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『日本精神』を学ぶ/剣の道、極める

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転載元 
『細川一彦』のオピニオン・サイト


■剣の道から真理の道へ 宮本武蔵
2003.1.2

「道」という言葉は、何かの技術や趣味を表す言葉につけて用いられます。
たとえば、茶道、華道、書道、柔道、合気道など。
このように「道」という言葉がつくと、単なる技術や趣味ではなく、それ以上のものが含意されます。
すなわち、技術の熟達や趣味の追求を通じて、精神的に高い境地を目指すものが、日本の「道」なのです。

そうした「道」の数あるなかでも、剣の道は、特異なものといえるでしょう。
なぜなら、この道は、剣を用いて戦う、命がけの道だからです。
この剣の道を極めて、高い精神的境地に達した人に、宮本武蔵がいます。

若き日の武蔵は、関が原の戦いに参加したと考えられています。
この戦いを制した徳川家康が天下を治め、戦国時代は終わりました。その結果、本来、専門的な戦闘者であった武士たちは、実戦の場を失いました。
彼らは、太平の世の中で文民・官僚的な存在に変わっていきます。
しかし、その時代にあってなお、武蔵はあくまで戦闘者であろうとし、独自の道を歩みました。

武蔵の生年は天正12年(1584)頃、出生地は岡山県英田郡大原町宮本といわれますが、異説もあります。
幼少の頃から剣を好み、13歳の時、初めて試合をして打ち勝ち、以後、諸国を巡って剣の道一筋に自分を錬磨しました。
29歳の時、佐々木小次郎と巌流島で決闘するまで、60回余の勝負をし、一度も敗れたことがありませんでした。

これは想像を絶する実績です。
私たちは現代において、大山倍達、ヒクソン・グレイシー、アーネスト・ホーストなどの武の達人を目の当たりにしていますが、武蔵が彼らと決定的に異なるのは、文字通りの真剣勝負を生き抜いたことです。
剣の道とは、刃物による決闘です。
斬られれば、自分が死ぬのです。
またその戦いは一対一の戦いに限りません。
武蔵は時には一人で十人、数十人を相手とし、ことごとく打ち破って、生き残りました。
凄絶というほかありません。

最大のライバル・小次郎と雌雄を決した武蔵は、巌流島を最後に決闘をやめます。
その後の武蔵は、諸国を周遊し、さらに剣の道を深めていったようです。
そして50歳にしてついに兵法の道を極めたという自覚に至ります。
その後、自ら到達した境地を書物に書き著すことになります。

武蔵は晩年、熊本の細川家に迎えられました。
ここで藩主・細川忠利に求められて、『兵法三十五箇条』を書きました。
この書は、剣の技術をひたすら具体的に箇条書きにしたものでした。
それをもとに、さらに踏み込んで書き記したのが、畢生(ひっせい)の著、
『五輪書』です。
ここで武蔵は、剣の技術だけでなく、武士のあり方や武士としての心の持ち方までを説き、兵法の奥義を説き明かしています。

『五輪書』は、近年アメリカでもベストセラーになり、ビジネスマンによく読まれているといいます。
『五輪書』の構成については後に述べることして、まず本書における武蔵の根本姿勢について触れておきたいと思います。
根本姿勢とは、武蔵は、剣の道において何よりも大切なことは、勝つことだとし、勝つことを、兵法の第一にあげていることです。
武蔵は次のように書いています。

「武士の兵法を行う道は、何事においても他人に勝つことを根本とする。
一対一の斬り合いにおいても集団戦においても、勝って、主君のため我が身のために名をあげ身を立てようと思うことが、武士の本領である」と。

そして、武蔵は、断じます。
「ただ死を覚悟して生きよ」という『葉隠』も、
「日々道徳的に自分を律して生きよ」という大道寺友山や山鹿素行の書も、
「武士が武士である拠りどころ足り得ない」と。

それらは武士以外の身分の者でもできる。
「他の身分と武士との違いは、戦いに勝つことを第一義に考えるかどうかだ」と武蔵は言うのです。

武蔵独自の二刀流も、生きるか死ぬかの厳しい戦いの中から生み出された必勝の剣法でした。
それが「二天一流」です。

『五輪書』は、必ず勝つために、心身を鍛錬し、数々の死闘を生き抜いてきた武芸家の書です。
本書は、地・水・火・風・空の5巻で成っています。

「地の巻」では、兵法の道の概要、二天一流の見立て、自分の流儀を二刀と名づけた理由、兵法を治める際の心がけなどを説きます。

「水の巻」では、一対一の立ち合いの心得を述べます。
身なり、目のつけ方、太刀の持ち方、足づかい等を説明します。
構えあって構えなし、拍打ち、あたり、受けなど、自分の流儀の奥義を独特の用語で列記しています。

「火の巻」は、多数の敵を相手にする場合を中心に述べます。
先を知ること、
「景気」というその場の気の流れのようなものを感知すること、
太刀の用法、敵状を知ることなどを記します。

「風の巻」では、他流剣法の批判と自身の兵法の正当性を述べます。
太刀の大小や数や型などにとらわれるよりも、臨機応変で自然な対応をすべきことを主張します。

そして全巻の結びとなる「空の巻」では、こうしたすべての技術・経験を費やして、兵法の道を究め尽くした果てに、武蔵が到達した常人には窺(うかが)い知れないほど深い、精神の境地が開示されます。

その境地への手がかりとして、心のあり方について述べた部分が、「水の巻」にもありますので、そこから見てみましょう。
「兵法心持の事」です。
原文から引きます。

「兵法の道において心の持様は『常の心』にかはる事なかれ、
常にも兵法の時にも少しもかはらずして心を広く直にし、きつくひっぱらず少もたるまず、心のかたよらぬやう心を直中に置て心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那もゆるぎやまぬやうに能々吟味すべし、
静なるときも心は静かならず、
如何に疾き時も心は少もはやからず、
心は体につれず体は心につれず、
心に用心して身には用心をせず、
心の足らぬことなくして心を少しも余らせず……」。

すなわち、
「兵法の道においては、心の持ち方は『平常心』と変わってはならない。
平常も、戦いのときも、少しも変わることなく、心を広く素直にし、緊張しすぎることも少しもたるむこともなく、心が偏らないように真中に置いて、心を静かに揺り動かしながら、その動きの一瞬一瞬には心が留まらないように、よくよく注意しなければならない。
動作が静かな時にも、心を静止させず、動作がいかに速い時にも、心は少しも速くなく平静に保ち、心が体にとらわれることなく、体が心に引きずられることなく、心に注意して体には注意しないようにし、心は不足のないようにし、また少しも過剰ではないようにして……」。

平常心と、心身の自在なバランスの大切さが、深遠で微妙な表現で書き記されています。
何事でも、完全にコツを身につけ、自分のものにした技術は、どんなに難しい技でも、なんのとらわれもなく、自然にできてしまうものです。
武蔵は、そういう心の状態が、武芸の道でも大切だと言っているのでしょう。
ちょっとした隙が死を招く、真剣勝負の道であるだけに、言い様のない凄みがあります。

次に、今、引用した部分を踏まえて、
「空の巻」の枢要な部分を挙げてみます。

「武士は兵法の道を慥かに覚え、
其外武芸を能く覚え武士の行ふ道にも暗からず、
心の迷ふ所なく、朝々時時に怠らず、
心意二つの心を研き、観見二つの眼を磨き、少しも曇り無く迷ひの空の晴たる所是れ実の空と知るべきなり、
実の道を知らざる間は仏法によらず世法によらず、
己れゝゝは慥か成る道と思ひ善き事と思へ共、
心の直道よりして世の大がねに合せて見る時は其身其身の心贔屓、其目ゝゝのひずみによる、実の道には背く物なり、
其心を知て直に成る所を本とし、
実の心を道として兵法を広く行ひ、正敷明に大き成る所を思ひ取て、空を道とし道を空と見る所也」。

すなわち、
「武士は兵法の道を確かに覚え、
その他の武芸をよく覚え、
武士の行う道にも暗くなく、
心に迷うところがなく、
日々怠らずに鍛錬し、
心・意の二つの心を磨き、
観・見の二つの目を磨き、
少しも曇りがなく、
迷いが晴れている心の状態こそ、
真実の空と思うべきである。
真の道を知らずにいるのに、仏法によらず、世間の法によらず、自分で正しい道と思い、善いことだと思い込んでいても、
本当の道から考え、宇宙の大きな尺度に合わせてみると、自分を贔屓目(ひきめ)に見ていたり、自分の目が歪んでいたりし、正しい道から外れているのである。
この道理をよくわきまえて、真っ直ぐなところを根本とし、真実の心を道として、兵法の道を広く行い、正しく、明らかに、物事を大きくとらえて、空を道とし、道を空と見ることである」。

最後は、次の一文で終ります。
「空有善無悪 智者有也 理者有也 道者有也 心者空也」。

すなわち、
「空には、善があり悪はない。
智がある。理がある。道がある。
心の根本は空である」

こうした深遠な文言によって、宮本武蔵は単なる無敵の剣豪ではなく、剣を通じて、もっと深い境地へと進んだ達人であることが、察せられるのです。

武蔵は、長年命がけの決闘を重ねたことによって、常人の遠く及ばないほど高く自由な境地に到達したのでしょう。

晩年の武蔵は剣以外に、書・画・彫刻・工芸等の道にも通じ、「ニ天」と号して、優れた作品を多く遺しています。
特にその水墨画は高く評価されています。
京都の東寺勧智院に武蔵の作と推定される襖絵(ふすまえ)が伝わっているほか、代表作に「枯木鳴鵙図」「鵜図」などが挙げられます。

どうして、剣を書筆や絵筆に持ち替えた武蔵は、全く別の分野でこのような創作をなし得たのでしょうか。
それは、ちょうど登山でも山の頂点を極めれば、どの方向の道にも下って行けるように、武蔵は剣の道を極めたことによって、それ以外の道にも遊び出ることができるようになったのでしょう。
換言すれば、一つの道を極めたことによって、武蔵は、万事に通じる真理の道に分け入っていったことが、うかがわれるのです。

武蔵は
「兵法の利に任せて、諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし」
「その道にあらざるといふも、道を広く知れば、物毎に出あふ事也」
と書いています。

書・画・彫刻・工芸等の道に遊んだ武蔵は、改めて剣の奥義に向います。
独り洞窟にこもる武蔵は、剣の道の極意を書に認(したた)めました。
それが、『五輪書』だったのでした。
本書を完成するや、わずか数日後、武蔵は波乱万丈の生涯を閉じました。
享年62才。
最後の5年間を過ごした熊本の千葉城にて。
正保2年(1645)5月19日のことでした。

宮本武蔵を、一躍有名にしたのは、吉川英治の名作『宮本武蔵』です。
総計1千万部以上が出版されており、明治以来、日本の小説の中で、この作品ほどよく読まれたものはないといわれます。
夏目漱石や司馬遼太郎の作品に優るとも劣らない国民文学であり、日本国民の「教養の書」また「人生の書」として愛読されているのです。
数年前には、英訳版『Musashi』がヒットし、海外にも多くの読者を得ています。
映画やテレビドラマもたびたび製作されており、内田吐夢監督、中村錦之助主演の東映映画「宮本武蔵」は映画史上に輝く不朽の傑作です。

そのように、武蔵という人物が、今日なお多くの人の共感を呼ぶのは、なぜでしょうか。
「道を求める生き方」は、
日本人の生き方の特徴とも言えます。
宮本武蔵という一個の求道者が歩んだ道に、私たちは共感し、人として生きる「道」の奥深さを感じずにはいられないのです。



■無刀流の「五常の剣」 柳生石舟斎
2007.1.1

武士の最も代表的な武器は、刀です。
刀は刃物であり、殺人の道具です。
武士たちは刀の用い方を磨き、必殺の技を競いました。
しかし、剣の技をさらに深く極めた武芸者は、剣を無用とするような境地へと至りました。
そうした武芸者の一人が、柳生石舟斎です。
無刀流の極意に達した彼は、「五常の剣」という精神性の高いものへと剣の道を深めていったのです。

柳生石舟斎宗厳(むねよし)は、戦国時代の末期、畿内随一の兵法者として知れ渡っていました。
その噂を聞き、新陰流開祖の上泉伊勢守信綱が立ち合いを申し出ました。
永禄6年(1563)のことです。
宗厳は快諾したものの、信綱と立ち合うどころか、弟子の鈴木意伯に簡単に打ち負かされます。
己の慢心を恥じた宗厳は、信綱に入門を願いました。
信綱はこれを快く受け入れました。
宗厳37歳のことでした。
宗厳に類まれな素質を見た信綱は、3日間宗厳と二人だけで立ち合い、新陰流の極意を授けました。
信綱はさらに柳生の里に足を運び、半年間にわたって宗厳を指導しました。
そして一年後、大きく成長した宗厳は、信綱の前で、無刀取りの極意を披露しました。
それを見た信綱は、もう何も教えることはないと言い、宗厳に柳生新陰流を名乗ることを許しました。
無刀取りという技は、剣を持った相手に素手で立ち向かうものです。
その意味は、刀に拠らない無刀の境地に立ち、武器なしで己を守る兵法のことを指します。
宗厳は、遂に剣を無用とする境地にまで到達したのです。

柳生家は代々大和国柳生庄(現在の奈良市北東部)を領地としていました。
しかし、宗厳の代に太閤検地により領地を召し上げられてしまいました。
この頃、宗厳は剃髪して石舟斎と号します。
失地回復に苦労する石舟斎のことを伝え聞いたのが、徳川家康です。
家康は石舟斎に無刀取りの披露を求めました。
家康の見守るなか、素手の石舟斎に対し、石舟斎の息子・宗矩(むねのり)が木刀で打ち込みました。
二人の体が重なるや、宗矩の手から木刀が落ち、逆に石舟斎が宗矩に木刀を突き付けています。
家康は宗矩が手心を加えたのではないかと疑います。
ならば、と黒田長政が打ち込みますが、結果は同じでした。
なお納得がいかないのが、家康。
そこで、石舟斎は、家康に、今度は自ら真剣で打ち込んでくるよう言います。
真剣で挑んだ家康は、柄を握っている両腕ごと、石舟斎の両拳に挟まれました。そのまま刀を捻り取られるや、逆にその刀を突き付けられてしまいました。
これには家康も感服。
その場で石舟斎に、兵法指南役になってほしいと懇請しました。
しかし、石舟斎は老年を理由にこれを辞退し、代わりに息子・宗矩を推しました。

こうして、柳生家は将軍家兵法指南役という兵法者として最高の栄誉を得ることとなりました。
宗矩は旧領二千石を回復しました。念願を果した石舟斎は、80歳の長命を全うしました。

石舟斎が生きた戦国時代、兵法は戦場で生死・勝敗を分けるものでした。
しかし、そうした時代にあって、石舟斎は、人を殺す技法から、人を活かす技法へと剣の道を深めていきました。
時代もまた、戦乱が去り、平和の世を迎えつつありました。
石舟斎の探求は、時代が求めるものでもありました。
そして、こうした石舟斎の先見の明が、家康の眼鏡にかない、柳生一族に繁栄をもたらしたのです。

石舟斎のめざした新しい兵法は、新しい時代の武士の形成に役立つものでした。
それは単に武を磨くだけではなく、同時に文を修めるものでもありました。
文武両道の兵法でした。
石舟斎が開いた柳生新陰流は、儒教に立脚した剣法だったからです。

この剣法は、「五常の剣」と呼ばれます。
「五常」とは、儒教が説く、人が常に守り、行うべき五種の徳、
仁・義・礼・智・信です。
剣の道を実践することによって、これらの徳を体得し、またその徳の裏づけをもって、剣を用いるのです。
石舟斎は、次のような歌を残しています。

兵法の 極意は五常の 義にありと
心の奥に 絶えずたしなめ

常々に 五常の心 無き人に
家伝の兵法 印可ゆるすな

こうして、剣の道は、戦闘の技術から人倫を修める道へと深められていきました。
石舟斎における「五常の剣」の登場に、武士道の発展・深化をたどることができます。



■殺人刀が活人刀に 柳生但馬守宗矩
2007.1.16
戦国時代が終わり徳川時代に入ると、武士に求められるものは、戦場における戦闘者の心構えから、次第に治世のための人倫の実践へと変化していきました。
それとともに、刀もまたその存在意義を変えていきました。
単なる武器としての性格から、それを帯する人間の心身鍛練の道具へとその役割を移すようになったのです。

こうした時代に、新しい剣法を開いたのが、柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎でした。
彼は無刀流という極意に達し、「五常の剣」という精神性の高い剣法を説くに至りました。
それを受け継いで発展させたのが、五男の柳生但馬守宗矩(たじまのかみ・むねのり)です。

柳生家は徳川家康に取り立てられ、宗矩は1万2千石を与えられ大名となります。
宗矩は家康・秀忠・家光の三代の将軍に、剣術指南役として仕えました。
息子には、十兵衛三巌(みつよし)があり、やはり優れた武芸者として名を轟かせています。

柳生新陰流は、将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授は禁じられていました。
その特徴は、相手の剣を殺す技、動きを止める技にあります。
相手を切るのではなく、相手の剣の働きを無効にしたり、敵へ詰め入って動きを封じたりするのです。
相手の小手や竹刀を制する形が多く、斬り殺すことを意図したものは、原則としてないとされます。

また、心のあり方を非常に重視していることも特徴です。
柳生新陰流の極致を説いたとされる「本識三問答」には、「世間の剣術者は、ただ勝つことを急ぐ。
そのために、早く打ちたがり、心も技も乱れて結局容易に勝つことができない。
柳生流は、無理に勝つことを急がない。
早く打ちたがらない。
道理に叶い、法理にしたがって動くので自然に勝つのである。
つまり心は平易につながるのだ。他流と違うのはここである」とあります。

このように、心のあり方が重視されるのは、宗矩が沢庵禅師に師事し、剣の心諦を学んだことに多くを負っています。
沢庵が宗矩に与えた『不動智神妙録』には、「無心之心」ということが繰り返し、述べられています。

「無心の心と申すは、
…固(かたま)り定(さだま)りたる事なく、
分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて、全体に行き渡る心を無心と申す也。
どこにも置かぬ心なり。
石木かのやうにてはなし。
留る所なきを無心と申す也。
留れば心に物があり、留る所なければ心に何もなし。
心に何もなきを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候…」

宗矩は、沢庵に学んだ心法を、自身の剣法に採り入れました。
時代は天下泰平の時代です。
父石舟斎の思い描いた仁義礼智信の五常を本とする「五常の剣」が、活きる時代です。
宗矩は、人を殺す「殺人刀(せつにんとう)」ではなく、人を活かす「活人刀(かつにんとう)」を追求していきました。
それは剣法の域を越えて、天下国家を治める兵法へと発展しました。

宗矩は寛永9年(1632)、『兵法家伝書』を著しました。
宗矩は言います。

「古にいへる事あり、
『兵は不祥の器なり。
天道之を悪(にく)む。
止むことを獲(え)ずして之を用ゐる、
是れ天道也』と。

…其故は、天道は物をいかす道なるに、却而(かえって)ころす事をとるは、実に不祥の器也。
しかれば、天道にたがふ所を即ちにくむといへる也。
しかれど、止むことを得ずして兵を用ゐて人をころすを、又天道也と云ふ…」と。

彼はさらに続けて、
「一人の悪をころして万人をいかす。
是等誠に、人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきにや」と力説します。

兵法(武力)を行使することは、天道(自然の理法)にそむくが、一人の悪人のために万人が苦しむならば、一人の悪人を殺し、万人を救うこともやむを得ない。
これが天道であり、すなわち「殺人刀」が同時に「活人刀」となる「一殺多生」の理であると、宗矩は武力の役割を意義付けます。
宗矩はさらに、次のように言います。

「治まれる時乱をわすれざる、是兵法也。
国の機を見て、みだれむ事をしり、いまだみだれざるに治むる、是又兵法也」と。

宗矩の言うことを、現代の国際関係に置き換えると、彼は国際関係を見て、戦争が起こる可能性を知り、戦争になる前に外交で解決することもまた、軍事であると言っています。
言わば、戦わずして勝つことです。
これは、孫子の兵法において、最上とされていることです。
人間の社会から戦いは、まだまだ容易になくならないようです。
戦いから身を守るには、武力が要ります。
武力をもって相手の攻撃を抑止し、いかに戦いを避け、平和を維持するか。
また、武力を極力用いぬようにし、行使するときは最小で最大の効果を生むこと。
これは武の奥義を究めることによってのみ、可能なことです。

日本の武士道は、戦いの中から生まれ、戦いを避け平和を維持する道へと深化しました。
その平和の維持のためには、武を尊び、備えを怠らない。
こうした武士道の思想には、核時代の政治・外交・軍事にも通じるものを見出すことができるでしょう。


■武の奥義を説いた『不動智神妙録』
2007.4.16
日本の武道家は、単なる戦いの技術を超え、武の奥義を、心の悟りを得ることに求めました。
武がこれほど精神的に高められたのは、日本においてだけでしょう。

深奥微妙な武の奥義を表した書として有名なものに、沢庵(たくあん)の『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』があります。
沢庵は江戸時代初期の禅僧で、柳生新陰流の達人、柳生但馬守宗矩(むねのり)の師でもありました。
沢庵は宗矩から剣の心諦について質問を受けたのに答えて、この書を著したのです。

沢庵は、武道の奥義は、ただ技の道ではなく、心法だといいます。
心には形も色もありません。
しかし、その心をどう用いるかによって、剣の勝敗が分かれるからです。

『不動智神妙録』の中に、特に心の用い方として、次のような言葉があります。

「心を何所に置かうぞ。
敵の身の働きに心を置けば、
敵の身の働きに、心を取らるるなり。
敵の太刀に心を置けば、
敵の太刀に心を取らるるなり。
敵を切らんと思う所に心を置けば、
敵を切らんと思う所に心を取らるるなり。
我が太刀に心を置けば、
我が太刀に心を取らるるなり。
我れ切られじと思う所に心を置けば、
切られじと思う所に心を取らるるなり。
人の構えに心を置けば、
人の構えに心を取らるるなり」

心のあり方が大切だと沢庵はいうのです。
剣を抜いて、敵と相対している時、自分の心をどこに置くべきか。
相手の体の動きに心を置けば、それに心がとらわれて、自分の手もとがおろそかになります。
相手の刀の動きに心を置いても同様です。
敵を切ろうと思うと、そのことに心を取られて、その虚を突かれて、敵に斬られてしまいます。
逆に自分を守ろうと思うと、相手の動きが読めなくなってしまいます。
ほかの事に気が散っていては、こちらに隙(すき)ができて、斬り殺されてしまうわけです。

沢庵の言葉は続きます。
「兎角(とかく)心の置き所はないという。
あるいは人問う、我が心を兎角余所へやれば、心の行く所に心を取止めて敵に負ける程に、我が心を臍(へそ)の下に押込めて余所(よそ)にやらずして、敵の働きにより転化せよという。
尤(もっと)もさもあるべき事なり。
然れ共、
……やるまじと思う心に心を取られて矢の用かけ、殊の外不自由になるなり。
……然らば則ち心を何所におくべきぞ。
我答へて曰く、
何所にも置かねば、我が身一ぱいに行きわたりて、全体にのびひろごりとある程に、
手の入る時は手の用を叶へ、
足の入る時は足の用を叶へ、
目の入る時は目の用を叶へ、
其の入る所々に行きわたりてある程に、
其の入る所々の用を叶ふるなり」

とにかく、心の置き所というのは難しいものです。
臍下丹田に押し込めて、後は敵の動きに応ずればよいという人もあります。
これは、もっともな説のように聞こえます。
しかし、今度は、心を臍下に押し込めようということにとらわれて、そこに隙ができます。
ではどうしたらよいのでしょうか。
沢庵は、答えます。

心をどこに置くなどということにとらわれずに、無心になることだと。
そうすれば、心は体の隅々にまで伸び広がって、手にも足にも目にも、全身に行きわたって、敵の動きに応じ、自由に剣を揮(ふる)えるようになるというのです。

こうして沢庵は、剣の道を極めるには、心のあり方が大切であると、説いたのでした。
『不動智神妙録』の最後には、次の歌が載せられています。

心にぞ 心まよわす 心なれ
心に心 心ゆるすな

武道を通じても心のあり方を極めようとしたところに、日本人の特徴が見られます。
これもまた日本精神の表れと言えるでしょう。

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