まるで金太郎アメ 韓国歴代大統領「反日・侮日」妄言集
『歴史通』 2013年9月号
拳骨拓史(作家)
韓国大統領による「反日発言」がかまびすしい。
とは言え歴史をみれば、朴槿惠、李明博、盧武鉉以前にも、歴代韓国大統領の多くは、日本に「謝罪と賠償」を求めることが一種の伝統化していることに気づく。
いわば“反日の金太郎アメ”なのだ。
(1)李承晩 初代~第三代韓国大統領。在任期間=一九四八~一九六〇
〈朝日新聞を通じた新年メッセージ〉
日本の皆さん新年おめでとう。
韓国人は善良な皆さんに対してなんの呵責ももっていないが、日本人もまた韓国人に不平を抱いていないと思う。
過去四十年の間、韓国人がうけた痛手は日本軍国主義者の罪に帰すべきものであって、日本人もまた彼らの政府のあとで同じように被害をうけたものと思う。
(中略)
われわれは隣人同士であり、両国民はお互いに仲良くつきあわねばならないことを日本人は忘れてはならない。
(一九四九年一月五日)
李承晩(イ・スンマン)韓国大統領(一八七五~一九六五)が就任間もない時期に、日本に宛てたメッセージである。
反日で有名になる李承晩大統領も、当時はまだその牙を見せていなかった。
李承晩は若くして反日活動団体である独立協会に身を投じ、投獄。
釈放後に渡米し、朝鮮独立のための宣伝活動をおこなった。
一九一九年、上海の大韓民国臨時政府(注:国際的には承認されず)の大統領に就いたが、一時期上海にわたっただけでほとんどをアメリカですごし、第二次世界大戦後に韓国大統領に就任。
◆親日派を断圧
李承晩ラインを設定して日本と対立した。
(李承晩ライン:一九五二年に李承晩大統領が韓国の主権があると宣言した水域を囲む線。
日本側はこれを認めず、ラインが廃止されるまでの十三年間に日本漁船の捕獲事件などが起こり、日本人抑留者は三千九百二十九人、死傷者は四十四人を数えた)
日本人抑留者たちは人間として満足な生活をする権利すら与えられず、寝室はゴザが敷かれた部屋に毛布が一、二枚程度与えられ、食事は茶碗一杯、麦飯に具なしの味噌汁だけがおかずであった。
小アジの煮付け一匹が三人分の食事として出されることもあり、健康を維持するカロリーを与えられることはなかった。
抑留者たちは家族が送ってくる差し入れ品を金に替え、食糧や夜具などに交換したが、この差し入れ品も、韓国警察によって中身が抜かれたり、届かなかったりした。
当時、李承晩大統領が語り、韓国で流行語となったのが
「アメリカは余り信じるな。
ソ連の奴らには騙されるな。
日本は必ず再起する。注意せよ!」
というものであった。
アメリカ生活の長い李承晩は日本統治の実際を知らず、日本統治に協力した人々を「親日派」として弾圧した。
日本語で「親日派」といえば、日本について詳しかったり、日本に対し好意をもつていたりする人を意味するが、韓国語ではこのような意味の場合は「知日派」を使い、「親日派」は使わない。
「親日派」は日本の植民地支配に協力した者を指し、「売国奴」に近い意味で用いられ、反日教育を実施して韓国国民の日本への敵愾心を強くした。
李承晩大統領はライバルの暗殺や不正占拠などを繰り返し、反共独裁政治をおこなったが、野党や国民の批判を浴び辞任、ハワイに亡命。
晩年は貧困と孤独にあえぐ悲惨な末路をたどった。
〈韓国スポークスマンの発表〉
李承晩大統領は共産主義者が民主主義政府および国民に比べていかに残忍であり、独裁的かつ野蛮であるかを教えるとともに、日本帝国主義の侵略性およびその韓国に対する悪意にみちた態度を生徒に教えるよう命令した。
またこの新指示は、韓国経済を独占しようとする日本の陰謀に対する対抗措置を準備するため、教師および大学教授に命じ、生徒を激動させようとするものである。
(一九五四年十月十四日)
〈「三・一事件」四十一周年祈念集会でのメッセージ〉
日本は戦時中、強制的に日本に送られ、軍事産業で働かされた二百万の韓国人に対する補償の義務がある。
岸首相は最近の訪米中、米国に補償支払い援助を要請したといわれるが、外国に援助を求めるのは理由のないことで、補償については日本が全責任を負うべきである。
(一九六〇年三月一日)
(2)全斗煥 第十一~十二代韓国大統領。在任期間=一九八〇~一九八八
全斗煥(チョン・ド・ファン)は朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学し、一九七九年の朴大統領暗殺事件の混乱を処理して実権を掌握。
大統領を辞任した後、不正蓄財などが発覚し逮捕された。
全斗煥の父親、全相禹は一九三〇年代後半に日本への高い忠誠心があるとの理由から、任地である内川里の里長に抜擢され、農民たちに「皇国臣民化」を説いてまわり、日本への供出物の確保に情熱を傾けた。
その後、中国の吉林省松花江流域の農村に居をかまえたが、そこで朝鮮独立運動家を取り締まるべく日本軍の案内をおこなって大金を得、その後韓国へ戻って暮らしていた。
全斗煥韓国大統領もその影響を受け、早稲田大学教授・松原正氏と会った際に、満洲などにいた日本へのテロ勢力を討伐するための歌である『討匪行』を歌詞ひとつ間違えずに歌ったと言われている。
◆まるでお化け屋敷
全斗煥自身、
「私の幼いころ、将校たちが軍刀をつるし、皮の長ぐつをはいて部隊を指揮する姿とか、さっそうとした乗馬姿とかをよく見かけて、すっかりあこがれてしまい、めしも食わずに追いかけていっては訓練に見とれていたものです」
と述べ、大東亜戦争勃発後は、日本の少年航空兵になりたいと熱望していた。
大統領になってからは、彼が父とも呼ぶ前任の朴正熙元大統領が日本から多額の支援金を受けていたことが、「親日家」だとして批判される理由になっていたため、全斗煥大統領は「反日」と「親日」を超えた「克日」という新しいスローガンを用意した。
その事蹟というべきものが、一九八七年に建設された韓国の独立記念館である。
数十億円もの寄付金を募り、約五百億ウォンで建てられた独立記念館は、日本軍による銃殺刑や拷問などの様子がロウ人形をつかって虚実とりまぜて再現されており、訪れた人々の多くは口を揃えて「まるでお化け屋敷だ」という悪趣味なものとなって仕上がった。
一九八一年には、
「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」
と、全斗煥自身、韓国の非を認める発言もしていただけに、独立記念館を建設したことは日韓関係の未来を考える上で残念でならない。
〈昭和天皇に拝謁した全斗煥大統領の宮中晩餐会での挨拶〉
われわれ両国には、「雨降って地固まる」との共通のことわざがあります。
(中略)
われわれ両国の間にあった不幸な過去は、今やより明るく、より親しい韓日間の未来を開拓していくうえで、貴重な礎にならねばならないと信じております。
(一九八四年九月七日)
全斗煥韓国大統領は昭和天皇に拝謁した最初の韓国大統領となった。
昭和天皇との拝謁については、日韓両国から激しい批判があったが、その際、昭和天皇より過去の歴史に対する謝罪の発言を引き出すよう強く日本側に要望していた。
宮中晩餐会の前日、全斗煥は安倍晋太郎外務大臣と会談し、
「弱い立場にある人間は普通、富める人、強い人に対してひねくれを感じ、先方が寛大にしても時として誤解をもつ。
従って強い人、富める人は多少損をしても寛大な気持を持って欲しい」
「韓日の(過去の)誤解は大部分そういうものだったと思う」
と述べたという。
(『読売新聞』一九八四年七月十日)
昭和天皇の御言葉を受け、韓国の民族主義団体「光復会」(日本統治時代の抗日、独立運動家とその家族で構成)は、
「過去の歴史の張本人である日本の天皇が不幸だった過去に心から遺憾の意を表明し謝罪した。
われわれは日本側の反省と謝罪を喜びをもって受け入れる。
この謝罪は、われわれの歴史的勝利を意味する」
などと反応を見せたが、これ以降、韓国政府は大統領が代わるごとに天皇陛下に謝罪を要求しようという悪癖を生むようになった。
(3)盧泰愚 第十三代韓国大統領。在任期間=一九八八~一九九三
天皇陛下の御言葉を政治的なかけ引きに利用しようとする動きは、全斗煥の後任である慮泰愚大統領(一九三二~)の時代には始まっている。
『東亜日報』では天皇陛下が過去の歴史について直接謝罪を表明しなければ、またその内容が韓国政府の期待にそぐわない場合は、盧泰愚大統領の訪日時に天皇陛下への訪韓招請を行わないと報じた。
この韓国政府の動きにあきれた小沢一郎自民党幹事長(当時)は、
「反省しているから(経済面などで)協力している。
これ以上、土下座などする必要があるのか」
と反発したが、マスコミなどから突き上げられ、謝罪へと追い込まれている。
〈慮泰愚総裁と日本人記者団との懇談形式での会見〉
私の前任者(全斗換・前大統領)の訪日時、昭和天皇が不幸な歴史に遺憾の意を表明した。
両国間に不幸なことがあったことはだれもが認識している。
加害者がだれであり、被害者がだれであったかについても共通の認識がある。
加害者が被害者に「すみません」とか慰めの言葉をいうのは当然のことだ。
韓国側からいうと謝罪がはっきりしない。
被害者は加害者の真心を疑わざるを得ない。
真心から「すみません」
といってくれれば被害者としても感動して
「いや、結構です。
これからうまくやりましょう」
といえるのではないか。
(中略)
「間違っていた」「すみません」というおおらかな心を見せれば、韓国だけでなく中国や東南アジアが日本に対する認識を変える契機になる。
力量があり、強い方がおおらかな心を見せることが必要だ。
(天皇の「お言葉」については)
天皇の名前にかけてというのではなく、皆さん(日本人記者)や日本の国民と話をしてみましょう。
そうすれば日本がどうすれば正しいのか自明のことだ。
そんな次元から自然に解決されれば天皇訪韓もうまく解ける問題ではないか。
(一九九〇年五月十五日)
〈宮中晩さん会での慮泰愚・韓国大統領の答礼あいさつ〉
日本は陛下のご即位によって、平成の新しい時代を迎えました。
本日、陛下と歴史的な交歓をもち、天皇ご即位の祝賀の挨拶を直接お伝えできますことを意義深く考えます。
また、日本が戦後の廃虚から立ち上がり、全世界がうらやむ平和で繁栄する国家を築いたことに、賛辞を送ります。
私は平成時代が日本ばかりではなく、私どもが生きる東アジアと世界の平和と繁栄、友誼を増進する時代になるものと確信いたします。
遥かな古代から今日に至るまで、韓日両国は最も近い隣人として親しんで来ました。
両国の国民は狭い海峡を越えてお互いに往来し、相手国の文化形成に大きな影響をおよぼし合いました。
両国間には歓迎すべきことも数多くありました。
しかし、わが国民は近世に入り、苦痛を受ける一時期を経験しなければなりませんでした。
両国間の長い善隣友好の歴史から見るとき、暗い時代は相対的に短い期間でした。
歴史の真実は消されたり忘れられたりすることはありませんが、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません。
われわれ両国は真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません。
日本の歴史と新しい日本を象徴する陛下がこの問題に深い関心を示されましたことは、きわめて意味深いことです。
今やわれわれ両国が近くて近い隣人、信頼する友邦として、両国関係を発展させるのに障害となってきた過去の歴史の影を消し、残滓を取り除くためにわれわれすべてが努力しなければなりません。
そうすることによって、両国間の望ましい関係をわれわれの子孫に受け継がせなければなりません。
(一九九〇年五月二十五日)
一九六五年の日韓基本条約によって、過去の賠償はすべて完了していることは言うまでもないが、謝罪についても盧泰愚大統領が明確に「解決した」と断言している。
日本はすでに、謝罪も賠償も終わっているはずだが、彼らは未だにこれを要求しつづけている。
金泳三は一九五四年に国会議員に当選以来、ながく野党議員を経験するが九〇年に与党に合流。
九三年に十三年ぶりとなる文民大統領となった。
だが政権末期には通貨危機がおき、韓国経済を迷走させたまま任期を終えた。
(4)金泳三 第十四代韓国大統領。在任期間=一九九三~一九九八
〈金泳三韓国大統領による衆議院本会場での国会演説〉
一八九四年、韓(朝鮮)半島では日本と中国間の戦争があった。
日清戦争で勝利した日本は、ついに韓半島を併合した。
一九四五年、韓国は解放されたが、南北に分断され、同族相争う戦争を体験した。
韓国は今も地球上の最後の分断国家として、民族的苦痛をなめている。
私と、わが国民は、一世紀にわたった諍いと葛藤の歴史に終止符を打ち、真の友情と協力の新しい歴史を開いていくことを提起する。
(中略)
韓日両国国民は心の扉をすっかり開かなければならない。
過去のしこりはきれいに洗い流さなければならない。
(一九九四年三月二十五日)
李承晩韓国大統領然り、就任当初はかならず過去の歴史について問題としないという姿勢をとるのが歴代韓国大統領の御家芸である。
〈金泳三・韓国大統領の朝日新聞社との会見〉
再三強調してきたように、日韓関係を未来志向に発展させていくには、正しい歴史認識の確立が何よりも重要だ。
それには、過去を直視する土台の上に、未来に向かって協力していかなければならない。
過去の歴史をウソで美化したり、不問にしたりするのは、日本自身にとっても決してためにならない。
(一九九五年八月九日)
金泳三大統領の時代には、細川首相が韓国併合について謝罪を述べたのに対し、永野茂門(一九二二~二〇一〇)法務大臣が
「日本で言う大東亜戦争というものが、侵略を目的にやったか。
日本がつぶされそうだったから生きるために立ち上がったのであり、かつ植民地を解放する、大東亜共栄圏を確立するということを、まじめに考えた。
私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う」
と発言。
永野法務大臣は就任後、わずか十一日で更迭されることになったが、韓国の世論は沸騰した。
〈江沢民中国国家主席との会談〉
「自分の就任後、侵略行為と植民地支配によって我々に残酷にしたことに対して日本は反省し、歴史を直視するなかで未来に向けて進むことを繰り返し明らかにしてきた。
日本は歴史認識を正しくすべきだ」
「日本側の妄言が続いており、建国以来三十数回続いている。
今度こそ(日本側の)悪い癖を直してみせる」
(一九九五年十一月二十四日)
この日本の「悪い癖を直してやる」という金大統領の発言は、日本側を怒らせることになった。
特に一九九五年は韓国の光復(独立)から五十周年の節目(実際に大韓民国が樹立されたのは一九四八年)となるため、日本の朝鮮統治時代のシンボルというべき旧朝鮮総督府府庁を解体する行為に及んだ。
この建物は花崗岩によって出来ており、近代建築の観点からも文化的見地からも取り壊しに反対する声は少なくはなかったが、日帝残滓を清算するという政府方針と世論におされ、一部を残して破壊されることになった。
また一九九五年には竹島に接岸施設を設置したほか、軍隊を常駐化させるなどの要塞化を推進。
現在まで続く竹島問題を引き起こすことになった。
◆日帝風水謀略説
さらには韓国独立五十周年を記念した「歴史立て直し事業」のなかで、日本により断絶された朝鮮風水の地脈を復興しようと杭除去運動を開始した。
これは日本が風水によって朝鮮民族の精気を奪おうと杭を打ち込んだとされるもので、「日帝風水謀略説」とも呼ばれている。
朝鮮半島は風水に対する信仰が根強い地域であったため、日本が鉄道を敷設したり、建物を造ろうとすると風水を断ち切るとされ、各地で反対運動が巻き起こった。
これは斉藤実朝鮮総督が、「工事を止めてしまえ」というほど、アタマの痛い問題であったが、最終的には朝鮮王であった李垠(一八九七~一九七〇)の同意によって進められることになった。
しかし、韓国では未だに日本軍による陰謀説が語りつがれている。
金泳三はこの工事で埋め込まれた杭が、朝鮮を呪うものであるとして、これらの除去作業を命じたのである。
だが日本ではそもそも風水などそれほど根付いていないように、荒唐無稽な話以外の何物でもなく、事実、韓国で引き抜かれた多くの杭は、単なる測量用の杭に過ぎない。
しかしながら韓国では現在でも測量技術に対する理解は低く、二〇〇六年には
「山の頂上部で発見されたのだから、測量用である可能性は薄い」
などとメディアが平気で報じる始末である。
(山頂などに測量用の三角点を設けることは日本人なら高校生でも知る常識であろう)
〈日韓首脳会談〉
日韓関係は未来志向であるべきだが、日本の正しい歴史観が前提にある。
日本は植民地支配、侵略戦争を行ったことをきちんと直視すべきだ。
植民地支配を含め、日本が韓国を支配した期間は四十年を超える。
その間、韓国国民は苦しみと悲しみを味わった。
日本は経済力だけでは、これまで以上に世界の尊敬は受け難い。
日本の指導者が正しい歴史認識を持って政策を進めることを期待したい。
(一九九五年十一月十九日)
〈竹下登元首相らと金泳三大統領との会談〉
「『近くて遠い国』を『近くて近い国』にするには指導者、政治家の言葉が重要で、政治家は歴史を重んじる必要がある」
(一九九六年十二月十七日)
〈村山富市首相との会談〉
「日本の一部に『日本が戦った相手はアジアではない』との意見もあるが、それはアジアの人たちが決めることで日本の人が決めるのはおかしい」
「過去の正しい清算が必要で、両国の学者が一堂に会して、例えば伊藤博文が何をしたのか、などの歴史的事実をきちんと調べてはどうか」
(一九九五年四月十三日)
(5)金大中 第十五代韓国大統領。在任期間=一九九八~二〇〇三
金大中(キム・デジュン)は朴正熙大統領と対立し、東京で韓国情報機関に逮捕、拉致された経歴をもつ。
(金大中事件)
その後、死刑判決を受けるものの、減刑されてアメリカへと亡命した。
のちに帰国して四度目の挑戦で韓国大統領に就任した。
日韓の歴史問題については
「韓国と日本の関係において、私は門を開く役割を担いたいと願っている。
何よりも両国の指導者の思慮のなさと過ちからくる、両国民の間にある不信と憎悪の門の、何と固く閉じられていることか」
(『金大中獄中書簡』、岩波書店)
と述べているように、政治活動を始めた当初から、日本との軋轢の原因となっている歴史問題を克服しようとした。
「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任を持つ」
と述べたほか、映画や音楽など日本文化も開放することを表明し、日本との垣根を取り払うよう尽力をしている。
さらに一九九八年に訪日し、天皇陛下と拝謁した際にも、植民地支配には言及せず、戦後日本の発展と平和主義を讃え、韓国への支援を求める内容となっていた。
(訪日に先立ち、政府として天皇を表す「日王」の呼称を改め、「天皇」を使用することを公式に宣言した)
彼自身、自らの伝記に日本統治時代の創氏改名などを批判しつつも、次のように記している。
「そういう重苦しい日々のなかでしたが、東アジアで日本だけが近代化に成功したという事実が私たちにある希望を与えてくれたことも事実でした。
小学校、商業学校を通じて日本人の先生から大きな影響を受けたことも数知れないほどありました。
私の人間形成に影響したのも日本人の先生方の言動でした。
暗い記憶ばかりの毎日でなかったことは、申し上げておきたいと思います」
(『わたしの自叙伝 日本へのメッセージ─』日本放送出版協会)
このように日本統治へ一定の評価をおこなっている点も、他と異なり日本に対し柔軟な対応をとった理由であるように思える。
もっとも二〇〇一年に「新しい教科書をつくる会」が教科書修正を求める運動を起こした際にはこの活動を外交問題として捉え、クレームを入れてきているが、金泳三時代と比べると日韓関係に尽くしたという意味では評価できるとする声もある。
〈宮中晩餐会後、韓国大統領府スポークスマンによる感想〉
日本が過去、韓国から文化の恩恵を受けたことを天皇が直接認めたのは意味がある。
また、天皇は(過去、日本が韓国に対して)被害を与えたことを悲しく思っているとおっしゃっている。
そういうことを考える未来の若者のために、二十一世紀を新しく迎えようという意思が入っていると思う。
(一九九八年十月八日)
〈鳩山由紀夫民主党代表と教科書問題において会談〉
「今が非常に大事だ。
小さな傷が体全体に広がる大きな病に至る可能性がある」
「心に受けた衝撃は大きい。
誤って処理された場合、両国関係に悪い影響を与えることを強く懸念する」
(韓国政府に対し)
「むやみに感情的に反論せず、学問的、実証的に検討し、日本が自発的に修正するよう自制的に行動することだ。
日本人すべてが(つくる会の)教科書支持ではない。十分区別すべきだ」
(二〇〇一年五月四日)
(6)盧武鉉 第十六代韓国大統領。在任期間=二〇〇三~二〇〇八
盧武鉉は日本統治を経験していない初の大統領として注目を浴びた。
苦学して弁護士となった後、盧泰愚大統領の時代に野党議員として名を馳せ、金大中前大統領の政策の継承を訴え、インターネットを基盤とした支持層を得て大統領に就任した。
行政能力に乏しく、政権末期では支持率は一割程度にまで下落した。
さらに清廉であるとされ支持をされていたにも関わらず、収賄や不正献金で親族の逮捕が相次ぎ、自身も逮捕が近づくと崖から身を投げて自殺した。
盧武鉉大統領も就任当初は未来志向を謳い、対日重視の姿勢を見せていたものの、裏では元人権派弁護士として活動した経歴が示すように、日本に対する「歴史の清算」を求めるようになってきた。
◆「米韓共通の敵」
小泉純一郎首相(当時)が國神社に参拝することを表明すると、
「過去の戦争を誇り、栄光のように展示していると聞いている」
「(國神社は)過去の戦争と戦争英雄を美化し、これを学んだ国が隣りにあり、こうした国が膨大な経済力と軍事力を持っている。
(韓国など)その近隣国が過去に何度も苦しめられたことがあるならば、国民は未来を不安に思わざるを得ない」
と、國神社を批判したほか、首脳会談をキャンセルするようになった。
さらに韓国にいる親日派の財産を没収するため、「親日反民族行為者財産調査委員会」を発足させ、親日家だと認定された人々の子孫のもつ財産を没収することを合法化させ、日本側の制止を無視して竹島の海洋調査をおこない、日本に対しては「武力行使もありえる」と恫喝し、事実、島根県内の防衛庁(現在の防衛省)施設に対して軍事攻撃を行なうよう検討していたことが明らかになった。
(『ワシントンポスト』、二〇〇六年四月二十一日)
またアメリカ軍に対し
「日本を米韓共通の敵として、仮想敵国にしよう」
と要請し、関係者を当惑させるなどしている。
盧武鉉大統領はこれだけにとどまらず、日本海を「東海」と改称するよう求め、新しく「平和の海」と呼ぶように提案するなど迷走をつづけた。
盧武鉉大統領の異常なまでの反日は、日本統治時代を経験していない世代、つまり反日教育を受けた世代であったと言われているが、日本では年長者の女性を中心に二〇〇四年の韓国ドラマ『冬のソナタ』ブームが起こる一方、若者を中心として二〇〇五年には嫌韓ブームが助長されることになった。
盧武鉉大統領による負の遺産は、今なお日韓関係を損なう障害へと繋がっている。
〈盧武鉉大統領による就任二年目の国会演説〉
歴史問題を処理するドイツと日本の異なった態度は多くの教訓を与えてくれる。
態度によって周辺国から受ける信頼も違う。
過去に率直にならねばならず、そうすることで初めて過去を振り払い未来に向かうことができる。
(二〇〇五年二月二十五日)
〈日韓首脳会談〉
総理の國参拝や最近の多数の政治家による参拝は韓国に対する挑戦でもあり、日本が過去に戻るのではないのかという懸念がある。
韓国国民の考え方をよく分かってほしい。
國参拝、歴史教科書、竹島(韓国名・独島)問題の三つの問題をぜひとも解決する必要がある。
(二〇〇五年十一月十九日)
(7)李明博 第十七代韓国大統領。在任期間=二〇〇八~二〇一三
李明博大統領は大阪市生まれで在日韓国人の出身である。
金大中、盧武鉉と二代続いた左翼政権によって経済が停滞したため、現代建設を世界有数の企業に押し上げた経歴から、経済再生の手腕に期待が集まり、対抗馬に大差をつけて当選した。
しかし就任直後から米国産牛肉の輸入制限緩和がBSE問題への危機意識と直結し、支持率は一機に一割代まで下落した。
その後、支持率は三割程度まで回復したものの、世界金融危機などを受け、再度下落。国民が期待した「経済大統領」というイメージからは遠いまま、大統領の任期を満了した。
日本との歴史問題については、
〈李明博次期大統領と外国メディアとの会見〉
「新しい韓日関係のためには(韓国への)謝罪や反省をしろという話はしたくない。
今の日本はそれを要求しなくても話し合いができるほど成熟した外交ができる」
との意見を表明し、二〇〇六年一月のダボス会議では
「一部アジアの政治指導者は、過去の歴史に縛られて、国家間の緊張を高め、未来を暗くしている」
と、過去の歴史にとらわれる盧武鉉前大統領を暗に批判する余裕をみせていたが、真意は日本が歴史問題に対し、韓国への謝罪や賠償を自発的に行なうことを促すことであった。
そのため日本の学生に竹島は韓国の領土であることや、日本統治の残虐性を教え込むため、修学旅行生を韓国内へ誘致することを発表したほか、従軍慰安婦への賠償金について
「日本政府は法律的でなくとも人道主義的な措置を必ず取るべき」
であると主張している。
補足すると
「法律的でなくとも人道主義的」
という表現が示すように、日本の韓国への賠償金問題は一九六五年に日韓基本条約が締結され、国交の回復がおこなわれたときに「完全かつ最終的に」解決されたのであり、従軍慰安婦への賠償金を対象に含めなかったのは韓国政府の問題である。
政権末期になると李明博韓国大統領の反日発言はエスカレートし、二〇一二年八月十四日には、天皇陛下について
「痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」、
「韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪せよ」
と謝罪を要求する発言をおこなった。
“痛惜”とは盧泰愚大統領が訪日した際に、天皇陛下が述べられた御言葉である。
また同年十五日には慰安婦問題について、
「日本軍慰安婦被害者問題は人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」
だと述べた。
(8)朴槿惠 第十八代韓国大統領。在任期間=二〇一三~
朴槿惠(一九五二~)は、よく知られているように朴正熙元大統領の長女として生まれた。
母親の陸英修が暗殺されると二十二歳でファーストレディーの役を継承。
父が暗殺された後は政治からは身を退いていたが、九七年のアジア通貨危機をきっかけに政界復帰。
二〇〇四年にはハンナラ党代表に選ばれ、党をけん引した。
東アジア初となる女性大統領であり、韓国のサッチャーなどと言われている。
父親の朴正熙大統領は経済発展に必要な外貨を獲得すべく、経済資金が得られる日韓基本条約の締結を急いだ人物であった。
当時、カネのために民族の主体を売ったとして、反対勢力から「物乞い外交」と批判されている。
現在の韓国政府は「過去の歴史」をエサにし、官民あわせて「物乞い外交」を恥ともしていないが、この当時はまだそのような気概があったのであろう。
朴正熙は貧しい農家に生まれ、一人、日本人教師に教えて貰った剣道のマネをして遊んでいたという。
成績優秀であった彼は学校推薦で大邸師範学校(官費)へ入学。
日本の軍事教練が好きで、ラッパ手に選ばれ喜んで吹いていた。
学校を卒業すると教員生活を捨て、日本の職業軍人になることを決意。
至誠を示すべく、血書を書いて新京軍官学校(旧満州国・新京)の試験を受けた。
朴は全学生の模範となり、成績優秀者だけが選ばれる連合大演習の指揮を任せられるにいたった。
◆嫌韓が激化するだけ
卒業時には満州国皇帝の前で卒業生代表として答辞を読み、金時計が下賜された。
さらに日本の陸軍士官学校(五十七期)に入学する特典を得た彼は、日本名を高木正雄と名乗り、同校を優秀な成績で卒業した。
新京軍官学校校長であった南雲親一郎(後に中将)は、
「半島出身ではあるが、精神においては完全に日本人である。
高木生徒のように天皇陛下のためにたてまつり、忠誠心のあつい者は日本人にも稀である」
と讃えた。
このような経歴を持つ朴正熙の娘だということで、一部の日本マスコミにおいて、朴槿惠の時代になれば、日韓関係は融和されるのではないかという楽観論が浮上したが、それは長くは続かなかった。
就任後、間もなく開かれた式典で、
〈三・一独立運動式典での演説〉
「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」
(二〇一三年三月一日)
と発言。
さらに五月六日での国会答弁では、
〈金奎顕外務次官がオバマ米大統領との首脳会談における朴大統領の訪問目的について〉
「日本が『普通の国』になる前に、心から過去を悔やみ、新たに出発することを確実にしなければ、周辺国の懸念が残る」という点を米国に説明したい」
(二〇一三年五月六日)
と述べた以外にも、
「今が日本が許しを得られる最後のチャンス」
「日本が歴史を正視し、歴史が残した傷跡を癒す努力をする」
(慰安婦問題について)
「北東アジアの平和のためには日本が正しい歴史認識を持たねばならない」
(オバマ大統領との会談)
「(日本の)右傾化は北東アジアだけでなくアジア全体(の国家)との関係を難しくし、日本にとっても望ましい方向ではない。
日本は深く慎重に考えてほしい」
などと対日批判が止む気配はない。
以上、足早に歴代韓国大統領の反日言論を眺めてみたが、発言の内容を要約すれば、
1 韓国側の言い分をのまない限り、韓国は延々と過去の歴史カードを使いつづける。
2 日本が韓国のことを考え譲歩すれば、韓国側はチャンスとばかり次々と要求を強める。
ということに尽きるのであり、日本が譲歩することは日韓友好とはなりえない。
仮に日本が要求を呑んだとしても、真実を捻じ曲げた日本にはフラストレーションがたまり、ますます嫌韓運動が激化していくのみである。
日本と韓国が真の融和をするには、韓国への温情を廃し、国際法の手続きに則って粛々と抗議をおこなうこと。
そして韓国における親日家を育成・支援するよりほかはないのかもしれない。
もしくは融和などという言葉を捨てて、淡々と付き合う他ないか……。
げんこつ・たくふみ
1976年生まれ。
漢学、東洋思想、東洋史の研究をおこない、名越二荒之助(元高千穂商科大学教授)、杉之尾宣生(元防衛大学教授)に師事。
日本のみならず、中国・韓国などで論文や研究発表などを精力的におこない成果を挙げている。
著書は
『韓国の歴史教材「東アジア史」の真実』( PHP研究所)、
『昭和の戦争の真実 語り継ぐ70の秘話』(扶桑社)
など多数。
■内ゲバは半島史の宿命
黄文雄 月刊正論2012年11月号
李明博大統領の
「もし天皇が訪韓したいならば、殺された独立運動者に謝罪を」
という旨の発言は、韓国なら通用するかも知れないが、外国ではその知性だけでなく品格まで疑わせるものだ。
ソウル・オリンピックの時から韓国は「天皇訪韓」をあたかも日本の「義務」であるかのように要請しつづけてきたが、逆に日本から求めたことは一度もない。
また、「殺された独立運動者」というが、日韓合邦以来、義兵運動から反日ゲリラに至るまで、法によって刑罰に処された者よりも内ゲバで殺された者のほうが多かった。
反日、抗日、建国運動の指導者として活躍していた呂運享、宋鎮禹、金九らは、いったい誰に殺されたのだろうか。
独立運動家はほとんどが同志や政敵に暗殺されたのではないか。
戦後、韓国は、
「日帝三十六年の七奪」
(主権、国王、土地、姓氏、生命、国語、資源の七つを奪った)
をはじめ、
強制連行やら従軍慰安婦を反日、克日のお題目として唱え、
国造りのテコにしてきた。
竹島は戦後李承晩ライン以後に韓国の領土とされたものである。
国民国家の時代以来、いかなる民族も国家も強国、大国志向である。
英仏だけでなく、オーストリー・ハンガリー帝国、チェコスロバキア、ユーゴスロバキアも同君合邦国家だった。
福沢諭吉の「脱亜論」の数年後に刊行された樽井藤吉の「大東合邦論」は日韓清とも「同文同種同俗同州」のアイデンティティの下で違和感はないと主張していた。
日韓合邦も双方に賛否両論ある中で実現したものであり、一方的な強制だったとするのは言いがかりだ。
日韓合邦は「東亜の永久平和」への礎としてむしろ列強がそろって賛同し、利害関係の強い清露さえ異議を唱えなかった。
また実際にも、戦後韓国が主張するような「七奪」どころか、人口も食糧も倍増し、主権も拡大、史実としては「七恩」あるいは「七布施」と称するべきものだった。
戦後の李承晩大統領以降、次代の大統領が先代を粛清することはすでに韓国政治の掟となり、宿命ともいえる。
しかしそれは戦後から始まったことではない。
李王一族をはじめ両班に至るまで繰り広げられる朋党間の争いは朝鮮名物のようなもので、宿痾だった。
李朝五百余年にかぎらず、高麗朝からさらに檀君開国まで遡っても、内ゲバが半島史の宿命だった。
ではなぜ「日帝」の時代が半島史上未曾有の、いや空前絶後の超安定社会となったのか。
その理由はただ一つ、朋党間の争いが半島から排除され、場外乱闘に変わったからだった。
それが戦後になってまた再燃しただけのことである。
ハングル世代は近現代史を語るのに際し、その掟から知るべきだ。
■朴正熙大統領が一番人気
長谷川良 ウィーン発 『コンフィデンシャル』 2015年8月10日
韓国の聯合ニュース(7日)によると、韓国ギャラップ社が実施した「歴代大統領の中で誰が韓国を最もうまく導いたか」の世論調査の結果、朴正熙朴元大統領が約44%でダントツで第1位だったという。
同世論調査は、7月28~30日と、8月4~6日の2回に分けて全国の成人計2003人を対象に実施された。
調査結果によると、
(1)朴正熙・約44%、
(2)盧武鉉24%、
(3)金大中14%がベスト3。
一方、
李承晩3%、
全斗煥3%、
金泳三1%、
李明博1%、
盧泰愚0・1%と、評価は低かった。
ギャラップ社によると、朴元大統領を支持した理由として、
経済発展(52%)、
農村改革運動の「セマウル運動」(15%)、
国民生活の改善(12%)、
京釜高速道路建設など国土開発(8%)
が挙げられた。
参考までに、盧武鉉元大統領の功績については、
(1)国民との疎通(17%)、
(2)庶民の立場を代弁(17%)、
(3)庶民経済に尽力(10%)が挙がり、
金大中元大統領については、
(1)対北朝鮮「太陽政策(包容政策)」(27%)、
(2)アジア通貨危機の克服(18%)
などが功績に挙げられたという
(以上、聯合ニュース)
ギャラップ社の世論調査結果は、多くの人々にとってサプライズではないだろう。
当然の結果だからだ。
“漢江の奇跡”をもたらした大統領であり、朝鮮半島の小国の韓国を経済国まで引き上げた功労者だ。
そして、朴元大統領がどのようにして荒廃した国民経済を立て直していったかを考えると、日韓基本条約、請求権協定の締結、それに基づいた日本側の支援があった事実を看過できない。
韓国は当時GDPの2倍以上に当たる資金を日本から受け、国民経済の立て直しに投入していったわけだ。
歴代大統領の中で最も日本との人脈や繋がりがあった朴元大統領が「歴代最高の大統領」に選出されたという事実は元大統領の娘、朴槿恵現大統領も深刻に考えなければならない。
時代と朝鮮半島を取り巻く政治情勢には違いがあるとしても、隣国・日本との連携、友好関係が経済復興をもたらした最大の原動力となったという事実は現在でも当てはまることだ。
弁護士出身の人道派政治家、盧武鉉が国民、特に若い世代に依然人気があるのは理解できるが、大統領としての政策面の功績は少ない。
金大中については北朝鮮への貢物によって実現した金正日総書記との南北首脳会談への評価は別として、国民の南北統一への関心を高めた功績は無視できない。
一方、実業界出身で日韓の未来志向関係を提唱して登場した李明博には当方は失望させられた。
任期終了間際に竹島を訪問し、日韓関係を険悪化させた張本人だ。
言行不一致の代表的な大統領だった。
国民の支持も1%と、前大統領としては恥ずかしいほど低い。
韓国国民は案外、大統領の言動を冷静に見ているのかもしれない。
いずれにしても、韓国ギャラップ社の世論調査結果は大きな教訓を提示している。
隣国は選ぶことができない。
反日外交を主導する朴槿恵大統領は父親の賢明な対日政策から学ばなければならない。
任期は後半戦に入る。
朴現大統領に残された時間は多くないのだ。
『歴史通』 2013年9月号
拳骨拓史(作家)
韓国大統領による「反日発言」がかまびすしい。
とは言え歴史をみれば、朴槿惠、李明博、盧武鉉以前にも、歴代韓国大統領の多くは、日本に「謝罪と賠償」を求めることが一種の伝統化していることに気づく。
いわば“反日の金太郎アメ”なのだ。
(1)李承晩 初代~第三代韓国大統領。在任期間=一九四八~一九六〇
〈朝日新聞を通じた新年メッセージ〉
日本の皆さん新年おめでとう。
韓国人は善良な皆さんに対してなんの呵責ももっていないが、日本人もまた韓国人に不平を抱いていないと思う。
過去四十年の間、韓国人がうけた痛手は日本軍国主義者の罪に帰すべきものであって、日本人もまた彼らの政府のあとで同じように被害をうけたものと思う。
(中略)
われわれは隣人同士であり、両国民はお互いに仲良くつきあわねばならないことを日本人は忘れてはならない。
(一九四九年一月五日)
李承晩(イ・スンマン)韓国大統領(一八七五~一九六五)が就任間もない時期に、日本に宛てたメッセージである。
反日で有名になる李承晩大統領も、当時はまだその牙を見せていなかった。
李承晩は若くして反日活動団体である独立協会に身を投じ、投獄。
釈放後に渡米し、朝鮮独立のための宣伝活動をおこなった。
一九一九年、上海の大韓民国臨時政府(注:国際的には承認されず)の大統領に就いたが、一時期上海にわたっただけでほとんどをアメリカですごし、第二次世界大戦後に韓国大統領に就任。
◆親日派を断圧
李承晩ラインを設定して日本と対立した。
(李承晩ライン:一九五二年に李承晩大統領が韓国の主権があると宣言した水域を囲む線。
日本側はこれを認めず、ラインが廃止されるまでの十三年間に日本漁船の捕獲事件などが起こり、日本人抑留者は三千九百二十九人、死傷者は四十四人を数えた)
日本人抑留者たちは人間として満足な生活をする権利すら与えられず、寝室はゴザが敷かれた部屋に毛布が一、二枚程度与えられ、食事は茶碗一杯、麦飯に具なしの味噌汁だけがおかずであった。
小アジの煮付け一匹が三人分の食事として出されることもあり、健康を維持するカロリーを与えられることはなかった。
抑留者たちは家族が送ってくる差し入れ品を金に替え、食糧や夜具などに交換したが、この差し入れ品も、韓国警察によって中身が抜かれたり、届かなかったりした。
当時、李承晩大統領が語り、韓国で流行語となったのが
「アメリカは余り信じるな。
ソ連の奴らには騙されるな。
日本は必ず再起する。注意せよ!」
というものであった。
アメリカ生活の長い李承晩は日本統治の実際を知らず、日本統治に協力した人々を「親日派」として弾圧した。
日本語で「親日派」といえば、日本について詳しかったり、日本に対し好意をもつていたりする人を意味するが、韓国語ではこのような意味の場合は「知日派」を使い、「親日派」は使わない。
「親日派」は日本の植民地支配に協力した者を指し、「売国奴」に近い意味で用いられ、反日教育を実施して韓国国民の日本への敵愾心を強くした。
李承晩大統領はライバルの暗殺や不正占拠などを繰り返し、反共独裁政治をおこなったが、野党や国民の批判を浴び辞任、ハワイに亡命。
晩年は貧困と孤独にあえぐ悲惨な末路をたどった。
〈韓国スポークスマンの発表〉
李承晩大統領は共産主義者が民主主義政府および国民に比べていかに残忍であり、独裁的かつ野蛮であるかを教えるとともに、日本帝国主義の侵略性およびその韓国に対する悪意にみちた態度を生徒に教えるよう命令した。
またこの新指示は、韓国経済を独占しようとする日本の陰謀に対する対抗措置を準備するため、教師および大学教授に命じ、生徒を激動させようとするものである。
(一九五四年十月十四日)
〈「三・一事件」四十一周年祈念集会でのメッセージ〉
日本は戦時中、強制的に日本に送られ、軍事産業で働かされた二百万の韓国人に対する補償の義務がある。
岸首相は最近の訪米中、米国に補償支払い援助を要請したといわれるが、外国に援助を求めるのは理由のないことで、補償については日本が全責任を負うべきである。
(一九六〇年三月一日)
(2)全斗煥 第十一~十二代韓国大統領。在任期間=一九八〇~一九八八
全斗煥(チョン・ド・ファン)は朝鮮戦争中に陸軍士官学校に入学し、一九七九年の朴大統領暗殺事件の混乱を処理して実権を掌握。
大統領を辞任した後、不正蓄財などが発覚し逮捕された。
全斗煥の父親、全相禹は一九三〇年代後半に日本への高い忠誠心があるとの理由から、任地である内川里の里長に抜擢され、農民たちに「皇国臣民化」を説いてまわり、日本への供出物の確保に情熱を傾けた。
その後、中国の吉林省松花江流域の農村に居をかまえたが、そこで朝鮮独立運動家を取り締まるべく日本軍の案内をおこなって大金を得、その後韓国へ戻って暮らしていた。
全斗煥韓国大統領もその影響を受け、早稲田大学教授・松原正氏と会った際に、満洲などにいた日本へのテロ勢力を討伐するための歌である『討匪行』を歌詞ひとつ間違えずに歌ったと言われている。
◆まるでお化け屋敷
全斗煥自身、
「私の幼いころ、将校たちが軍刀をつるし、皮の長ぐつをはいて部隊を指揮する姿とか、さっそうとした乗馬姿とかをよく見かけて、すっかりあこがれてしまい、めしも食わずに追いかけていっては訓練に見とれていたものです」
と述べ、大東亜戦争勃発後は、日本の少年航空兵になりたいと熱望していた。
大統領になってからは、彼が父とも呼ぶ前任の朴正熙元大統領が日本から多額の支援金を受けていたことが、「親日家」だとして批判される理由になっていたため、全斗煥大統領は「反日」と「親日」を超えた「克日」という新しいスローガンを用意した。
その事蹟というべきものが、一九八七年に建設された韓国の独立記念館である。
数十億円もの寄付金を募り、約五百億ウォンで建てられた独立記念館は、日本軍による銃殺刑や拷問などの様子がロウ人形をつかって虚実とりまぜて再現されており、訪れた人々の多くは口を揃えて「まるでお化け屋敷だ」という悪趣味なものとなって仕上がった。
一九八一年には、
「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」
と、全斗煥自身、韓国の非を認める発言もしていただけに、独立記念館を建設したことは日韓関係の未来を考える上で残念でならない。
〈昭和天皇に拝謁した全斗煥大統領の宮中晩餐会での挨拶〉
われわれ両国には、「雨降って地固まる」との共通のことわざがあります。
(中略)
われわれ両国の間にあった不幸な過去は、今やより明るく、より親しい韓日間の未来を開拓していくうえで、貴重な礎にならねばならないと信じております。
(一九八四年九月七日)
全斗煥韓国大統領は昭和天皇に拝謁した最初の韓国大統領となった。
昭和天皇との拝謁については、日韓両国から激しい批判があったが、その際、昭和天皇より過去の歴史に対する謝罪の発言を引き出すよう強く日本側に要望していた。
宮中晩餐会の前日、全斗煥は安倍晋太郎外務大臣と会談し、
「弱い立場にある人間は普通、富める人、強い人に対してひねくれを感じ、先方が寛大にしても時として誤解をもつ。
従って強い人、富める人は多少損をしても寛大な気持を持って欲しい」
「韓日の(過去の)誤解は大部分そういうものだったと思う」
と述べたという。
(『読売新聞』一九八四年七月十日)
昭和天皇の御言葉を受け、韓国の民族主義団体「光復会」(日本統治時代の抗日、独立運動家とその家族で構成)は、
「過去の歴史の張本人である日本の天皇が不幸だった過去に心から遺憾の意を表明し謝罪した。
われわれは日本側の反省と謝罪を喜びをもって受け入れる。
この謝罪は、われわれの歴史的勝利を意味する」
などと反応を見せたが、これ以降、韓国政府は大統領が代わるごとに天皇陛下に謝罪を要求しようという悪癖を生むようになった。
(3)盧泰愚 第十三代韓国大統領。在任期間=一九八八~一九九三
天皇陛下の御言葉を政治的なかけ引きに利用しようとする動きは、全斗煥の後任である慮泰愚大統領(一九三二~)の時代には始まっている。
『東亜日報』では天皇陛下が過去の歴史について直接謝罪を表明しなければ、またその内容が韓国政府の期待にそぐわない場合は、盧泰愚大統領の訪日時に天皇陛下への訪韓招請を行わないと報じた。
この韓国政府の動きにあきれた小沢一郎自民党幹事長(当時)は、
「反省しているから(経済面などで)協力している。
これ以上、土下座などする必要があるのか」
と反発したが、マスコミなどから突き上げられ、謝罪へと追い込まれている。
〈慮泰愚総裁と日本人記者団との懇談形式での会見〉
私の前任者(全斗換・前大統領)の訪日時、昭和天皇が不幸な歴史に遺憾の意を表明した。
両国間に不幸なことがあったことはだれもが認識している。
加害者がだれであり、被害者がだれであったかについても共通の認識がある。
加害者が被害者に「すみません」とか慰めの言葉をいうのは当然のことだ。
韓国側からいうと謝罪がはっきりしない。
被害者は加害者の真心を疑わざるを得ない。
真心から「すみません」
といってくれれば被害者としても感動して
「いや、結構です。
これからうまくやりましょう」
といえるのではないか。
(中略)
「間違っていた」「すみません」というおおらかな心を見せれば、韓国だけでなく中国や東南アジアが日本に対する認識を変える契機になる。
力量があり、強い方がおおらかな心を見せることが必要だ。
(天皇の「お言葉」については)
天皇の名前にかけてというのではなく、皆さん(日本人記者)や日本の国民と話をしてみましょう。
そうすれば日本がどうすれば正しいのか自明のことだ。
そんな次元から自然に解決されれば天皇訪韓もうまく解ける問題ではないか。
(一九九〇年五月十五日)
〈宮中晩さん会での慮泰愚・韓国大統領の答礼あいさつ〉
日本は陛下のご即位によって、平成の新しい時代を迎えました。
本日、陛下と歴史的な交歓をもち、天皇ご即位の祝賀の挨拶を直接お伝えできますことを意義深く考えます。
また、日本が戦後の廃虚から立ち上がり、全世界がうらやむ平和で繁栄する国家を築いたことに、賛辞を送ります。
私は平成時代が日本ばかりではなく、私どもが生きる東アジアと世界の平和と繁栄、友誼を増進する時代になるものと確信いたします。
遥かな古代から今日に至るまで、韓日両国は最も近い隣人として親しんで来ました。
両国の国民は狭い海峡を越えてお互いに往来し、相手国の文化形成に大きな影響をおよぼし合いました。
両国間には歓迎すべきことも数多くありました。
しかし、わが国民は近世に入り、苦痛を受ける一時期を経験しなければなりませんでした。
両国間の長い善隣友好の歴史から見るとき、暗い時代は相対的に短い期間でした。
歴史の真実は消されたり忘れられたりすることはありませんが、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません。
われわれ両国は真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません。
日本の歴史と新しい日本を象徴する陛下がこの問題に深い関心を示されましたことは、きわめて意味深いことです。
今やわれわれ両国が近くて近い隣人、信頼する友邦として、両国関係を発展させるのに障害となってきた過去の歴史の影を消し、残滓を取り除くためにわれわれすべてが努力しなければなりません。
そうすることによって、両国間の望ましい関係をわれわれの子孫に受け継がせなければなりません。
(一九九〇年五月二十五日)
一九六五年の日韓基本条約によって、過去の賠償はすべて完了していることは言うまでもないが、謝罪についても盧泰愚大統領が明確に「解決した」と断言している。
日本はすでに、謝罪も賠償も終わっているはずだが、彼らは未だにこれを要求しつづけている。
金泳三は一九五四年に国会議員に当選以来、ながく野党議員を経験するが九〇年に与党に合流。
九三年に十三年ぶりとなる文民大統領となった。
だが政権末期には通貨危機がおき、韓国経済を迷走させたまま任期を終えた。
(4)金泳三 第十四代韓国大統領。在任期間=一九九三~一九九八
〈金泳三韓国大統領による衆議院本会場での国会演説〉
一八九四年、韓(朝鮮)半島では日本と中国間の戦争があった。
日清戦争で勝利した日本は、ついに韓半島を併合した。
一九四五年、韓国は解放されたが、南北に分断され、同族相争う戦争を体験した。
韓国は今も地球上の最後の分断国家として、民族的苦痛をなめている。
私と、わが国民は、一世紀にわたった諍いと葛藤の歴史に終止符を打ち、真の友情と協力の新しい歴史を開いていくことを提起する。
(中略)
韓日両国国民は心の扉をすっかり開かなければならない。
過去のしこりはきれいに洗い流さなければならない。
(一九九四年三月二十五日)
李承晩韓国大統領然り、就任当初はかならず過去の歴史について問題としないという姿勢をとるのが歴代韓国大統領の御家芸である。
〈金泳三・韓国大統領の朝日新聞社との会見〉
再三強調してきたように、日韓関係を未来志向に発展させていくには、正しい歴史認識の確立が何よりも重要だ。
それには、過去を直視する土台の上に、未来に向かって協力していかなければならない。
過去の歴史をウソで美化したり、不問にしたりするのは、日本自身にとっても決してためにならない。
(一九九五年八月九日)
金泳三大統領の時代には、細川首相が韓国併合について謝罪を述べたのに対し、永野茂門(一九二二~二〇一〇)法務大臣が
「日本で言う大東亜戦争というものが、侵略を目的にやったか。
日本がつぶされそうだったから生きるために立ち上がったのであり、かつ植民地を解放する、大東亜共栄圏を確立するということを、まじめに考えた。
私は南京事件というのは、あれ、でっち上げだと思う」
と発言。
永野法務大臣は就任後、わずか十一日で更迭されることになったが、韓国の世論は沸騰した。
〈江沢民中国国家主席との会談〉
「自分の就任後、侵略行為と植民地支配によって我々に残酷にしたことに対して日本は反省し、歴史を直視するなかで未来に向けて進むことを繰り返し明らかにしてきた。
日本は歴史認識を正しくすべきだ」
「日本側の妄言が続いており、建国以来三十数回続いている。
今度こそ(日本側の)悪い癖を直してみせる」
(一九九五年十一月二十四日)
この日本の「悪い癖を直してやる」という金大統領の発言は、日本側を怒らせることになった。
特に一九九五年は韓国の光復(独立)から五十周年の節目(実際に大韓民国が樹立されたのは一九四八年)となるため、日本の朝鮮統治時代のシンボルというべき旧朝鮮総督府府庁を解体する行為に及んだ。
この建物は花崗岩によって出来ており、近代建築の観点からも文化的見地からも取り壊しに反対する声は少なくはなかったが、日帝残滓を清算するという政府方針と世論におされ、一部を残して破壊されることになった。
また一九九五年には竹島に接岸施設を設置したほか、軍隊を常駐化させるなどの要塞化を推進。
現在まで続く竹島問題を引き起こすことになった。
◆日帝風水謀略説
さらには韓国独立五十周年を記念した「歴史立て直し事業」のなかで、日本により断絶された朝鮮風水の地脈を復興しようと杭除去運動を開始した。
これは日本が風水によって朝鮮民族の精気を奪おうと杭を打ち込んだとされるもので、「日帝風水謀略説」とも呼ばれている。
朝鮮半島は風水に対する信仰が根強い地域であったため、日本が鉄道を敷設したり、建物を造ろうとすると風水を断ち切るとされ、各地で反対運動が巻き起こった。
これは斉藤実朝鮮総督が、「工事を止めてしまえ」というほど、アタマの痛い問題であったが、最終的には朝鮮王であった李垠(一八九七~一九七〇)の同意によって進められることになった。
しかし、韓国では未だに日本軍による陰謀説が語りつがれている。
金泳三はこの工事で埋め込まれた杭が、朝鮮を呪うものであるとして、これらの除去作業を命じたのである。
だが日本ではそもそも風水などそれほど根付いていないように、荒唐無稽な話以外の何物でもなく、事実、韓国で引き抜かれた多くの杭は、単なる測量用の杭に過ぎない。
しかしながら韓国では現在でも測量技術に対する理解は低く、二〇〇六年には
「山の頂上部で発見されたのだから、測量用である可能性は薄い」
などとメディアが平気で報じる始末である。
(山頂などに測量用の三角点を設けることは日本人なら高校生でも知る常識であろう)
〈日韓首脳会談〉
日韓関係は未来志向であるべきだが、日本の正しい歴史観が前提にある。
日本は植民地支配、侵略戦争を行ったことをきちんと直視すべきだ。
植民地支配を含め、日本が韓国を支配した期間は四十年を超える。
その間、韓国国民は苦しみと悲しみを味わった。
日本は経済力だけでは、これまで以上に世界の尊敬は受け難い。
日本の指導者が正しい歴史認識を持って政策を進めることを期待したい。
(一九九五年十一月十九日)
〈竹下登元首相らと金泳三大統領との会談〉
「『近くて遠い国』を『近くて近い国』にするには指導者、政治家の言葉が重要で、政治家は歴史を重んじる必要がある」
(一九九六年十二月十七日)
〈村山富市首相との会談〉
「日本の一部に『日本が戦った相手はアジアではない』との意見もあるが、それはアジアの人たちが決めることで日本の人が決めるのはおかしい」
「過去の正しい清算が必要で、両国の学者が一堂に会して、例えば伊藤博文が何をしたのか、などの歴史的事実をきちんと調べてはどうか」
(一九九五年四月十三日)
(5)金大中 第十五代韓国大統領。在任期間=一九九八~二〇〇三
金大中(キム・デジュン)は朴正熙大統領と対立し、東京で韓国情報機関に逮捕、拉致された経歴をもつ。
(金大中事件)
その後、死刑判決を受けるものの、減刑されてアメリカへと亡命した。
のちに帰国して四度目の挑戦で韓国大統領に就任した。
日韓の歴史問題については
「韓国と日本の関係において、私は門を開く役割を担いたいと願っている。
何よりも両国の指導者の思慮のなさと過ちからくる、両国民の間にある不信と憎悪の門の、何と固く閉じられていることか」
(『金大中獄中書簡』、岩波書店)
と述べているように、政治活動を始めた当初から、日本との軋轢の原因となっている歴史問題を克服しようとした。
「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任を持つ」
と述べたほか、映画や音楽など日本文化も開放することを表明し、日本との垣根を取り払うよう尽力をしている。
さらに一九九八年に訪日し、天皇陛下と拝謁した際にも、植民地支配には言及せず、戦後日本の発展と平和主義を讃え、韓国への支援を求める内容となっていた。
(訪日に先立ち、政府として天皇を表す「日王」の呼称を改め、「天皇」を使用することを公式に宣言した)
彼自身、自らの伝記に日本統治時代の創氏改名などを批判しつつも、次のように記している。
「そういう重苦しい日々のなかでしたが、東アジアで日本だけが近代化に成功したという事実が私たちにある希望を与えてくれたことも事実でした。
小学校、商業学校を通じて日本人の先生から大きな影響を受けたことも数知れないほどありました。
私の人間形成に影響したのも日本人の先生方の言動でした。
暗い記憶ばかりの毎日でなかったことは、申し上げておきたいと思います」
(『わたしの自叙伝 日本へのメッセージ─』日本放送出版協会)
このように日本統治へ一定の評価をおこなっている点も、他と異なり日本に対し柔軟な対応をとった理由であるように思える。
もっとも二〇〇一年に「新しい教科書をつくる会」が教科書修正を求める運動を起こした際にはこの活動を外交問題として捉え、クレームを入れてきているが、金泳三時代と比べると日韓関係に尽くしたという意味では評価できるとする声もある。
〈宮中晩餐会後、韓国大統領府スポークスマンによる感想〉
日本が過去、韓国から文化の恩恵を受けたことを天皇が直接認めたのは意味がある。
また、天皇は(過去、日本が韓国に対して)被害を与えたことを悲しく思っているとおっしゃっている。
そういうことを考える未来の若者のために、二十一世紀を新しく迎えようという意思が入っていると思う。
(一九九八年十月八日)
〈鳩山由紀夫民主党代表と教科書問題において会談〉
「今が非常に大事だ。
小さな傷が体全体に広がる大きな病に至る可能性がある」
「心に受けた衝撃は大きい。
誤って処理された場合、両国関係に悪い影響を与えることを強く懸念する」
(韓国政府に対し)
「むやみに感情的に反論せず、学問的、実証的に検討し、日本が自発的に修正するよう自制的に行動することだ。
日本人すべてが(つくる会の)教科書支持ではない。十分区別すべきだ」
(二〇〇一年五月四日)
(6)盧武鉉 第十六代韓国大統領。在任期間=二〇〇三~二〇〇八
盧武鉉は日本統治を経験していない初の大統領として注目を浴びた。
苦学して弁護士となった後、盧泰愚大統領の時代に野党議員として名を馳せ、金大中前大統領の政策の継承を訴え、インターネットを基盤とした支持層を得て大統領に就任した。
行政能力に乏しく、政権末期では支持率は一割程度にまで下落した。
さらに清廉であるとされ支持をされていたにも関わらず、収賄や不正献金で親族の逮捕が相次ぎ、自身も逮捕が近づくと崖から身を投げて自殺した。
盧武鉉大統領も就任当初は未来志向を謳い、対日重視の姿勢を見せていたものの、裏では元人権派弁護士として活動した経歴が示すように、日本に対する「歴史の清算」を求めるようになってきた。
◆「米韓共通の敵」
小泉純一郎首相(当時)が國神社に参拝することを表明すると、
「過去の戦争を誇り、栄光のように展示していると聞いている」
「(國神社は)過去の戦争と戦争英雄を美化し、これを学んだ国が隣りにあり、こうした国が膨大な経済力と軍事力を持っている。
(韓国など)その近隣国が過去に何度も苦しめられたことがあるならば、国民は未来を不安に思わざるを得ない」
と、國神社を批判したほか、首脳会談をキャンセルするようになった。
さらに韓国にいる親日派の財産を没収するため、「親日反民族行為者財産調査委員会」を発足させ、親日家だと認定された人々の子孫のもつ財産を没収することを合法化させ、日本側の制止を無視して竹島の海洋調査をおこない、日本に対しては「武力行使もありえる」と恫喝し、事実、島根県内の防衛庁(現在の防衛省)施設に対して軍事攻撃を行なうよう検討していたことが明らかになった。
(『ワシントンポスト』、二〇〇六年四月二十一日)
またアメリカ軍に対し
「日本を米韓共通の敵として、仮想敵国にしよう」
と要請し、関係者を当惑させるなどしている。
盧武鉉大統領はこれだけにとどまらず、日本海を「東海」と改称するよう求め、新しく「平和の海」と呼ぶように提案するなど迷走をつづけた。
盧武鉉大統領の異常なまでの反日は、日本統治時代を経験していない世代、つまり反日教育を受けた世代であったと言われているが、日本では年長者の女性を中心に二〇〇四年の韓国ドラマ『冬のソナタ』ブームが起こる一方、若者を中心として二〇〇五年には嫌韓ブームが助長されることになった。
盧武鉉大統領による負の遺産は、今なお日韓関係を損なう障害へと繋がっている。
〈盧武鉉大統領による就任二年目の国会演説〉
歴史問題を処理するドイツと日本の異なった態度は多くの教訓を与えてくれる。
態度によって周辺国から受ける信頼も違う。
過去に率直にならねばならず、そうすることで初めて過去を振り払い未来に向かうことができる。
(二〇〇五年二月二十五日)
〈日韓首脳会談〉
総理の國参拝や最近の多数の政治家による参拝は韓国に対する挑戦でもあり、日本が過去に戻るのではないのかという懸念がある。
韓国国民の考え方をよく分かってほしい。
國参拝、歴史教科書、竹島(韓国名・独島)問題の三つの問題をぜひとも解決する必要がある。
(二〇〇五年十一月十九日)
(7)李明博 第十七代韓国大統領。在任期間=二〇〇八~二〇一三
李明博大統領は大阪市生まれで在日韓国人の出身である。
金大中、盧武鉉と二代続いた左翼政権によって経済が停滞したため、現代建設を世界有数の企業に押し上げた経歴から、経済再生の手腕に期待が集まり、対抗馬に大差をつけて当選した。
しかし就任直後から米国産牛肉の輸入制限緩和がBSE問題への危機意識と直結し、支持率は一機に一割代まで下落した。
その後、支持率は三割程度まで回復したものの、世界金融危機などを受け、再度下落。国民が期待した「経済大統領」というイメージからは遠いまま、大統領の任期を満了した。
日本との歴史問題については、
〈李明博次期大統領と外国メディアとの会見〉
「新しい韓日関係のためには(韓国への)謝罪や反省をしろという話はしたくない。
今の日本はそれを要求しなくても話し合いができるほど成熟した外交ができる」
との意見を表明し、二〇〇六年一月のダボス会議では
「一部アジアの政治指導者は、過去の歴史に縛られて、国家間の緊張を高め、未来を暗くしている」
と、過去の歴史にとらわれる盧武鉉前大統領を暗に批判する余裕をみせていたが、真意は日本が歴史問題に対し、韓国への謝罪や賠償を自発的に行なうことを促すことであった。
そのため日本の学生に竹島は韓国の領土であることや、日本統治の残虐性を教え込むため、修学旅行生を韓国内へ誘致することを発表したほか、従軍慰安婦への賠償金について
「日本政府は法律的でなくとも人道主義的な措置を必ず取るべき」
であると主張している。
補足すると
「法律的でなくとも人道主義的」
という表現が示すように、日本の韓国への賠償金問題は一九六五年に日韓基本条約が締結され、国交の回復がおこなわれたときに「完全かつ最終的に」解決されたのであり、従軍慰安婦への賠償金を対象に含めなかったのは韓国政府の問題である。
政権末期になると李明博韓国大統領の反日発言はエスカレートし、二〇一二年八月十四日には、天皇陛下について
「痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない」、
「韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪せよ」
と謝罪を要求する発言をおこなった。
“痛惜”とは盧泰愚大統領が訪日した際に、天皇陛下が述べられた御言葉である。
また同年十五日には慰安婦問題について、
「日本軍慰安婦被害者問題は人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」
だと述べた。
(8)朴槿惠 第十八代韓国大統領。在任期間=二〇一三~
朴槿惠(一九五二~)は、よく知られているように朴正熙元大統領の長女として生まれた。
母親の陸英修が暗殺されると二十二歳でファーストレディーの役を継承。
父が暗殺された後は政治からは身を退いていたが、九七年のアジア通貨危機をきっかけに政界復帰。
二〇〇四年にはハンナラ党代表に選ばれ、党をけん引した。
東アジア初となる女性大統領であり、韓国のサッチャーなどと言われている。
父親の朴正熙大統領は経済発展に必要な外貨を獲得すべく、経済資金が得られる日韓基本条約の締結を急いだ人物であった。
当時、カネのために民族の主体を売ったとして、反対勢力から「物乞い外交」と批判されている。
現在の韓国政府は「過去の歴史」をエサにし、官民あわせて「物乞い外交」を恥ともしていないが、この当時はまだそのような気概があったのであろう。
朴正熙は貧しい農家に生まれ、一人、日本人教師に教えて貰った剣道のマネをして遊んでいたという。
成績優秀であった彼は学校推薦で大邸師範学校(官費)へ入学。
日本の軍事教練が好きで、ラッパ手に選ばれ喜んで吹いていた。
学校を卒業すると教員生活を捨て、日本の職業軍人になることを決意。
至誠を示すべく、血書を書いて新京軍官学校(旧満州国・新京)の試験を受けた。
朴は全学生の模範となり、成績優秀者だけが選ばれる連合大演習の指揮を任せられるにいたった。
◆嫌韓が激化するだけ
卒業時には満州国皇帝の前で卒業生代表として答辞を読み、金時計が下賜された。
さらに日本の陸軍士官学校(五十七期)に入学する特典を得た彼は、日本名を高木正雄と名乗り、同校を優秀な成績で卒業した。
新京軍官学校校長であった南雲親一郎(後に中将)は、
「半島出身ではあるが、精神においては完全に日本人である。
高木生徒のように天皇陛下のためにたてまつり、忠誠心のあつい者は日本人にも稀である」
と讃えた。
このような経歴を持つ朴正熙の娘だということで、一部の日本マスコミにおいて、朴槿惠の時代になれば、日韓関係は融和されるのではないかという楽観論が浮上したが、それは長くは続かなかった。
就任後、間もなく開かれた式典で、
〈三・一独立運動式典での演説〉
「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」
(二〇一三年三月一日)
と発言。
さらに五月六日での国会答弁では、
〈金奎顕外務次官がオバマ米大統領との首脳会談における朴大統領の訪問目的について〉
「日本が『普通の国』になる前に、心から過去を悔やみ、新たに出発することを確実にしなければ、周辺国の懸念が残る」という点を米国に説明したい」
(二〇一三年五月六日)
と述べた以外にも、
「今が日本が許しを得られる最後のチャンス」
「日本が歴史を正視し、歴史が残した傷跡を癒す努力をする」
(慰安婦問題について)
「北東アジアの平和のためには日本が正しい歴史認識を持たねばならない」
(オバマ大統領との会談)
「(日本の)右傾化は北東アジアだけでなくアジア全体(の国家)との関係を難しくし、日本にとっても望ましい方向ではない。
日本は深く慎重に考えてほしい」
などと対日批判が止む気配はない。
以上、足早に歴代韓国大統領の反日言論を眺めてみたが、発言の内容を要約すれば、
1 韓国側の言い分をのまない限り、韓国は延々と過去の歴史カードを使いつづける。
2 日本が韓国のことを考え譲歩すれば、韓国側はチャンスとばかり次々と要求を強める。
ということに尽きるのであり、日本が譲歩することは日韓友好とはなりえない。
仮に日本が要求を呑んだとしても、真実を捻じ曲げた日本にはフラストレーションがたまり、ますます嫌韓運動が激化していくのみである。
日本と韓国が真の融和をするには、韓国への温情を廃し、国際法の手続きに則って粛々と抗議をおこなうこと。
そして韓国における親日家を育成・支援するよりほかはないのかもしれない。
もしくは融和などという言葉を捨てて、淡々と付き合う他ないか……。
げんこつ・たくふみ
1976年生まれ。
漢学、東洋思想、東洋史の研究をおこない、名越二荒之助(元高千穂商科大学教授)、杉之尾宣生(元防衛大学教授)に師事。
日本のみならず、中国・韓国などで論文や研究発表などを精力的におこない成果を挙げている。
著書は
『韓国の歴史教材「東アジア史」の真実』( PHP研究所)、
『昭和の戦争の真実 語り継ぐ70の秘話』(扶桑社)
など多数。
■内ゲバは半島史の宿命
黄文雄 月刊正論2012年11月号
李明博大統領の
「もし天皇が訪韓したいならば、殺された独立運動者に謝罪を」
という旨の発言は、韓国なら通用するかも知れないが、外国ではその知性だけでなく品格まで疑わせるものだ。
ソウル・オリンピックの時から韓国は「天皇訪韓」をあたかも日本の「義務」であるかのように要請しつづけてきたが、逆に日本から求めたことは一度もない。
また、「殺された独立運動者」というが、日韓合邦以来、義兵運動から反日ゲリラに至るまで、法によって刑罰に処された者よりも内ゲバで殺された者のほうが多かった。
反日、抗日、建国運動の指導者として活躍していた呂運享、宋鎮禹、金九らは、いったい誰に殺されたのだろうか。
独立運動家はほとんどが同志や政敵に暗殺されたのではないか。
戦後、韓国は、
「日帝三十六年の七奪」
(主権、国王、土地、姓氏、生命、国語、資源の七つを奪った)
をはじめ、
強制連行やら従軍慰安婦を反日、克日のお題目として唱え、
国造りのテコにしてきた。
竹島は戦後李承晩ライン以後に韓国の領土とされたものである。
国民国家の時代以来、いかなる民族も国家も強国、大国志向である。
英仏だけでなく、オーストリー・ハンガリー帝国、チェコスロバキア、ユーゴスロバキアも同君合邦国家だった。
福沢諭吉の「脱亜論」の数年後に刊行された樽井藤吉の「大東合邦論」は日韓清とも「同文同種同俗同州」のアイデンティティの下で違和感はないと主張していた。
日韓合邦も双方に賛否両論ある中で実現したものであり、一方的な強制だったとするのは言いがかりだ。
日韓合邦は「東亜の永久平和」への礎としてむしろ列強がそろって賛同し、利害関係の強い清露さえ異議を唱えなかった。
また実際にも、戦後韓国が主張するような「七奪」どころか、人口も食糧も倍増し、主権も拡大、史実としては「七恩」あるいは「七布施」と称するべきものだった。
戦後の李承晩大統領以降、次代の大統領が先代を粛清することはすでに韓国政治の掟となり、宿命ともいえる。
しかしそれは戦後から始まったことではない。
李王一族をはじめ両班に至るまで繰り広げられる朋党間の争いは朝鮮名物のようなもので、宿痾だった。
李朝五百余年にかぎらず、高麗朝からさらに檀君開国まで遡っても、内ゲバが半島史の宿命だった。
ではなぜ「日帝」の時代が半島史上未曾有の、いや空前絶後の超安定社会となったのか。
その理由はただ一つ、朋党間の争いが半島から排除され、場外乱闘に変わったからだった。
それが戦後になってまた再燃しただけのことである。
ハングル世代は近現代史を語るのに際し、その掟から知るべきだ。
■朴正熙大統領が一番人気
長谷川良 ウィーン発 『コンフィデンシャル』 2015年8月10日
韓国の聯合ニュース(7日)によると、韓国ギャラップ社が実施した「歴代大統領の中で誰が韓国を最もうまく導いたか」の世論調査の結果、朴正熙朴元大統領が約44%でダントツで第1位だったという。
同世論調査は、7月28~30日と、8月4~6日の2回に分けて全国の成人計2003人を対象に実施された。
調査結果によると、
(1)朴正熙・約44%、
(2)盧武鉉24%、
(3)金大中14%がベスト3。
一方、
李承晩3%、
全斗煥3%、
金泳三1%、
李明博1%、
盧泰愚0・1%と、評価は低かった。
ギャラップ社によると、朴元大統領を支持した理由として、
経済発展(52%)、
農村改革運動の「セマウル運動」(15%)、
国民生活の改善(12%)、
京釜高速道路建設など国土開発(8%)
が挙げられた。
参考までに、盧武鉉元大統領の功績については、
(1)国民との疎通(17%)、
(2)庶民の立場を代弁(17%)、
(3)庶民経済に尽力(10%)が挙がり、
金大中元大統領については、
(1)対北朝鮮「太陽政策(包容政策)」(27%)、
(2)アジア通貨危機の克服(18%)
などが功績に挙げられたという
(以上、聯合ニュース)
ギャラップ社の世論調査結果は、多くの人々にとってサプライズではないだろう。
当然の結果だからだ。
“漢江の奇跡”をもたらした大統領であり、朝鮮半島の小国の韓国を経済国まで引き上げた功労者だ。
そして、朴元大統領がどのようにして荒廃した国民経済を立て直していったかを考えると、日韓基本条約、請求権協定の締結、それに基づいた日本側の支援があった事実を看過できない。
韓国は当時GDPの2倍以上に当たる資金を日本から受け、国民経済の立て直しに投入していったわけだ。
歴代大統領の中で最も日本との人脈や繋がりがあった朴元大統領が「歴代最高の大統領」に選出されたという事実は元大統領の娘、朴槿恵現大統領も深刻に考えなければならない。
時代と朝鮮半島を取り巻く政治情勢には違いがあるとしても、隣国・日本との連携、友好関係が経済復興をもたらした最大の原動力となったという事実は現在でも当てはまることだ。
弁護士出身の人道派政治家、盧武鉉が国民、特に若い世代に依然人気があるのは理解できるが、大統領としての政策面の功績は少ない。
金大中については北朝鮮への貢物によって実現した金正日総書記との南北首脳会談への評価は別として、国民の南北統一への関心を高めた功績は無視できない。
一方、実業界出身で日韓の未来志向関係を提唱して登場した李明博には当方は失望させられた。
任期終了間際に竹島を訪問し、日韓関係を険悪化させた張本人だ。
言行不一致の代表的な大統領だった。
国民の支持も1%と、前大統領としては恥ずかしいほど低い。
韓国国民は案外、大統領の言動を冷静に見ているのかもしれない。
いずれにしても、韓国ギャラップ社の世論調査結果は大きな教訓を提示している。
隣国は選ぶことができない。
反日外交を主導する朴槿恵大統領は父親の賢明な対日政策から学ばなければならない。
任期は後半戦に入る。
朴現大統領に残された時間は多くないのだ。