「大阪都構想」をめぐる発言の変遷
ダブル選の重要争点とされている「大阪都」構想をめぐる議論にも、橋下式言論テクニックはいくつも潜んでいる。相手が賛成しようもない話を唐突にふっかけ、反対すれば「対案を出せ」と迫る(教育基本条例案も同じ)。府市が協議して解決すべき行政課題を指摘されても「制度を変えれば解消する」と言い張る。大阪市内24区を8~9の自治区に再編すると言いながら、具体的な区割り案は決して示さない―― 。その都構想の中身もまた、さまざまな変遷と矛盾をはらんできた。08年1月の知事選立候補時、当時の地元代議士から都制度の説明を受けた橋下は「え、都制度なんて無理でしょう。道州制なら分かりますけど」と言っていたと、その前代議士がブログで明かしている。知事就任後もしばらくは「市町村優先を徹底し、遅くとも平成30年には、関西州を実現し、大阪府を発展的に解消する」(09年3月、「大阪発『地方分権改革ビジョン』」)という姿勢だった。それが豹変したのは10年1月。端緒はこんな発言だった。「競争する行政体というのは、大阪市とか大阪府とかこんな規模じゃなくて、大阪府ぐらいのエリアで誰か1人が指揮官になって競争していく」「競争力のある広域行政ということになれば、当然これは財布を一つにしてやっていかなきゃいけない」(10年1月12日定例会見)「(東京)都の23区の事例とかを例にしながら、280万のところに公選で選ばれた長一人というのはいびつだということを市民に提示したい」「大阪市の中で公選の長を、それを30万規模にするのか15万人にするのか、確定した数字は持っていないが、大阪市の中に複数人公選の長をつくるべきだとかいう話は、行政では絶対に無理な話」(同1月27日定例会見)これ以降、都市制度や行政組織の再編をめぐってさまざまな発言が続くが、一つの特徴は海外訪問のたびに影響を受ける、つまり「かぶれる」傾向があることだ。「各地域が責任を持つことが国の発展には不可欠と確信した。格差が生じたとしても、(ドイツの)連邦制に近い形の分権を進めたい」(10年6月、ドイツ・ヘッセン州にて)
「(大ロンドン市のような)グレーター大阪にしないと」(同、ロンドンにて)「政治の力の大きさを感じた。中国は究極の地方分権。市など自らの裁量で自立運営できている。(この仕組みを)日本にも持ち込めないだろうか」(10年7月31日、中国から帰国して)政治家の発言が常に首尾一貫していなければならないとは筆者は考えていない。(サルメラ/考えてるじゃない:笑)世論の風向きや情勢の変化によって修正を加えていくことはむしろ当然だし、これまで知らなかった制度や他国の実例に出会い、二転三転しながら新たな構想を練り上げていくことも必要な過程であろう。(サルメラ/その通り)ただ、橋下の発言には「思いつき」「見通しが甘い」と言われても仕方のない豹変が多々見られ、しかも、撤回・修正しても外的環境や他人のせいにして、自分の責任は巧みにすり抜けるのだ。(サルメラ/それはあんたが橋下のこと嫌いだから。自分の主観を人に押し付けるのを傲慢という)「信頼関係は足かせになる」という信条
最たるものが、府市の水道事業統合協議の決裂だった。これをきっかけに、それまで良好だった平松との関係が損なわれ、橋下は都構想に向かったと見られている。経緯はこうだ。橋下と平松は二元行政の解消を目指し、水道事業を一本化するべく1年以上にわたって協議を重ねた。その結果、府内の市町村が大阪市に水道事業を委託する「コンセッション方式」で統合を進めることを合意。09年9月には府市間で覚書を交わした。以下のような内容である。「市案を内容としたコンセッション型指定管理者制度導入に向け、関係先の理解を得るよう府市双方が協力する」「府は、9月中旬までに府営水道協議会への説明会を開催できるよう調整を行う。さらに、(中略)条例改正の時期についても、市と十分協議の上、対応を決定し、府議会や府内市町村の理解を得るよう努める」ところが、この覚書の後、橋下と府側の動きは止まる。経過について市側への連絡もなくなり、橋下が府内市町村への説明に動いているのかどうかも見えなくなった、と平松はじめ市の関係者は語っている。水道協議について、橋下が再び口を開いたのは覚書の半年後の10年2月22日、平松との公開討論で「あの問題はどうなったのか」と問われた時だった。「だって、大阪市がコンセッション方式って言っても、他の42市町村、誰もうんとも言わないわけですもん。(中略)ずっと今までの根深い大阪市とその他の市町村、衛星都市との関係のなかで、要は市に信頼感がなかったと。42市町村が全然信用していない。で、どういうふうに決まったかと言うと、首長同士の政治的決着です。もう、あの、こんなんもう事務方では無理なんで。(中略)各衛星都市の市町村の首長さんとしょっちゅう会食やりながら、いろんな意見交換をやっているなかで(中略)コンセッション方式っていうのは絶対嫌だと。企業団方式だったら我々動くということだったんで、じゃあもうそうしてくださいと、それだけの話なんですよ」(サルメラ/「平松始め市役所関係者〝だけ〟が語ってる話」なんだろ?)ちなみにこの時、反対の急先鋒となったのが、当時大阪府市長会会長だった倉田薫・池田市長。現在、維新の会の松井一郎・前府議と知事選を争う候補者である。倉田の反対を受け、橋下は「私はひとつの方法を強引に推し進めようとしているのではありません。結果が大事なんです」と応じた、と倉田は自著の中で述べている。倉田の反対に遭ったとはいえ、長い協議を経て覚書を交わした合意事項をそのまま放置し、経緯説明もなければ、自分が翻意したことに対する釈明や謝罪もない。それどころか、「市町村から信頼されていない大阪市が悪い」と責任を転嫁し、挙句に「それだけの話」と言ってのける。これぞ、「交渉の達人」を自任する橋下式言論テクニックの真骨頂だろう。冒頭に挙げた指南本の中で、この言動とまさに符合する記述がある。「私だって交渉でせこいことはたくさんしている。オーケーしたことは反故にしていくし、責任転嫁も徹底的にする。『今回の問題でまとまらないのは、まあ、結局はおたくのせいなんだよ』ということをあらゆる手段を講じながら見せていく」さらに、「交渉の足かせになる"信頼"」という項目では、こうも説いている。「世の多くの交渉術には、相手方との信頼関係醸成の重要性を説くものが多い。だが、実際にはそうとも言い切れない。(中略)人間性も含め、互いに認め合う親しい関係。そんな信頼関係は、交渉の足かせになることが多い」なるほど、橋下にとっては覚書を無視し、市との信頼関係を壊すことなど、何ほどのこともなかったのかもしれない。平松への回答で「大阪市の信頼のなさ」をあげつらっているのは何とも皮肉な話である。自らの目的や利益のためには信頼関係など不要。そう言い切る政治家を、大阪の有権者は信じることができるだろうか。<了>
大袈裟に言えば、橋下は100年に一度の改革者である。
もし、これが当選しなければ、大阪の復活する可能性をしばらく失うだろう。
大阪都構想が成ったからうまくいくとは限らない。
しかし、このままだと確実にジリ貧になる。
これは100パーセント間違いない。
もし、これが当選しなければ、大阪の復活する可能性をしばらく失うだろう。
大阪都構想が成ったからうまくいくとは限らない。
しかし、このままだと確実にジリ貧になる。
これは100パーセント間違いない。
だから、トリックスターだとか、独裁者だとか言われても、ワタシは期待したい。
他の選択肢には、座して死を待つイメージしか浮かばないから。