【旗振り役と現場の感覚】教育委員は巨大教育行政官僚機構のトップ。現場の指導員とはまったく異なります。指導員感覚で教委事務局に意見を述べることが委員の仕事と勘違いされている方も多いのではないでしょうか?たとえば公立中学校の給食。知事時代、府教委の皆さんは必要性を感じながらも財源問題で無理だろうと諦めていた。金を作るのは大変なエネルギーが必要です。市町村教委に同調してもらうのも大変なエネルギーが必要です。制度設計や市町村教委に働きかけをやってくれたのは教委事務局。しかし旗振り役が必要で、それは教育委員では無理でした。だから僕が旗を振り続けた。今、大阪市ではICTの整備に取り組もうとしています。教員全員へのPC設置と、生徒へのタブレット配布、デジタル教科書など。これも教委は必要性を感じていたでしょうが、実行はできませんでした。もちろんそれをどう広めるか、どういうやり方でやるのが良いのか、検証等が必要です。ここは現場の指導員などが力を発揮して2年間で検証事業をやり、その後全市展開を図ります。権限を使うと言うのはいきなり全面実行と言うことではありません。検証をしながらの実行も当然含みます。実行するには権限を行使しなければなりません。現場の指導員を動かして、現場に理解を広げる。これもトップの権限行使です。組織のトップと現場の指導員はまったく異なります。今の教育委員会はここが混同されている。教育委員は本来、巨大組織のトップであるのに、現場の指導員という状況になっている。陰山委員長とは知事時代、大激論の繰り返し。陰山さんには、教育実践者としての私を尊重して欲しいと言われた。その通り。しかし巨大組織のトップとして物事を進めるのは政治家の仕事。陰山さんには政治家の役割も尊重して欲しい。優れた教育政策を「実行」するには教育者と政治が一体となる必要がある。【サイレント・マジョリティー】「l内閣府の調査で、被災地がれきの広域処理について国民の9割が賛成」政治行政の場で民意を計るのはほんと難しい。政治行政の場では目の前の大きな声に流されやすい。そして数千人が集まると政治家といえども一人の人間。その声がとてつもなく大きく感じる大阪府・大阪市では被災地のがれきについて、安全性を確認した上で、受け入れることを進めている。住民の皆さんにしっかり説明することは当然である。しかし住民の皆さん以外から、反対の声は凄まじい。ツイッターで、住民説明会で、それから今度大阪市役所前でデモがあるらしいが、受け入れ地の住民の皆さん以外の人たちが、とにかく反対の大声を上げる。住民説明会でも、住民ではない運動家と思われる者が大騒ぎする。大阪市議会でも、自民党、民主党、共産党は、受け入れ反対と叫び続ける。しかし国民全体では9割が賛成。このギャップは何なのだろうか。政治家は目の前の一部の団体などの声に左右されやすい。数千人の声が集まるとそれが有権者全体の声と錯覚してしまう。官邸前・国会前の反原発デモは、本当に国民全体の声なのだろうか。デモだけで政治判断するのは危険である。もちろん国民・有権者の声を限りなく聞く姿勢は重要である。しかし参考にする声を、目の前の大きな声を軸にするのは危険である。国民全体の声を見誤る。確かに議会が本当に有権者の声を反映しているのか疑念はある。しかしだからと言って議会を補完するためにデモがあるというのは短絡過ぎる。むしろ議会の声とデモ的な声、つまり一部の大きな声が重なることも多い。つまり議会の声もデモの声も、有権者の多数の声を反映していないことが多い。議会がダメだからデモだとはならない。結局、有権者の声は何なのか、誰も計りようがない。ゆえに議会の声が有権者の声と擬制せざるを得ない。朝日新聞や毎日新聞は、この点、多くの有権者の声を掴み損なうことが多い。ほかの新聞社もだけど。学力調査の市町村別結果公表、君が代起立条例、職員入れ墨調査などの公務員規律強化、教育委員会制度、それと文楽をはじめとする文化行政の在り方。枚挙にいとまがない。結局新聞などに寄せられる自称インテリ層の意見は、国民総数からするとほんの少しの意見なのに、新聞紙面には多くを占める。いわゆるデモと似ている。新聞の自称インテリ層の意見が、国民大多数の意見だと見誤るとえらい目に遭う。もちろん、数だけが全てではないことは分かっている。しかし政治行政の本質は多数の意見で進めることだ。ポピュリズムと軽蔑されようがなんであろうが、民主制とはそういうものだ。それが嫌なら、民意を軽蔑する、賢人政治にするしかない。そんな政治はまっぴらごめんだ。賢人などいるわけがない。民主制は完ぺきではないがそれに替わる政体はない。ポピュリズムという言葉を出してそれを軽蔑する人は自分の考えが絶対に正しいと確信している人。読売新聞の渡辺恒雄さんクラスになるとそれもありかもしれないが、そこらへんの自称インテリくらいでは百年早い。正解など分からない。だから民意を探る。そして民意にべた寄りするわけではない。有権者全体の民意を探りながら、民意の大きな方向で全体が良くなるように最善を尽くす。民意べた寄りでもない。ここが難しい。しかし目の前の大きな声新聞を占める自称インテリの声、これだけに左右されては見誤る。原発依存度を下げて行こうという国民全体の声は官邸前のデモの声を聞かなくても分かるデモを軽く扱えということではない。原発についての国民の声の動きとして、大変参考になる。大きな民意の動きとして大変参考になる。ただデモに参加している個々人の意見が皆まとまっているわけではない。デモの中の誰の意見を参考にするのかというのは大変難しい。だからこそ議会制民主主義がある。国民全体の声、官邸前のデモの動きを汲みながら、政治は早急にその流れの中で最善の策を構築すべきだ。デモの代表者と協議をしてもそれが国民の代表の声かどうかはわからない。こういうときこそ議員が力を発揮すべだ、っていうのは理想かな。元へ。被災地がれきの広域処理に国民の9割が賛成というのは、日本国も捨てたもんじゃない。それでも政治行政の場では、反対の声ばかりが大きく、大阪市議会自民党は完全にそれに惑わされてしまっている。もうそうなれば誰の言うことも信用できませんね。ゆえに一定の信頼に値する調査結果を前提としなければ物事は進みません。【市民運動のカタチ】僕らは自分の思いを実現するために選挙を通じて多数議席を獲得してきた。想像を絶する労力が必要だ。メディアからも散々批判を受けた。朝日新聞、毎日新聞は選挙を通じての多数獲得には容易に独裁批判を展開するのに、デモで自分の考えを実現しようとすることは市民運動として拍手喝采となる。おかしい。官邸前のデモの皆さん、皆さんの運動自体は否定しませんが、やっぱり最後は選挙で変えていくしかありません。次回の衆議員総選挙はエネルギー政策も最大の争点になるでしょう。デモのエネルギーを、選挙にぶつけて下さい。不信任やリコール、選挙など民主的手続きでそうなれば仕方ありません。有権者の意思ですから。RT @123koomuinga: 労組とマスコミの作戦はこうです。→大阪が試験焼却を行った後で大々的に報道→初めて知った府民は大激怒→橋下おろしコール→職員にとって平和な市役所に戻る。体験・経験RT @djarum1973:すんません。ナベツネさんと自称インテリの違いは?地位?年齢?【賢人政治】渡辺さんの反ポピュリズム論は大変勉強になりましたが言いたいことがたくさんあります。民主制の本質はポピュリズム。有権者の教育レベルがここまで高い日本においては賢人政治よりポピュリズムの方がまだまし。ポピュリズムの本質は政治選択の正しさではない。政治決定に対する有権者の納得、責任、諦め。何が正解か分からないから政治決定をし、それについては有権者も責任を負う。政治決定の失敗について有権者が諦めなければならない。そして失敗の時には直ちに政治の交替。賢人政治だと、交替させられない。これが最悪。賢人政治だとその選択・決定の失敗について有権者は諦め切れない。ゆとり教育がそうですね。政治から切り離されたところで教育行政が行われるので、有権者はお上に文句を言うばかり。選挙の争点で決まり、政治家が主導してやったことなら有権者は諦めないと仕方がない。今の民主党の状態についても有権者は自らが選択したことで、諦めざるを得ない。次にそうならないように有権者はまた考える。賢人政治だと、民意を全く気にせず政治をする。どちらも問題点があるが、民主制の方がまだましだろう。民主制となれば民意を意識せざるを得ない。渡辺さんは僕をポピュリズムの代表選手と位置付ける。有難いことだ。ただその政策の中身はまったくご存知ないようだ。今回の大阪市政改革の中身を読売大阪市政担当記者は渡辺さんにご進講すべきだ。これだけ市民サービスを見直しているのに、市民は付いてきてくれている(と信じている)。市民は賢明だ【官僚覆面会議】先週の週刊現代は勉強になった。週刊誌だから今は国家権力批判として、地方の政治グループである僕らにエールを送ってくれているんだろうが、あの官僚覆面座談会は本物だね。よく細かなところまで分析してやがる。あっぱれだ。「政治主導は構わないが、バカな政治家の政治主導だけは勘弁だ」。一理ある。しかし政治家がバカがどうかは官僚が判断するんじゃねえ。国民が判断する。こういう記事を見ると燃えてくるぜ。渡辺淳一先生、エールありがとうございます。著書もお送り頂きましてすみません。大変心強く感じましたが、妻には見せれません(笑)!
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橋下市長のつぶやき/賢人の選択か、大衆の選択か
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