射殺、餓死…李承晩ラインで日本漁民が味わった塗炭の苦しみ
松木國俊(元豊田通商ソウル事務所駐在員)
日韓関係の悪化について、韓国側は
「日本の右傾化が原因」
「加害者と被害者の関係は1000年経っても変わらない」
などと、一方的に日本を批判している。
だが、歴史を振り返ると、韓国こそがこれまで、日本に理不尽かつ非道な行動・対応を取り続けてきた。
韓国が口を閉ざす「理不尽な真実」について、元大手商社マンで日韓問題研究家の松木國俊氏が迫る。
◇ ◇ ◇
「李承晩(イ・スンマン)ライン」。
それは、日本の主権回復を承認するサンフランシスコ平和条約発効直前の1952年1月、韓国が海洋資源を独占し、領土を拡張するため、島根県・竹島を取り込んで、一方的に公海上に引いた軍事境界線・排他的経済水域である。
いかなる国際法を持っても正当化できるものではなかったが、日本政府は憲法第9条などに縛られて手も足も出せなかった。
これより13年にわたって、日本漁民は、韓国警備艇による射殺、体当たり、拿捕、抑留、餓死という塗炭の苦しみを味わった。
日韓漁業協議会発行の『日韓漁業対策運動史』に、当時の詳しい記録が残っている。
韓国の暴虐を風化させないため、あえて、その悲惨な過去を振り返ってみる。
韓国警備艇は、李承晩ラインの外側を航行中の日本漁船にまで見境なく襲い掛かり、罪のない日本漁民を拿捕して釜山港へ連行した。
棒でたたくなど残虐な拷問を加え、自白を強要し、文明国では考えられない人権を無視した一方的な裁判で判決を言い渡した。
獄中生活は悲惨を極めた。
雑居房には20人前後が押し込められ、手足だけでなく体も重ねあわせて寝なければならなかった。
食事の不潔さは言語に絶し、カビの生えた麦、腐敗した魚は度々で人間の食べる物ではなかった。
ほぼ全員が栄養失調状態となって死線をさまよい、ついに餓死者まで出たのだった。
54年以降は、「刑期」を終了した者さえ釈放せず、韓国側は抑留者を「人質」にしてさまざまな要求を日本に突き付けてきた。
帰国の希望を奪われた抑留者は、肉体的にも精神的にも限界を超え、狂乱状態になるものもあったという。
残された家族にも、重い経済的、精神的負担が発生した。
堪えかねて精神を病み、自殺した妻もいた。
日本漁民を守るべき海上保安庁の巡視船は「不測の事態を避ける」という理由で砲を撤去させられていた。
拿捕されそうな日本漁船を救出するため、丸腰で韓国警備艇との間に割り込み、自ら銃弾を浴びながら漁船を逃す以外になかったという。
65年に日韓基本条約や請求権・経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでの間、韓国の不法拿捕により抑留された日本漁民は3929人、
拿捕時の攻撃による死傷者は44人、
物的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。
にもかかわらず、韓国は現在に至るまで一言の謝罪も補償もしていない。
それどころか、朴槿恵(パク・クネ)大統領は高飛車な態度で、反日発言を続けている。
日本人は、韓国の非道な行為で無念の死を遂げた同胞のことを、決して忘れてはならない。
まつき・くにとし
1950年、熊本県生まれ。
73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。
直後から韓国担当を務め、80~84年、ソウル事務所に駐在する。
秘書室次長、機械部次長を経て、2000年に退社。松木商事を設立する。
韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」幹事長。
著書に
『ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った』
『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)
など。
■悪業と非道 李承晩大統領は蛮族の酋長
『歴史通』 2014年5月号
小名木善行(日本の心をつたえる会代表)
二〇一二年の李明博大統領の竹島不法入国や陛下に対する侮辱発言をはじめとする韓国の非道ぶりに腹をたてている方も多いかと思います。
けれど実は、韓国の対日侮辱はいまに始まったことではありません。
もともと韓国は、五百年もの間支那の属国だった国です。
国内に産業らしい産業はなく、国は貧しく国民は飢え、その劣悪な環境から、平均寿命は二十四、五歳。
主な輸出品目は、支那に献上する女性だけ。
国内では両班と呼ばれる貴族が横暴の限りをつくしていた。
ひらたくいったら未開の野蛮国です。
ところがいまから百年ほど前、支那の清王朝が滅びました。
韓国は封主を失ったのです。
一方でお隣の日本は、日清日露の大戦に勝利して世界の一等国の仲間入りを果たしました。
韓国は手のひらをかえして日本にすり寄りました。
支那の属国ではなく、日本の属国となろうとしたわけです。
けれどそれは日本にとって、何のメリットもない提案でした。
日本の韓国併合について、支那やロシアの脅威に対抗するための軍事的理由をあげる人がいます。
が、それは間違いです。
かつてのヨーロッパ諸国にとってのアフリカや東南アジア諸国、あるいはかつて戦った日米にとっての太平洋の島々と同様、当時の列強というのは、軍事的必要があれば勝手にそこを通過し、軍事施設を作りました。
つまり国家というのは、世界に認められた一部の強国を指し、それ以外は「未開の蛮族の生息する地域」とみなされたのです。
日本もそのようにみなされるところを、あと一歩のところで近代国家の仲間入りをはたし、
韓国は名前こそ「大韓帝国」といさましくしたけれど、国際的には「蛮族が生息する地域」としてしかみなされないエリアだったのです。
日本は、日清日露の戦争においても、朝鮮半島に一方的に軍を進めていますし、軍の施設を置いています。
韓国の都合に関わりなく、日本にとってその都合があったからです。
軍事的には、併合する意味などまるでありません。
◆「属国になりたい」
ところが、日本が韓国の「属国にしてほしい」という要求を拒否すると、韓国はびっくりするような挙にでます。
何をしたかというと、属国拒否の中心人物であった伊藤博文を暗殺してしまったのです。
そして殺害の翌月には、「韓国は日本と『対等に』合邦して新たな帝国を築く」というとんでもない声明を世界に向けて発表しました。
このことは、当時の世界にあって大爆笑の「珍事」でした。
世界の一等国として英国とさえ対等な同盟関係にある列強の日本が、国とさえ認識されていない「未開の蛮族」から「対等な」合邦を言い出されたのです。
世界列強諸国は、日本に「隣にあるのだから、すこしは蛮族の面倒をみてやったらどうだ」と言い出しました。
この結果行われたのが、明治四十三年(一九一〇)八月の日韓併合です。
要するに当時の国際外交(未開の蛮国は含まれません)にあって、日本は朝鮮半島の面倒を見ざるを得なくなってしまったのです。
文献史料によっては「日本が韓国を併合して良いか列強諸国に聞いて回った」としているものがありますが、事実はまるで反対です。
◆日韓併合
日本は困り果てました。
平素から人種の平等を唱える日本が、隣にある「未開の蛮族」を押し付けられたのです。
欧米のように奴隷支配するなら話は簡単ですが、それをしたら日本の主張する「人種の平等」は嘘になってしまいます。
であれば、併合し蛮族を教育して近代国家人に仕立て直すしかない。
そうすることで有色人種も人であることを立証するしかなくなったのです。
結果日本は、韓国を併合しました。
以後三十六年間にわたって、莫大な国費と人材を朝鮮半島に投下し続けました。
おかげで朝鮮半島では、
八つあった言語がひとつに統一され、
数校しかなかった小学校は五千二百校になり、
それまで教育を受けたことなどなかった人々を二百三十九万人も無料で就学させ、
名前のなかった女性に名前をつけ、
戸籍をつくり、住民台帳を整備し、
道路をつくり、橋を架け、鉄道を敷設し、
上下水道を整備し、路上大便があたりまえだったのをトイレでさせ、
病院をつくり、電気を敷き、ビルを建て、
半島内に古くからある不条理な刑罰や牢獄を廃止するなど、
可能な限りの誠意と力を尽くして韓半島の近代化を押し進めたのです。
韓国の人口は二倍に増えています。
もっとも日本が統治をはじめた当初には、抵抗運動もあるにはありました。
ある地元の宗教団体が、民衆を煽動して「日本による搾取を許すな!」と宣伝し、民衆が蜂起したのです。
しかし、民衆のあいだに日本統治による治安や、なにより「臭気のない清潔な暮らし」が徐々に浸透すると、抗日運動も自然と沈静化していきました。
そして朝鮮半島は、すくなくとも表向きは、蛮族ではなく、近代国家の人士の体裁を整えるようになっていったのです。
◆李承晩の帰国
ところが、こうした日本の努力がまだ実りきらないうちに、大東亜戦争で日本が負け、朝鮮半島から去ることになったのです。
朝鮮半島には、新たな統治者として米軍が上陸しました。
そして米軍と一緒にやってきたのが、米国内で李氏朝鮮王朝時代を東洋の天国のように崇拝し宣伝していた李承晩でした。
李承晩は日本が韓国を併合した当時、上海で「大韓民国臨時政府」を作って、その大総理におさまっていた人物です。
ところが、「臨時政府」どころか韓国を独立国でなく、国際連盟の「委任統治領」にしてくれと李承晩が米国に依頼したことがバレてしまいます。
これは韓国を米国の植民地にするということです。
臨時政府のメンバーにこのことを糾弾された李承晩は、ひそかに上海から逃亡し、米国に渡りました。
そして米国内で李承晩は、李氏朝鮮時代をまるでファンタジックなおとぎ話のように賛美する作り話を英文にしてあちこちに寄稿し、たまたまこれが対日戦争を仕掛けようとする米国の意向に添ったことで、米国内で名前と顔が売れていきました。
もっとも、米国内でそれなりの政治家とのつながりをもったとはいえ、韓半島に帰還した李承晩には、半島内での人脈も政治活動のための資金力もありません。
これに目をつけたのが日本とのパイプで力をつけていた湖南財閥で、旧統治者であった日本がいなくなると、財閥としての力を失わないために米国内に顔がきく李承晩の支援を申し出たのです。
これによって李承晩は、湖南財閥の資金力と国内人脈を手に入れ、ついに昭和二十三年(一九四八)八月、大韓民国(いまの韓国)が建国され、初代大統領に就任したのです。
大統領に就任した李承晩が大統領として最初にやった仕事が、「親日派の抹殺」でした。
彼は公の場で
「日本統治時代はよかった」
「今の政府は駄目だ」
などと発言した者を片端から政治犯として逮捕投獄したのです。
収監した者に対しては、日本が統治するようになってから禁止したはずの李氏朝鮮時代の残酷な拷問道具を復活させてこれを用い、刑務所がいっぱいになると、入獄の古い者から次々と裁判もなしで殺害しています。
まるで蛮族の酋長ですが、おかげで李承晩が初代大統領に就任してからたった二年で、政治犯として投獄された囚人数は、日本が朝鮮を統治した三十六年間の投獄者の総数をはるかに上回っています。
◆対馬、竹島領有宣言
李承晩が次にした仕事が昭和二十四年(一九四九)の「対馬領有宣言」です。
『李承晩ライン』
これは例えていえば、建国したてのアフリカの某国の酋長がいきなりカリフォルニアは我が領土と言い出したようなものです。
これまた世界からみれば、ただの笑い話ですが、韓国国内には、たいへんな衝撃がありました。
かつての封主国の領土を「我が領土」と一方的に宣言したわけです。
権威あるものを貶めることに快感を覚える人というのは、世の中に少なからずいるもので、新国家建設でナショナリズムにわく韓国民の一部は、このニュースは実に気宇壮大な誇り高いものに思えたのです。
調子に乗った李承晩は、宣言だけでなく、こんどは日本に対する竹島の返還請求まで行ないました。
李承晩ラインの設定より三年も前のことです。
とはいえ、韓国内には衝撃を与えたこれらの発言は、当時韓国を占領していた米軍にとっても、米国本国政府にとっても、また日本にとっても、何の関心もひかないものでした。
ただのポーズであり、相手にする必要ナシと判断されたからです。
言っただけで何かできるだけの実力は、当時の李承晩にはまだありませんでした。
その李承晩は、反日だけに凝り固まっていたわけではありません。
同時に共産党も頭から嫌っていました。
李承晩のこのあまりの反共ぶりに危機感を募らせた金日成は、ソ連と謀り、ソ連から武器と資金の供給を受けて朝鮮半島北部に日本が築いた工業地帯を軍事制圧してしまいました。
これは韓国にとっては一大事です。
朝鮮半島の富の源泉を共産党金日成軍閥に奪われたのですから。
そして財力を身に付けた金日成は、昭和二十五年(一九五〇)六月、ソ連製の強力な戦車隊と、十一万の陸兵をもって、ソウルを急襲します。
朝鮮戦争の勃発です。
そもそも朝鮮戦争というのは、実はしなくて済んだ戦争です。
なぜなら昭和二十年の終戦直後に朝鮮半島では、もとの朝鮮総督府の呂運亨らが中心となって「朝鮮人民共和国」建国が宣言されていたのです。
この「朝鮮人民共和国」には、後に朝鮮半島を二分する勢力となる金日成も新政府メンバーとして参列していました。
つまり、共産党もそれ以外の政党も、まずはひとつの統一朝鮮としての新国家建国を目指していたのです。
もしこれが成功していたら、他の国々同様、政権内部での言論戦は多々あったろうし、局地的デモによる逮捕者などはあったかもしれないけれど、国を分けての戦争など起こっていません。
しかしこの「朝鮮人民共和国」は、建国宣言の翌日には、上陸してきた米軍によって潰されてしまいました。
米国にいた李承晩が、米政治家を動かし
「共産主義者が一緒にいる統一政権は建国を少し見合わせて、先に実態調査をした方がいい」
ということになったからです。
結局、「朝鮮人民共和国」建国は見送られ、李承晩が新たに建国した大韓民国の初代大統領に就任したのですが、そのことがきっかけとなり、北の金日成が決起して朝鮮戦争に至っています。
つまり、朝鮮戦争を導いた最大の原因は、李承晩の存在そのものにあったということです。
◆サンフランシスコ講和条約
朝鮮戦争による死傷者数がどれほどのものであったか。
死傷者は韓国軍二十万。
他に米軍十四万、
その他連合軍二十二万、
北朝鮮軍二十九万、
中共軍四十五万が死傷しています。
さらに民間人は韓国百三十三万、
北朝鮮二百五十万人が殺害されたとされています。
たった三年間の、しかも朝鮮半島内という局地で行われた戦争で、南北合わせて五百万人を超える死傷者が出ています。
いかに朝鮮戦争が悲惨で酷い戦争だったかということです。
ちなみにこの戦争で米軍が投下した爆弾の総重量は約六十万トン。
これは大東亜戦争で日本に投下された爆弾の約四倍です。
それだけ悲惨だった朝鮮戦争ですが、この戦争のまっただなかに行われたのが、サンフランシスコ講和条約による日本の主権回復でした。
この条約は昭和二十六年に締結され、昭和二十七年四月に発効しています。
これが何を意味するか。
時期を考えれば答えは簡単に見えてきます。
それは悲惨さの増す朝鮮戦争に、日本を狩り出そうという意図です。
米国も財政面では、日本との戦争ですでに逼迫したものとなっていました。
そこへ重ねて朝鮮戦争が起こったのです。
多くの米国民は、もうすでに戦争に倦んでいました。
なぜわざわざアジアまで出かけていって米国民が命を落とさなければならないのか。
そんなことをしなくても、日本に再軍備させて、朝鮮の対応をさせればよいではないか、というわけです。
ところがそうなると困るのは李承晩です。
なぜなら李承晩にとっては、もし日本が朝鮮戦争に参戦すれば、強兵をもって鳴る日本軍です。
米軍とともにまたたく間に北朝鮮と中共軍を蹴散らして戦争を勝利に導くことは、火を見るよりも明らかです。
現に同じ韓国兵でも、旧日本軍所属だった兵隊と、新たに登用した韓国兵では、実力の違いは天と地でした。
もし日本が参戦し、日米で北朝鮮を駆逐すれば、今度は日本が戦勝国として再び朝鮮半島に還って来る。
そうなれば、反日を煽り非道の数々を行ってきた李承晩は、一〇〇パーセント間違いなく政権を追われます。
なんとかしてサンフランシスコ講和を潰したい。
けれど李承晩には、サンフランシスコ講和に参加する資格がありません。
なぜなら大東亜戦争に韓国は参戦していないからです。
大東亜戦争の最中には、韓国は日本の一部であり、国でさえなかったのです。
◆李承晩の貪欲ぶり
そこで李承晩は、サンフランシスコ講和そのものを邪魔するのではなく、日本と韓国の対立を深めることを画策します。
李承晩は、昭和二十六年(一九五一)七月、サンフランシスコ講和条約の草案を起草中の米国政府に対して「要望書」を提出しました。
内容は、
〈一〉日本の在朝鮮半島資産の韓国政府への移管
〈二〉竹島、波浪島を韓国領とする
そういう要求でした。
米国は驚きました。
せっかく日本をなだめすかして朝鮮戦争を戦わせようとしている矢先に、肝心の韓国が日本との対立関係を故意にあおってきたのです。
日本と韓国が対立関係になれば、日本が韓国のために出兵する可能性は、一〇〇パーセントなくなります。
米国は、翌月には李承晩に
「在朝鮮半島の日本資産の移管については認める。
それ以外の要求は一切認めない」
というたいへん厳しい内容の書簡を発行しました。
「ラスク書簡」です。
そして、その一カ月後の昭和二十六年九月八日、日本との間にサンフランシスコ講和条約を締結したのです。
◆隣接海洋に対する主権宣言
ところが、講和条約締結にますます危機感を募らせた李承晩は、さらなる暴挙に出ました。
昭和二十七年一月八日に、突然日本との国境を一方的に定めた「隣接海洋に対する主権宣言」を発表したのです。
これが世に言う「李承晩ライン」です。
どう対策しようか迷う米国に対して李承晩は、同月二十七日、さらに追い打ちをかけます。
「李承晩宣言韓国政府声明」を発表したのです。
この声明で李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に「国内だけで」宣言します。
そんなことをすれば当然日本は怒る。
怒れば日本は対北朝鮮戦争参加を拒否するにきまっています。
そして日本が参戦しなければ、米軍の朝鮮戦争での損耗はますます激しくなります。
米国は、ここへきてようやく事態を重く考えました。
そして
「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」
「李承晩の一方的な宣言による李承晩ラインは国際法上違法である」
と韓国政府に伝達します。
ところが李承晩はこの伝達を握りつぶし、対馬海峡上で操業する日本人漁船に銃撃を加え、船員を拿捕してしまいます。
◆日本漁民への暴虐
日本漁船拿捕にあたっては、韓国漁船を装った船で日本漁船に近づくという卑劣な手口も使いました。
漁船で近づき日本語で「調子はどうですか」などとにこやかに声をかけたうえで、付近に船を待機させ、日本漁船が網の巻き上げ作業にはいったところ(つまり身動きがとれなくなったところ)を見計らって、警告なしに機関銃を乱射して日本人船員を殺害し、慌てて網を切り落として逃げ出そうとする日本漁船を追尾して、これを漁船ごと拿捕するという極めて卑劣な手口でした。
軍事は当該国の軍服を着用して行うことというのが、国際法のルールです。
襲われた日本漁船はたいへんです。
船内は血の海、怪我をした者は息があっても治療してもらえない。
運良く生き残っても収容施設は六畳一間に三十人を押し込むという非道さです。
食事は残飯、水も三十人で一日に桶一杯です。
満員電車のような室内では、誰ひとり横になることもできず、トイレも行かせてもらえない。
立ったまま室内に大小便垂れ流しという状態にされたのです。
取り調べと称して部屋から連れ出されるときは、もっと大変です。
牢屋を出される瞬間に、殴る蹴るの暴行を受ける。
ぐったりして抵抗できなくなったところで、ようやく取調室に連れ出されると、そこでまた殴る蹴るの暴行です。
結局、この李承晩ラインは、廃止となった昭和四十年(一九六五)六月まで、なんと十三年間も続きました。
そしてこの間に韓国によって拿捕された日本漁船は、合計三百二十八隻、拿捕された者三千九百三十九人、殺害された者四十四人にのぼります。
ようやく解放されて帰国した日本人漁民の写真が残っています。
ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、焼けただれた頭皮、さらに全身が打撲と裂傷で紫色に変色しています。
あまりにも酷い姿です。
◆竹島占領
李承晩の非道はそれだけではありません。
李承晩ラインによって、一方的に領海線を敷いた彼は、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまっています。
もっとも、李承晩のこうした暴挙を、日本政府は上手に活用しています。
すなわち韓国の日本に対する暴挙と、日本に与えられた〈日本は軍事力を持たない〉という占領憲法を盾に、朝鮮戦争への参戦を拒んだのです。
要するに、まだ大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させたのです。
また、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、そのつど日本への返還を要求し、船員たちをもらいうけています。
このときの日本の動きは、結果として日本の朝鮮戦争参戦を拒否し、国内の復興を促進するという好ましい結果をもたらした反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っています。
李承晩の暴挙によって、せっかくの日本の参戦を棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との継続戦を望む李承晩を無視して、彼の頭越しに北朝鮮と休戦協定を結びます。
これが昭和二十八年七月二十七日の出来事で、以来、朝鮮半島は北緯三十八度線を境に北と南に別れることとなりました。
◆失脚
もっとも、この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した北朝鮮軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙を行っています。
放逐された捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招いています。
米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をしていますが、あとの祭りでした。
こうして大統領というよりも、まさに暴君としての専制政治を行った李承晩でしたが、彼の専横政治がようやく倒れたのは、昭和三十五年(一九六〇)になってからのことです。
韓国国内で民衆による李承晩打倒デモが起こったのです。
韓国全土に広がったこのデモは、百八十六人もの死者を出し、ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで宣言します。
米国に見放された李承晩は
「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」
と発言するのだけれど、これがまた韓国民衆の怒りを買い、民衆によってパゴダ公園にあった李承晩の銅像が引き倒され、韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求するという事態に至っています。
これによって、李承晩体制にようやく終止符がうたれます。
そして李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、九十を越える歳までしぶとく生き延びました。
李承晩自身は失脚しますが、「李承晩ライン」は、その後も維持されました。
これが廃止されたのは、昭和三十一年(一九五六)に軍事クーデターが起こり、韓国内に朴正熙大統領の新政権が誕生してからのことです。
日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正熙大統領は、昭和四十年(一九六五)六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止しました。
そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げます。
ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。
このため、竹島はいまだに日韓の火種となってしまったのです。
◆大統領=酋長なみ
さて、私たち日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。
けれど韓国における大統領は、未開の蛮族酋長と同様、ある種の絶対権力者です。
そしてその絶対権力者が、市民をあおり、反日侮日工作を行うわけです。
そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩なのです。
ひとつ申し上げたいことがあります。
李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いています。
その「理想国家」を打ち壊し破壊したのが日本だというわけです。
けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。
李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。
日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇をして日本に招きました。
李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。
李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態のままにしたのです。
結局、李垠殿下は、生涯を日本の質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。
このとき韓国政府からの出席者は皆無でした。
日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜わり、その様子に参列した全員が涙を流しています。
要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけで、あったのは己の権力欲だけだったということです。
そしてその李承晩の妄想から、いまも韓国は抜け出せないでいる。
しかし、おのれの権力欲とイデオロギーにこだわり、結果として朝鮮戦争という大戦をひき起し、同国民を百万単位で殺し、戦後二十年間も韓国を貧国のままにした李承晩の妄想は、結局のところ、韓国人に幸せをもたらしたでしょうか。
そして権力にしがみつかんがために、朝鮮戦争の最中に李承晩ラインをひき、竹島を占拠した。
そのことが韓国国民のために、いったい何の役にたっているのでしょうか。
争いの種を撒いただけのことでしかない。
日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。
そして同様に心ある韓国の人々が一日もはやく、歴史の真実に目を覚ましてくれることを願うばかりです。
◆おなぎ・ぜんこう
1956年生まれ。
2009年より保守系徳育団体「日本の心をつたえる会」を主催、代表を勤める。
ブログ「ねずさんのひとりごと」は、政治部門で常に全国ベスト10に入る人気ブログとなっている。
松木國俊(元豊田通商ソウル事務所駐在員)
日韓関係の悪化について、韓国側は
「日本の右傾化が原因」
「加害者と被害者の関係は1000年経っても変わらない」
などと、一方的に日本を批判している。
だが、歴史を振り返ると、韓国こそがこれまで、日本に理不尽かつ非道な行動・対応を取り続けてきた。
韓国が口を閉ざす「理不尽な真実」について、元大手商社マンで日韓問題研究家の松木國俊氏が迫る。
◇ ◇ ◇
「李承晩(イ・スンマン)ライン」。
それは、日本の主権回復を承認するサンフランシスコ平和条約発効直前の1952年1月、韓国が海洋資源を独占し、領土を拡張するため、島根県・竹島を取り込んで、一方的に公海上に引いた軍事境界線・排他的経済水域である。
いかなる国際法を持っても正当化できるものではなかったが、日本政府は憲法第9条などに縛られて手も足も出せなかった。
これより13年にわたって、日本漁民は、韓国警備艇による射殺、体当たり、拿捕、抑留、餓死という塗炭の苦しみを味わった。
日韓漁業協議会発行の『日韓漁業対策運動史』に、当時の詳しい記録が残っている。
韓国の暴虐を風化させないため、あえて、その悲惨な過去を振り返ってみる。
韓国警備艇は、李承晩ラインの外側を航行中の日本漁船にまで見境なく襲い掛かり、罪のない日本漁民を拿捕して釜山港へ連行した。
棒でたたくなど残虐な拷問を加え、自白を強要し、文明国では考えられない人権を無視した一方的な裁判で判決を言い渡した。
獄中生活は悲惨を極めた。
雑居房には20人前後が押し込められ、手足だけでなく体も重ねあわせて寝なければならなかった。
食事の不潔さは言語に絶し、カビの生えた麦、腐敗した魚は度々で人間の食べる物ではなかった。
ほぼ全員が栄養失調状態となって死線をさまよい、ついに餓死者まで出たのだった。
54年以降は、「刑期」を終了した者さえ釈放せず、韓国側は抑留者を「人質」にしてさまざまな要求を日本に突き付けてきた。
帰国の希望を奪われた抑留者は、肉体的にも精神的にも限界を超え、狂乱状態になるものもあったという。
残された家族にも、重い経済的、精神的負担が発生した。
堪えかねて精神を病み、自殺した妻もいた。
日本漁民を守るべき海上保安庁の巡視船は「不測の事態を避ける」という理由で砲を撤去させられていた。
拿捕されそうな日本漁船を救出するため、丸腰で韓国警備艇との間に割り込み、自ら銃弾を浴びながら漁船を逃す以外になかったという。
65年に日韓基本条約や請求権・経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでの間、韓国の不法拿捕により抑留された日本漁民は3929人、
拿捕時の攻撃による死傷者は44人、
物的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。
にもかかわらず、韓国は現在に至るまで一言の謝罪も補償もしていない。
それどころか、朴槿恵(パク・クネ)大統領は高飛車な態度で、反日発言を続けている。
日本人は、韓国の非道な行為で無念の死を遂げた同胞のことを、決して忘れてはならない。
まつき・くにとし
1950年、熊本県生まれ。
73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。
直後から韓国担当を務め、80~84年、ソウル事務所に駐在する。
秘書室次長、機械部次長を経て、2000年に退社。松木商事を設立する。
韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」幹事長。
著書に
『ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った』
『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)
など。
■悪業と非道 李承晩大統領は蛮族の酋長
『歴史通』 2014年5月号
小名木善行(日本の心をつたえる会代表)
二〇一二年の李明博大統領の竹島不法入国や陛下に対する侮辱発言をはじめとする韓国の非道ぶりに腹をたてている方も多いかと思います。
けれど実は、韓国の対日侮辱はいまに始まったことではありません。
もともと韓国は、五百年もの間支那の属国だった国です。
国内に産業らしい産業はなく、国は貧しく国民は飢え、その劣悪な環境から、平均寿命は二十四、五歳。
主な輸出品目は、支那に献上する女性だけ。
国内では両班と呼ばれる貴族が横暴の限りをつくしていた。
ひらたくいったら未開の野蛮国です。
ところがいまから百年ほど前、支那の清王朝が滅びました。
韓国は封主を失ったのです。
一方でお隣の日本は、日清日露の大戦に勝利して世界の一等国の仲間入りを果たしました。
韓国は手のひらをかえして日本にすり寄りました。
支那の属国ではなく、日本の属国となろうとしたわけです。
けれどそれは日本にとって、何のメリットもない提案でした。
日本の韓国併合について、支那やロシアの脅威に対抗するための軍事的理由をあげる人がいます。
が、それは間違いです。
かつてのヨーロッパ諸国にとってのアフリカや東南アジア諸国、あるいはかつて戦った日米にとっての太平洋の島々と同様、当時の列強というのは、軍事的必要があれば勝手にそこを通過し、軍事施設を作りました。
つまり国家というのは、世界に認められた一部の強国を指し、それ以外は「未開の蛮族の生息する地域」とみなされたのです。
日本もそのようにみなされるところを、あと一歩のところで近代国家の仲間入りをはたし、
韓国は名前こそ「大韓帝国」といさましくしたけれど、国際的には「蛮族が生息する地域」としてしかみなされないエリアだったのです。
日本は、日清日露の戦争においても、朝鮮半島に一方的に軍を進めていますし、軍の施設を置いています。
韓国の都合に関わりなく、日本にとってその都合があったからです。
軍事的には、併合する意味などまるでありません。
◆「属国になりたい」
ところが、日本が韓国の「属国にしてほしい」という要求を拒否すると、韓国はびっくりするような挙にでます。
何をしたかというと、属国拒否の中心人物であった伊藤博文を暗殺してしまったのです。
そして殺害の翌月には、「韓国は日本と『対等に』合邦して新たな帝国を築く」というとんでもない声明を世界に向けて発表しました。
このことは、当時の世界にあって大爆笑の「珍事」でした。
世界の一等国として英国とさえ対等な同盟関係にある列強の日本が、国とさえ認識されていない「未開の蛮族」から「対等な」合邦を言い出されたのです。
世界列強諸国は、日本に「隣にあるのだから、すこしは蛮族の面倒をみてやったらどうだ」と言い出しました。
この結果行われたのが、明治四十三年(一九一〇)八月の日韓併合です。
要するに当時の国際外交(未開の蛮国は含まれません)にあって、日本は朝鮮半島の面倒を見ざるを得なくなってしまったのです。
文献史料によっては「日本が韓国を併合して良いか列強諸国に聞いて回った」としているものがありますが、事実はまるで反対です。
◆日韓併合
日本は困り果てました。
平素から人種の平等を唱える日本が、隣にある「未開の蛮族」を押し付けられたのです。
欧米のように奴隷支配するなら話は簡単ですが、それをしたら日本の主張する「人種の平等」は嘘になってしまいます。
であれば、併合し蛮族を教育して近代国家人に仕立て直すしかない。
そうすることで有色人種も人であることを立証するしかなくなったのです。
結果日本は、韓国を併合しました。
以後三十六年間にわたって、莫大な国費と人材を朝鮮半島に投下し続けました。
おかげで朝鮮半島では、
八つあった言語がひとつに統一され、
数校しかなかった小学校は五千二百校になり、
それまで教育を受けたことなどなかった人々を二百三十九万人も無料で就学させ、
名前のなかった女性に名前をつけ、
戸籍をつくり、住民台帳を整備し、
道路をつくり、橋を架け、鉄道を敷設し、
上下水道を整備し、路上大便があたりまえだったのをトイレでさせ、
病院をつくり、電気を敷き、ビルを建て、
半島内に古くからある不条理な刑罰や牢獄を廃止するなど、
可能な限りの誠意と力を尽くして韓半島の近代化を押し進めたのです。
韓国の人口は二倍に増えています。
もっとも日本が統治をはじめた当初には、抵抗運動もあるにはありました。
ある地元の宗教団体が、民衆を煽動して「日本による搾取を許すな!」と宣伝し、民衆が蜂起したのです。
しかし、民衆のあいだに日本統治による治安や、なにより「臭気のない清潔な暮らし」が徐々に浸透すると、抗日運動も自然と沈静化していきました。
そして朝鮮半島は、すくなくとも表向きは、蛮族ではなく、近代国家の人士の体裁を整えるようになっていったのです。
◆李承晩の帰国
ところが、こうした日本の努力がまだ実りきらないうちに、大東亜戦争で日本が負け、朝鮮半島から去ることになったのです。
朝鮮半島には、新たな統治者として米軍が上陸しました。
そして米軍と一緒にやってきたのが、米国内で李氏朝鮮王朝時代を東洋の天国のように崇拝し宣伝していた李承晩でした。
李承晩は日本が韓国を併合した当時、上海で「大韓民国臨時政府」を作って、その大総理におさまっていた人物です。
ところが、「臨時政府」どころか韓国を独立国でなく、国際連盟の「委任統治領」にしてくれと李承晩が米国に依頼したことがバレてしまいます。
これは韓国を米国の植民地にするということです。
臨時政府のメンバーにこのことを糾弾された李承晩は、ひそかに上海から逃亡し、米国に渡りました。
そして米国内で李承晩は、李氏朝鮮時代をまるでファンタジックなおとぎ話のように賛美する作り話を英文にしてあちこちに寄稿し、たまたまこれが対日戦争を仕掛けようとする米国の意向に添ったことで、米国内で名前と顔が売れていきました。
もっとも、米国内でそれなりの政治家とのつながりをもったとはいえ、韓半島に帰還した李承晩には、半島内での人脈も政治活動のための資金力もありません。
これに目をつけたのが日本とのパイプで力をつけていた湖南財閥で、旧統治者であった日本がいなくなると、財閥としての力を失わないために米国内に顔がきく李承晩の支援を申し出たのです。
これによって李承晩は、湖南財閥の資金力と国内人脈を手に入れ、ついに昭和二十三年(一九四八)八月、大韓民国(いまの韓国)が建国され、初代大統領に就任したのです。
大統領に就任した李承晩が大統領として最初にやった仕事が、「親日派の抹殺」でした。
彼は公の場で
「日本統治時代はよかった」
「今の政府は駄目だ」
などと発言した者を片端から政治犯として逮捕投獄したのです。
収監した者に対しては、日本が統治するようになってから禁止したはずの李氏朝鮮時代の残酷な拷問道具を復活させてこれを用い、刑務所がいっぱいになると、入獄の古い者から次々と裁判もなしで殺害しています。
まるで蛮族の酋長ですが、おかげで李承晩が初代大統領に就任してからたった二年で、政治犯として投獄された囚人数は、日本が朝鮮を統治した三十六年間の投獄者の総数をはるかに上回っています。
◆対馬、竹島領有宣言
李承晩が次にした仕事が昭和二十四年(一九四九)の「対馬領有宣言」です。
『李承晩ライン』
これは例えていえば、建国したてのアフリカの某国の酋長がいきなりカリフォルニアは我が領土と言い出したようなものです。
これまた世界からみれば、ただの笑い話ですが、韓国国内には、たいへんな衝撃がありました。
かつての封主国の領土を「我が領土」と一方的に宣言したわけです。
権威あるものを貶めることに快感を覚える人というのは、世の中に少なからずいるもので、新国家建設でナショナリズムにわく韓国民の一部は、このニュースは実に気宇壮大な誇り高いものに思えたのです。
調子に乗った李承晩は、宣言だけでなく、こんどは日本に対する竹島の返還請求まで行ないました。
李承晩ラインの設定より三年も前のことです。
とはいえ、韓国内には衝撃を与えたこれらの発言は、当時韓国を占領していた米軍にとっても、米国本国政府にとっても、また日本にとっても、何の関心もひかないものでした。
ただのポーズであり、相手にする必要ナシと判断されたからです。
言っただけで何かできるだけの実力は、当時の李承晩にはまだありませんでした。
その李承晩は、反日だけに凝り固まっていたわけではありません。
同時に共産党も頭から嫌っていました。
李承晩のこのあまりの反共ぶりに危機感を募らせた金日成は、ソ連と謀り、ソ連から武器と資金の供給を受けて朝鮮半島北部に日本が築いた工業地帯を軍事制圧してしまいました。
これは韓国にとっては一大事です。
朝鮮半島の富の源泉を共産党金日成軍閥に奪われたのですから。
そして財力を身に付けた金日成は、昭和二十五年(一九五〇)六月、ソ連製の強力な戦車隊と、十一万の陸兵をもって、ソウルを急襲します。
朝鮮戦争の勃発です。
そもそも朝鮮戦争というのは、実はしなくて済んだ戦争です。
なぜなら昭和二十年の終戦直後に朝鮮半島では、もとの朝鮮総督府の呂運亨らが中心となって「朝鮮人民共和国」建国が宣言されていたのです。
この「朝鮮人民共和国」には、後に朝鮮半島を二分する勢力となる金日成も新政府メンバーとして参列していました。
つまり、共産党もそれ以外の政党も、まずはひとつの統一朝鮮としての新国家建国を目指していたのです。
もしこれが成功していたら、他の国々同様、政権内部での言論戦は多々あったろうし、局地的デモによる逮捕者などはあったかもしれないけれど、国を分けての戦争など起こっていません。
しかしこの「朝鮮人民共和国」は、建国宣言の翌日には、上陸してきた米軍によって潰されてしまいました。
米国にいた李承晩が、米政治家を動かし
「共産主義者が一緒にいる統一政権は建国を少し見合わせて、先に実態調査をした方がいい」
ということになったからです。
結局、「朝鮮人民共和国」建国は見送られ、李承晩が新たに建国した大韓民国の初代大統領に就任したのですが、そのことがきっかけとなり、北の金日成が決起して朝鮮戦争に至っています。
つまり、朝鮮戦争を導いた最大の原因は、李承晩の存在そのものにあったということです。
◆サンフランシスコ講和条約
朝鮮戦争による死傷者数がどれほどのものであったか。
死傷者は韓国軍二十万。
他に米軍十四万、
その他連合軍二十二万、
北朝鮮軍二十九万、
中共軍四十五万が死傷しています。
さらに民間人は韓国百三十三万、
北朝鮮二百五十万人が殺害されたとされています。
たった三年間の、しかも朝鮮半島内という局地で行われた戦争で、南北合わせて五百万人を超える死傷者が出ています。
いかに朝鮮戦争が悲惨で酷い戦争だったかということです。
ちなみにこの戦争で米軍が投下した爆弾の総重量は約六十万トン。
これは大東亜戦争で日本に投下された爆弾の約四倍です。
それだけ悲惨だった朝鮮戦争ですが、この戦争のまっただなかに行われたのが、サンフランシスコ講和条約による日本の主権回復でした。
この条約は昭和二十六年に締結され、昭和二十七年四月に発効しています。
これが何を意味するか。
時期を考えれば答えは簡単に見えてきます。
それは悲惨さの増す朝鮮戦争に、日本を狩り出そうという意図です。
米国も財政面では、日本との戦争ですでに逼迫したものとなっていました。
そこへ重ねて朝鮮戦争が起こったのです。
多くの米国民は、もうすでに戦争に倦んでいました。
なぜわざわざアジアまで出かけていって米国民が命を落とさなければならないのか。
そんなことをしなくても、日本に再軍備させて、朝鮮の対応をさせればよいではないか、というわけです。
ところがそうなると困るのは李承晩です。
なぜなら李承晩にとっては、もし日本が朝鮮戦争に参戦すれば、強兵をもって鳴る日本軍です。
米軍とともにまたたく間に北朝鮮と中共軍を蹴散らして戦争を勝利に導くことは、火を見るよりも明らかです。
現に同じ韓国兵でも、旧日本軍所属だった兵隊と、新たに登用した韓国兵では、実力の違いは天と地でした。
もし日本が参戦し、日米で北朝鮮を駆逐すれば、今度は日本が戦勝国として再び朝鮮半島に還って来る。
そうなれば、反日を煽り非道の数々を行ってきた李承晩は、一〇〇パーセント間違いなく政権を追われます。
なんとかしてサンフランシスコ講和を潰したい。
けれど李承晩には、サンフランシスコ講和に参加する資格がありません。
なぜなら大東亜戦争に韓国は参戦していないからです。
大東亜戦争の最中には、韓国は日本の一部であり、国でさえなかったのです。
◆李承晩の貪欲ぶり
そこで李承晩は、サンフランシスコ講和そのものを邪魔するのではなく、日本と韓国の対立を深めることを画策します。
李承晩は、昭和二十六年(一九五一)七月、サンフランシスコ講和条約の草案を起草中の米国政府に対して「要望書」を提出しました。
内容は、
〈一〉日本の在朝鮮半島資産の韓国政府への移管
〈二〉竹島、波浪島を韓国領とする
そういう要求でした。
米国は驚きました。
せっかく日本をなだめすかして朝鮮戦争を戦わせようとしている矢先に、肝心の韓国が日本との対立関係を故意にあおってきたのです。
日本と韓国が対立関係になれば、日本が韓国のために出兵する可能性は、一〇〇パーセントなくなります。
米国は、翌月には李承晩に
「在朝鮮半島の日本資産の移管については認める。
それ以外の要求は一切認めない」
というたいへん厳しい内容の書簡を発行しました。
「ラスク書簡」です。
そして、その一カ月後の昭和二十六年九月八日、日本との間にサンフランシスコ講和条約を締結したのです。
◆隣接海洋に対する主権宣言
ところが、講和条約締結にますます危機感を募らせた李承晩は、さらなる暴挙に出ました。
昭和二十七年一月八日に、突然日本との国境を一方的に定めた「隣接海洋に対する主権宣言」を発表したのです。
これが世に言う「李承晩ライン」です。
どう対策しようか迷う米国に対して李承晩は、同月二十七日、さらに追い打ちをかけます。
「李承晩宣言韓国政府声明」を発表したのです。
この声明で李承晩は、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に「国内だけで」宣言します。
そんなことをすれば当然日本は怒る。
怒れば日本は対北朝鮮戦争参加を拒否するにきまっています。
そして日本が参戦しなければ、米軍の朝鮮戦争での損耗はますます激しくなります。
米国は、ここへきてようやく事態を重く考えました。
そして
「サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である」
「李承晩の一方的な宣言による李承晩ラインは国際法上違法である」
と韓国政府に伝達します。
ところが李承晩はこの伝達を握りつぶし、対馬海峡上で操業する日本人漁船に銃撃を加え、船員を拿捕してしまいます。
◆日本漁民への暴虐
日本漁船拿捕にあたっては、韓国漁船を装った船で日本漁船に近づくという卑劣な手口も使いました。
漁船で近づき日本語で「調子はどうですか」などとにこやかに声をかけたうえで、付近に船を待機させ、日本漁船が網の巻き上げ作業にはいったところ(つまり身動きがとれなくなったところ)を見計らって、警告なしに機関銃を乱射して日本人船員を殺害し、慌てて網を切り落として逃げ出そうとする日本漁船を追尾して、これを漁船ごと拿捕するという極めて卑劣な手口でした。
軍事は当該国の軍服を着用して行うことというのが、国際法のルールです。
襲われた日本漁船はたいへんです。
船内は血の海、怪我をした者は息があっても治療してもらえない。
運良く生き残っても収容施設は六畳一間に三十人を押し込むという非道さです。
食事は残飯、水も三十人で一日に桶一杯です。
満員電車のような室内では、誰ひとり横になることもできず、トイレも行かせてもらえない。
立ったまま室内に大小便垂れ流しという状態にされたのです。
取り調べと称して部屋から連れ出されるときは、もっと大変です。
牢屋を出される瞬間に、殴る蹴るの暴行を受ける。
ぐったりして抵抗できなくなったところで、ようやく取調室に連れ出されると、そこでまた殴る蹴るの暴行です。
結局、この李承晩ラインは、廃止となった昭和四十年(一九六五)六月まで、なんと十三年間も続きました。
そしてこの間に韓国によって拿捕された日本漁船は、合計三百二十八隻、拿捕された者三千九百三十九人、殺害された者四十四人にのぼります。
ようやく解放されて帰国した日本人漁民の写真が残っています。
ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、焼けただれた頭皮、さらに全身が打撲と裂傷で紫色に変色しています。
あまりにも酷い姿です。
◆竹島占領
李承晩の非道はそれだけではありません。
李承晩ラインによって、一方的に領海線を敷いた彼は、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまっています。
もっとも、李承晩のこうした暴挙を、日本政府は上手に活用しています。
すなわち韓国の日本に対する暴挙と、日本に与えられた〈日本は軍事力を持たない〉という占領憲法を盾に、朝鮮戦争への参戦を拒んだのです。
要するに、まだ大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させたのです。
また、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、そのつど日本への返還を要求し、船員たちをもらいうけています。
このときの日本の動きは、結果として日本の朝鮮戦争参戦を拒否し、国内の復興を促進するという好ましい結果をもたらした反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っています。
李承晩の暴挙によって、せっかくの日本の参戦を棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との継続戦を望む李承晩を無視して、彼の頭越しに北朝鮮と休戦協定を結びます。
これが昭和二十八年七月二十七日の出来事で、以来、朝鮮半島は北緯三十八度線を境に北と南に別れることとなりました。
◆失脚
もっとも、この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した北朝鮮軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙を行っています。
放逐された捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招いています。
米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をしていますが、あとの祭りでした。
こうして大統領というよりも、まさに暴君としての専制政治を行った李承晩でしたが、彼の専横政治がようやく倒れたのは、昭和三十五年(一九六〇)になってからのことです。
韓国国内で民衆による李承晩打倒デモが起こったのです。
韓国全土に広がったこのデモは、百八十六人もの死者を出し、ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで宣言します。
米国に見放された李承晩は
「行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる」
と発言するのだけれど、これがまた韓国民衆の怒りを買い、民衆によってパゴダ公園にあった李承晩の銅像が引き倒され、韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求するという事態に至っています。
これによって、李承晩体制にようやく終止符がうたれます。
そして李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、九十を越える歳までしぶとく生き延びました。
李承晩自身は失脚しますが、「李承晩ライン」は、その後も維持されました。
これが廃止されたのは、昭和三十一年(一九五六)に軍事クーデターが起こり、韓国内に朴正熙大統領の新政権が誕生してからのことです。
日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正熙大統領は、昭和四十年(一九六五)六月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止しました。
そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げます。
ただ、この日韓基本条約において李承晩ラインは廃止となったものの、竹島については、当時の日韓両国において「争いの余地のない日本の領土」という認識のもとで、特段の取り決めがなされませんでした。
このため、竹島はいまだに日韓の火種となってしまったのです。
◆大統領=酋長なみ
さて、私たち日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。
けれど韓国における大統領は、未開の蛮族酋長と同様、ある種の絶対権力者です。
そしてその絶対権力者が、市民をあおり、反日侮日工作を行うわけです。
そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩なのです。
ひとつ申し上げたいことがあります。
李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いています。
その「理想国家」を打ち壊し破壊したのが日本だというわけです。
けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。
李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。
日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇をして日本に招きました。
李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。
李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態のままにしたのです。
結局、李垠殿下は、生涯を日本の質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。
このとき韓国政府からの出席者は皆無でした。
日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜わり、その様子に参列した全員が涙を流しています。
要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけで、あったのは己の権力欲だけだったということです。
そしてその李承晩の妄想から、いまも韓国は抜け出せないでいる。
しかし、おのれの権力欲とイデオロギーにこだわり、結果として朝鮮戦争という大戦をひき起し、同国民を百万単位で殺し、戦後二十年間も韓国を貧国のままにした李承晩の妄想は、結局のところ、韓国人に幸せをもたらしたでしょうか。
そして権力にしがみつかんがために、朝鮮戦争の最中に李承晩ラインをひき、竹島を占拠した。
そのことが韓国国民のために、いったい何の役にたっているのでしょうか。
争いの種を撒いただけのことでしかない。
日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。
そして同様に心ある韓国の人々が一日もはやく、歴史の真実に目を覚ましてくれることを願うばかりです。
◆おなぎ・ぜんこう
1956年生まれ。
2009年より保守系徳育団体「日本の心をつたえる会」を主催、代表を勤める。
ブログ「ねずさんのひとりごと」は、政治部門で常に全国ベスト10に入る人気ブログとなっている。