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ロス疑惑14/消えない足あと

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11月9日、
佐田記者は千鶴子の前夫、栗本寛に会うことができた。
千鶴子さんの行方を捜しているんですがと切り出すと、三浦という名は出てきましたか?と向こうから言われた。
栗元への取材から、いくつかの重要なことがわかった。
 
まず第一に、
千鶴子へは数百万という慰謝料がすでに支払われていた。
金額を正確に言うことをなぜか、彼は何故か避けた。
この金額決定の際、千鶴子に三浦という男がいるかどうかで、つまりその痕跡や証拠を夫側が掴めるかどうかで、ずいぶんと調停の内容は変わってきたと思われる。
夫の口からいきなり三浦の名前が出てきた理由はどうやらそのあたりかと、記者は推察した。
 
第二に、
千鶴子と知り合う前に三浦は、姉の享子とニューヨークですでに知り合っていたという。
千鶴子に会ったのはその後である。
 
第三に、
栗元が千鶴子と最後に会ったのは、離婚調停が成立した昭和54年3月20日。
場所は家庭裁判所だった。
以来、一度も会っていない。
また、彼女は子供に対しては愛情の深いタイプで、人情味も厚いから、4年間も母親を一人で放っておくような性格の人間ではということ、三浦のニューヨークでの評判は非常に悪いらしいこと、
なども彼は口にした。
 
高田記者が、興味深い噂話を聞き込んで戻ってきた。
三浦に、ニューヨークで人を殺してくれ、報酬は5万ドル、という寿司屋店員が、今ロスにいるという。
また三浦は、ターキーこと水の江滝子の実子であるという噂があちこちから入ってきた。
根拠ははっきりしないが、どうやら三浦自身が言いふらしているようだ。
 
11月11日、
フルハムロード設立間もない昭和53年に燃え、三浦が多額の保険金をせしめたというフルハムロード倉庫の所在地がわかった。
倉庫といっても木造2階建てアパートの一室で、現在これは鉄筋のアパートに建て替えられていた。
住所は渋谷区神宮前。
佐田記者が向かった。
 
火災は昭和53年5月26日午後3時、
日時は大家がはっきり記憶していた。
三浦が受け取った保険金は、約千二百万円だったという。
木造2階建てのアパート上下2世帯が入居しており、フルハムロードが倉庫として使っていたのは2階で、火元はその隣の部屋だった。
消防署に聞き込んでも、火災の原因ははっきりしない。
タバコの火の不始末の可能性が高かったが、放火の余地は十分あるように佐田記者には感じられた。
アパートは半焼で消し止められているが、フルハムロード倉庫は全焼。
中に置いてあった商品、アンティーク・ランプ二百数十個が全滅した。
三浦はAIU動産相互保険に加入していて、ランプ285個分の保障として約1200万円を受け取った。
しかし、三浦自身が渋谷消防署に書面で届け出た焼失ランプは250個となっている。
35個の水増しがあった。
そしてランプの損害計算は、一個について4万円。
ある業界関係者は、アンティークの値段はあってないようなもんだが、いくらなんでも4万円は高すぎる、と語った。
消防署から火元と断定された倉庫の隣室の借り主は、違うという証拠もなかったからあきらめるしかなかった、と言い、三浦が火災保険をかけていることを知ると、仰天した。そんなことはまったく聞いておらず、自分は三浦に1年かかって約50万円を弁償したと述べた。
フルハムロードの社員の証言によると、三浦は火災の原因について、社内でこう説明している。
「原因は隣のカメラマンの部屋だ。徹夜マージャンをしているとき、灰皿代わりに使っていたタバコの銀紙を、布団をたたむ際一緒に巻き込み、あとで燃え出したんだ」 ――
 
しかし、佐田の調査では消防署はそんな具体的は説明はしていなかった。
とうのカメラマンは、火災前夜、自分はマージャンなどしていないと主張した。
三浦のこういう説明はいったいどこから根拠を得ているのか。
アパートの大家も、三浦が保険をかけていたことを聞いて仰天する。
アパートを建て直した際、三浦と再契約することになったのだが、保険をかけていなかったので大損害だ、敷金は分割にしてくれないか、と言うので同情し分割にしたのだと述べた。
三浦はこの火災を、成瀬恵子との離婚の理由にもしている。
このときも三浦は、火災保険をかけていなかったからこのままでは君の家にも迷惑をかけてしまう、と嘘の説明をしている。
 
さらに成瀬恵子はこんな証言もしている。
あの火事の少し前、三浦は家財道具にも保険をかけられる、だとか、火事の話をさかんにしていたというのだ。
裏を取らずにこういう話は書けないが、佐田の頭には放火の疑惑がしきりに沸いた。
 
ニューヨーク経由、ロス取材直前の11月11日、羽山記者は、現在大阪にいるという大久保義邦に会うことが出来た。
大久保が羽山記者に語った話は、おおよそ以下のようである。
「私が病院に着いたのは、たぶん3時か、3時過ぎです。
すぐには三浦さんに会わせてもらえなかったんですが、30分くらい待ってると、ちょうどそこにシティセンター・モーテルの奥さんがやってきたんで、一緒に三浦さんに会いました。
そのとき看護婦さんが、血でぼろぼろになった三浦さんのジーンズをわれわれのところに持ってきて、どうしましょうかと言うから、捨ててくださいとモーテルの奥さんが言ったんです。
ところがあとでLAPDのミッチー加藤という刑事がやってきて、君は証拠を隠滅した、証拠のジーンズを捨てただろうと言うんです。
ジーンズがあれば弾丸の入射角度がわかるそうで、
明らかに三浦さんを疑ってましたね」
羽山記者は、わが意を得る思いで聞いた。
現地の警察も三浦を疑っている。
羽山はまさしくお墨付きを得る思いだった。
このときの大久保の話でもう一つ大きな収穫があった。
それは銃撃事件より3か月前にあった、
もう一つの一美襲撃事件である。
大久保はそのときも居合わせている。
大久保の証言はこうだった。
「あの時三浦さんは、いつも使うモーテルには泊まらないで、ニューオータニに泊まっていたんです。
奥さんが一緒だったからでしょう。
三浦さんと僕は、ホテル一階のカナリーガーデンというコーヒー・ラウンジで、二人の客を相手に商談中でした。
その最中に、館内放送が流れて、三浦さんに電話だという呼び出しがかかったんです。
われわれはこれに気づかなかったんですが、三浦さんだけが気づいて電話に出て、それからあわてて部屋にあがっていきました。
2,3分後、三浦さんが一人で降りてきて、大変だ、と言う。
どうしたのかって訊くと、奥さんがバスルームで滑って転んだと言うんです。
それで僕は、三浦さんと一緒に部屋にあがっていきました。
一美さんは、ベットだったと思いますが、座っていて、よく見ると白い服に血が何滴か落ちていました。
一美さんも僕に、滑って転んで頭を打ったと言いましたが、しかし見るとバスルームは濡れていたわけでもないし、滑って転ぶような感じでもなかったんですが・・
救急車はすぐ駆けつけてくれましたが、大したことはないと言って、すぐ帰ってしまって、でも頭の怪我だから心配だってことで、ホテルのマネージャーに言って、日系人の医者を呼んでらったんです。
三浦さんはもうそのときから泣きながら怒ってました。
それでこの日系人の医者の車で一美さんを病院に運んで、確か何針か、後頭部を縫ったと思います」
 
滑って転んだ?
「一美さんは、3か月前にも襲われた」
と、当時のいくつかの新聞には報道されていたはずだ。
しかし大久保の証言はこれを否定するものだった。
ただし大久保は、当時三浦が言ったことを思い出してそのまま述べているに過ぎない。
三浦が大久保に嘘をついているとしたら、
これは否定ではない。
羽山はこの点を大久保に質してみた。
すると大久保は言う。
「たしかにそういう話も聞きました。
一美さんが撃たれたあと、たしか一美さんの妹さんかお母さんが、病院でもそう言ってた記憶があります」
大久保にも、どちらが真実かわからないらしかった。
それは当然で、彼はこれを判定する立場にはない。
しかし、このとき一美が「滑って転んだ」のか「襲われた」のかで、その後のフリーモントの銃撃事件の意味合いは180度違ってくる。
どちらが真実か、もしこの判定の材料があるとすれば、それは嵯峨家の両親が握っている。
羽山はこのまま川崎の嵯峨家を訪ねたいと思ったが、キャップの方針ではこれは最後の段階である。
その前に洗うべき事柄は、まだ山ほどある。
(島田荘司/三浦和義事件)
 
 

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