反原発デモと坂本龍一
関西電力大飯原子力発電所の再稼働に抗議する人々が首相官邸前に集まったそうです。再稼働二日前の二〇一二年六月二九日には、抗議行動が一気に拡大し、警察の機動隊も出動しました。ツイッターやフェイスブックなどで参加を呼びかけたのは市民ネットワーク「首都圏反原発連合」とのこと。動画で確認したところ、プラカードやイラストを手にして歩いているのは中高年が多いようでした。四月の最初のデモの参加者は約三〇〇人、再稼働決定前日の六月一五日には一万一〇〇〇人、六月二九日には約二〇万人が参加したと主催者は発表しました。でも、警視庁の発表は約一万七〇〇〇人です。同様に、七月二九日の国会議事堂前のデモは、主催者発表で約二〇万人、警視庁発表で約一万二〇〇〇人でした。これは誤差の範囲ではありません。傍観者を含める含めないといったカウント方法の違いだけで説明できる数字でもない。つまり、どちらかが大法螺を吹いているということです。どちらかが完全なデマゴーグであるということです。嘘つきはどちらかはすぐにわかります。警視庁がデマを流すメリットはありません。これは戦後左翼の典型的な手法です。こういうことを続けているから、反原発運動はいかがわしいと思われるのです。すでに述べましたが、私は原発推進派でも反対派でもありません。「原発は絶対に安全だ」という意見にも「原発は絶対に危険だ」という意見にも与しない。ただ、専門家の意見と主婦の不安を同列に扱う世の中は狂っていると思うだけです。デモの原理は「参加」です。普通の大人なら、デモをしたところで原発が止まるわけがないことくらい理解しています。むしろ、デモを始めた途端、すべての原発が止まってしまうようでは、怖くてデモもできなくなる。一番重要なのは、原発問題という旬の時事ネタに参加することです。六〇年安保の原理も「参加」だと思います。ピエール・ド・クーベルタン(一八六三~一九三七年)の「参加することにこそ意義がある」みたいなもので政策判断に大衆が参加するという気分が重要なのです。七月一六日に代々木公園で開催された「さようなら原発一〇万人集会」では、ニューヨーク在住のミュージシャン坂本龍一が壇上にあがり、「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」などと発言して笑われていましたが、結局彼も参加したかったのだと思います。「当時を思い出して血が騒いだ」とも言っていましたが、要するに寂しかったのでしょう。それで昔の仲間と親睦を深めた。総理の野田佳彦は、首相官邸前のデモに関し、「大きな音だね」と語っていました。どちらにせよ、茶番というか呑気な話だなと思ってしまいます。《参加》の気分が重要
B層はエコロジーが大好きです。「エコ」の最大のポイントは、「参加」です。彼らは、なにかに参加したいのです。ボランティア活動も参加です。彼らにとっては「参加した感」が重要なので、現場に行ってスコップで穴を掘ったりしたい。電話番などの裏方仕事、事務方に回るのは「参加した感」がないので嫌なんですね。街頭で募金活動をやっている人もそうです。突っ立って「お願いしまーす」とかやっている暇があるなら、アルバイトでもして稼いだカネを全額寄付すれば社会のためにもなりますが、それだと「参加した感」がないからダメなのです。東日本大震災の後、あちこちで募金活動がはじまりました。募金自体はいいことですが、集めたカネを懐(ふところ)に入れてしまう詐欺師が多い。NPOを名乗っていても活動費という名目で鞘を取る。震災直後、SNSのミクシィに「募金をしたければ国か自治体に」と書き込んだところ、すごい反発が来ました。「まじめに募金活動をしている人たちに失礼だ」というのです。これはおそらく「参加」の気分をぶち壊されたからだと思います。震災後に売れない歌手が被災地に行って歌を唄ったりしました。あれも「参加」です。「偽善と思われてもいい」などと言っていましたが、誰も偽善だなんて思っていません。ただの迷惑です。一体どれだけ高慢になれば「自分の歌で心を癒してほしい」などと言えるのでしょうか。要するに、子供ばかりの社会になってしまった。現在は、素人が社会に参加する時代です。テレビ番組も素人参加型が多くなってきた。それにともない、プロが素人に裏事情を暴露するという流れも加速した。楽屋オチの増加や番組のプロデューサーが表に出てくるようになった。インターネットの口コミサイトやアマゾンのレビューも「参加したい」というB層の欲望を利用したものです。こうして、素人と玄人の境界が消滅します。お好み焼きでも誇りを持っている店は、絶対に素人には焼かせません。焼いている途中のお好み焼きを客がコテでいじろうとすれば、店のおばちゃんがすっ飛んできて止められます。でも、そんなことでもあればB層は激怒します。店員の態度が悪いと。それで口コミサイトで酷評する。B層は技能の価値を理解しないのです。B層が、お好み焼きをコテでぎゅーぎゅー押さえつけたいという欲望を持つなら、親切なアドバイスはせずに、かちかちのお好み焼きを食わせておけばいいのです。「参加」だけが、彼らの生きがいなのですから。大衆社会の最終的な姿であるB層社会においては、「コテ先」の対応は通用しません。ニーチェの予言どおり、これは近代二〇〇年の問題なのです。神奈川県を独立国にする?
B層はなにかにつけて口を突っ込みたがる。そうした特性を利用して、メディアは世論をつくります。テレビ番組の街頭インタビューは、当然特定の意図のもとで行われます。そもそも、テレビカメラの前でほいほい意見を開陳するような奴は、おっちょこちょいなので質問の罠に気づくことはありません。よって、誘導されたとおりのことを喋ります。また、特定の意図がない場合でも、意味がないものは多い。通り魔事件があったとして、「びっくりしました」とか「本当に怖いです」といった「近所の人の声」を流す必要はどこにもありません。番組を制作する側は、こうしてB層の共感を狙うわけです。新聞に社説が載ってしばらくすると、投書欄に同じような意見が掲載されます。投書欄は新聞社が世論をつくるために存在します。新聞に投書するのは、控えめに言っても市井の人々ではありません。プロ市民とまでは言いませんが、自分の意見を開陳したくて仕方がない人々です。こうした世論、民意が恐ろしい結果を引き起こすことがあります。テレビによく出ている、なんだかわからない人を政界に送り込んでしまう。たとえば、神奈川県知事の黒岩祐治。私は以前から完全にあちら側の世界の住人として注目していました。『ニーチェの警鐘』でも書きましたが、二〇一一年の知事選の際、彼は「四年間で二〇〇万戸分の太陽光パネル設置」を公約として掲げました。もちろん、それが不可能であることはサルでもわかります。同年三月一一日に発生した東日本大震災および福島第一原子力発電所事故による社会混乱に便乗した悪質な詐欺です。ところが、この詐欺師が知事になってしまった。これが今の日本社会です。同年一〇月、記者団が公約の不履行を追及すると、黒岩は「あのメッセージは役割を終えた。忘れてほしい」と返答します。小泉純一郎も民主党も、公約の不履行をごまかしましたが、「忘れてほしい」というのは前代未聞です。わが国の政治腐敗が新たな段階に入ったということだと思います。この黒岩が今度は「日本から神奈川県を独立させる」と言い出しました。特区制度を全県に活用し、労働、医療、産業などの分野で規制を徹底的に緩和し、県を「自治政府」とも言うべきものにしたい。
(中略)
いわば日本の中の「外国」を作る。(二〇一一年一二月に指定を受けた)京浜臨海部の国際戦略総合特区を一つの起爆剤にしながら、全県的に規制緩和が実施できるようにする。財政の自立が大きなポイントで、税の徴収権を持つことになる。(『読売新聞』二〇一二年四月二五日)与太だとしても放っておいていいレベルではありません。これは領土内における国権の問題です。これが本当の痴呆自治であり、痴呆分権です。バカに権力を渡すとロクなことになりません。現代人の《未来信仰》
賢者の言葉を紹介した本が売れています。ゲーテやニーチェ、フランツ・カフカ(一八八三~一九二四年)といった先人の言葉をコンパクトにまとめたものが多い。こうした中、巷でよく聞かれるのが、「ゲーテは今から二〇〇年も前の人なのにこんなにすごいことを言っていたのか。驚きました」「ゲーテの言葉は今の世の中でも十分に通用しますね」といった類いの反応です。はっきり言ってうんざりします。「どれほど上から目線なのか」と逆に驚いてしまう。たかだか二〇〇年後に生まれたというだけで、一段上の立場から「昔の人なのにすごい」とゲーテを褒めるわけです。これは近代―進歩史観に完全に毒された考え方です。すなわち、時間の経過とともに人間精神が進化するという妄想です。彼らに悪気がないことはわかる。ただ感じたことを口にしただけです。だからこそ深刻です。捻じ曲がったイデオロギーが身体のレベルで染み付いてしまっている。たしかにこの二〇〇年で科学技術は進化し、生活は豊かになりました。当時、電話は存在しなかったが、今では誰もが携帯電話を使いこなしています。しかし、ほとんどの現代人はケータイの構造を理解していません。与えられたものを便利だから使っているだけであり、二〇〇年前どころか原始人となにも変わりはない。むしろ、石器を手作りしていた原始人のほうが、世界を深く認識していた可能性があります。現代人が先人より優れている証拠はどこにもない。その一方で、劣化を示す兆候は枚挙にいとまがありません。その原因は《未来信仰》にあります。かつては「昔の人だからすごい」という感覚はあっても「昔の人なのにすごい」という感覚はありませんでした。偉大な過去に驚異を感じ、畏敬の念を抱き、古典の模倣を繰り返すことにより文明は維持されてきたからです。過去は単純に美化されたのではなく、常に現在との緊張関係において捉えられていました。ゲーテは「過去からわれわれに伝えられているものを絶えず顧みることによって初めて、芸術と学問は促進され得る」と言います。たとえば、一五世紀のイタリア・ルネサンスは、古代ギリシャ・古代ローマの《再生》による人間の復興を目指す運動でした。同時にそれは、進歩史観の起源にあたるキリスト教的歴史観に対する芸術の反逆でもあった。ところが近代において進歩史観が勝利を占め、過去は《冷徹な歴史法則》なるものにより、都合よく整理されてしまいます。歴史は学問の対象に、古典は教養の枠に閉じ込められた。大衆社会において、ついに歴史は趣味になります。現代人の趣味に合わないものは「昔の人の価値観だから」と否定されるようになった。大衆は自分たちが文化の最前線にいると思い込むようになり、古典的な規範を認めず、視線を未来にだけ向けるようになります。過去に対する思い上がり、現在が過去より優れているという根拠のない確信・・・。畏れ敬う感覚が社会から失われたのです。「三〇〇〇年の歴史から学ぶことを知らないものは闇の中にいよ」とゲーテは叱りました。現在、自我が肥大した幼児のような大人が、闇の世界で万能感に浸るようになっています。革命、維新などという近代的虚言を弄んでいる連中は、歴史と一緒に大きく歪んだ頭のネジを巻きなおしたほうがいい。『日本をダメにしたB層の研究』著者:適菜 収
(講談社刊) 45~71ページより抜粋
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適菜 収/日本をダメにしたB層の研究 3
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