞いは、日本の国民を感動・奮起させた。
私は、ここに深くこれをほめ称えるものである」と。
フランスのルネ・セルヴァワーズ太平洋巡回大使は、
「こうして四十七士は、大和魂すなわち永遠の日本の権化となった」
と記しています。
大使はまた、
「戦後、日本の企業や公共の機関で、上司のもと一糸乱れず働き、それによって立派に祖国復興を成し遂げた国民のすべての階層に、いまなお武士道精神は生きている。
日本人自身が想像するよりも深く、まして外国人には到底想像しかねるほどに、深く生きている。
現代の日本を知ろうとして、もしこの武士道の中心たる『誠』『至誠』を無視するならば、我々は取り返しのつかない過ちを犯すこととなるだろう」
と述べています。
実は「忠臣蔵」は、日本の代表的な物語として、世界に紹介されているのです。
最初の紹介者は、アルジャーノン・B・ミットフォードでした。
彼は幕末・明治の在日英国公使館の書記官でした。
ミットフォードは明治7年(1874)、
『日本の昔話』を出版しています。
その中で、彼は歌舞伎「忠臣蔵」の筋書きを書き、自分が目撃した切腹を描写しています。
この本は欧米で広く読まれ、「武士道」を広く海外に知らしめました。
日本では、恩を受けた主君のために仇討ちをすることは、忠義の振る舞いとして、人々に大きな感動を与えます。
これは日本独特の倫理であり、西洋では個人の名誉が傷つけられたときは決闘を申し込みますが、主君の名誉のために決闘を申し込むことはしません。
インドの社会でもこうした例はなく、朝鮮にも主君の仇を討つという観念は昔からないようです。
それゆえ、「忠臣蔵」には日本的な倫理観の特徴がよく表われているわけです。
さて、このエッセイの読者のみなさんは、「忠臣蔵」のあらすじを、大体ご存知でしょう。
では、次の質問の答えを考えてみてください。
①この物語は、武士の忠誠心とはどんなものだと語っているか。
②浅野はなぜ切腹したのか。
③47人の浪人たちは、なぜ切腹したのか。
④この物語は、忠誠心ばかりでなく、反逆と暴力を教えていると思われる。
説明せよ。
これらの質問は、
『The Growth of Civilization』(文明の成長)
というアメリカの教科書が、生徒に問いかけているものです。
この教科書は、挿絵入りで「忠臣蔵」を教えています。
また、イギリス、オーストラリア等の教科書にも、「忠臣蔵」を「日本で最も有名な物語」として、掲載しているものがあります。
これに対し、日本の教科書には、「忠臣蔵」を具体的に採り上げているものはないでしょう。
最も日本的な物語として世界に知られる「忠臣蔵」を、日本の青少年は教えられていません。
これで、自国の文化や精神を知ることができるでしょうか。
「忠臣蔵」という物語を味わうことは、日本の心を深く知る道です。
そのことを、再認識したいものです。■死を覚悟して日々を生きよ 『葉隠』(1)
2006.11.16
「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり」
この一句によって武士道の精髄を表すものとされるのが、『葉隠』です。
『葉隠』は、佐賀鍋島藩士・山本常朝(つねとも)(1659-1719)の談話を書き留めた書です。
常朝は、9歳で藩主鍋島光茂に仕え、以来、主君の側近くに勤めました。
主君が死ぬと、出家隠棲しました。
その彼のもとを訪れた若い藩士・田代陣基に、老齢の常朝は武士の心得を語りました。
これをまとめたものが『葉隠』です。その後、『葉隠』は鍋島藩士の間でひそかに書き写され伝えられました。
本書の冒頭には次のように記されています。
「どのような御無理の仰せつけをこうむろうとも、
又は不運にして牢人・切腹を命ぜられたとしても、
少しも主君を恨むことなく、一の御奉公と存じて、未来永劫に鍋島の御家のことを第一に案じる心入(こころいれ)をなすことは、御当家の侍の本意にして覚悟の初門なのである」と。
そして、それに続いて記されているのが、冒頭の一句
「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり」です。
「武士道といふ事は、死ぬ事と見つけたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。
別に仔細なし。
胸すわって進むなり。
図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風(かみがたふう)の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当たるやうにわかることは、及ばざることなり。
我人、生きる方がすきなり。
多分すきの方に理が付くべし。
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。
この境危ふきなり。
図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。
恥にはならず。
これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身(しにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果(しはた)すべきなり」
この一文は、前半で死ぬべきことを説いています。
しかし、後半では、死を覚悟して生きることを説いています。
すなわち、
武士は毎朝毎夕、改めて死を覚悟し、常に死に身になって生きることだ。
それによって、初めて生死を超えた自由の境地に到達できる。
そしてこの境地を得たとき、何ものも恐れることなく、一生落ち度なく自己の仕事を成し遂げることができる、というのです。
つまり、単に死ぬことではなく、死んだ気で生き、自分の使命を果たすべきことを説いているのです。
このことは、現代人にも当てはまる密度の濃い生き方だといえるでしょう。
ところで、『葉隠』が武士の使命としているのは、主君に対する忠誠です。
そして、『葉隠』が説くのは、
「主従の契(ちぎり)」において、
常に「死身」になって仕えるという意味での「死の覚悟」なのです。
常朝自身、9歳で奉公して以来、主君の死まで仕事を果たし、60歳まで生きています。
『葉隠』はそうした奉公人としての彼の生涯が反映しています。
このことは、次のような文章でも明らかです。
「我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて、ニ六時中主君の御事(おんこと)を歎き、事を整へて進上申し、御国家を堅(かた)むると云う所に眼をつけねば、奉公人とは言われぬなり」
「歎く」とは、主君のことを心底から切実に思うことです。
こうした主君に対する思い入れは、『葉隠』では「恋」という「理非の外なるもの」とされます。
常朝はそれを「忍ぶ恋」にたとえました。
主君に対する恋情が、没我的忠誠心の源にあるのです。
こうした部分は、今日では特殊な封建思想という感じがします。
しかし、死を覚悟して日々を生きるという『葉隠』の生き方は、自分の責任と使命を自覚する者に、意志と勇気を与えてくれるものと言えるでしょう。■大義のために生き通せ~『葉隠』(2)
2006.12.01
武士道の真髄を説いたものとされる『葉隠』は、死に急ぎの哲学ではありません。
若くして散ることを美化しているどころか、
『葉隠』は随所に生き通して義を尽くすことをうたっています。
語り手である山本常朝は、言っています。
一、武士道においておくれ取り申すまじき事。
一、主君の御用に立つべき事。
一、親に孝行仕るべき事。
一、大慈悲を起こし人の為になるべき事。
此の四誓願を、毎朝、仏神に念じ候へば、
二人力になりて、後へはしらざるものなり。
尺取虫のように、少しづつ先へ、にじり申すものに候。
仏神も、先づ誓願を起し給ふなり」
四つの誓いを実行するために、尺取虫のように一歩一歩、粘り強く、前へ進もうとする努力が、武士道には必要だというのです。
死に急ぎとは、全く正反対の話です。
次の言葉も、一生を貫く根気の良さが武士道であることを示しています。
「忠節の事、御心入れを直し、御国家を堅め申すが大忠節なり。
一番乗、一番槍などは命を捨ててかかるまでなり。
其場ばかりの仕事なり。
御心入れを直し候事は、命を捨ててもならず、一生骨を折る事なり。
主君も御請け取り候ものになりて、御心安く御懇意を請け、取寄り、家老役に成されたる上にてなければ、諌め申すことは叶わず、此の間の苦労量り難き事なり。
我が為の私欲の立身さえ骨折ることなり。
これは主君の御為ばかりに立身する事なれば、中々精気続き難き事なり。
然れども此の当りに眼を着けずしては、忠臣とはいふべからず」。
「御心入れ」とは、自分が仕える主君の心構えのことです。
主君の考えが誤っているときは、これを正していくのが武士だ、と常朝は言います。
戦場での一番乗、一番槍などの目立った功名は、その場で捨て身になればできないことではない。
しかし、主君の心構えを改めさせ、正しい政道を行い、国家を固めることは、その場限りの諫言(かんげん)でできることではない。
ただ命を捨てればできるというものではないところに難しさがある、と常朝は語ります。
主君を諌めるといっても、主君から評価を受け、信頼され、主君が耳を傾けるくらいの識見と器量を磨かなければ、諌めなどできることではない。
一生かかって骨を折って成し遂げる仕事である、と。
そして、こう考えないようでは、真の忠臣ということはできないというのです。
『葉隠』は、君主は正しく慈悲深く、民や家臣の事を思って政治をすべきであると考えています。
だから、主君のために尽くし、御家のために尽くすことは、民衆や国全体のために尽くすことと同じだと考えます。
そして、主君に尽くすことを通じて、公共に尽くすことが、行いの真の目的となっています。
つまり公共に尽くすために、主君に尽くすのであり、それが大義なのです。
そして、国を思い、社会を思うなら、軽々しく死んではならないわけです。
このように見てくると、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
に言う「死ぬこと」とは、
自分の私を捨てて、公共の正義の実現のために生きる覚悟を示したものであることがわかります。
つまり、「死ぬこと」とは私心私欲を超えることを意味したものです。
大義のために、一生を生きて、生きて、生き抜いて尽くすこと。
それこそ、真の武士道だと説いていると解すべきでしょう。
今日、社会は『葉隠』の時代とは大きく変わりましたが、私を超えて公に尽くすことの大切さは、変わっていません。
その公が国家であれ、世界であれ、『葉隠』そして武士道から学ぶものは多いと言わねばなりません。■武士道の規範とされた『武道初心集』
2006.12.16
武士道の書としては『葉隠』が有名ですが、『葉隠』は佐賀鍋島藩という一地方で密かに伝えられたものに過ぎません。
これに対し、『葉隠』とほぼ同じく江戸時代初期に成立し、江戸時代を通じて広く武士道の規範とされ、さまざまな藩で読み継がれた書が、『武道初心集』です。
本書が著された時代は、戦国の気風が段々薄れ、実戦の機会のない武士たちは、心身ともに弛緩しつつありました。
こうした武士たち、とりわけ下級武士への警鐘と再教育を意図して書かれたのが、『武道初心集』です。
それは、武士の再教育のために、教科書的な役割を担って公刊されたものでした。
著者の大道寺友山は、元禄から享保(1690年代から1720年代)にかけて、さまざまな藩に招かれ、藩士の教育係を務めた軍学者です。
本書で友山が説いたことは、つねに死を覚悟することに尽きます。
本書は、教育・礼儀・言葉づかいなどの事柄についても、すべて死の覚悟が大前提となっています。
それは明日、戦乱となろうとも対応できるよう物心の備えを怠るなという、常在戦場の精神を説くものです。
本書は、次のような趣旨の言葉で始まります。
「武士というのは、正月元旦の朝、雑煮を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜にいたるまで、毎日毎夜のごとく、心に死を覚悟するのを第一の心がけとするものである」。
これは、『葉隠』の「武士道とは死ぬ事と見つけたり」と同じく、死を覚悟して日々を生きるという武士の心構えを表わすものです。
「つねに死の覚悟ができていれば、忠孝ふたつの道を踏みはずさず、さまざまな危険や災難にあうこともなく、健康に恵まれ寿命も永く保持できるし、加えて、人品骨柄までも立派になるなど利点の多いものである」
このように説く本書は、続いてその理由を述べます。それは大略以下のようなものです。
「元来、人間の命は、夕べの露、朝の霜のように、はかないものだ。
なかでも危険なのは武士の命である。
それなのに、いつまでも生きられると思い込んでいるから、主君への奉公を怠り、両親に対する孝養も疎かになる。
この命は明日は知れぬものとの覚悟があれば、主君や親に仕えるのも今日を限り、これが最後になるかも知れないという気持ちになるだろう。
したがって、常日頃、死を覚悟していることが、忠孝ふたつの道に合致するのだ。
また、他人には慎重にものを言い、
他人の言葉には慎重にこれを返すので、
不要な口論などはしなくてすみ、
人に迷惑されてもくだらない場所へ行くこともなく、
したがって不慮の災難に出合うこともないから、さまざまな災難から逃れられる。
人は死ぬという事実を忘却していると、過食・大酒・色道などで健康を害し、
内臓疾患で思いもよらぬ若死にをしたり、たとえ命を長らえてもなんの役にも立たぬ病弱者で終わってしまう。
つねに死を心がけていれば、年も若く身体が丈夫であっても、健康には十分注意して、暴飲暴食をせず色ごとも遠ざけ慎むので、病を患うこともなく、健康で長命を維持できる。
そのうえ、死を遠い先の事と思えば、
この世に命を長らえるものと錯覚するから、心の中にいろいろな願望を持つので、
欲深くなって他人の物を欲しがり、わが物は惜しむことになる。
つねに胸の奥に死の覚悟があれば、この世は味気ないものと悟れるから、貪欲の心もおのずと希薄となり、欲しいとか惜しむといった気持ちがあまり出てこないものだ。
人間は死を覚悟さえすれば、人品骨柄まで良くなり、人格の向上ができるとは、これをいうのである」
このように『武道初心集』は、常日頃、死を覚悟して生きることを、武士の第一の心がけとしています。
武士道の持つ高い精神性、優れた道徳性は、こうした心がけが生んだものと言えるでしょう。
大道寺友山は、武田流軍学を集大成した『甲陽軍鑑』の編著者・小幡景憲や、
その弟子で『武教全書』等の著者・山鹿素行らに師事しました。
『甲陽軍鑑』『武教全書』そして『武道初心集』等は、江戸時代の武士が実際に学んだ武士道の教本です。
江戸時代における武士道の形成には、武田信玄の甲州流兵学が、強い影響を与えたことが、このことからもわかります。
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『日本精神』を学ぶ/『武士道』に棲む美意識
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