現在誰もが民主主義を「いいこと」だと思っている。しかし歴史的に見れば、これはかなり異常なことなのだ。民主主義の正体はキリスト教カルトであり、過去の賢人たちは繰り返しその危険性を指摘してきたのだ!民主主義はキリスト教カルト
人類の知の歴史、およびまともな哲学者、思想家、政治学者が明らかにしてきたことは、民主主義の本質は反知性主義であり、民意を利用する政治家を除去しない限り、文明社会は崩壊するという事実です。だからこそ、民主主義はアナーキズムと同様、狂気のイデオロギーとして分類されてきたのです。諸学の父・アリストテレス(前三八四~前三二二年)は、著書『政治学』において民意を最優先させた場合の民主政を、僭主政(正当な手続きを経ずに君主の座についた者による政治)に近い最悪のものと規定しました。フランス革命やナチスの蛮行を例に出すまでもなく、民主主義は議会の否定と独裁につながります。民主主義の前提には「一人一人が完全に平等である」というイデオロギーがあります。ニーチェは民主主義の正体を見抜いていました。いま一つ別の、これにおとらず気のふれた概念が、現代精神の血肉のうちへとはるかに深く遺伝された。それは、「神のまえでの霊魂の平等」という概念である。この概念のうちには平等権のあらゆる理論の原型があたえられている。人類はこの平等の原理をまず宗教的語調で口ごもることを教えられたが、のちには人類のために道徳がこの原理からでっちあげられた。(『権力への意志』)民主主義はキリスト教カルトです。その根底にある平等主義は、絶対存在である《神》を想定しないと出てこない発想です。このキリスト教を近代イデオロギーに組み込んだのがルソーだとニーチェは言います。フランス革命によるキリスト教の継続。その誘惑者はルソーである。私が憎悪するのは、そのルソー的道徳性である――この道徳性がいまなおそれで影響をおよぼし、一切の浅薄な凡庸なものを説得して味方にしている革命のいわゆる「真理」である。(『偶像の黄昏』)フランス革命はキリスト教を否定することによりキリスト教を引き継ぎました。少しわかりづらいかもしれないが、これは伝統的なトリックです。パウロ(不明~六五年頃)はイエス(前七年頃~三〇年頃)の教えを除去することによりキリスト教を打ち立てた。マルティン・ルター(一四八三~一五四六年)は教会を攻撃することによりキリスト教を原理主義化した。ルソーは教会を否定することにより、そのもっとも劣悪な本能を近代イデオロギーに組み込んだわけです。そこでは依然として僧侶階級=神の権威を利用する勢力が権力を握ることになる。ニーチェはそこを指摘したのです。彼(ルソー)は、社会と文明とに呪詛を投げつけうるために、神を必要としたのである。(中略)自然人としての「善人」とは一つのまったくの空想であったが、神がそれをつくったというドグマでもって何か本物らしい根拠のあるものとなった。(『権力への意思』)要するに、神の再利用です。ルソーが唱えた「市民宗教」に影響されたロベスピエールは、一七九四年六月八日、「最高存在の祭典」という狂気のイベントを開催し、テルール(恐怖政治)を道徳的に正当化しました。アレントの分析は鋭い。かくて、彼(ロベスピエール)の述べる諸原理はドグマとしての価値を与えられ、その諸原理を遵守させるために彼が遂行する戦いは聖戦となる。聖戦の目的でありかつ革命がそのために行われているところの人民は、神聖な性格を賦与される。フランス革命で人民が神格化されたのは、法と権力をともに同じ源泉に求めようとしたため起った不可避の帰結であった。絶対君主は「神授の権利」にもとづくという主張は、世俗的支配を全能でもあり宇宙の立法者でもある神のイメージで説明し、その意志が法である神のイメージで解釈したものであった。ルソーやロベスピエールの「一般意志」もなお、法を生むのにただ意志するだけでよいところの、この神的な意志なのである。本書でもくりかえし述べてきましたが、法と権力を同じ源泉に求めてはいけないのです。権力の集中はロクな結果を生みだしません。以上で民主主義についての説明を終わります。現在わが国では「民主化」が進行中です。要するに宗教化が進んでいる。ゲーテは民主主義を病気の一種と考えていました。しかし、近代二〇〇年において、この疾病は急拡大し、B層社会を生み出しています。重要なことは、まず民主主義を廃棄すること。そして、自由な言論の場である議会を民主化を推進する勢力から守りぬくことです。それが文明社会の住人の責任です。〈了〉
↧
適菜 収/B層の研究 3
↧